1 秋葉道の位置付け
添付した江戸時代の絵図に描かれている街道は全て、秋葉道を除いて主要な1級国道ばかりである。脇街道としての姫街道も載っているが、秋葉道は東海道と同じ太さの主要街道としての位置付けが見られる。秋葉道が当時主要街道であった証拠は、現在鳳来寺付近の道標に行き先(伊勢方面、信濃善光寺方面)として残されている。江戸時代の絵地図は下記のホームページに載っている。
・ まじしゃんのホームページ(秋葉街道を訪ねて)
3 秋葉山常夜燈籠
秋葉山常夜燈籠は有名である。当時の秋葉道を歩き、常夜燈籠の建てられておる場所石の常夜灯籠をみると、当時の街道沿いの方が秋葉山参拝者の安全を願っていたことが良く分かります。私も山が好きで山歩きをよくするが、標識が出てくると歩いている道は間違いない事を確信します。 参拝者も秋葉燈籠を見てこの道は秋葉道に間違いない事を確信したと思います。この燈籠も地元の方が安全を願って建てた事もただただ感心します。
・ 秋葉山常夜燈
4 江戸時代の絵師司馬江漢が1788年記したに「江漢西遊日記」の秋葉道の文の抜粋
遠州掛川の駅より秋葉山に行、二里山路を過て川を渡又ゆく事2里、川を越て森宿有(富商アリ、茶師多シ)、夫より行事三里。一瀬と云所に至、比間川を越る事四十八瀬なり、是より梺まで三里有、梺の前に瑞雲坂を下り、瑞雲寺有、夫より小天竜川船渡、扨掛川を入て山々皆大木多し、松杉の類也、山尤高、梺より山に登事五十町唐銅の鳥居あり、額金明嶺。山門に最勝関、本堂に大登山と有、堂は南面本尊観音を安置す。鎮守南向権現の社有、寺は禅宗秋葉寺と云、是より三河国鳳来寺にゆく路也、則寺の後ろの方坂を下る事五十町戸倉と云所に至る、山坂多し、半里過て犀河船渡、天竜側の源也、比辺全て米なし芋稗を食す、海なくして塩得がたし、甚の深山にして猿猪多し、是より石打に一里、熊村へ二里、比辺誠に山林幽巌人烟寂寞としておそろしき地也、婦人は旅客の荷物を負て賃を取、男子といふとも海を不見、平地に人家の並立を見た事なしと、扨熊村より行事一里半加宇蓮峠に至り、又行一里半巣山村、此間座頭転と云峠あり、遠州三河の峠を越、或四十四曲坂を下り大野まで一里半、此間真深山也、大野市街商家多し、夫より板敷き川を渡る、河の底岩如板故に名と、程なく鳳来寺、梺より五十町山にのぼるに、行者越という所一町余登るに、皆巌石を攀て絶頂にいたる、遠州海遙に見えて山、連て山の如し、ここを過ぎて三十四町山を下て石階の上に権現の祠有、階下薬師堂なり、末社本堂の後に多し、左の方岩にそふて塔有、夫より石階を下る事九町、その半に十二防天台真言に派有、額頭天台に松高院、真言に医王院の二防也、下れば角屋町旅館多し、ここを過て滝川にでる、渓の間を流る川也、船にてわたる、銭亀村有、滝川をめぐりて新城へ三里富商多、夫より野田へ二里十六町、大木村に三里、豊川左に見えて小奈高戸が原、家野ヶ原、本野か原を過て松原を行くこと一里余、漸御油往還に出る。現代風に書いて載せたホームページは下記
・ 鳳来ふるさと倶楽部
秋葉道の関係リンク先
・ まじしゃんのホームページ(秋葉街道を訪ねて)
・ でかけよう! 北遠へ
・ 五街道踏破の記録
・ 鳳来ふるさと倶楽部
・ 秋葉山常夜燈 参考文献
・ 出かけよう! 北遠へ ふるさと散歩道
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