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修訂 官職要解 

和田英松(文學博士)
明治書院 1926.1.20、8版 1939.11.10
※ 原『官職要解』は、1902年刊(序文参照)。
※ 句読点を若干変更した。明らかな誤植は訂正した。
※ 原文の傍点部は、色を変えた。また、入力者の関心により、色文字にした個所がある。

 緒言  目次  1 總説  2 上代  3 奈良時代  4 平安時代  5 武家時代  6 神職僧官位  附録(索引・官職唐名索引)
[目次]

第四 平安時代

大寶令の官制は、隨分備はつては居るが、其後、世の變遷に從ひ、必要に應じて、新に置かれた官や、不用となつて、或は廢せられたり、或は合併せられた官もあつたので、平安京となつては、餘ほどかはつて居る。殊に、平城天皇御代には、大寶令の官制について、大修正を施され、宇多天皇の御代までは、時々改正せられたので、關白、藏人所、檢非違使廳など新に置かれ、寮司の廢せられたり、合併せられたのが隨分多い。其他、諸使、諸所、院司など、新に置いたものも尠くない。また後宮の職員、及び東宮、親王づきの官職、地方官なども、よほどかはつて居る。醍醐天皇の御代、延喜式を發布せられてから以後では、あまり廢置分合はなかつたのである。また、この時代では、公卿、殿上人、地下などいうて、官人の階級をたてたり、後には、攝家、清華、諸大夫などいうて、家筋によつて、官途昇進の規定をたてたので、やゝ世職世業の傾きとなつた。そこで、武家が、政權をとるやうになつてからは、この官職は、大かた有名無實となつたのであるが、別に變更したり、廢絶したり、合併した事もなく、明治維新まであつたのである。これから、神祇官以下を、別々に述べる積りでありますが、其前に、官職の大たいにわたつて居る任免などについての名稱や、四部官の事を述べておきます。まづ官職を任ずる儀式を除目ヂモクといふ。除は故官を除去して新官に就く事で、目は題目を記録する意である。除目に二種あつて、一を司召ツカサメシといひ、一を縣召アガタメシといふ。司召は、京官を任じ、縣召は國司などを任ずる儀で、召とは、江次第(*大江匡房「江家次第」)の注に、「召名之義也。」というてある。それから、官職に任ぜらるゝ事を、任官とも、拜任ともいふ。日本紀に、拜の字、任の字をマケとよみ、萬葉集に、「大君のまけのまに\/」とあるマケをば、マカセの意だといふ説もあるが、大宰帥や國司が、赴任するとき、御暇に參内する儀を、罷申マカリマウシというたのであるから、本居翁の説の如く、マケは、「マカラセ」の約つたのであらう。といふのは、闕を補ふといふ意で、大臣に任ずべき人に、豫め其由を仰せ下される宣旨を賜ふを、兼宣旨といひ、また召仰メシオホセともいふ。また、右大臣より左大臣に登り、少領より大領にうつる類、順序によつて進むのを轉任といひ、諸司の官から、諸寮の官にうつり、文官から武官にかはり、地方官から京官になる類を遷任といふ。別に希望しないのに、上より推して任ずるを推任といふ。一人で二つの官を持つて居るのを、兼任とも、兼帶ともいひ、また、兼官ともいふ。公文などに署名する時は、兼の字を入れる例であるが、物語文などには、兼ねる事をカケともいうたので、源氏物語浮舟の卷に、「しるべの内記は、式部の少將かけたる云々」、大鏡に、「道綱ときこえて、大納言までなりて、右大將かけ給へり。」とかいてある。されば、兼官をばカケツカサというたので、空穗物語(*宇津保物語)に、「右大辨、かけつかさを右近少將、式部少輔、文章博士、春宮のがくし、うち、とうぐう、院の殿上ゆるされたり。」とかいてある。また一度辭職してのち、再びもとの役に任ずるのを再任といひ、還任還補ともいふ。 過失、其他の事によつて、一時官をやめられるのを、停任といひ、父母の喪に遭うた時は、服解フクゲというて、一時官をとかれ、除服になると、復任というて、原職に復したのである。また何か罪を犯したり、其他の事情によつて、官職をやめられたのを解官ゲクワンといふ。老年に及び、官を辭して退くのを致仕というたのである。選叙令に、「凡、官人年七十以上聽2致仕1。」と見え、源氏物語若菜卷に、「おほきおとゞ、ちしの表奉りて、こもりゐ給ひぬ。」とかいてある。この外、延任重任復辟逆退叙留などいふ事があるが、これは追々に述べる積りであります。
四部官の事は、大寶令官制のところでも、ちよつと述べたのですが、これは、どの役所でも、役人を四等にわけて、長官次官判官主典にわりあてたので、長官は役所を總べ掌り、次官はこれを補佐し、判官は役所内を糺判し、書類を審査し、稽失(*しくじり)を勘へ(*調べる・糺問する)、主典は事をうけて登録し、書類案文を勘へ造り、公文を讀むのである。役所によつて、各文字がちがうても、長官をカミ、次官をスケ、判官をゼウ、またはマツリゴトヒト、主典をサクワンというたのである。なほ諸役所に配當した表を左にあげておきます。
  神祇官 太政官 坊職 後宮諸司 近衞府 衛門府
兵衞府
檢非違使
鎭守府 太宰府 國司 郡司 齋院司
勘解由使
鑄錢司
造寺司
施藥院使
修理宮城使
防鴨河使
長官 太政大臣
左大臣
右大臣
大夫
奉膳
尚− 大將
別當
將軍 大領 長官
使
次官 大中納言 典膳 典−   中少將 副將軍 少領 次官
判官
少納言
掌− 將監 軍監
(*掾)
主政 判官
主典
外記
令史   令史 將曹 軍曹 主帳 主典

