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平賀鳩溪實記 卷之一

撰者不詳 竹窓櫟齋? 1788頃
*内藤耻叟・小宮山綏介 標註『[近古/文藝]温知叢書』第4編
(博文館 1891.4.23)中の一編。
*同書所収作品「閑なるあまり・野叟獨語・寛天見聞記・
平賀鳩溪實記・くせ物語・淨瑠璃譜・紫のゆかり・浮世繪類考」

※段落を設け、句読点を改め、引用符等を任意に施した。

 序・目録  巻2  巻3  巻4  巻5

 1 平賀源内幼年奇才の事  2 源内讚州退去の事  3 源内大坂にて評判の事
 4 源内京都にて白人白糸へ馴染事  5 源内三井八郎右衛門へ對面の事

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1 平賀源内幼年奇才の事

平賀源内名は國倫(くにとも)、字は士彝(しい)、號を鳩溪といふ。讃州の人也。父を平賀定右衛門と云て、讃州■(危の垂/矢::「侯」の別体:大漢和)の足輕也。源内幼年の時より、同家中眞田宇右衛門と云物頭役の方へ茶坊主に奉公して、十歳の時は休意と云。才智賢くして發明なる生れ故、宇右衛門も不便をかけて召仕ひけり。或時宇右衛門縁側に出て夕飯を喰れし時、折節夏の夕暮れなれば、大なる蛇出て庭前を這廻る。宇右衛門遙に見やりて「珍敷蛇なる哉。是こそ漢の張仲景が論ぜし金蛇成らめ。今庭前の蛇、金色の光有るは和漢と土地は隔つとも、功能におゐては違ふまじ。誰ぞ打殺べし。」と下知せらる。休意は纔に十歳の小坊主なれば恐るべきを、自若として詠(ながめ)居たり。家來ども大勢驅(かけ)集り、方々と追廻し、已に打殺さんとする時、休意走り寄て聲をかけ、「打殺事なかれ。惣じて生るものを打殺せば、殺氣集りて毒氣を生ずると承りたり。去によりて紅毛の藥は、生るまゝにて油へひたし、生たる時の生氣を油へ取て、自然に殺す故、怒氣なく毒氣を生ぜず。しかれば此蛇器へ入れて、油を以て殺べし。」と云ければ〔好一箇寧馨兒〕、「小兒の一言ながら發才の言葉也。」と感じ、「早速油壺へ入べし。」と、胡麻の油を壺に入て持來れば、人々恐れて棒の先にて追入んとするを、休意大に笑ひ、「藥となれば一人の益に非ず、國の調寳なり。然るに何ぞや、一人の怪我を恐んや。」とて、蛇の眞中をむづと掴み、何の苦もなく油へ打込、蓋をして、主人宇右衛門の前へ持來る。「聊なる事と言ながら、幼少の働亦は國益を思ふ一言、實に恐るべき小兒也。」と、皆々感じける。主人宇右衛門も感じ入、油壺の蓋を取りて見んとせられしを、休意押止めて申けるは、「蛇未だ死切るまじ。御覽は御無用なり。惣じて生あるものもゝ(*ママ)情として、生を喜び死を愁るは天性自然の生質なり。和漢其例多し。死に臨んで其氣を受、恨を果せしこと有。眉間尺とやらは首斗りにて、楚王の命を取しと聞く。小虫なりとも侮るべからず。」と制しければ、宇右衛門始驚入り、「扨々發明なる小僧哉。」と、或は驚き或は感じ、彌不便を加へて仕れけり。それよりして一家中評判して「天狗小僧」と異名を附しとぞ。

十五歳の時惣髪となり、主人宇右衛門へ申けるは、「私儀幼少より御厚恩を蒙りし段父母よりも深く、何卒一度は此御恩謝し奉り度存る也。乍去私親は輕き者にて、御恩を報ずべき寄處(よすが)なし。私儀は惣領ながら父の家督に望なし。弟万五郎へ跡式を遣し、私儀は他家へ稼ぐべし。是もまた身を立る一助なれば、孝道にも叶ふべし。夫に付恐れ多く候得共、何卒御暇下され候樣に。」と、一向に願ければ、宇右衛門は殊の外に惜まれければ、容易に返答もなかりしが、或時殿中にて家老職へ物語り申されけるは、「拙者方に召仕ひ候、毛坊主平賀休意と申者御座候。甚だ發才なる生立にて、御役にも可立者なり。當年十五歳に罷成候。何卒御手醫師方へ預置、醫學を爲致申たし。」と申されければ、家老職の面々申けるは、「かれは一家中評判いたす天狗小僧の事成や。」と問れければ、「成程秀才故、一家中の面々天狗小僧と申由承及候。」「夫なれば聞及たる者なり。御手醫師の内植村徳菴こそ本草にも達したる醫師なれ。彼へ預申べし。」と、家老職の差圖に任せ、宇右衛門休意へ被申けるは、「其方事度々暇を願ふといへども、我ら合點不致は其方が才を惜で也。しかれども我方へ留るも却て其方が出世の障りなり。その方常々學文を好むこそ幸ひなれ。御手醫師植村徳菴こそ上手なるよし風聞あり。其上學才も有由なれば、彼に隨身して名醫となり、父母の名をも顯すべし。已に汝が事を家老中へも披露したり。」と申しければ、休意申けるは、「段々御厚恩なし下され有難き次第なり。去ながら醫者は長袖にして僧侶に等し。私輕き身分なれども、親は御供先をも相勤候て、武役の數にも加る事に候。しかるに私儀は、僧徒同然の長袖と相成候事、誠に言甲斐なきやうにぞんずるなり。此上の御情に此儀は偏に御免を蒙りたし。」と、一向に申ければ、宇右衛門も理の當然に詮方なく、「然らば別に工夫有べし。」と、又々家老へ申しけるは、休意事兎角侍になりたき望なり。如何いたし申べきや。」といひければ、「さて\/奇特なるもの哉。左あらばとて足輕の忰侍分には取立難し。先々しばらくは藥苑掛りの足輕に申付べし。」と。それよりして宇右衛門へ、表向より奉書來て申渡されけるは、「其方かたに幼少より勤し休意事、秀才の段一家中評判なり。此上とも學問出精油斷なく致さすべし。又其内に藥艸等をも見習はしむべき爲、藥苑を預けをく足輕組に申付るなり。」と申來れば、宇右衛門此段を休意に申聞ければ、「有難し。」と御請いたし、平賀源内と改名して、當分宇右衛門屋敷より奉公を勤めしとかや。誠に源内が生立、古今の秀才といふべき歟。

