修訂 官職要解 全
和田英松(文學博士)
(明治書院 1926.1.20、8版 1939.11.10)
※ 原『官職要解』は、1902年刊(序文参照)。
※ 句読点を若干変更した。明らかな誤植は訂正した。
※ 原文の傍点部は、色を変えた。また、入力者の関心により、色文字にした個所がある。
緒言
目次
1 總説
2 上代
3 奈良時代
4 平安時代
5 武家時代
6 神職僧官位
附録(索引・官職唐名索引)
第四 平安時代
大寶令の官制は、隨分備はつては居るが、其後、世の變遷に從ひ、必要に應じて、新に置かれた官や、不用となつて、或は廢せられたり、或は合併せられた官もあつたので、平安京となつては、餘ほどかはつて居る。殊に、平城天皇御代には、大寶令の官制について、大修正を施され、宇多天皇の御代までは、時々改正せられたので、關白、藏人所、檢非違使廳など新に置かれ、寮司の廢せられたり、合併せられたのが隨分多い。其他、諸使、諸所、院司など、新に置いたものも尠くない。また後宮の職員、及び東宮、親王づきの官職、地方官なども、よほどかはつて居る。醍醐天皇の御代、延喜式を發布せられてから以後では、あまり廢置分合はなかつたのである。また、この時代では、公卿、殿上人、地下などいうて、官人の階級をたてたり、後には、攝家、清華、諸大夫などいうて、家筋によつて、官途昇進の規定をたてたので、やゝ世職世業の傾きとなつた。そこで、武家が、政權をとるやうになつてからは、この官職は、大かた有名無實となつたのであるが、別に變更したり、廢絶したり、合併した事もなく、明治維新まであつたのである。これから、神祇官以下を、別々に述べる積りでありますが、其前に、官職の大たいにわたつて居る任免などについての名稱や、四部官の事を述べておきます。まづ官職を任ずる儀式を除目といふ。除は故官を除去して新官に就く事で、目は題目を記録する意である。除目に二種あつて、一を司召といひ、一を縣召といふ。司召は、京官を任じ、縣召は國司などを任ずる儀で、召とは、江次第(*大江匡房「江家次第」)の注に、「召名之義也。」というてある。それから、官職に任ぜらるゝ事を、任官とも、拜任ともいふ。日本紀に、拜の字、任の字をマケとよみ、萬葉集に、「大君のまけのまに\/」とあるマケをば、マカセの意だといふ説もあるが、大宰帥や國司が、赴任するとき、御暇に參内する儀を、罷申というたのであるから、本居翁の説の如く、マケは、「令レ罷」の約つたのであらう。補といふのは、闕を補ふといふ意で、大臣に任ずべき人に、豫め其由を仰せ下される宣旨を賜ふを、兼宣旨といひ、また召仰ともいふ。また、右大臣より左大臣に登り、少領より大領にうつる類、順序によつて進むのを轉任といひ、諸司の官から、諸寮の官にうつり、文官から武官にかはり、地方官から京官になる類を遷任といふ。別に希望しないのに、上より推して任ずるを推任といふ。一人で二つの官を持つて居るのを、兼任とも、兼帶ともいひ、また、兼官ともいふ。公文などに署名する時は、兼の字を入れる例であるが、物語文などには、兼ねる事をカケともいうたので、源氏物語浮舟の卷に、「しるべの内記は、式部の少將かけたる云々」、大鏡に、「道綱ときこえて、大納言までなりて、右大將かけ給へり。」とかいてある。されば、兼官をばカケツカサというたので、空穗物語(*宇津保物語)に、「右大辨、かけつかさを右近少將、式部少輔、文章博士、春宮のがくし、うち、とうぐう、院の殿上ゆるされたり。」とかいてある。また一度辭職してのち、再びもとの役に任ずるのを再任といひ、還任、還補ともいふ。
過失、其他の事によつて、一時官をやめられるのを、停任といひ、父母の喪に遭うた時は、服解というて、一時官をとかれ、除服になると、復任というて、原職に復したのである。また何か罪を犯したり、其他の事情によつて、官職をやめられたのを解官といふ。老年に及び、官を辭して退くのを致仕というたのである。選叙令に、「凡、官人年七十以上聽2致仕1。」と見え、源氏物語若菜卷に、「おほきおとゞ、ちしの表奉りて、こもりゐ給ひぬ。」とかいてある。この外、延任、重任、復辟、逆退、叙留などいふ事があるが、これは追々に述べる積りであります。