これ等の官職は、位階を標準として、補任するのであるから、俸給手當の如きも、位階によつて支給せられたのである。官職に對しては、別に俸祿支給の規定はない。中には、職田、職封を下賜したのもあり、また上日(*旨か。)によつて、時服を給ひ、節録というて毎年正月元日、七日、十六日、九月九日、新甞會等に參列したものに、絹や綿を賜ふ事がある。繁劇の職には、特に要劇料要劇田を支給し、史生使部等、下級のものには、大粮と稱し、日々の食料として、米鹽を與へて居る。
これから、官省職寮以下を順次述べるに就き、まづ諸官省のある宮城の略圖を掲げておきます。
宮城略図

[目次]

一 神祇官

神祇の祭典を掌り、全國の祝部ハフリベ(神官)を支配する役所で、宮城の内、郁芳門の南掖にあつた。最重きものとしてあつて、職原抄(*北畠親房 1340)にも、「以2當官12諸官之上1。是神國之風儀。重2天神地祇1故也。」と書いてある。
 長官で、字音のまゝにハクとよむ。宇治拾遺物語卷三に、「はくの母、常陸へかくいひやり給ふ。」とある類で、物語、歌集などに、たゞはくとばかり書いてあるのは、みなこの神祇伯のことをいうたのである。この職、昔は諸氏の人を任ぜられたのであつたけれども、花山天皇の皇子清仁キヨヒト親王の御子延信ノブザネを神祇伯となされてからは、代々、其子孫が世襲することとなつたのである。たゞし王氏と申して、別に姓もなく、何々王と申したので、後に白川家と申すのは、即ちこの家である。伯の下に、
大副タイフ權大副少副セフ權少副大祐タイジヤウ少祐大史タイシ少史神部カムトモノヲ卜部ウラベなどの役があつて、それ\〃/事務をとりあつかうたのである。その中でも、大副、少副は、中臣、齋部、卜部の三氏のものがなり、神部は、忌部、中臣を用ひ、卜部は、卜術優長の者で、伊豆から五人、壹岐から五人、對馬から十人とつたのである。また、宮主ミヤジ御巫ミカンナギ戸坐ヘザといふ職もあつた。延喜式に、宮主は、卜部事に堪へたる者を取つて任ずといひ、御巫は、庶女の事に堪へたるものをとつて任ずといひ、戸坐は、七歳以上の童男を卜定したとかいてある。

[目次]

