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修訂 官職要解 

和田英松(文學博士)
明治書院 1926.1.20、8版 1939.11.10
※ 原『官職要解』は、1902年刊(序文参照)。
※ 句読点を若干変更した。明らかな誤植は訂正した。
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 緒言  目次  1 總説  2 上代  3 奈良時代  4 平安時代  5 武家時代  6 神職僧官位  附録(索引・官職唐名索引)
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緒言

國史を學ぶには、昔の官職のありさまを知らねばならぬのは勿論の事であるが、國文を學ぶにも、官職の大體を心得ておく必用があるのは、いふまでもない事である。殊に、三鏡(*大鏡・今鏡・増鏡をいうか。)や、軍記ものなどの記事は、皆歴史に關した事ばかりで、其中にあらはれて居る人物は、官位のあるものが多い。作り物語の源氏や、うつぼなども、其しくみは、大かた、朝廷の事や、貴族の上をうつしたのであるから、其中の人物にともなうて、官職の名も多くかいてある。それ故、官職の事をわきまへて居らぬと、身分階級の別も明かにしれないで、記事の上にわからぬ事があつたり、文章の解釋について、こまることがある。まづ手近い例を申せば、徒然草の始に「一の人の御ありさまはさらなり。たゞ人も、とねりなどたまはるきはゝゆゝしと見ゆ。」とあるのや、土佐日記に、「ある人、あがたの四とせ五とせはてゝ、れいの事どもみなしをへて、げゆなどとりて、すむたちより出でゝ、舟にのるべきところにわたる。」とあるのは、官職についての事であるから、それを知らないでは、何の事やら、意味のわかるはづはない。紀行、隨筆などでも、ちよつとかやうにかいてあるが、其他も、推しはかられませう。國文の中でも、殊に、中世、即ち平安時代のものに、官職が多く見えて居るから、平安時代の官制は、ぜひとも知らねばならぬ。ところで、參考すべき書物は、平基親朝臣官職秘抄北畠親房卿職原抄二條良基公百寮訓要抄などや、後世の編纂ものでは、大日本史職官志蒲生秀實氏職官志小中村清矩翁官制沿革略史などがあつて、隨分多いけれど、物語や、軍記ものなどに見えて居る官名で、是等の書に載せてゐないものもあつて、國文の書をよむには、いくらもわからぬ事があるから、初學の人の參考にするつもりで、官職の講義をかきはじめたのです。それを一昨年の十二月から、本年へかけて、國語漢文講義といふ講義録に連載したところが、この度漸く結了したから、とりまとめて、一部の書物にしたので、これが即ち官職要解であります。
講義録には、平安時代を主としてあげたので、其以前のところは省略し、武家の職制も、附録として載せたのですが、それをとりまとめるについては、ざつとでも、ふるいところから述べないと、變遷したありさまがわからぬから、さらに、上古、及び大化改新、大寶令等の官制をつけ加へ、其他も處々補正したのです。平安時代にくらべると、前後があまり粗略なのは、上に申したやうなわけであります。平安時代とても、もとが期限を定めて、月々に出す講義録に載せたのですから、修正はしたけれどもなほ簡略なところや、蕪雜なところもあつて、そろはなかつたり、倉卒にかいたので、甚しい誤謬や、擧ぐべきものを落としたのもありませうが、それは追々直すつもりです。
明治三十五年九月
著者識
この書を出してから九年を經て、唐名索引を加へ、それから十三年を經て、希有の大震火災のために、原版が烏有に歸したのである。この書は、もと國文學を主としたものであるから、おのづから平安朝に偏して居る。かつ參考した諸書も、おもに物語歌集等で、記録や古文書などを參考したものは尠いのである。それ故、上代より近代に至るまで悉く組みかへて見たいと考へて、よりより材料を蒐集して居つたのであるが、それも同火災に燒失したのである。これを改版するにあたりては、大修正を施して見たいと考へたけれど、更に材料をあつめて書き改めるのは、容易でない。それで遺憾ながら、今回は少しばかり修訂を試みたので、大修正は、他日に讓る事としたのであります。
大正十四年十二月
著者再識


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修訂 官職要解 目次



[目次]

