2.航空機旅行の身体への影響

(1)私たちの生活と飛行機
 今や私たちにとって飛行機はなくてはならない交通手段の1つです.決して贅沢というわけではなく,日本のような島国では,海外旅行ではむしろ船旅の方が贅沢な旅行といえるでしょう.もちろん健常者だけでなく障害者が飛行機を利用するということはごく当たり前のこととなってきています.HMVを行っている患者さんが航空機旅行をしたという話は,もう新聞記事にもなりません.このように私たちの生活に溶け込んでしまった飛行機ですが,実は航空機旅行が身体に及ぼす影響については案外知られていません.もっとも健常者の場合にはこの影響が目に見えて現れることはありませんから,知らなくても何ら問題はないのですが,障害者の場合はそうはいきません.重大事故につながる危険性もあるのです.では,特に筋ジストロフィーの患者さんに航空機旅行がどのような影響を与えるかを考えてみましょう.

(2)飛行機の中は気圧が低い,酸素が薄い
 現在の飛行機がどれ位の高さを飛行しているかご存知ですか.もちろんジェット機とプロペラ機,国内線と国際線で違いますが,大部分の国内線ジェット旅客機の場合だいたい10,000m弱です.飛行中,たいてい機長から飛行高度のアナウンスがありますから,今度注意して聞いてみて下さい.さて,10,000mというと富士山の高さの2倍以上,通常はとても体験することのできない環境です.「高い山に登ると空気が薄くなる」と,いうことを聞いたことがありませんか.空気が薄くなるとは気圧が低くなるということです.当然酸素も薄くなります(酸素分圧が低くなる).もちろん10,000mの高さの酸素では人間は生きていけません.そこで機内は与圧されているのですが,実は地上と同じ圧ではありません.もし仮に機内圧が地上と同じ1気圧だとしたら周りの大気圧との差で飛行機は破壊されてしまいます.つまり飛行機の中は与圧されているとはいうものの,地上より低い圧なのです.機内圧の低下は身体に様々な影響を与えます.すでに呼吸器疾患,循環器疾患(チアノーゼ性心疾患)の患者さんへの悪影響が報告されていますが,一般には今一つ知られていないようです.

(3)筋ジストロフィーの呼吸不全
 筋ジストロフィーの呼吸不全については既に説明されています.航空機旅行を企画している人には,ここでもう一度おさらいをしていただきたいと思います.
 筋ジストロフィーの患者さんは歳をとるとともに次第に呼吸筋の筋力低下が目立つようになってきます.いわゆる呼吸不全の状態です.ところでそもそも呼吸とはどういう役目をしているのでしょうか.簡単に言うと,身体に酸素を取り込む,身体に溜まった二酸化炭素を排泄する,この二つの仕事ということができます.呼吸不全とはこの二つの仕事あるいは酸素を取り込む仕事が充分に行えない状態をいいます.つまり呼吸不全には2つのタイプがあることをまず記憶しておいてください.筋ジストロフィーの患者さんのように呼吸筋力の低下が原因の呼吸不全では,通常,酸素の低下とともに二酸化炭素の増加という事態が発生します.したがって,このような呼吸不全に対しては酸素と二酸化炭素の2つの問題を解決する必要があります.前置きが長くなりました.飛行機の話題に戻りましょう.

(4)飛行中に見られた低酸素血症
 吸い込む空気の酸素分圧が低ければ当然身体に取り込まれる酸素の量も少なくなる可能性があります.しかし健常者の場合は無意識のうちに多く呼吸をすることによって取り込まれる酸素の量が少なくなるということはありません.一方,呼吸筋力の低下した筋ジストロフィーの患者さんではそのような余裕のないことがあります.そのような患者さんでは,飛行中身体に取り込む酸素が少なくなってしまいます.図1を見てください.これは,パルスオキシメータという機器を使って,ある患者の酸素の量を,離陸前,飛行中,着陸後と連続的に計測した記録です.酸素の量を測るにはいくつかのものさしがありますが,ここでは酸素飽和度(SpO2)という物差しを使っています.濃点が酸素飽和度を示しています.もう1つの測定値(淡点)は脈拍数です.飛行機の高度上昇とともに酸素飽和度が低下し,飛行機の下降に伴って戻っていることがわかります.またこの患者では酸素飽和度の低下といっしょに心拍数が増加しています.しかし患者自身は飛行中まったく症状を訴えることはありませんでした.この患者は睡眠時人工呼吸中ですが,地上での昼間の酸素飽和度はほぼ正常でした.