二 攝政關白

攝政セツシヤウ 天子に代りて、萬機の政をすべ掌る職である。攝は、攝行の意で、字書に、「總也。兼也。代也。」と書いてある。この職は應神天皇が、まだ幼年でゐらせられたから、御母神功皇后が、攝政なされたのが始である。また推古天皇の御代に、聖徳太子が攝政なされ、齊明天皇の御代に、中大兄ナカノオホエ太子(天智天皇)が攝政なされた類で、昔は、皇后・皇太子の外は、其例がなかつた。ところが、清和天皇の御代に至つて、天皇が御幼少でゐらせられたから、外祖父藤原良房ヨシフサが攝政したので、これが臣下で攝政した始めである。これから後は、自ら職名となつて、藤原氏一門の職となつたのである。
關白クワンバク 天子を輔佐し、百官を總べて、萬機の政を行ふ職である。攝政は、幼帝の時の職で、成人なされてからは、關白となる例である。此職は、元慶八年六月五日、光孝天皇より、太政大臣藤原基經モトツネに下された勅語に、「自2今日1官廳、萬政領行、入輔2朕躬1、出總2百官1倍之、應奏之事、應下之事、必先諮稟、朕將2垂拱仰1宣御命、衆聞給宣。」と三代實録に書いてあるのが始である。關白の字は、漢書宣帝紀に、「諸事皆先關2白光1(霍光)、然後奏2御天子1。」とあるによつたので、宇多天皇仁和三年十一月廿一日、基經に下された詔書に、「萬機巨細、百官總已。皆關2白於太政大臣1、然後奏下。一如2舊事1。」と、政事要略に書いてあるのから出たので、これより、自ら職名となつて、藤原氏の職となつたのである。後には、道長の子孫ばかりで、攝政關白をうけつぐやうになり、鎌倉時代よりは、その子孫が、近衞、鷹司、九條、一條、二條、五家に別れて、交替して、なつたので、これを五攝家と申したのである。攝政關白は、大かた大臣たるものが兼ねる例であるが、中には、大臣の職を辭してからなつたものもあつて、攝政關白たるものは、必ず藤氏長者を兼帶する例である。なほ氏長者の事は、職原抄別記にあるから見るがよろしい。 攝政は、女帝、或は幼帝の時ばかりで、御元服なされてからは、關白となるのであるが、その時は、まづ攝政を辭したので、これを、復辟といふ。官職難義(*原文「難儀」を改める。)に、「攝政を辭し申さるゝをば、攝政復辟の奏と申す也。復はかへす也。政を君に返すと申すこゝろなり。」とあるが、これは、尚書洛誥に、「周公拜手稽首曰、朕復2子明辟1云々、」註に、「周公盡禮致敬言、我復2還明君政1、子成王、年二十成人、故必歸政而退老。」とあるによつたのである。攝政關白も、むかしは、種々の名稱があつて、イチヒトイチトコロ攝■セツロク(竹冠+録:りょく・ろく:文籠・本箱・道家の秘文:大漢和26734)、執柄シツヘイ博陸ハクリクなどいうて居る。また前の關白を、太閤タイカウ禪閤ゼンガウともいうたのであるから、これをも述べませう。一の人とは、攝政關白たる人は、官の順によらず、第一の座席についたのであるから、職原抄に、「執柄必蒙2一座之宣旨1。故稱2一人1又云一所。」とかいてある。たとひ内大臣にても、關白でさへあれば、太政大臣より上席についたのである。一座とは上席の意で、十訓抄天慶の亂論功の條に、「其時小野宮殿は一座にて、」と見え、平治物語光頼參内の條に、「信頼卿一座して、其座の上臈たち、皆下にぞつかれける。」とかいてある。
一の所も、一の人と同じ意である。枕草子「くるしげなる物」の條に、「一の所に時めく人、えやすくはあらねど、それよかめり。」とある類で、續古事談にもかいてある。
