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發心集 第二 

鴨長明
(近藤瓶城 編、改訂 史籍集覽23 近藤活版所 1901.12.25
※「新加書」6− 「新加纂録類」、として「二中歴」「簾中抄」「今昔物語 殘缺」「發心集」「螢蠅抄」を収録。
※適宜段落を区切り、句読点・注記を施した。仮名遣いの誤りはそのままにした。 は異本のテキスト。

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(目録)



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發心集第二

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安居院聖京中に行時隱居僧にあふ事

近比あぐゐにすむひじりありけり。なすべき事ありて京へ出けるみちに、大路づらなる井のかたはらに、げすのあまの物あらふありけり。此ひじりを見て、「こゝに人の『あひたてまつらん。』と侍るなり。」といふ。「たれと申ぞ。」といへば、「今たいめんしてぞ(*原文「たいめんてぞ」)のたまはせんずらん。」といひて、「たゞきとたち入給へ。」とせつ/\にいひければ、思はずながら尼をさきにたてゝゆき入てみれば、はるかにおくぶかなる家のちいさくつくれるに、としたけたる僧一人あり。
そのいふことをきけば、「いまだしりたてまつらざるに、申はうちつけなれど、かくてかたのごとく後世のつとめをつかまつり侍りつれど、しれる人もなければ善智識もなし。又まかりかくれなんのちはとかくすべき人もおぼえ侍らぬによりて、『たれにても後世者とみゆる人すぎ給はゞ、かならずよびたてまつれ。』とうはのそらに申て侍りつる也。さてもしうけひき給はゞ、あやしげなれど、あとにのこるべき人もなし、ゆづり奉らんと思ひ給へる(*「給ふる」。以下、一々断らない。)なり。それにとりて、かくて侍るを、あしくも侍らず、中/\しづかに侍るを、となりに撿非違使の侍りつるあひだに、罪人をせめとへるをとなどのきこえてうるさく侍りつれば、『まかりさりなばや。』と思ひ給へれど、『さてもいく程もあるまじき身を。』となむ思ひわづらひ侍る。」など、こまやかにかたる。
此ひじり、「かやうにうけ給はる、さるべきにこそ。のたまはする事はいとやすきことに侍り。」とて、あさからず契りて、おぼつかなからぬほどにゆきとぶらひつゝ過けり。そのゝち、いく程なくかくれける時、ほいのごとく行あひて、これを見あつかふ。彌勒の持者なりければ、其みやうがうをとなへ、眞言などみてゝ(*十分に唱えて)、りんじうおもふやうにておはりにけり。いひしがごとく、とかくの事など又口入(*干渉)する人もなし。されど此家をば、そのあまになむとらせたりける。さて、かのあまに、「(*亡くなった僧は)いかなる人にておはせしぞ。又何事のえんにて世をばわたり給ひしぞ。」などとひければ、「我もくはしき事、はたえしり侍らず。思ひがけぬゆかりにてつきたてまつりて、とし比つかうまつりつれど、誰とか申けん。又しれる人のたづね侍るもなかりき。たゞつく/〃\とひとりのみおはせしに、時料(*「斎料」=〔僧にとって〕米銭)は二人が程を、たれ人ともしらぬ人の、うするほどをはからひてまかりすぎし。」とぞかたりける。これもやうある人にこそ。