四部官の事は、大寶令官制のところでも、ちよつと述べたのですが、これは、どの役所でも、役人を四等にわけて、長官、次官、判官、主典にわりあてたので、長官は役所を總べ掌り、次官はこれを補佐し、判官は役所内を糺判し、書類を審査し、稽失(*しくじり)を勘へ(*調べる・糺問する)、主典は事をうけて登録し、書類案文を勘へ造り、公文を讀むのである。役所によつて、各文字がちがうても、長官をカミ、次官をスケ、判官をゼウ、またはマツリゴトヒト、主典をサクワンというたのである。なほ諸役所に配當した表を左にあげておきます。
|
神祇官 |
太政官 |
省 |
坊職 |
寮 |
司 |
後宮諸司 |
署 |
臺 |
近衞府 |
衛門府 兵衞府 檢非違使 |
鎭守府 |
太宰府 |
國司 |
郡司 |
齋院司 勘解由使 鑄錢司 造寺司 施藥院使 修理宮城使 防鴨河使 |
長官 |
伯 |
太政大臣 左大臣 右大臣 |
卿 |
大夫 |
頭 |
正 奉膳 |
尚− |
首 |
尹 |
大將 |
督 別當 |
將軍 |
帥 |
守 |
大領 |
長官 使 |
次官 |
副 |
大中納言 |
輔 |
亮 |
助 |
典膳 |
典− |
|
弼 |
中少將 |
佐 |
副將軍 |
貳 |
介 |
少領 |
次官 |
判官 |
佑 |
辨 少納言 |
丞 |
進 |
允 |
佑 |
掌− |
佑 |
忠 |
將監 |
尉 |
軍監 |
監 |
椽 (*掾) |
主政 |
判官 |
主典 |
史 |
史 外記 |
録 |
屬 |
屬 |
令史 |
|
令史 |
疏 |
將曹 |
志 |
軍曹 |
典 |
目 |
主帳 |
主典 |
これ等の官職は、位階を標準として、補任するのであるから、俸給手當の如きも、位階によつて支給せられたのである。官職に對しては、別に俸祿支給の規定はない。中には、職田、職封を下賜したのもあり、また上日(*旨か。)によつて、時服を給ひ、節録というて毎年正月元日、七日、十六日、九月九日、新甞會等に參列したものに、絹や綿を賜ふ事がある。繁劇の職には、特に要劇料、要劇田を支給し、史生使部等、下級のものには、大粮と稱し、日々の食料として、米鹽を與へて居る。
これから、官省職寮以下を順次述べるに就き、まづ諸官省のある宮城の略圖を掲げておきます。
一 神祇官
神祇の祭典を掌り、全國の祝部(神官)を支配する役所で、宮城の内、郁芳門の南掖にあつた。最重きものとしてあつて、職原抄(*北畠親房 1340)にも、「以2當官1置2諸官之上1。是神國之風儀。重2天神地祇1故也。」と書いてある。
伯 長官で、字音のまゝにハクとよむ。宇治拾遺物語卷三に、「はくの母、常陸へかくいひやり給ふ。」とある類で、物語、歌集などに、たゞはくとばかり書いてあるのは、みなこの神祇伯のことをいうたのである。この職、昔は諸氏の人を任ぜられたのであつたけれども、花山天皇の皇子清仁親王の御子延信王を神祇伯となされてからは、代々、其子孫が世襲することとなつたのである。たゞし王氏と申して、別に姓もなく、何々王と申したので、後に白川家と申すのは、即ちこの家である。伯の下に、
大副、權大副、少副、權少副、大祐、少祐、大史、少史、神部、卜部などの役があつて、それ\〃/事務をとりあつかうたのである。その中でも、大副、少副は、中臣、齋部、卜部の三氏のものがなり、神部は、忌部、中臣を用ひ、卜部は、卜術優長の者で、伊豆から五人、壹岐から五人、對馬から十人とつたのである。また、宮主、御巫、戸坐といふ職もあつた。延喜式に、宮主は、卜部事に堪へたる者を取つて任ずといひ、御巫は、庶女の事に堪へたるものをとつて任ずといひ、戸坐は、七歳以上の童男を卜定したとかいてある。