修訂 官職要解

文學博士 和田英松

第一 總説

我邦では、官職の事を、昔はツカサというたのであるが、ツカサとは、どういふ意味であらうか。萬葉集四に「さほ河のきしのつかさのしばなかりそねありつゝもはるし來らばたちかくるがね」、同十に「あさにけに霜はおくらしたかまとの野やまつかさのいろづく見れば」といふ歌が載せてあつて、山でも、野でも岸でも、高いところを、昔はつかさというたものと見える。それについて、つかさとはかさなる義で、そこを目當とし、本處とする事から移つて、官職をも、ツカサと名づけたのだといふ説や、野づかさ、山づかさなどは、高い處をいうたのであるから、物の上とある所を申したので、官職も人民の最上の處に位して、朝廷を輔佐する意だといふ説もあるが、とにかく、つかさは、積みかさなる意であるから、高い處や、首長などの意に用ひ、それから官職の名稱となつたので、ツカサドルといふ詞も、それからきたのであらう。またの字義は、説文に、「吏事君也。」といひ、周禮の註に、「謂自置2其臣屬1家也。」と見え、は、増韻に、「執掌也。」といひ、爾雅釋詁に、「職主也。」と見え、官位令義解に、「大臣以下書吏以上曰官。」また、職員令義解に、「職者職司也。」とあつて、官と職とは、區別したのである。また、官は官位相當あるもので、職は官位相當もなく、大寶令の後に置いたものであるといふ説や、官舍のあるものを官とし、官舍のないものを職とした説もあるが、和名抄を見ると、太政大臣、左右大臣以下を職名の部に入れ、官省寮司職等を官名の部に入れてもあるし、後には、必ずしもはつきりと、區別をしたのではないやうに思はれる。または職と同じ意で、朝廷のを職といひ、武家のを役というたのだといふ説もあるが、これも區別があるのではあるまい。
また、官吏についての名稱にも、ツカサヒト、マヘツキミ、トネ宮人など、種々あるが、まづツカサヒトは、官職をツカサというたのによつた名目で、これを惣稱して百官といひ、百寮ともかき、訓讀にして、續日本紀の宣命には、百官人[モヽノツカサヒト]とかいてある。マヘツキミは、天皇の御前に候ふ公といふ意で、日本紀景行紀の歌に、「あさしものみけのさをはしまへつぎみいわたらすもみけのさをはし」と見え、是に、大の字をそへて、大マヘツギミといひ、後には轉訛して、マウチギミというたのである。トネは、伴之部[トモノベ]の約つたのだとも、殿寢[トノネ]の略だともいひ、宮人は、宮仕へ人の意で、萬葉集などに見え、これも、大の字をそへて、大宮人ともいうたのである。この外、官人有司役人などの名稱もあつた。
官制の沿革した大躰については、まづ大むかしは、後世のやうに、ちやんとした官制の定があつたのではなく、殊に族制の時代であつたから、氏かばねで、それ\〃/一門類族を支配して、朝廷に仕へたので、世職世業のありさまであつた。ところが、外國との交通もひらけ、文物も段々と進歩したから、孝徳天皇大化元年、支那の制度によつて、官制を定められ、從來の慣習を廢して、人材によつて、官吏を任用する事とせられ、つゞいて、天智天皇の時、律令を撰ばれ、文武天皇大寳元年にも、律令を撰定せられて、神祇・太政二官以下、八省百官、悉く完備したのである。それから後も、世の變遷にともなうて、廢置分合を行ひ、醍醐天皇延喜式を撰定せられた時までは、よ程出入があつた。延喜式發布以後からは、新置の官もなく、停廢せられた役も少いけれど、藤原氏が、外戚で專横をきはめたから、朝廷の政は、大に衰へて、官制の如きも、たゞ名ばかりを存して、實際は不用となつたのが多い。殊に平安朝になつて、新に置かれた攝政、關白、藏人所、檢非違使廳などの勢が盛であつた爲に、職權を奪はれたのもあつた。かやうに、朝廷の政が衰廢するに從うて、武家が段々と勢力を得て、遂に後鳥羽天皇の御代に至つては、源頼朝幕府を鎌倉にたてゝ、軍國の政を行ひ、其後足利氏、徳川氏など、うち續いて、明治維新の前まで、七百年ばかりの間、朝廷の政權は、皆武家に移つて居たのである。されば、武家に於いても、それ\〃/役人を置いて、政務をとらせたのであるが、別に職制が定まつたのではない。或は攝關大臣家の家司のさまによつたり、或は大名一家の職名を其まゝ用ひたのもあつて、朝廷の官制とは餘程おもむきがちがうて居る。併しながら、朝廷の官制は、整頓しては居たやうではあるが、あまり繁雜である上に、唐制によつたものであるから、都合のわるい事もあつて、實際は行はれないのがあつたけれども、武家の職制は、簡易である上に、實際必要に應じて、置いた役ばかりであるから、うはべはどうでも、裏面を見ると、よくとゝのうて居たのである。これから項をわけて順々に述べる積りであるが、それについては、まづ、天皇、及び皇居についての名目が種々あるから、ちよつと其前に述べて置きます。