(5)どのような患者に注意が必要か
 徳島病院の患者さんに協力してもらい,飛行中パルスオキシメータをつけてもらいました.そして6名の患者さんで13回の飛行中の記録を検討しました.いずれも国内線の飛行です.その結果,4名の患者さんの記録で低酸素血症が認められました.そのうち3名は睡眠時のみ人工呼吸中の患者さんでした.残りの1名は旅行当日風邪気味で痰の量が非常に多い状態でした.これら4名の患者さんで飛行中に何らかの症状を訴えた方はいませんでした.人工呼吸中の患者さんの昼間,人工呼吸器なしの状態での動脈血ガス分析では,いずれもPaCO2が50mmHg以上でした.また,肺活量検査では%肺活量が10%台あるいは10%以下でした.通常筋ジストロフィーの患者さんの人工呼吸は最初睡眠時のみで充分です.しかしそれは昼間は呼吸機能がまったく正常ということではありません.しかし本人も周りの人たちもこのことを忘れていることが多いようです.当然飛行機もフリーパスで利用できると思っています.実はこのような患者に注意が必要なのです.

(6)国内線と国際線(海外旅行)ではさらに条件が違う
 飛行機の巡航高度は国内線と国際線では違います.国内線では普通29,000〜30,000ftですが,国際線ではさらに高空の30,000〜45,000ftの飛行高度で運行されています.各々の機内高度は約5,000ft,8,000ftで,これは国内線に乗ると約1,500m,国際線では2,440mの高地に登った時と同じ気圧条件下にあるということを意味します.つまり国際線ではより吸入気酸素分圧が低下している,薄い酸素を吸っていることになります.さらに国内線はその飛行時間が1〜2時間のことが多いですが,国際線では長時間となり,その影響は大きくなります.

(7)航空機旅行が身体に及ぼすその他の影響
今まで気圧の低下,酸素分圧の低下が身体に及ぼす影響について述べてきました.加えて機内圧の低下は腸管ガスを膨張させ,横隔膜の動きに影響を与える可能性もあります.さらに換気を悪くする条件がつけ加わるわけです.航空機旅行の呼吸器系への影響はそれだけではありません.例えば国際線に乗ったとき,喉がカラカラになった覚えはありませんか.実は機内の空気は非常に乾燥しています.空気が乾燥すると鼻詰まりを起こしやすくなります.また痰が出しにくくなることもあります.
筋ジストロフィーの患者さんでは心不全,不整脈の問題も重要です.呼吸器系ほど直接の影響はないかもしれませんが循環器系への影響も無視できないことがあります.

(8)飛行機だけではない?鉄道旅行も
 気圧が下がるのは何も飛行機の中だけとは限りません.いやもっと単純に,高い所へ登れば空気は薄くなります.登山なんて言うと,「それは関係ない,そんな高い山に登るのはプロの話・・・」と言われるかもしれませんが,実は意外と簡単に素人でも登れるのです.国際線の話が出たついでに触れておきますが,スイスのヨーロッパアルプスのユンゲフラウヨッホ,ここは標高3454mですが,地元のインタラーケンから登山鉄道で簡単に,それこそ普段着のままで登れます.終着駅では決して走ってはいけないのですが,健常者でも頭痛等でとても走るどころではないでしょう.強烈な低酸素の影響です.車椅子でも登れなくはないと思いますが,止めておいて下さい.
 高地を走る鉄道は他にもあるようで,最高はペルー中央鉄道の4783m,但しそういう旅行を楽しむのは宮脇淳三氏の旅行記(汽車旅は地球の果てへ;文春文庫)だけにしておいて下さい.


(多田羅勝義)

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