二 攝政關白
攝政 天子に代りて、萬機の政をすべ掌る職である。攝は、攝行の意で、字書に、「總也。兼也。代也。」と書いてある。この職は應神天皇が、まだ幼年でゐらせられたから、御母神功皇后が、攝政なされたのが始である。また推古天皇の御代に、聖徳太子が攝政なされ、齊明天皇の御代に、中大兄太子(天智天皇)が攝政なされた類で、昔は、皇后・皇太子の外は、其例がなかつた。ところが、清和天皇の御代に至つて、天皇が御幼少でゐらせられたから、外祖父藤原良房が攝政したので、これが臣下で攝政した始めである。これから後は、自ら職名となつて、藤原氏一門の職となつたのである。
關白 天子を輔佐し、百官を總べて、萬機の政を行ふ職である。攝政は、幼帝の時の職で、成人なされてからは、關白となる例である。此職は、元慶八年六月五日、光孝天皇より、太政大臣藤原基經に下された勅語に、「自2今日1官廳爾坐天就天、萬政領行比、入輔2朕躬1、出總2百官1倍之、應レ奏之事、應レ下之事、必先諮稟與、朕將2垂拱仰1レ成止宣御命乎、衆聞給止宣。」と三代實録に書いてあるのが始である。關白の字は、漢書宣帝紀に、「諸事皆先關2白光1(霍光)、然後奏2御天子1。」とあるによつたので、宇多天皇仁和三年十一月廿一日、基經に下された詔書に、「萬機巨細、百官總已。皆關2白於太政大臣1、然後奏下。一如2舊事1。」と、政事要略に書いてあるのから出たので、これより、自ら職名となつて、藤原氏の職となつたのである。後には、道長の子孫ばかりで、攝政關白をうけつぐやうになり、鎌倉時代よりは、その子孫が、近衞、鷹司、九條、一條、二條、五家に別れて、交替して、なつたので、これを五攝家と申したのである。攝政關白は、大かた大臣たるものが兼ねる例であるが、中には、大臣の職を辭してからなつたものもあつて、攝政關白たるものは、必ず藤氏長者を兼帶する例である。なほ氏長者の事は、職原抄別記にあるから見るがよろしい。
攝政は、女帝、或は幼帝の時ばかりで、御元服なされてからは、關白となるのであるが、その時は、まづ攝政を辭したので、これを、復辟といふ。官職難義(*原文「難儀」を改める。)に、「攝政を辭し申さるゝをば、攝政復辟の奏と申す也。復はかへす也。政を君に返すと申すこゝろなり。」とあるが、これは、尚書洛誥に、「周公拜手稽首曰、朕復2子明辟1云々、」註に、「周公盡レ禮致レ敬言、我復2還明君政1、子成王、年二十成人、故必歸レ政而退老。」とあるによつたのである。攝政關白も、むかしは、種々の名稱があつて、一の人、一の所、攝■(竹冠+録:りょく・ろく:文籠・本箱・道家の秘文:大漢和26734)、執柄、博陸などいうて居る。また前の關白を、太閤、禪閤ともいうたのであるから、これをも述べませう。一の人とは、攝政關白たる人は、官の順によらず、第一の座席についたのであるから、職原抄に、「執柄必蒙2一座之宣旨1。故稱2一人1又云一所。」とかいてある。たとひ内大臣にても、關白でさへあれば、太政大臣より上席についたのである。一座とは上席の意で、十訓抄天慶の亂論功の條に、「其時小野宮殿は一座にて、」と見え、平治物語光頼參内の條に、「信頼卿一座して、其座の上臈たち、皆下にぞつかれける。」とかいてある。
一の所も、一の人と同じ意である。枕草子「くるしげなる物」の條に、「一の所に時めく人、えやすくはあらねど、それよかめり。」とある類で、續古事談にもかいてある。
攝■(竹冠+録:りょく・ろく:文籠・本箱・道家の秘文:大漢和26734)は、また、攝録とかいたのもある。録は、すぶる意で、尚書舜典に、「納レ舜使レ大2録萬機之政1。」と見え、日本紀推古紀に、「立2厩戸豐聰耳皇子1爲2皇太子1、仍録2攝政1、以2萬機1悉委焉。」とある録攝政を、マツリゴトトリフサネカハラシムともよむだ(*ママ)ので、即ち天子に代りて、萬機の政を總べ掌る意である。これを音便に、セウロクともよむだので、増鏡「秋のみ山」の卷に、「せうろくもしあへ給はざりしにより、」と書いてある。執柄は、政柄を執る意で、博陸は、攝政關白の始としてある漢の霍光を、博陸侯と申したから、それによつたのである。