攝■セツロク(竹冠+録:りょく・ろく:文籠・本箱・道家の秘文:大漢和26734)は、また、攝録とかいたのもある。録は、すぶる意で、尚書舜典に、「納舜使2録萬機之政1。」と見え、日本紀推古紀に、「立2厩戸豐聰耳皇子12皇太子1、仍録2攝政1、以2萬機1悉委焉。」とある録攝政を、マツリゴトトリフサネカハラシムともよむだ(*ママ)ので、即ち天子に代りて、萬機の政を總べ掌る意である。これを音便に、セウロクともよむだので、増鏡「秋のみ山」の卷に、「せうろくもしあへ給はざりしにより、」と書いてある。執柄シツヘイは、政柄を執る意で、博陸は、攝政關白の始としてある漢の霍光を、博陸侯と申したから、それによつたのである。
かやうに、關白は百官をすべ、萬機の政を行ふものであるから、關白でなくても、權力のあるものをさして、關白というた事もあつたので、顯隆中納言が、白河法皇の御寵愛をうけて、權威があつたから、當時の人に、夜の關白とよばれた事が、今鏡に見え、源平盛衰記に、「太政入道(平清盛)、萬事申合せつゝ、天下を我儘にとり行ひければ、時の人、平關白とぞ申しける。」と見え、十訓抄に、成就院僧正寛助の事を、「鳥羽院の御時は、生佛とおぼしめしければ、世を我まゝにして、法師關白とまで、いはれ給けり。」とかいてある。
また攝政關白の事を、家々の日記や、拾芥抄には、殿下と書いてある。前の攝政關白を、大殿と申す事は、小右記に、「大殿、是前攝政也。世號2大殿1。」とあつて、今鏡増鏡などにも書いてある。太閤は、字書に、門下省の長官を閤老とあるから、太閤老の略語だと、名目抄注にかいてあるが、是は太閤下の略語である。太閤下の名目は台記(*藤原頼長)に見えて、關白を辭してから、其子が關白となつた時の稱號で、小右記などにも書いてある。禪閤は太閤の出家したのを申したので、禪定太閤を略したので、詳しい事は、官職難義太閤禪閤考などに書いてある。但し在職中太閤と稱した事もあつたので、其例が西宮記(*源高明)に見え、左經記(*源経頼 1016-36)には、關白太閤とかいてある。
攝政關白の妻は、宣旨を下されて、北の政所というたのです。政所は、マンドコロとよむので、内政をとるといふ意である。また攝政關白の母儀を、大北オホキタ政所マンドコロともいひ、略して大政所というたのである。増鏡に、近衞經平公の母を近衞大政所と書いてある。豐臣秀吉も、關白であるから、母を大政所といひ、妻を北政所と申したのである。
准攝政 天皇が、已に成年にならせられても、御病氣にゐらせられたり、他に事情ある時には、政務・儀式の中、或る部分を、攝政に准じて行ふべき宣旨を下されたのであつて、定まつた職名ではない。藤原道長ミチナガが内覽であつた時に、三條天皇が、御病氣でゐらせられたから、攝政に准じて、叙位、除目を行ふべきよし宣下せられたことが、百練抄(*編者未詳)にかいてある。後には、攝政を辭して關白となつた時に、重んじて准攝政の宣旨を下されたもので、高倉天皇の時、關白基房モトフサを准攝政になされたことが、公卿補任玉葉(*九条兼実)などに書いてある。なほ官職難義にも見えて居ります。
内覽ナイラン 太政官より、文書を奏聞する前に、内見する役で、關白には、必内覽の宣旨を下されたのである。關白でなくても、内覽の宣下ばかりあつたのもあつて、關白と同じやうに、萬機の政を行うたのであるから、大鏡榮華物語などには、「天下執行の宣旨」とも、「天下及び百官執行とある宣旨下りぬ。」とも書いてある。伊周コレチカ頼長ヨリナガは、關白でなくて、内覽の宣旨を下され、兼通は、中納言で内覽の宣旨を下されたことが、愚管抄に書いてある。道長も、一條三條兩代二十二年間は、内覽であつて、關白にはならないのであつたが、三條天皇の末、長和四年准攝政となり、翌年後一條天皇の御即位があつて、始めて攝政となつたのである。

