森 信三  年 譜                  

                          
  (年齢は数え年)  《森信三 新全集 第8巻および不尽精典を参考に作成》
                           
1896年(明治29年)
      9月23日 愛知県知多郡武豊町にて誕生。
      父、端山俊太郎、母、はつ。男三人兄弟の
      末っ子として出生。

1897年(明治30年)2歳
      実母不縁にして生家を去る。

1898年(明治31年)3歳
      全然縁もゆかりもない一小作農の森家の養子となる。

1908年(明治41年)13歳
      正月元旦、実家の祖父より、頼山陽の「立志之詩」を教えられ、
      これが将来のタネ蒔きとなる。この頃、将来教師になりたいとの
      志望を抱く。
      しかし、叔父より中学受験の断念の外なきを言い渡され、初めての人生の挫
      折感を味わう。

1911年(明治44年)16歳
      高等小学校卒業。母校の給仕となる。

1912年(明治45年)17歳
      4月より半年間、半田小学校にて代用教員。
      5月、実家の兄、端山民平(19)チフスにより死亡。
      10月、名古屋第一師範に入学。

1915年(大正4年)20歳
      夏、親友と衣浦湾を泳いで横断を試み、失敗。危うく助かる。
      9月、祖父、端山忠左衛門死去。

1916年(大正5年)21歳
      師範学校卒業。卒業前に、地元新聞に「師範教育革新論」を投書し、
      舎監より厳戒される。
      10月、愛知県幡豆郡横須賀町小学校に赴任。
      三浦修吾先生の名著「学校教師論」を読み、甚大な感銘をうけ、
      将来の方向を決定づけられる。

1918年(大正7年)23歳
      4月、広島高等師範の英語科に入学。前半2年間の学資は、母方の従兄の
      山口精一氏より恵まれる。

1919年(大正8年)24歳
      福島政雄先生に接し、福島先生を中心とするペスタロッチ研究会をはじめる。
      のち、親友、柳川重行・松本義懿・玖村敏雄とともに雑誌「混沌」を発行し、
      わが国ペスタロッチ運動の中心的機関誌となる。

1920年(大正9年)21歳
      初めて西晋一郎先生の講義を受ける。
      3年生の4月より匿名の篤志家(サントリで有名な鳥井信治郎氏)に
      よって卒業まで学資を供せられる。

1922年(大正11年)27歳
      広島高等師範卒業。大阪府立阿倍野高等女学校に英語教師として赴任。

1923年(大正12年)28歳
      4月、京都大学哲学科に入学。西田幾太郎先生の講義に接する。

1925年(大正14年)30歳
      養父種吉(64歳)死去。

1926年(大正15年)31歳
      京都大学哲学科を(本科3カ年)を卒業。卒業と同時に松本文子と結婚。
      大学院に籍をおきつつ、大阪天王寺師範と女子師範の専攻科講師となる。

1928年(昭和3年)33歳
      二宮尊徳の「二宮翁夜話」の開巻劈頭にある『天地不書の経文を読め』
      との一句により、学問的開眼を得たり。

1929年(昭和4年)34歳
      長男惟彦誕生。


1930年(昭和5年)35歳
      広島高等師範時代より求めに求めていた新井奥邃先生の「奥邃広録」を
      京都の福田武雄氏方の書棚に見出して歓喜限りなし。この我が国の最深
      の「隠者」の感化は終生をつらぬく。

1933年(昭和8年)38歳
      天王寺師範本科一部生の修身科を教えることとなり、この講義筆記が
      後に「修身教授録」となる。

1934年(昭和9年)39歳
      二男克彦誕生。実父、俊太郎死去。

1939年(昭和14年)44歳
      旧満州の建国大学に赴任。

1940年(昭和15年)45歳
      建国大学塾頭を拝命。三男迪彦誕生

1945年(昭和20年)50歳
      8月、平壌にて敗戦の放送を聞く。
      12月、ソ連軍に拉致され、白系ロシア仁の元建国大学生の懇情により
      一週間後に釈放される。

1946年(昭和21年)51歳
      極寒零下27℃、半壊の空家にて凍餓死を決意せしも、隣家の人の厚意
      によって救われる。大道易者として辛くも生計を立つ。
      6月、帰国。図らずとも妻子と再会。

1947年(昭和22年)52歳
      個人誌「開顕」を創刊。芦田恵之助先生の「低平」誌に紹介される。
      全国各地から誌友の申し込みが殺到し、全国各地の読書会や座談会
      に出席。
      開顕社にて、明和印刷出版の「子ども科学」の取り次ぎを開始。

1950年(昭和25年)55歳
      6月明和印刷より独立し「少年科学」を創刊。
      9月負債のため財政次第に困難に陥る。

1951年(昭和26年)56歳
      開顕社ついに没落。甲子園の家屋を売却してその返済にあてる。
      (翌年、社名を開顕社から開顕舎に変更)
      10月、兵庫県立篠山農大へ英語講師として勤務。

1953年(昭和28年)58歳
      塩尻公明氏の推薦により、神戸大学教育学部教授に就任。

1956年(昭和31年)61歳
      「開顕」誌を「実践人」と改題。

1958年(昭和33年)63歳
      旅から旅への講演行脚に明け暮れる。
      8月15日、啓蒙講演一千回を発願。

1960年(昭和35年)65歳
      神戸大学定年退職。

1962年(昭和37年)67歳
      3月3日教育講演1000回に達す。

1964年(昭和39年)69歳
      年間260日を旅(講演行脚)に明け暮れる。


1965年(昭和40年)70歳
      神戸海星女子学院大学教授として迎えられる。

1970年(昭和45年)75歳
      妻文子(67歳)死去

1972年(昭和47年)77歳
      長男惟彦(41歳)急逝。尼崎市の同和地区立ち退き跡の空き家に
      家財を搬入、独居自炊生活を始める。以後、数度転居。

1975年(昭和50年)80歳
      社団法人『実践人の家』を設立。

1981年(昭和56年)86歳
      脳血栓症状。入院。海星女子大へ退職願い提出。

1982年(昭和57年)87歳
      独居自炊の生活を再開。

1983年(昭和58年)88歳
      再発、再入院。退院後、執筆活動を再開。

1991年(平成3年)96歳
      脳梗塞を再発。自室にて昏倒。回復。

1992年(平成4年)97歳
      11月21日午後6時25分逝去。



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