かやうに、關白は百官をすべ、萬機の政を行ふものであるから、關白でなくても、權力のあるものをさして、關白というた事もあつたので、顯隆中納言が、白河法皇の御寵愛をうけて、權威があつたから、當時の人に、夜の關白とよばれた事が、今鏡に見え、源平盛衰記に、「太政入道(平清盛)、萬事申合せつゝ、天下を我儘にとり行ひければ、時の人、平關白とぞ申しける。」と見え、十訓抄に、成就院僧正寛助の事を、「鳥羽院の御時は、生佛とおぼしめしければ、世を我まゝにして、法師關白とまで、いはれ給けり。」とかいてある。
また攝政關白の事を、家々の日記や、拾芥抄には、殿下と書いてある。前の攝政關白を、大殿と申す事は、小右記に、「大殿、是前攝政也。世號2大殿1。」とあつて、今鏡、増鏡などにも書いてある。太閤は、字書に、門下省の長官を閤老とあるから、太閤老の略語だと、名目抄注にかいてあるが、是は太閤下の略語である。太閤下の名目は台記(*藤原頼長)に見えて、關白を辭してから、其子が關白となつた時の稱號で、小右記などにも書いてある。禪閤は太閤の出家したのを申したので、禪定太閤を略したので、詳しい事は、官職難義、太閤禪閤考などに書いてある。但し在職中太閤と稱した事もあつたので、其例が西宮記(*源高明)に見え、左經記(*源経頼 1016-36)には、關白太閤とかいてある。
攝政關白の妻は、宣旨を下されて、北の政所というたのです。政所は、マンドコロとよむので、内政をとるといふ意である。また攝政關白の母儀を、大北の政所ともいひ、略して大政所というたのである。増鏡に、近衞經平公の母を近衞大政所と書いてある。豐臣秀吉も、關白であるから、母を大政所といひ、妻を北政所と申したのである。
准攝政 天皇が、已に成年にならせられても、御病氣にゐらせられたり、他に事情ある時には、政務・儀式の中、或る部分を、攝政に准じて行ふべき宣旨を下されたのであつて、定まつた職名ではない。藤原道長が内覽であつた時に、三條天皇が、御病氣でゐらせられたから、攝政に准じて、叙位、除目を行ふべきよし宣下せられたことが、百練抄(*編者未詳)にかいてある。後には、攝政を辭して關白となつた時に、重んじて准攝政の宣旨を下されたもので、高倉天皇の時、關白基房を准攝政になされたことが、公卿補任、玉葉(*九条兼実)などに書いてある。なほ官職難義にも見えて居ります。
内覽 太政官より、文書を奏聞する前に、内見する役で、關白には、必内覽の宣旨を下されたのである。關白でなくても、内覽の宣下ばかりあつたのもあつて、關白と同じやうに、萬機の政を行うたのであるから、大鏡、榮華物語などには、「天下執行の宣旨」とも、「天下及び百官執行とある宣旨下りぬ。」とも書いてある。伊周、頼長は、關白でなくて、内覽の宣旨を下され、兼通は、中納言で内覽の宣旨を下されたことが、愚管抄に書いてある。道長も、一條・三條兩代二十二年間は、内覽であつて、關白にはならないのであつたが、三條天皇の末、長和四年准攝政となり、翌年後一條天皇の御即位があつて、始めて攝政となつたのである。
三 太政官
ダイジヤウクワンとよむ。また官ノツカサともいうたので、枕草子「はしたなきもの」ゝ條に、「二月くわんのつかさに、かうぢやうといふ事するは、何事にやあらん。」と見え、和名抄には、オホイマツリゴトノツカサとよみ、支那の官名にあてゝ、尚書省、鸞臺、蘭省ともかいたのである。役所は、八省院の東、宮内省の西で、今の京都府監獄署の中心の處にあつたのです。續日本紀天平寶字二年の條に、「太政官、惣持2綱紀1、掌レ治2邦國1、如3天施レ徳生2育萬物1。」とあつて、八省百官をすべ、天下の大政を總理する役所で、今の内閣のやうなものである。太政官の内には、左右辨官、及び少納言の三局があつて、辨官兩局が八省を分管したのであるが、この事は、下で述べる積りです。