評に曰、休意十五歳の時、元服して源内と改名して、和漢の書に眼を晒しけること、主人宇右衛門方に同居して勤し事は不審。親定右衛門方同居にて勤し事疑ひなし。如何といふに十六歳の時、沒して喪を勤しといふ。是を見れば父と同居分明也。

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2 平賀源内讚州退去の事

〔没年より逆算するに此年は寛延2年なるべし。〕源内は主命據なく、藥苑を預りて光陰を送る事五年に及んで、源内はや二十歳也。或時源内思案しけるは、「かく藥苑を預りて光陰を送るといへども、我れ高名を揚る事能はず。人の下に附て腰を屈せん事淵明が耻し所也。志を立ん者は下に屈するとも將軍の御膝元にて功を天下に顯さば、不朽の大功なるべし。」と了簡して、先病氣と申立勤番所を引込、書籍に枕して一年斗過しける。久々病氣の事なれば、宇右衛門も心許なく、或時見廻として源内が宅へ趣きしに、源内長髪にて案上に書物を置、誠に起居不自由の躰なり。宇右衛門「如何に源内關羽は毒矢を拔せるに春秋を讀しと聞く。其方病中の苦しき、何を以て助るや。」と問ければ、源内申しけるは、「私儀苦敷を助候には、管子を友といたすなり。」と云ければ、宇右衛門はものをもいはず居たりける。暫あつて源内宇右衛門へ申けるは、「私儀永々の病氣、誠に奉公仕候間もなく、引籠候事甚以て殘念なり。病苦據なしとはいへど、主君へ對し奉り不忠なり。とても早速の全快は難計、弟萬五郎へ跡式をゆづり、私儀は引込申べく。」と言ければ、宇右衛門も學才の達したる者なれば、「中\/小諸侯の幕下に居べき器量に非ず。」と心付ける故、「成程尤の事也。長病の事右の願尤也。」と同意して、役人まで「弟萬五郎に家督相續仕らせ度」よし願書を出しけり。これによりて役人どもうちよりて評議しけるは、「おしき人物なれども、永々の病氣止事なし。」といふ者もあり、又源内が内存を察したる者は、「憎きものゝいたし方。」と評議まち\/也けれども、「奉公の役に立ぬ者、無益の論也。」と評議一決して、弟萬五郎へ家督被2申渡1けり。夫よりして源内養生といひふらし、肥前の國長崎へ遊行し、小通辭彭城(さかき)東吉といふ者の方へ便りて、唐人屋敷へ入込ける。「近年唐人持來の藥種に僞物多く有て、京大坂の藥種屋ども、大きに損毛せし事あり。」と聞て、右の賣買の席へ通辭と同道して、萬端批判し僞物を見出して戻しければ、南京北京の商唐人共、源内が藥種にくはしきを感じ、僞物を持渡る事、其年より止ければ、長崎御奉行にも大に感じ、「長崎の醫師ども・通官の者ども、源内へ便りて本草等に熟すべし。」と申渡されける。爰に長崎出生の儒者に、渡邊忠藏(*高階暘谷)といへる者あり。古學に長じて博識なるものなり。源内が此度長崎にて評判の能きを聞、「何とも合點ゆかぬ事哉。此源内讚州の生なるよし。官を退て浪人し、今長崎へ來て藥種の眞僞を沙汰する事、何ともふしん也。如何となれば、何故に源内が藥種の眞僞を改に來るべき。これ全く藥物をせぐり出し、己が功にほこらんとする利欲の爲なり。愛すべき人物にあらず。」と常々物語りしたりける。或時源内が著述せし王覇論といふ書物を見て、大にわらひ申けるは、源内韓非子を好んで讀と見へ(*ママ)たり。文章は古文辭を學びしときゝしに、中々古文辭にてはさらになし。四六の切拔文章なり。」と笑ひしより、忠藏の弟子ども源内を信仰せず。評判宜しからざれば、紅毛(おらんだ)の通辭へ便りて蠻語を學び、或は蠻國の珍器を求得て、おのが工夫をこらし、才に任せて工しゆへ、細工に於ては紅毛人も舌を卷けると也。忠藏も右の細工には感心し、「學問は兎も角も誠に奇才の人物なり。」と評判しける故、再び評判直りしとなり。此以後は源内も學問沙汰を止め、一向紅毛の細工へのみ心をよせければ〔好一個可憐漢〕、種々の珍寳集りて、歸國の節は諸道具等實に夥しき事也。夫よりして國元へ戻り、宇右衛門并弟萬五郎へも暇乞して行ん。」と、江戸堀竹屋町五郎兵衛といふものゝ座敷をかり逗留の内紅毛の細工を人に見物させ、富貴なる町家と心易くなりけるとかや。

