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▼吉田修一「熱帯魚」(文藝春秋)
優しさを演じるのは難しい。優しさが何かを掴んでいないのに、優しさがとにかく大事だと思いこんで、優しさが相手に通じないことに苛立ちを感じている。おまけに優しさを施すことが相手にとって大事なことだと信じて疑わない。それがたとえ相手の重荷になっても。まさに優越感。「あたしって、いつも彼のことを考えてあげてるんだからっ」
優しさは確かに大事なものだけど、優しさの事実だけが遊離して、一人歩きを始めてしまうと、その優しさとしての本分を失った、ひどくおしつけがましいものになる、曰く、「あたしはこんなにあなたの気持ちを考えているのに、どうしてわかってくれないの? どうしていつも勝手なことばかり言うの?」 さっきから女言葉で書いているのは別に意味はありません。この作品集のそれぞれの中・短編の主人公はすべて男性。
かつての異母兄弟である自閉症気味の光男と、子連れのグラマー少女真実とで、奇妙な同居生活をしている大工見習いの大輔(熱帯魚)、入院した祖父の介護の中で、自分の彼女千里と衝突しあっている草介(グリンピース)、素性を隠して九十九里の海の家で、主人と、傍迷惑な仕事ぶりの奥さんとの間で、休暇の間だけバイトをしている新田(突風)。
彼らの優しさから意味付けを切り離したら、もっと優しさの別のかたちが見えてくるようでいて、その優しさが空洞であるようにも思えてきたりする。優しさの意味ばかり考えるより、どうして優しさを投げかけようとしたのかに立ち戻りながら。
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