太政大臣 最高の官で、大寶令に、「太政大臣一人、右師2範一人1。(一人とは、天皇を申すのである。)儀2刑四海1、經レ邦論レ道、■(燮の脚を火に:しょう:燮の異体字:大漢和50268)2理陰陽1。無2其人1則闕。」とかいてある。されば、則闕の官とも申して、別に職掌もなく、最も重ぜられたのであるから、皇太子を任ぜられたばかりである。奈良朝には、臣下でなつた者は一人もなく、藤原不比等も、薨去の後、太政大臣を贈られたのである。彼の惠美押勝が、大師(太政大臣の改稱)となり、弓削道鏡が、太政大臣禪師となつたのは、君寵によつたのであるから、例外というてよろしい。平安京となりて、藤原良房が、始めて任ぜられてからは、藤原氏の人々が、打ちつゞいて任ぜられ、後には他家の人も任ぜられたのである。此職を勤めた人は、待遇も別段ちがうてゐて、薨去の後には、諡を下されたのである。不比等を文忠公と申し、良房を忠仁公と申す類で、大鏡、榮華物語などに書いてある。されど、出家した者は、諡の御沙汰はなかつたので、大鏡に、「太政大臣といへど、出家しつるはいみななし。」(いみなは後の諱で、即諡の事である。)とかいてある。東三條兼家、御堂道長、宇治關白頼通などは、みな出家したのであるから、諡がなかつたのである。
太政大臣のことを、相國とも、大相國ともいうたのは、支那の官名にあてたのである。相國は、秦・漢時代の官職で、三代實録元慶八年五月廿六日文章博士菅原道眞の奏議に、「本朝太政大臣、可レ當2漢家相國等1。」とかいてある。源平盛衰記などに、平清盛の事を、入道相國とかいたのは、太政入道といふのも同じことである。
左大臣 大寶令に、「掌下統2理衆務1、擧2持綱目1總中判庶事上。」と書いてあつて、太政大臣は、職掌なく則闕の官であるから、太政官の政務は、左大臣が統領したのである。
左大臣を一の上というたので、今鏡「たまづさ」の卷に、「一の上にて、堀河左のおとゞ」と書いてある。一の上とは、職原抄に、「官中事、一向左大臣統領、故云2一上1。」とあつて、伊勢貞方(*伊勢貞丈か)、高田與清(*小山田与清。『松屋筆記』等の著あり。)のいうたやうに、一の上卿の略であらう。上卿とは、主となつて御儀式などとり行ふもので、大臣・納言などが勤める事となつて居る。また御儀式の時、節下の大臣といふものや、内辨、外辨といふ役があつて、大臣も勤めるのであるから、ついでに述べませう。
節下の大臣は、御禊の時(大嘗會を行はせらるるによつて、天皇鴨河に行幸なされて、みそぎをなさる儀式)、節旗といふ旗下に立つものをいふのである。
内辨、外辨とは、節會というて、正月元日とか、十五日とかいふ日に、宴を群臣に賜ふ御儀式を行はせらるゝ時、内辨は承明門内で御用を勤め、外辨は承明門外で勤めるので其事が、江次第抄にかいてある。
右大臣 職掌は、左大臣と同じことで、左大臣の闕げた時や、さしつかへて出仕せぬ時には、太政官の政事、宮中の儀式などを總裁する役であるが、左大臣が關白であつた時には、右大臣が政務をとつたのである。この左右大臣と、太政大臣とを總稱して、三公とも、三槐ともいうたのである。
三公は、支那に大師、大傅、大保を三公と稱したから、それによつたのである。職原抄に、「三公者象2天之三台星1也。」と書いてあつて、三台星とは、紫微星を天帝として、其左右に虚精、陸淳、曲順の三台星があるといふ天文から、出でたので、くわしい(*ママ)事は、高田與清の紫微三台考に書いてある。かやうに三台星に配したから、また三公を、星の位ともいうたのである。
三槐も、支那の故事で、職原抄に、「三槐者、周世外朝植2三槐1、三公班2列其下1。槐者懷也。懷2遠人1之義也。」とあつて、槐を植ゑて、其下を三公の座席と定めたから、稱號となつたのである。