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3 平賀源内大坂にて評判の事

源内は大坂へ出張して、富貴の町人へ心易出會せしが、或時中島屋喜四郎といへるものへ申けるは、「我等事讚州出生にて、若年にて所々遍歴して、國數は見ずといへども、西國の地理は盡せり。然るに備後國の土地を見るに砂糖には最上の土地なり。貴殿には砂糖商賣の事なれば、定て土地の善惡は御存知なるべし。」と、風と物語りしければ、喜四郎申けるは、「尤砂糖の上品は兎角漢土でなければ宜しからず。日本製の砂糖は甘味薄くして上白の色なし。甚だ下品也。」と云。源内申けるは「左もあるべし。尤ながら砂糖の土地は砂塲が上品なり。然るに南京の土地は砂塲少し。しかれども砂糖におゐては至極上品なり。左すれば土地斗にてもなし。養ひ方第一なり。土地の宜しき方を見立、砂糖を植付養ひ方を法の通りにいたさば、日本にても上品の砂糖出來すべきは必定なり。其許其志しあらば、備後國にて田地を求め、砂糖を植付給ふべし。我等製法すべし。上品の砂糖出來なば大なる利益なり。」と申ける。〔源内果非徒大言欺人者。〕喜四郎富る人なれば「夫は安き事なり。幸ひ備後の國には我等遠縁のものあり。早速畑をもとむべし。」と、飛脚を以て申し遣しける。備後にては樣子は知らねども、急ぎ能畑地を求て喜四郎方へ知らせければ、喜四郎源内へしか\〃/の物語りして、旅用意して源内と同道して備後の國へ赴き砂糖を植付ける。源内喜四郎へ砂糖の養ひ方を傳授して所々一見して又大坂へ戻りける。これ全く喜四郎へ利徳を付て金銀を自由に爲すべき階梯なり。砂糖の製法左に記す。

鳩の糞 (蜜を交四五日置、日に干て細末にして砂糖を植べき砂へ交て栽るなり。)
甘艸 (砂糖の木二三寸も延たる時分、水にとき根に懸る事、毎日二三度三十日斗如此すればよし。)

右のごとく製法して、能々小石を拾ひ出し、其上にて毎日夕方水少しづゝ根へ懸る也。扨喜四郎源内が砂糖の傳授を得て、程なく砂糖成就したり。其味實に蜜の如く、色は太白にして、渡り砂糖に少も相違なし。喜四郎は大きに悦び、大坂表へ戻りて源内へしか\〃/の物語して、謝禮として金子百兩源内江(*へ)贈りける。源内は大きに立腹して、「扨々貴殿は不埒なる人なり。此傳授を金にせんと存るならば、何ぞ人へ教へ申さん。貴殿と心易きに任せて傳授せし事なり。しかるに金銀を以て謝禮とは、人を馬鹿にいたしたる仕方なり。早々持歸るべし。」と、大きに立腹しける故、喜四郎も耻入りて「しからば仰に任すべし。末々何ぞ御用あらば必\/仰付らるべし。」と、彌源内と念頃にして他事なく交りけるとなり。十年餘も過て甲州金山願の節此喜四郎金主と成しは此謝禮と見へ(*ママ)たり。〔國製砂糖は是より先有徳公(*徳川吉宗)薩州藩士を召出されてこれに咨問し、又漢籍に據て其培養法を考究し、諸處へ植試みられしかど、未だ十分の效を得ざりしとなり。鳩溪は蓋し長崎よりその法を傳來したるものにて、享保なるとは自ら別法なるべし。〕

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4 源内京都にて白人しら糸へ馴染事

源内は大坂の評判能れば、富る町人どもと心易く出會して、夫より京都へ立越へて(*ママ)

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5 源内三井八郎右衛門へ對面の事

 1 平賀源内幼年奇才の事  2 源内讚州退去の事  3 源内大坂にて評判の事
 4 源内京都にて白人白糸へ馴染事  5 源内三井八郎右衛門へ對面の事

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