天皇の名目は、皇帝、乘輿、上、スメラミコト、大キミ、ミカドなど、多くありますが、まづ天皇は、日本紀に載せてある推古天皇十六年(*606年)、唐に贈られた國書に、「東天皇敬白2西皇帝1。」とあるから、古いのである。天子は、蔡邕獨斷に、「天子夷狄之所稱、父天母地、故稱2天子1。」と見え、皇帝は、儀制令に、「華夷所稱。」と見え、一人は、禮記に、「凡自稱、天子曰2予一人1。」と見え、白虎通には、「王者自謂2一人1者謙也。」と見え、乘輿は、獨斷(*前出「蔡邕独断」)に、「天子以2天下1家、不2京師宮室1常處、則當2車輿1以行天下、故群臣託2乘輿1以言之、或謂2之車駕1。」と見え、は、同書に、「上者尊位所在也、云々。」漢書宣帝紀の師古の註に、「上者天子自謂也。」とかいてある。この外、主上今上當今當代とも申したので、枕草子今鏡増鏡源平盛衰記などに見えて居る。以上は、支那の帝號によられたのですが、我邦固有の御名稱も種々あつた。まづスメラミコトは、統る尊の義で、天下を統御ましますから出たので、スメラギも、統る君の義で、萬葉集には、スメロギと見え、古今集以後の歌集には、スベラギとかいてある。スメミマノミコトは、皇御孫命とかいて、延喜式の祝詞や、續日本紀の宣命などに見えてあるが、スメは統で、ミマは御眞子の意だといふ説がある。また萬葉集に、日ノ御子とも、大キミともよむで(*ママ)あるが、日ノ御子は、皇子とも申し、大キミは、親王、諸王までにわたる稱號である。この外、日本紀に「やすみしゝ我君」と見え、新古今集の序に、「やすみしる名を遁れて」とあつて、もとは天皇の枕詞であつたが、後には、直に帝號にも用ひて居る。またと申し、主上と申したから、ウヘとも、ウヘ樣とも申し、伊勢物語源氏物語には、オホヤケと見え、榮華物語や、長門本平家物語には、公家とかいてある。 また御座所を其まゝとつて、御所禁裏内裏とも申し、ウチとも申した事が、物語などに見えてあるが、夫について、法住寺殿の戰に、武士が亂暴をしたから、坊門信清が「内の渡らせられたのだ。」というて、制したけれども、木曾義仲は、天皇を内と申す事をしらず、内とは妻の事だと心得て、「女でもかまはぬから、射殺せ。」と下知した話が、源平盛衰記に載せてある。 またウヘの尊稱をつけて、内ノウヘと申した事が、紫式部日記に見え、ミカドと申す事も、宮門の意であるが、源氏物語若菜下には、ウチノミカドとかいてある。この外、萬乘の主、十善の君、金輪聖帝、一天の主などの尊號もあるが、まづ萬乘の主は、孟子梁惠王篇萬乘之國の註に、「乘車數也。萬乘之國者、天子畿内地方千里、出2車萬乘1。」とあるのによつたのである。十善の君は、不殺生、不盜偸、不邪淫、不妄語、不惡口、不兩舌、不綺語、不慳貪、不瞋恚、不邪見の十善で、前世に於いて、この十善戒を保つた功力で、天子と生れたといふ事である。この十善と、萬乘とを續けて、十訓抄には、「十善萬乘の主なれども、」とかいてある。金輪聖帝は金輪を有する聖帝の意で、三論玄義に、「悉達處宮、方紹2金輪聖帝1、能仁出俗遂爲2三界法王1。」とある。一天の君は、榮華物語月宴卷に、「一天下を知しめすべき君」とあるによると、一天下知しめす君といふ意であらう。また、天皇の御位の事をアマツヒツギと申すのは、天之日嗣の義で、天皇の御系統の事をミモスソ川と申すのは、御先祖を祭られた伊勢太廟の前を流るゝ川を、御裳濯川というたのによられたといふ事である。
皇居の名稱は、内裏、大内山、九重、禁中、モヽシキ、ムラサキノニハなど、多くありますが、内裏は、出典がわからぬから、大塚嘉樹は、日本で作つた熟字だというて居るが、舊唐書李輔國の傳にも内裏の文字があるから、支那の名稱によつたのである。これに、大の字をそへて、大内裏といひ、裏の字をとつて、大内とかいて、オホウチとよみ、また大をとつて、ウチとばかりもいうたのである。大内山は、宇多天皇離宮のある所で、山城國葛野郡御室の北嶺をいうたのである。それを皇居の名稱としたのは、新勅撰集に、「亭子院、大内山におはしける時、勅使にてまゐりて侍りけるに、麓より、雲の立ちのぼりけるを見てよみける。中納言兼輔、『白雲の九重にたつ嶺なれば大内山といふにぞありける』」とあるのが始めだといふ事であるが、離宮ではあるし、名稱も大内に同じであるからなづけたのであらう。九重は、楚辭に、君門が九重ある、とかいてあるによつたので、コヽノヘは其和訓である。またこれをコヽノカサネともいうたので、古今集に載せてある壬生忠岑の長歌に、「ここのかさねのなかにては嵐の風も吹かざりき」とよむで(*ママ)ある。禁中は、蔡邕獨斷に、「禁中者、門戸有禁非2侍御1者不入、故曰2禁中1。」とあるによつたので、禁裏も同じ意味である。モヽシキは、百官の座を敷るゝ意だとも、百寮敷奏の意だとも、あまたの石を以て、堅く造つた[キ]の大宮といふ意だともいうて、種々の説があるが、眞淵翁が、皇大城の堅きを石にたとへて申したので、百石城の義だととかれた如く、もとは大宮の枕詞であつたが、後には、皇居の名稱となつたのである。ミカキは御垣で、今鏡などに見えてあるので、これによつて、宮門警衞のものをみかきもりというたのである。ムラサキノニハは、夫木和歌抄後京極攝政の歌に、「紫の庭の春風のどかにて花にかすめる雲の上かな」とあるが、これは、周成王が、鳳凰の庭中に舞うたのを見て、「鳳凰翔兮于紫庭、余何徳兮以感靈」と歌うた古事によつて、紫庭を皇居の異名としたのを訓讀にしたのである。拾芥抄の異名に紫禁とあるのも同じことで、順徳天皇の御集をば、紫禁和歌集と申します。ヨモギガホラは、八雲御抄に、御所の異名としてあげられ、續古今和歌集賀の歌に「世をてらすよもぎがほらの月かげは秋つしま根のおくもくもらじ」とあるが、これは拾芥抄に、蓬莱宮蓬壺を内裏の異名としてあるから、それによつたのであらう。この外、御所といひ、大宮といひ、天上に比して、雲の上とも、雲ゐともいうたのである。