内大臣 職掌は、左右大臣と同じ事で、左大臣も右大臣も出仕せぬ場合には、内大臣がかはりて、政務儀式のことをすべつかさどつたのである。この職は、ふるく大寶令以前にあつて、左右大臣の上に位して、中臣鎌足が任じたのであつたが、其後廢せられて、大寶令の制では置かなかつたのである。ところが、光仁天皇の御代、内臣をおいて、藤原良繼魚名(*◆)を任じ、内臣から内大臣にのぼせたので、それから、以後うちつづいて居るが、昔の内大臣とはちがうて、左右大臣の下においてある。またこの職を數の外の大臣とも、カゲナビク星ともいうて居るが、
數の外の大臣とは、員外大臣の意で、大寶令撰定の後、三公の外に此職を置いたのであるからいうたので、百寮訓養抄(*二条良基)に、「源氏物語にも、數の外の大臣と内大臣をば申したるなり。」と書いてある。
カゲナビクホシとは、内大臣は、員外の大臣なれど、三台星にたとへられた三公に轉任すべき官であるから、名つけたのだと、谷川氏(*谷川士清か。)はいうたので、順徳院御集に、丞相、「みかさ山峯の梢にかげなびく星の位はくもらざりけり」と見え、夫木和歌抄雜十七大臣部に、建保二年内大臣家百首祝、藤原有季朝臣、「代をてらす(*原文「てらて」)かげなびく星の位山なほさかゆかん末も遙に」と見えて居る。
また大臣の事を、むかしはいろ\/にいひかへて、オホイマウチギミ、オホイドノ、オトヾなどと書き、また支那のふるき名稱をかりて、蓮府、槐門、相府などゝも書いたから、これをも、ついでに述べませう。
オホイマウチギミは、オホキマヘツギミ(*原文「オホマヘツギミ」)の訛つたのである。マヘツギミは、日本紀景行天皇の卷に載せた歌にもある辭で、天皇の御前に候ふ公といふことである。オホキは他の臣下と區別するために、大といふ美稱をつけたのであるが、太政大臣は、なほこの上に、オホキの三字をそへたので、古今集に、「ある人のいはく、前のおほきおほいまうちぎみのうたなり。」と書いてある。オホキの下、マツリゴトの五字を略したのであらう。和名抄には、オホマツリゴトノオホマツキミとかいてあるが、是は、マウチギミを略したのであらう。左右大臣も、此例で、古今集に、東三條の左のおほいまうちぎみと書いてある。
オホイドノは、オホキトノの音便であつて、大殿の意であらう。今鏡「紅葉の御かり」卷に、「御おやの大納言とて、太政のおほい殿おはせしぞ拜し給ひける。」と書いてある。
オトヾは、大殿の義であらう。これも、太政大臣をオホキオトヾといひ、左右大臣を左のオトヾ、右のオトヾといひ、内大臣を、内のオトヾというたのである。三鏡、榮華物語などに、右の大臣などゝ書いてある大臣の字は、大抵オトヾとよむだ(*ママ)のである。
蓮府は、南齊の尚書令王儉の故事によつたのである。徒然草に、「想夫戀といふ樂は、女男をこふる故の名にはあらず。本は相府蓮文字のかよへるなり。晋の王儉、大臣として、家にはちすをうゑて愛せし時の樂なり。これより、大臣を蓮府といふ。」と書いてある。
槐門は、三公を三槐というたのによつたのである。源平盛衰記に、「所謂、重盛など、暗愚無才の身を以て、蓮府槐門の位に至る。」と書いてある。
相府は、丞相府の略で、左右大臣を、左相府、右相府といひ、また丞相にそへて、左丞相、右丞相ともいひ、略して、左府、右府などゝいうたのである。丞相は、秦の時に始めて置いた官職である。
准大臣 大臣に昇進すべき人が、大臣に闕官がないので、暫の間、任ぜらるゝことも出來ないから、それを慰むるために、准大臣の詔を下して、出仕せしむるのである。これを、
儀同三司というたのは、藤原伊周が、准大臣となつた時に、自ら儀同三司と稱したので、別に朝廷より下されたのではない。儀同三司とは、もと支那の位階の名稱で、唐の六典
緒言
目次
1 總説
2 上代
3 奈良時代
4 平安時代
5 武家時代
6 神職僧官位
附録(索引・官職唐名索引)