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▼片岡義男「彼女が演じた役 原節子の戦後主演作を見て考える」(ハヤカワ文庫)
メディアのなかでの、手の込んだ間接性に囲われた性という擬似的な性が、島崎雪子先生(旅人注:原節子が映画「青い山脈」で演じたヒロイン)という身の上で、一九四九年に、大衆のものとして早くもスタートしていた。人は性的だとなぜ危険なのか。性的ではないとなぜ安全なのか。性は、自分という個と正面から直接に向き合うための、ひょっとしたら唯一のきっかけやプロセスになり得るものであるからだ。真の自分というものの発見は、なんらかのかたちでかならず、性を直接に経由する。
(中略)
戦後日本の性に対する基本的な態度は、見ない、触れない、問題にしない、したがって存在しないものとする、無視する、ということだった。このような基本方針をかたわらに常に置いた上で、現実のさまざまな問題は、やっかいだけれど起こってしまったいしかたのない問題として、きわめて現実的な処理だけがなされて来た。この基本方針は、現在では最終段階に到達している。メディアのなかに手の込んだ間接性を張りめぐらせ、そのなかをただ回遊するだけという、滑稽なまでの迂回の迷路を、人は性に関してさまようという段階だ。(P103〜104)
やっかいだけど仕方がない、という鉄火場の事物としてしか「性」を見ていない現状は、21世紀まで引きずっていないかどうか。(特に男性の視点は)
なんとなく「迂回する性」というフレーズが気に入った。広末涼子でも本上まなみでも安倍なつみでも池脇千鶴でも、石川梨華でも加護亜依でも辻希美でも、矢口真里でも後藤真希でも深田恭子でも、(知り合いやよく見ているサイトの萌えに挙げている人々の名を列挙してみました。それにしてもモーニング娘。関連者が多いな)現実味をこの手に感じられないまま、迂回しつつメディアの中を21世紀になっても彷徨うのでしょうか、我々は。(我々ってどの範囲で)
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