[目次]

第二 上代

一 大化改新前の官職

神武天皇都を大和の橿原に御定めなされて、御即位の式を行はせられた時、中臣[ナカトミ]齋部[イムベ]の先祖が、祭祀に關する事を勤め、大伴、物部氏の先祖が、宮門警衞の事を勤めたことが、古語拾遺などにかいてある。別に其名稱はないけれど、即ち官職で、これによつて、已に文武の別があつた事もしられ、また論功行賞の際には、國造・縣主などを補せられた事も見えて、地方官のさまもわかります。其後崇神天皇の御代には、將軍を四道に遣はされ、武内宿禰棟梁臣とせられた事が、日本紀にかいてあるが、これは、あとから漢字でかいたので、當時素よりかやうな名目があつたのではない。また舊事紀には、申食國政大夫[ケクニノマツリゴトマウスウナキミ]とあるが、これも定まつた名稱ではあるまい。それから、大臣、大連などいふ名もあらはれたので、追々と種々の官名も史上に見えてあるが、いづれも、世職で、子孫が代々其官を傳へたのである。
まづ、大臣[オホオミ]大連[オホムラジ]が執政で、武内宿禰の裔許勢[コセ]平群[ヘグリ]蘇我[ソガノ](*ママ)葛城[カツラギ]の諸氏が大臣となり、大伴、物部二氏が大連となつたので、殊に、大伴、物部は武官で、來目部[クメベ]靱負部[ユゲヒベ]大刀佩部[タチハキベ](*ママ)などの武夫を率ゐて皇宮の護衞を勤め門部は宮門を守るのである。物部はまた、法律にもたづさはつて居るが、別に解部[トキベ]があつて、訴訟を斷じて居る。もと、臣連は[カバネ]であつて、この氏の人は、京近く住居して、殊に親しく朝廷につかへて居るもので、大臣は、即ち臣姓の人を管し、大連は、連姓の人を管したのである。其外、官名の見えてあるものは、中臣連齋部[イムベ]祝部[ハフリベ]巫部[カムナギベ](祭祀を掌る。日本紀繼體帝元年・欽明帝十六年に神祇伯とあるが、中臣氏の職であらう。)、卜部[ウラベ](龜卜を掌る)、膳臣[カシハデ]多米[タメ]大炊部[オホヒベ](膳羞(*食物)を掌る)、 水取[モヒトリ](水漿を掌る)、酒部[サカベ](釀酒を掌る)、服部[ハトリベ]倭文部[シドリベ]神麻績部[カムオミベ]衣縫部[キヌヌヒベ]錦部[ニシキベ](衣服を掌る)、車持[クルマモチ](車を掌る)、爪工[ツマタクミ](造蓋を掌る)、玉作[タマツクリ](造玉を掌る)、鏡作[カガミツクリ](造鏡を掌る)、鍛部[ガヌチベ](*ママ)弓削部[ユゲベ]矢作部[ヤハギベ]楯縫部[タテヌヒベ]鞍部[クラベ]陶部[スヱベ]石作部[イシキツクリベ](石棺を作る)、土師[ハシ](*ママ)(凶儀を掌る)、及び門部[カドベ]掃守[カニモリ]商長[アキヒトノオサ]内藏[クラ]大藏[オホクラ]舂米部[ツキシネベ]船長[フネノオサ]語部[カタリベ]染部[ソメベ]畫部[ヱカキベ]史部[フヒトベ]山部[ヤマベ]山守部[ヤマモリベ]田部[タベ]海部[アマベ]宍人部[シヽヒトベ]養鸕部[ウカヒベ]鳥養部[トリカヒベ]鳥取部[トツトリベ]犬養部[イヌカヒベ]馬飼部[ウマカヒベ]猪甘部[ヰカヒベ]等の職が多く、いづれも、職名を姓として、世襲したのである。是等が即ち部曲であるが、部曲の中には、御子代[ミコシロ]御名代[ミナシロ]がある。御名代、御子代とは、天皇、皇后、皇子たちの御功業を後葉に傳へる爲に、皇子なき御方の御名を萬代にのこすために、特に御名をつけた部曲である。たとへば、日本武尊の御功業を傳へるために、健部[タケベ]を置くとか、清寧天皇に皇子がないので、御名白髪をとつて、白髪部舍人[シラガベノトネリ]白髪部膳夫[カシハデ]白髪部靱負[ユゲヒ]を置かれた類である。御子代・御名代の事は、陽春廬雜考にのせてある御子代名義考を見るがよい。地方官には、國造[クニノミヤツコ]縣主[アガタヌシ][ワケ][キミ][アタヘ]村主[スグリ]稻置[イナギ]、などいふものがあつて、國造の數は、國造本紀の序に、百四十四國とかいてある。また臨時に、朝廷から、諸國に遣して、其國の政を執行せしめたのを、クニノミコトモチと云ひ、神功皇后三韓征討以來は、朝鮮にもミコトモチを置いたのである。また屯倉[ミヤケ](公私の所領)には、田令[タツカサ]田部[タベ]があつた。まづ是が、古代職官の有樣であるが、之を總稱して、[オミ][ムラジ]伴造[トモノミヤツコ]國造、というたのである。伴造は、前に述べた何部と稱して、其職を世襲して居るものゝ部曲の長となつて、其職を勤めたもので、國造には、縣主以下もこもつて居る。なほ上古官制については、飯田武郷氏の考説が、皇典研究所講演に載せてあるから、參考するがよろしい。