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禪林寺永觀律師の事

永觀律師(*「ようくゎん・えいくゎん」。十一世紀の僧。文章生源国経の子。東大寺で三論宗を学んだ。)といふ人ありけり。とし比念佛の心ざしふかく、名利を思はず、世をすてたるがごとくなりけれど、さすがにあはれにもつかまつりしれる人をわすれざりければ、ことさらふかき山をもとむる事もなかりけり。東山禪林寺といふところに籠居しつゝ、人にものをかしてなむ、日をおくるはかりごとにしける。かる時も返す時も、たゞきたる人の心にまかせてさたしければ、『中/\ほとけの物を。』とて、いさゝかも不法の事はせざりけり。いたくまづしきものゝ、かへさぬをばまへによびよせて、物のほどにしたがひて、念佛を申させてぞあがはせける。
東大寺別當のあきたりけるに、白河院この人をなし給ふ。きく人みゝをおどろかして、「よもうけとられじ。」といふほどに、思はずにいなび申事なかりけり。その時、としごろの弟子・つかはれし人など、我も/\とあらそひて東大寺の庄園をのぞみにけれども、一所も人のかへりみにもせずして、みな寺の修理の用途によせられたりけり。身づから本寺にゆきむかふ時には、ことやうなる馬にのりて、かしこにゐるべきほどの時料、小法師にもたせてぞ入ける。かくしつゝ三年の内に修理事おはりて、すなはち辭し申す。君又とかくのおほせもなくて、こと人を(*別当に)なされにけり。よく/\人の心をあはせたるしわざのやうなりければ、時の人は「てらのやぶれたる事を、『此人ならでは心やすくさたすべき人もなし。』とおぼしめしておほせつけゝるを、律師も心え給ひたりけるなんめり。」とぞいひける。ふかくつみをおそれけるゆへに、とし比寺の事おこなひけれど、寺物を露ばかりも自用の事なくてやみにけり。
此禪林寺に梅の木あり。實なる比になりぬれば、これをあだにちらさず、年ごとにとりて、藥王寺といふところに、おほかる病人に、日々といふばかりにほどこさせられければ、あたりの人、此木を「悲田梅」とぞ名づけたりける。いまも事のほかに古木になりて、花もわづかにさき、木立もかしげつゝ、むかしのかたみにのこりて侍るとぞ。
ある時、かの堂にきやく人のまうで來たりけるに、算(*算木)をいくらともなくおきひろげて、人にはめもえかけざりければ、客人のおもふやう、「律師は出擧(*「すいこ」。金貸し・利稲。)をして、いのちつぐばかりを事にし給へり。」ときくにあはせて、「その利のほどかぞへ給ふにこそ。」と見ゐたる程に、おきはてゝとりおさめて、たいめんせらる。その時、「算をき給ひつるは何の御ようぞ。」ととひければ、「とし比申あつめたる念佛のかずのおぼつかなくて。」とこたへられける。「さまでおどろくべき事ならねど、ぬしがらにたうとくおぼえし。」とのちに人のかたりけるなり。


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内記入道寂心の事

村上の御代に、内記入道寂心(*慶滋保胤)といふ人ありけり。そのかみ、宮づかへける時より、こゝろに佛道をのぞみねがふて、事にふれてあはれみぶかくなんありける。大内記にてしるす(*〔行事などを〕記録する)べきことありて、うちへまいりけるに、左衛門の陣のかたに、女のなみだをながしてなきたてるあり。「何事によりてなくぞ。」ととひければ、「主のつかひにて、石のおび(*石帯。束帯の袍の腰を締める。)を人にかりて、もちてまかりつるみちにおとして侍れば、主にもおもくいましめられんずらむ。さばかりの大事の物をうしなひたるかなしさに、かへるそらもおぼえず、思ひやるかたなくて。」となんいふ。心のうちをはかるに、「げにさう思ふらん。」といとおしくて、わがさしたるおびときてとらせてけり。「もとのおびにあらねど、むなしううしなひて申かたなからんよりも、これをもちてまかりたらんは、おのづからつみもよろしからん。」とて、手をすりよろこびてまかりにけり。さて方角におびもなくてかくれゐたりけるほどに、事はじまりにければ、「おそし、/\。」ともよほされて、こと人のおびをかり、それにて(*原文「そて」)其公事をばつとめける。中つかさの宮の文ならひ給ひける時も、すこしおしへだてまつりては、ひま/\に目をひさぎ(*塞ぎ)つゝ、常にほとけをぞ念じ奉りける。
ある時、かのみやより馬をたまはらせたりければ(*下さったので。「給はる」は「給ふ」の意。)、のりてまいりける道のあひだ、堂塔のたぐひはいはず、いさゝかそとば一本あるところにはかならず馬よりおりてくきやうらいはい(*恭敬・礼拝)し、又草のみゆるところごとに馬のはみとまるに、心にまかせつゝこなたかなたへゆくほどに、日たけて、あしたに家を出る人、ひつじ・さるの時までになむなりにける。とねりいみじく心づきなくおぼえて、馬をあらゝかにうちたりければ、なみだをながし、こゑをたてゝなきかなしみていはく、「おほかるちくしやうの中にかくちかづく事は、ふかきしゆくえんにあらずや。過去の父母にもやあるらむ。いかに大きなるつみをばつくるぞ。」と、「いとかなしき事なり。」とおどろきさわぎければ、とねりいふばかりなくてまかりてぞ立かへりたる。
かやうの心也ければ、『池亭記』とてかきおきたる文にも、「身は朝にありて心は隱にあり。」とぞ侍るなる。年たけて後、かしらおろして横川にのぼり、法文ならひけるに、増賀上人いまだ横川にすみ給ひけるほどに、これをおしゆ(*御主)とて、「止觀の明靜なること、前代いまだきかず。」とよまるゝに、此入道たゞなきになく。ひじりさる心にて、「かくやはいつしかなくべき。あなあいぎやうなの僧の道心や。」とて、こぶしをにぎりてうち給ひければ、我も人もこうとまかりて立にけり。ほどへて「さてしもやは侍るべき。此文うけたてまつらむ。」といふ。「さらば。」と思ひてよまるゝに、さきのごとくなく。又はしたなくさいなまるゝほどに、後のことばもきかでやみにけり。日比へて、なをこりずまに御けしきとりて、おそれ/\うけ申けるにも、たゞおなじやうにいとゞなきける時、そのひじりもなみだをこぼして、「まことにふかき御のりのたうとくおぼゆるにこそ。」とあはれがりて、しづかにさづけられけり。かくしつゝ、やむごとなくコいたりにければ、御堂の入道殿(*藤原道長)も御戒などうけ給ひけり。さて、聖人わうじやうしける時は、(*御堂入道は)御諷誦などし給ひて、さらしぬの百千たまはせけり。請文(*「うけぶみ」=受取状)には、「三河入道しうく(*「秀句」か。)かきとめたりける。」とぞ。
「むかしずいのやうてい(*隋の煬帝〔ようだい〕)の智者にほうぜし千僧ひとりをあまし、今左せうしやうの寂公をとぶらふさらし布もゝちにみてり。」とぞかゝれたりける。