[目次]

三 太政官

ダイジヤウクワンとよむ。また官ノツカサともいうたので、枕草子「はしたなきもの」ゝ條に、「二月くわんのつかさに、かうぢやうといふ事するは、何事にやあらん。」と見え、和名抄には、オホイマツリゴトノツカサとよみ、支那の官名にあてゝ、尚書省鸞臺蘭省ともかいたのである。役所は、八省院の東、宮内省の西で、今の京都府監獄署の中心の處にあつたのです。續日本紀天平寶字二年の條に、「太政官、惣持2綱紀1、掌2邦國1、如3天施徳生2育萬物1。」とあつて、八省百官をすべ、天下の大政を總理する役所で、今の内閣のやうなものである。太政官の内には、左右辨官、及び少納言の三局があつて、辨官兩局が八省を分管したのであるが、この事は、下で述べる積りです。
太政大臣ダイジヤウダイジン 最高の官で、大寶令に、「太政大臣一人、右師2範一人1。(一人とは、天皇を申すのである。)儀2刑四海1、經邦論道、■(燮の脚を火に:しょう:燮の異体字:大漢和50268)2理陰陽1。無2其人1則闕。」とかいてある。されば、則闕の官とも申して、別に職掌もなく、最も重ぜられたのであるから、皇太子を任ぜられたばかりである。奈良朝には、臣下でなつた者は一人もなく、藤原不比等も、薨去の後、太政大臣を贈られたのである。彼の惠美押勝ヱミノオシカツが、大師タイシ(太政大臣の改稱)となり、弓削道鏡ユゲノダウキヤウが、太政大臣禪師となつたのは、君寵によつたのであるから、例外というてよろしい。平安京となりて、藤原良房が、始めて任ぜられてからは、藤原氏の人々が、打ちつゞいて任ぜられ、後には他家の人も任ぜられたのである。此職を勤めた人は、待遇も別段ちがうてゐて、薨去の後には、諡を下されたのである。不比等文忠公と申し、良房忠仁公と申す類で、大鏡榮華物語などに書いてある。されど、出家した者は、諡の御沙汰はなかつたので、大鏡に、「太政大臣といへど、出家しつるはいみななし。」(いみなは後の諱で、即諡の事である。)とかいてある。東三條兼家御堂道長宇治關白頼通などは、みな出家したのであるから、諡がなかつたのである。
太政大臣のことを、相國シヤウコクとも、大相國ともいうたのは、支那の官名にあてたのである。相國は、秦・漢時代の官職で、三代實録元慶八年五月廿六日文章博士菅原道眞の奏議に、「本朝太政大臣、可2漢家相國等1。」とかいてある。源平盛衰記などに、平清盛の事を、入道相國とかいたのは、太政入道といふのも同じことである。
左大臣サダイジン 大寶令に、「掌2理衆務1、擧2持綱目1判庶事。」と書いてあつて、太政大臣は、職掌なく則闕の官であるから、太政官の政務は、左大臣が統領したのである。
左大臣をイチカミというたので、今鏡「たまづさ」の卷に、「一の上にて、堀河左のおとゞ」と書いてある。一の上とは、職原抄に、「官中事、一向左大臣統領、故云2一上1。」とあつて、伊勢貞方(*伊勢貞丈か)高田與清(*小山田与清。『松屋筆記』等の著あり。)のいうたやうに、一の上卿の略であらう。上卿とは、主となつて御儀式などとり行ふもので、大臣・納言などが勤める事となつて居る。また御儀式の時、節下の大臣といふものや、内辨、外辨といふ役があつて、大臣も勤めるのであるから、ついでに述べませう。
節下セツカの大臣は、御禊の時(大嘗會を行はせらるるによつて、天皇鴨河に行幸なされて、みそぎをなさる儀式)、節旗といふ旗下に立つものをいふのである。
内辨ナイベン外辨ゲベンとは、節會というて、正月元日とか、十五日とかいふ日に、宴を群臣に賜ふ御儀式を行はせらるゝ時、内辨は承明門内で御用を勤め、外辨は承明門外で勤めるので其事が、江次第抄にかいてある。
右大臣ウダイジン 職掌は、左大臣と同じことで、左大臣の闕げた時や、さしつかへて出仕せぬ時には、太政官の政事、宮中の儀式などを總裁する役であるが、左大臣が關白であつた時には、右大臣が政務をとつたのである。この左右大臣と、太政大臣とを總稱して、三公とも、三槐ともいうたのである。
三公は、支那に大師タイシ大傅タイフ大保タイホを三公と稱したから、それによつたのである。職原抄に、「三公者象2天之三台星1也。」と書いてあつて、三台星とは、紫微星を天帝として、其左右に虚精、陸淳、曲順の三台星があるといふ天文から、出でたので、くわしい(*ママ)事は、高田與清紫微三台考に書いてある。かやうに三台星に配したから、また三公を、星の位ともいうたのである。