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二 大化改新の官制

上古は姓と官と相伴うて、子孫代々これを傳へて居たけれど、推古天皇の御代の頃から、支那と交通が始まつて、使を遣して、支那の形勢を視察させ、やゝ舊制改革の機運に向うてきたところへ、最も勢力のあつた蘇我氏も亡びたから、孝徳天皇の御代になると、唐の制度を斟酌して、官制を定め、左右大臣、及び内臣國博士をおき、其後、八省百官を置き、地方には、國司郡司を置いて、世職の舊制を改められたのである。
左右大臣が、大臣・大連のやうに大政をとつたので、阿倍内麻呂蘇我倉山田石川麻呂が任ぜられたのである。
内臣[ウチノオミ]は、中臣鎌足が任ぜられたので、日本紀に、「據2宰臣之勢1、處2官司之上1、故進退廢置、計從事立。」と見え、鎌足傳に、「軍國機要、任2公處分1。」とあるによると、左右大臣の上にあつて、後の關白のやうなものである。また、
神官頭[カムツカサノカミ]といふ役があつて、古語拾遺に、「令2叙王族宮内禮儀、婚姻、卜筮事1。」とかいてあるが、後の神祇官で、八省は、それ\〃/名稱はあげてゐないが、大寶令のと同じ事であらう。
刑部尚書 續日本紀に、「難波朝、定2刑部尚書1。」とあるが、後の刑部卿の事であらう。また、
將作大匠 日本紀に、タクミノツカサとよむで(*ママ)、宮城の標を立てたことが見えて居る。
國司郡司は、國郡の政務を取り扱ふ役で、郡は三等にわけて、四十里を大郡とし、三十里以下、四里以上を中郡とし、三里を小郡として、大領少領主政主帳をおき、其下に里があつて、五十戸を一里とし、里毎に里長一人を置いたのである。京師には、坊があつて、坊毎に坊長一人を置き、四坊に坊令一人を置いて、戸口を按撿し、奸非を督察させた事が、日本紀にかいてある。また市司も見えて居る。

[目次]