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三河聖人寂照入唐往生の事

參河のひじりといふは、大江のさだもと(*大江定基。寂心の弟子。)といふはかせこれなり。三河のかみになりたりける時、もとのめをすてゝ、たぐひなくおぼえけるおんなをあひぐして下りけるほどに、國にておんなやまひをうけてつゐにはかなくなりにければ、なげきかなしむことかぎりなし。れんぼのあまりに、とりすつるわざもせず日ごろふるまゝに、なりゆくさまをみるにいとゞうき世のいとはしさ思ひしられて、心をおこしたりける也。かしらおろして後、乞食しありきけるに、「『わがだうしんはまことにおこりたるや。』とこゝろみむ。」とて、妻のもとへ行て物をこひければ、おんなこれを見て、「われにうきめ見せしむくひにかゝれとこそは思ひしか。」とて、うらみをしてむかひたりけるが、何ともおぼえざりければ、「御とくにほとけになりなんずる事。」とて、手をすりよろこびていでにけり。
さてかの内記のひじり(*前出寂心)の弟子になりて、ひがし山によいりんじ(*如意林寺)にすむ。そのゝち横川にのぼりて、源信僧都にあひ奉てぞ、ふかきみのりをばならひける。かくてつゐにもろこしへわたりて、いひしらぬしるしどもあらはしたりければ、大師の名をえて圓通大師とぞ申ける。わうじやうしけるに、ほとけの御むかひの樂をきゝて、詩をつくりうたをよまれたりけるよし、もろこしよりしるしをくりて侍り。
笙歌遙聞孤雲上 聖衆來迎落日前  雲の上にはるかに樂のおとすなり人やきくらんひがみゝかもし


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仙命上人の事 覺尊上人事

ちかきころ、山に仙命聖人とてたうとき人有けり。そのつとめ理觀をむねとして、つねに念佛をぞ申ける。ある時、ぢぶつだうにてくはんねん(*観念=瞑想)するあひだに、そらに聲ありて、「あはれ、たうときことをのみくはんじ給ふ物かな。」といふ。あやしみて、「たそ、かくはのたまふぞ。」とゝひければ、「我は當所三聖なり。ほつしんし給ひし時より、日に三度あまかけりてまもりたてまつる也。」とぞこたへ給ひける。このひじりさらにみづから朝夕の事をしらず。一人つかひける小法師、山の坊ごとに一度めぐりて一日のかれい(*「かれいひ」か。)をこふてやしなひける外には、何も人の施をばうけざりけり。


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