三槐も、支那の故事で、職原抄に、「三槐者、周世外朝植2三槐1、三公班2列其下1。槐者懷也。懷2遠人1之義也。」とあつて、槐を植ゑて、其下を三公の座席と定めたから、稱號となつたのである。
内大臣ナイダイジン 職掌は、左右大臣と同じ事で、左大臣も右大臣も出仕せぬ場合には、内大臣がかはりて、政務儀式のことをすべつかさどつたのである。この職は、ふるく大寶令以前にあつて、左右大臣の上に位して、中臣鎌足が任じたのであつたが、其後廢せられて、大寶令の制では置かなかつたのである。ところが、光仁天皇の御代、内臣をおいて、藤原良繼魚名(*◆)を任じ、内臣から内大臣にのぼせたので、それから、以後うちつづいて居るが、昔の内大臣とはちがうて、左右大臣の下においてある。またこの職を數の外の大臣とも、カゲナビク星ともいうて居るが、
カズホカの大臣とは、員外大臣の意で、大寶令撰定の後、三公の外に此職を置いたのであるからいうたので、百寮訓養抄(*二条良基)に、「源氏物語にも、數の外の大臣と内大臣をば申したるなり。」と書いてある。
カゲナビクホシとは、内大臣は、員外の大臣なれど、三台星にたとへられた三公に轉任すべき官であるから、名つけたのだと、谷川氏(*谷川士清か。)はいうたので、順徳院御集に、丞相、「みかさ山峯の梢にかげなびく星の位はくもらざりけり」と見え、夫木和歌抄雜十七大臣部に、建保二年内大臣家百首祝、藤原有季朝臣、「代をてらす(*原文「てらて」)かげなびく星の位山なほさかゆかん末も遙に」と見えて居る。
また大臣の事を、むかしはいろ\/にいひかへて、オホイマウチギミ、オホイドノ、オトヾなどと書き、また支那のふるき名稱をかりて、蓮府レンフ槐門クワイモン相府シヤウフなどゝも書いたから、これをも、ついでに述べませう。
オホイマウチギミは、オホキマヘツギミ(*原文「オホマヘツギミ」)の訛つたのである。マヘツギミは、日本紀景行天皇の卷に載せた歌にもある辭で、天皇の御前に候ふ公といふことである。オホキは他の臣下と區別するために、大といふ美稱をつけたのであるが、太政大臣は、なほこの上に、オホキの三字をそへたので、古今集に、「ある人のいはく、前のおほきおほいまうちぎみのうたなり。」と書いてある。オホキの下、マツリゴトの五字を略したのであらう。和名抄には、オホマツリゴトノオホマツキミとかいてあるが、是は、マウチギミを略したのであらう。左右大臣も、此例で、古今集に、東三條の左のおほいまうちぎみと書いてある。
オホイドノは、オホキトノの音便であつて、大殿の意であらう。今鏡「紅葉の御かり」卷に、「御おやの大納言とて、太政のおほい殿おはせしぞ拜し給ひける。」と書いてある。
オトヾは、大殿の義であらう。これも、太政大臣をオホキオトヾといひ、左右大臣を左のオトヾ、右のオトヾといひ、内大臣を、内のオトヾというたのである。三鏡、榮華物語などに、右の大臣などゝ書いてある大臣の字は、大抵オトヾとよむだ(*ママ)のである。
蓮府は、南齊の尚書令王儉の故事によつたのである。徒然草に、「想夫戀といふ樂は、女男をこふる故の名にはあらず。本は相府蓮文字のかよへるなり。晋の王儉、大臣として、家にはちすをうゑて愛せし時の樂なり。これより、大臣を蓮府といふ。」と書いてある。
槐門は、三公を三槐というたのによつたのである。源平盛衰記に、「所謂、重盛など、暗愚無才の身を以て、蓮府槐門の位に至る。」と書いてある。
相府は、丞相府の略で、左右大臣を、左相府右相府といひ、また丞相にそへて、左丞相右丞相ともいひ、略して、左府右府などゝいうたのである。丞相は、秦の時に始めて置いた官職である。
准大臣 大臣に昇進すべき人が、大臣に闕官がないので、暫の間、任ぜらるゝことも出來ないから、それを慰むるために、准大臣の詔を下して、出仕せしむるのである。これを、
儀同三司ぎどうさんしというたのは、藤原伊周が、准大臣となつた時に、自ら儀同三司と稱したので、別に朝廷より下されたのではない。儀同三司とは、もと支那の位階の名稱で、唐の六典

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