三 大化改新後の官制

天智天皇の御代には、律令廿二卷を撰ばれ、官制も追々と整ひ、天武持統二朝にも、種々の官名ができたのであるが、令の本文が傳らぬから、よくはわからぬけれども、天智弘文天武持統、及び文武天皇の大寶令前までをとりすべて、大寶令の順序にして述べませう。尤も、大寶令の職官と同名のものは、名目ばかり擧げておきますから、其積りで御覽下さい。
神祇官 長官がで、下に神部などがあつたので、伯を持統紀には、ともかいてある。
太政官 太政大臣左右大臣御史大夫中納言などがあつた。始は左右大臣の上に、内大臣があつて、中臣鎌足が任じて居たが、其後は、太政大臣をおいて、皇族がたを任じたのである。懷風藻に、「拜2太政大臣12百機1。」とあつて、太政大臣が、今日の總理大臣のやうなものである。御史大夫は三人任ぜられた事が、天智紀に見え、後には大納言と改稱せられた事が、公卿補任にかいてある。
内藏寮 にはの名目が見え、
陰陽寮 には、陰陽博士の職名がかいてある。この外、
侍醫監物典鎰左右大舍人もあつたから、中務省や、内藥司などのあつた事もしれる。
法官 式部省の事で、ノリノツカサとよみ、法官大輔といふものがあつた。
大學寮 天智紀に、學職頭[フミヤツカサノカミ]とあるのは、大學頭の事で、大學博士音博士書博士などもあつた。
治部卿 天武紀には、理官とかいてあつてヲサムルツカサとよむ。
民部省 また民官とかいたので、長官がである。
兵政官 兵部省で、兵政官長、及び大輔があつて、兵庫職もあつたのである。
刑部省 また刑官ともかいて、判事解部などがあつた。
大藏省 難波にあつて、火災にあうた事が天武紀にかいてある。
宮内卿 また宮内大夫ともかいてある。
膳職 大膳職の事で奉膳もあつた。
大炊省 大炊寮の事である。
外藥寮 典藥寮で、外藥とは、内藥司に對する名稱で、醫博士呪禁博士などがあつた。
糺職大夫 續日本紀に見えてあるが、彈正臺の事である。
この外、東宮大傅東宮大夫、などがある。女官に、内命婦女孺がある。また左右兵衞左右大舍人などもあつた。
左右京職 京職大夫が長官である。
攝津職 これも大夫が長官である。
太宰府 孝徳天皇の御代からあつたので、また都督府ともかき、長官を筑紫太宰といひ、また筑紫帥といひ、帥を率ともかき、筑紫太宰率ともかいてある。續日本紀に、筑紫惣領とあるのも、この職で、下に大貳があつた事も見え、太宰府典、及び防人などもあつた。
惣領 常陸、吉備、周防、伊豫などに置いてあつたので、天武紀に吉備太宰とあるのも、惣領の事であらう。惣領は、數國を惣管したもので、吉備惣領石川王の事を、播磨風土記にも、「石川王爲2惣領1時云々、」とかき、伊豫惣領が讃岐の事を取扱うた事が、持統紀にかいてある。惣領の居る所をば、惣領所というたので、天武紀に、周防惣令所が見えてある。
國司郡司 國司には、の名稱が見えて居る。其外、撰善言司製衣冠司陣法博士班田大夫鑄錢司造京司造高市大寺司巡察使等の官を置いたのである。


[目次]

