全一学の説明

(1)全一学とは《全一学ノートより》
   @ 全一学とは、この宇宙に遍満する絶対的全一生命の自証の学をいう。
   A 全一学とは、各自がそれぞれ全一的生命から与えられた、二度とくり返し得な
     いこの地上の生において、自らに授かった天賦の特質を、いかに発揮し実現す
     るかをまなぶ学といってよい。

       ※全一‥‥完全に統一がとれて一まとまりになっていること
   B 日本人が真に自らの立場に立ったときの「哲学」の謂い。

(2)なぜ「哲学」でなくて「全一学」か
   @ 哲学と言った場合、通常、プラトン・アリストテレスから始まって、デカルト・
     カント・ハイデッガー・ヤスパース‥‥といわゆる西洋哲学がまず頭に浮かび、
     仏教・儒教・老荘などの東洋思想を想起し得ないから。
   A 西洋哲学は、主知主義的な傾向が顕著であるので、どこか親しみにくい。
     哲学が、「世界観と人生観の統一の学問」であるとしたら、少なくとも東洋人、
     とくに日本人の場合には、「いのちの全一性を自証する立場」であるべきである
     ので、名称を「全一学」とする方がのぞましい。

私見(1)
 私の個人の考えをまとめてみたいと思う。
 全一学は、実践の哲学である。現実から学び、現実界に力を発揮できる哲学である。ま
さに、知行合一、現代の「陽明学」といえよう。
 森先生は、二宮尊徳の「二宮翁夜話」の開巻劈頭にある『天地不書の経文を読め』      
との一句により、学問的開眼を得たとのことであった。真理などというものは、決して書
物に書いてあるものではなかろう。まして、人に教えてもらうというものでもなかろう。
今、自分が直面している現実こそが真理の反映であり、この現実そのものが、自分の教科
書なのである。自分だけのたった一冊の教科書‥‥‥これこそまさに、『天地不書の経文』
ではないのか。
 森先生は、何かの著書で、『ひとり一哲学、ひとり一宗教』ということを書かれていた。
まさにそのとおりである。人の魂は“既存のもの”では救われぬ。仏教を学ぶとき、キリ
スト教を学ぶとき、自分を仏教に(キリスト教に)合わせなければならないもどかしさを
感じることがあった。仏教を(キリスト教)を消化した人物というのは、実に偉大な人が
多い。自己を捨てきっているのに、逆に底知れぬ個性が輝いている。宮澤賢治しかり‥‥
これらの人物は、仏教(キリスト教)の内容を自分の言葉で語れるといえよう。すなわち、
既存の宗教を越えて自分の哲学・宗教を創造してしまっているといえよう。まさに『ひと
り一哲学、ひとり一宗教』である。
 しかし、そこには、大きな落とし穴がある。それは、われわれ凡人は、先哲の学問体系
や聖人の教訓を自分の利己心に基づいて自分の都合のいいように変えてしまう傾向がある
点である。古来、陽明学を奉じる者は、大塩平八郎など悲運な運命をたどった者が多い。
それは、このことに起因するのではなかろうか??
 全一学とは、前述したとおり、『自己の生命の自証の学』(自らに授かった天賦の特質を
いかに発揮し、実現すべきかをまなぶ学)である。自分の心の闇を見つめることを忘れて
はならない。最後に、私の大好きな道元禅師の言葉を載せよう。

      仏道をならうといふは
      自己をならふ也
      自己をならふといふは
      自己を忘るる也

私見(2)
 それでは、どうやって自己を証するのか?(これだけじゃ???)
 @ 立腰‥‥‥‥‥腰骨を立てる。古来、茶道・柔道・剣道など道がつくものは姿勢を
          重んじ、腰骨が立っている。これを四六時中行う。
 A 複写ハガキ‥‥ハガキ・手紙は確実に人に読まれるものなので、必ず記録を残す。
          毎日教え子にハガキを書く。
 B ひとり雑誌‥‥(退職後)月に一度は、自分の冊子等を発行し、誌友に配布する。
 C 読書‥‥‥‥‥読書は心の栄養である。体の栄養は、毎日とるのに‥‥。
          もしも、教師が読書をしなくなったら死んだも同然である。


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