老 哲 学 者 と 私


  
 老哲学者に手紙を書いた。その名は森信三という。

「『教育学栄えて、教育滅ぶ』という言葉を聞きました。私は、この言葉を聞いて、教師を志しました。」

 当時九十一歳であった老哲学者は、すでに病床に在った。にもかかわらず、返事が来ようとは思いもよらぬことであった。

「おたより拝受。『教育学栄えて教育滅ぶ』とは名言です。これを不滅の真理と『体感』しうる迄、三十年間一路邁進せられんことを!! マヒの右手もて 九十一才 森信三(注1)

 老哲学者は数度脳溢血で倒れ、執筆不能の宣告を受けた。が、奇跡的に筆を持てるようになったと聞いていた。文字は判別し難いものであったが、葉書全体には威厳が満ちていた。この葉書は私の心の奥底の部分を大きく揺り動かしたのであった。「知る」ということは一体どういうことなのだろう。もしもこの世に『真理』というものがあるとするならば、それを知るのが目的でなく、それを『体感』し、『体に蔵する』ことが本当の『知る』ことなのか………。
そして、そのことを体感するのに人生の半分近くも費やさねばならないのか。 私は『知る』ということに対して、恐れに近いものを感じた。と同時に、『知るに値するもの』とは何であろうかということを考えざるを得なかった。私は、大学院進学を決意した。

「大学院に合格の由、何よりでした。自己の生命の要求に中実に生きることですね。マヒの右手もて 九十二才 森信三」(注2)

 二度目の葉書を頂いたのは、一年後の春のことであった。たった三行の葉書であった。『生命の要求に中実』という言葉が脳裏に焼きついてしまった。なぜ、老哲学者は、『忠実』を『中実』と書かれたのであろうか。『生命の要求』とはなんと次元の高い言葉なのであろうか。
 人は『願い』を燃やしながら生きるものかもしれぬ。その願いはひとりひとり違うものであろう。『生命の要求』は、おそらく学問をする上での切実な原動力にちがいない。『問』いがあるから『学』ぶ。だから『学問』なのだろう。
小学校、中学校、高校、大学、大学院、そこで行われる教育は、基礎学問の訓練にすぎないのか……。
 本当の学問というものがあるとするならば、人生の大問題を解決する位の威力があるにちがいない。そしてその学問は、人生の底が抜けるほど楽しいにちがいない。私は理科教育学を専攻していたが、そういった諸々の学問は、私の考えていた『真の学問』を踏まえてこそ、輝いてくるのだと思った。私は、『学問』というものの理想をこのように考えていた。

「旅を志す人は『地図』は必要です。しかし、地図をいかほど詳しく研究しても一歩も旅に出かけぬ人は、旅のことはカイモク分かりません。
 学問と人生 人間と学問を考える上でこのことは尚重大な問題でしょうナ。マヒの右手もて 九十二才 森信三」
(注3)

 老哲学者は、学問を『地図にすぎぬ』と断じた。
 私の『学問』に対する幻想は吹き飛んだ。そしてとても楽になった。学があるとか、学歴が高いとかよく言われるが、それは単に『地図を見たことがある』かどうかのちがいにすぎないのだ。人間としての賢さは、『旅についてどれだけ知っているか』なのではないか……。これならば、半生を費やすだけの時間がかかる。最初の葉書の『三十年間』の謎が解けたと思った。

 さらに一年後、私は、教師になる。

「教員就職シケンに合格の由、人生の登龍門とてメデタキ極みです。四十八才迄は、学問のキソ固めですね。九十三才 マヒの右手もて 森信三」(注4)

 それから三年後、この老哲学者は、九十六才で永眠することとなった。後で聞いたことではあるが、晩年この老哲学者は、日に葉書三枚が体力の限度であったらしい。五年間にそのうちの九枚の葉書を私に下さったのだ。私はそれこそ命がけで書かれた葉書に導かれ、いまここにいる。老哲学者は、この世を去ったが、彼の言葉は私の胸の中で今も生命があるかのごとくである。そして、「今度は、お前自身の学問をお前自身が歩いて来い。そしてお前自身の言葉で語ってみよ」と、その老哲学者は言っているかのごとくである。


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