第三 奈良時代

一 大寶令の官制

文武天皇大寳元年律令を制定せられたので、官制は、其中の職員令にくはしくのせてある。まづ神祇官が第一で、次が太政官である。太政官の下には八省があつて、其下に職・寮・司があつた。即ち中務省の下には、中宮職左右大舍人圖書内藏縫殿陰陽の六寮、畫工内藥内禮の三司、式部省には、大學散位の二寮、治部省には、雅樂玄蕃の二寮、諸陵喪儀の二司、民部省には、主計主税の二寮、兵部省には、兵馬造兵皷吹主船主鷹の五司、宮内省には、大膳職、及び木工大炊主殿典藥の四寮、正親内膳造酒鍛冶官奴園池土工釆女主水主油内掃部筥陶内染の十三司があつた。其外、彈正臺衞門左右衞士左右兵衞の五府、衞門の下の隼人司、及び左右馬寮左右兵庫内兵庫があつて、地方には、左右京職左右市司攝津職太宰府防人司國司郡司があつた。また皇太子附の役には、學士春宮坊、及び舍人主膳主藏の三監、主殿主書主漿主工主兵主馬の六署があつて、其他親王附の職員や、後宮職員も、それ\〃/定められ(*原文はここで改行)
また親王四階、諸王十四階、諸臣三十階の位階、及び勳位十二等(文武にかゝはらず、勳功ある者に賜はるもの)を定め、官位相當というて、官職と位階と相當の規定が、ちやんとできたのである。さうして、官吏につきて、種々の方面から區別をたてゝ、種々の名目をつけたのであるが、まづ職事官、散官といふ別があつた。職事官とは、有位で夫々職務のあるもの、散官とは、位階だけで、別に職務のないもので、また散位ともいふ。次に文官、武官の別があつて、五衞府、軍團などが武官、其他が文官である。次が京官、外官で、在京の諸司を京官とし、其他の地方官などが外官である。また四部官というて、どの役所でも、大凡有位の官吏を四等にわけて、これを長官次官判官主典といふたのである。また、すべての官吏を、勅任、奏任、判任、判補の四等にわけたのである。勅任は勅命によつて任じ、奏任は太政官の奏聞によつて任じ、判任は太政官で任じ、判補は式部の判補で、くはしい事は、選叙令にかいてある。また長上官、番上官の別をたてゝ、官位相當あるものを長上官とし、其他を番上官として、長上は毎日通勤し、番上は交替で勤務する事としたのである。其外、官吏の任用法や、職務についての功過を調査する法なども、夫々定つたので、選叙令考課令(*原文「考課今」)などに載せてある。かやうに、大寶の官制は備はつて居るが、神祇官以下の細目は、平安時代のところで述べますから、こゝでは、之を省略し、大寶令の官職で、後には廢せられたり、他に合併せられたものも、そこで述べる事にしませう。併しながら、軍團、防人などは、後には、其制もやぶれたから、これだけは大略を述べておきます。
大寶令の兵制は、五衞府防人軍團の三種である。五衞府は、衞門左右兵衞左右衞士で、衛門府は、諸門の禁衞出入、禮儀等を掌つて、隼人司を管し、衞士府は、宮掖(正門傍の小門)を禁衞し、隊仗を撿校し、朝儀ある時の儀仗に列し、行幸の時供奉する事を掌り、兵衞府は、閤門(令聞書には、大門の掖の門だというて居る。)を守り、行幸の時、供奉する役である。
防人はサキモリとよむので、日本靈異記には、前守とかいてある。サキモリとは、崎守の意で、西海道の要所を守る兵士をいふ。防人の文字をあてたのは、唐六典に、「邊要置2防人1、爲2鎭守1。」とあるによつたのである。防人を支配する役所が、防人司で、太宰府に屬す。職員に、令史などの役があつた。防人は、現役三年であつて、三年目毎には交替したので、其時には、國々より國府の役人が引きつれて、西海道に下向したので、これを防人部領使とかいて、サキモリコトリツカヒとよむ。コトリは、事とりの意であらう。萬葉集卷二十に、防人部領使の歌をのせ、また防人が故郷を出立する時によむだ(*ママ)、哀れなる歌ものせてある。
軍團は、諸國に置いたので、令抄に「聚兵之義」とかいて居る。其數は、どの位あつたであらうか。筑前、肥後に各四團、筑後、肥前に各三團、長門、豐前、豐後に各二團あつた事が享祿本類聚三代格にかいてあるのを見ると、一國に二三團以上もあつたので、大抵五六郡毎に、一軍團をおいたのであらう。栗田博士が考へられた軍團の制には、全國で、軍團の數が一百三十一所、兵士が十二萬九千一百人としてある。一軍團の兵數は、千人以下で、職員に大毅少毅主帳校尉旅帥隊正があつて、兵士を撿校し、兵器を備へ、弓馬を調習し、陣列を簡閲する事を掌る努手各三人あつた。兵士は五人をとし、五十人を隊として隊正をおき、百人に旅帥、二百人に少毅、六百人以上に大毅、千人に大毅一人、少毅二人を置いたのである。兵士徴發の法は、男子二十歳以上六十歳以下を正丁として、三丁から一人をとつたので、つまり一國の正丁を通算して、其三分の一を徴發したのである。正丁でも、皇族、或は、有位者の子、及び有勳者をはじめ、官吏、醫師等は、いづれも免役せられたのである。そこで、徴發せられた兵士の中から、選むで(*ママ)上京させた者が衞士で、衞門府、衞士府に配當して、三年間宿衞をつとめさせたのです。また邊要の國に發遣せられたのが防人であるが、桓武天皇の御代廢して、兵士を以てこれにかへたのである。諸國の兵士は、其近邊の軍團に編入せられたのである。また國司・郡司の子弟の中から、強幹で、弓馬に堪能の者や、六位以下八位以上の嫡子の中から、武藝に長じて居る者を撰拔して、兵衞府に編入したのである。平時は、かやうなありさまであるが、征討の役がある時は、更に軍隊を編成するので、一軍に將軍副將軍軍監軍曹録事の職員があつて、三軍を總督するものが大將軍である。其兵數及び職員の割合などは、左の通りであるが、くはしい事は、軍防令に載せてある。

大將軍一人 ━━ ━━ 一軍〔一萬人以上〕
將軍一人
━━ 副將軍二人 ━━ 軍監二人 ━━ 軍曹四人 ━━ 録事四人
━━ 一軍〔九千人以下、五千人以上〕將軍一人 ━━ 副將軍一人 ━━ 軍監一人 ━━ 軍曹四人 ━━ 録事二人
━━ 一軍〔四千人以下、三千人以上〕將軍一人 ━━ 副將軍一人 ━━ 軍監一人 ━━ 軍曹二人 ━━ 録事二人

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二 大寶令以後の官制

大寶令施行の後、一時職官の名稱を悉く改めた事があつたが、是は、惠美[ヱミノ]押勝の仕事で、まづ孝謙天皇の始に、皇后宮職を改めて、紫微中臺として、大少弼大少忠大少疏の職員をおき、其上に、紫微内相一人をおいて、内外の兵事を掌らせて、押勝が、自ら内相となつたのである。それから、淳仁天皇の始に、官名を改稱して、太政官を乾政官、太政大臣を大師、左大臣を大傅、右大臣を大保、大納言を御史大夫、紫微中臺を坤宮官、中務省を信部省、式部省を文部省、治部省を禮部省、民部省を仁部省、兵部省を武部省、刑部省を義部省、大藏省を節部省、宮内省を智部省、彈正臺を糺政臺、圖書寮を内史局、陰陽寮を大史局、中衞府を鎭國衞、大將を大尉、少將を驍騎將軍、員外少將を次將、衞門府を司衞門、左右衞士府を左右勇士衞、左右兵衞府を左右虎賁衞としたのであつたが、まもなく押勝が亂をなして誅せられたから、官名は復舊したのです。押勝の後は、弓削道鏡が、君寵によつて、專横をきはめて居たけれども、別に官制を改めた事もなく、僧侶であるから、道鏡太政大臣禪師となり、一派の僧圓興法臣位となり、基眞法參議となつたばかりで、これも、一時の事であつた。
この外、大寶令以後に置かれた官職のおもなるものは、知太政官事(皇族がたを以て任じてゐたもので、左右大臣の上に位して、太政大臣に准じた事も、たゞ准大臣といふ程の意であつた事もある。)、内大臣内臣(左右大臣の下)、忠臣中納言參議内豎省勅旨省造宮省造宮職内匠寮内廏寮授刀舍人寮帶劒寮外衞府中衞府制衣冠司造雜物法用司造營司檢校司營厨司秡出司造客舘司花苑司左右平準署(この職は、諸國常平倉を掌る)、勘本系使(本系帳を勘査する職)、遣唐使等の官職を置いたけれども、程なく廢せられたのが多い。また、地方及び軍事に關しては、河内職、和泉監、芳野監、攝官、按察使、觀察使、檢税使、班田使、惣官、鎭撫使等を置かれたが、これも皆一時のものであつた。河内職は、河内國由義宮を西京となされたから、京職に准じて河内職とし、和泉芳野二監は、大和・河内の内をさいて、特別に治所を置いたのである。攝官(*原文傍点なし。)は畿内、按察使は諸道で、二三ヶ國に一人づゝあつて、管内國司の政蹟を調査し、民情を視察する職です。觀察使は、道毎に一人づゝ、六道においたので、後改めて參議としたのです。檢税使は、諸道に、各使・判官・主典を置いたので、萬葉集卷九に、「檢税使大伴卿、登2筑波山1時歌。」と見え、班田使は、口分田班給の役で、同書卷三に、攝津國班田史生丈部龍麻呂が縊死した事がかいてある。總官(*前出「惣官」)は畿内におき、鎭撫使は諸道に置いたので、凶徒を逮捕し、國司・郡司の治蹟を監査する役で、安徳天皇の御代、平宗盛を惣官としたのも、この例によつたのである。源平盛衰記卷二十六に、「廿五日、前右大將宗盛卿近江國の總官に補せらる。天平三年の例とぞきこえし。」とかいてある。節度使も、諸道にあつて、兵士・官船を檢定したのである。この外、筑紫鎭西府の將軍檢校兵庫將軍などがあり、また蝦夷征討の爲に、屡兵を發し、將軍を遣はされたので、持節鎭狄將軍鎭狄將軍陸奧鎭東將軍持節征東將軍征東大將軍征東將軍持節征東大使征東大使征狄將軍持節征夷大將軍征夷大將軍出羽鎭狄將軍征越後蝦夷將軍など、種々の名稱をつけられ、隼人征伐にも、征隼人持節大將軍を遣はされた事が、續日本紀などにかいてある。また軍團兵士の外に健兒[コンデイ]、選士があつた。健兒は、弓馬を練習して居る者を選拔したのであるが、聖武天皇の御代、一時廢したのである。ところが、桓武天皇の御代に至り、兵士を停め、健兒を諸國に置いた。其數併せて二千二十人、延喜式には、三千六百五十四人あつた。 選士清和天皇の御代、九國二島の兵士を廢し、其代に置かれたのである。
(*この項了)

 緒言  目次  1 總説  2 上代  3 奈良時代  4 平安時代  5 武家時代  6 神職僧官位  附録(索引・官職唐名索引)
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