[INDEX]

舞姫・私訳


※ 教材用。 →語注

石炭はもう積んでしまった。二等船室のテーブルの辺りは人けもなく、白熱電灯の照明が白々と輝いているのもかえって寂しい。いつも晩になるとここに集会するトランプ仲間も、今夜ばかりはホテルに投宿して、船に残っているのは私一人なのだから。
いまから五年前のこと、宿願かなって公式に渡欧のことをおおせつけられ、このサイゴンの港まで来たころを思えば、見るもの聞くもの、すべてが新鮮な印象であったので、興にまかせて書き散らした旅行記は毎日おびただしい量にのぼった。どれも当時の新聞に載せられて世間の評判もよかったものだが、今になって思えばいちずな青臭さ、身のほど知らずの口ぶりがめだち、でなければありきたりの動植鉱物、はては風俗習慣のはしにいたるまでも珍しそうになにくれとなく書き記したのを、分別ある人はいかに感じたことか。今度の帰航のはじめに日記をつけようと買ったノートがまだ白紙のままなのは、ドイツで学問をしていた間に、ものに動じない性質を身につけたというわけか。いや、これには別にわけがある。
じつに東洋に向かって戻るいまの私は、かつて西洋に向かって船出した昔の私ではない。学問だけはいまだ満足でないところも多いけれども、世渡りのつらさも知った。人の心の当てにならないのはもとより、この自分の心までがいかに変わりやすいものであるかもよく思い知った。物事の見方・考え方がすっかり変わってしまった私自身の経験のはしばしを、紙に写してだれに見せられようか。これがすなわち日記の書けぬ由来なのか。いや、これには別にわけがある。
ああ、ブリンジージーの港を出航してから、すでに二十日余りを過ぎた。普通なら初対面の旅客に対しても親しくうちとけ、たがいに旅のつれづれをなぐさめあうのが航海のならわしであるのに、身体の不調のせいにして船室のうちに閉じ籠もってばかりいて、同行の邦人たちにも口を利くことが少いわけは、人知れぬ愁いに心を悩ませていたからだ。この愁いははじめ一ひらの雲のごとく心をかすめていき、スイスの山なみも満足に見せず、ローマの古蹟にも心をとどめさせぬのみか、やがて世間がうとましく、わが身をもはかなんで、はらわたをよじるほどの悲痛の思いをもよおし、今は心の底に沈んだ一点の影にすぎないものの、それでも書を読みあるいは物見るごとに、あたかも鏡に映る影法師かあるいは声に応じるこだまのごとく、たちまち現れては限りない懐旧の思いを呼び起こして、幾度となくわが心を苦しめるのだ。ああ、どうしたらこの愁いを消し去ることができようか。これがほかの嘆きであったなら、詩や歌に詠んだあとは気持ちもすっきりするはずだが。こればかりはあまりに深く私の心に刻み込まれたのでそれもなるまいと思うけれども、なにはさて、今夜はあたりに人もなし、ボーイが来て明かりを消していくまでにはよほど間もありそうなので、ひとつそのあらすじぐらいは文章につづってみることにしよう。
私は幼いころから厳しい家のしつけを受けたかいがあって、父をはやく亡くしたにもかかわらず学問が後退してしまうこともなく、昔、旧藩の学校にいたころも、東京に出て大学予備門に通っていたころも、大学法学部に入った後も、太田豊太郎という名前はいつも同年の首席に書き記されていたので、一人っ子の私を頼りとして暮らす母は安心していたようだ。十九歳で卒業し、学士の称号を受けたとき、大学創立以来いまだかつてない名誉であると人にも言われた。そしてある官庁に奉職して、故郷の母を都会に呼び迎え、楽しい年月を送ること三年ばかり、上官の受けも格別であったので、ついには「外遊して課の事務を調査せよ。」との命令をうけ、わが名を上げるのもわが家を興すのも今であると心が勇みたって、五十歳を越えた母に別れるのもそれほど悲しいと思わず、はるばると故国を離れてベルリンの都までやってきた。
私は名誉への漠然とした希望と、自己を抑制して努力する根気とをもって、たちまちこのヨーロッパの新興大都会の中央に立った。わが目を射るばかりのこの輝き、心を惑わすほどのこの美しさよ。「菩提樹の下」と訳してしまうと、ひっそり閑とした所のように思われようが、このまっすぐな髪のように延びている「ウンター・デン・リンデン」の大通りに来て、左右の緑道の敷石を歩む男女の群れを見るがいい。まだ皇帝ヴィルヘルム一世が街衢に臨む宮殿の窓から市民をご覧になっていたころのことで、胸を張り、肩をそびやかした士官が色とりどりに飾り立てた礼装をしている姿だの、きれいな娘がパリもどきの化粧を競っているさまだの、どれもこれも驚きの目をみはらないものはないうえに、車道のアスファルトの上を音もさせずに走るさまざまの馬車、雲にそびえる高楼が少しとぎれた間から、晴れた空に夕立のような音を響かせてあふれおちる噴水の水、遠く望めばブランデンブルク門をへだてて緑の木々が枝を交わしているなかから空に浮かび出た凱旋塔の守護女神像など、おびただしい景観が目の前にひしめいているのだから、初めて当地を訪れた者が次々に目を奪われるのももっともなことだ。ただし、私の胸にはたとえいかなる土地に旅してもはかない美観に心を動かされまいとする堅い決意があり、たえず迫りくるこれら外界の印象に左右されることを極力抑制していた。
私が呼び鈴を鳴らして案内を求め、公式の紹介状を出して来遊の意を告げたプロシア国の役人は、みな快く迎えてくれ、「大使館の手続きさえ無事に終わったならば、何なりと教えも伝えもしよう。」と約束してくれた。うれしかったのは、私が故国においてすでにドイツ語もフランス語も学んでいたことだ。彼らははじめて私に会ったとき、どこでいつの間にこれほど習得したのかと尋ねないことはなかったほどだ。
そうして、公務の暇があるごとに、前もって正式の許可を得ていたので、現地の大学に入って政治学を修得しようと、学籍簿に氏名を載せてもらって正規に入学したのだった。
ひと月ふた月と過ごすうちに、公式の打ち合わせもかたづき、取り調べもだんだんはかどっていったので、急ぎの件は報告書を作って本国に送り、その他は手元に資料を写しとどめるというようにして、ついには何冊になったことだろう。大学の方では、自分が幼稚な考えで予想していたような政治家養成学科などのあろうはずもなく、あれかこれかと思い惑いながらも、二、三の法学者の講義に出ることに決めて、謝礼を納め、聴講に出かけたのだった。
このようにして三年ほどは夢のように過ぎていったが、来るべきときが来ればどんなに隠しても隠しおおせないものは人の好みというものなのだろう。私は父の遺言を守り、母の教えに従い、人が神童だなどとほめるのがうれしさに学問に精を出してきたころよりはじめて、上官が「良い働き手を得た」と督励する喜ばしさにたゆみなく勤務を続けてきた時まで、ただひたすら受動的、機械的人物になりおおせてみずから悟らなかったのだが、いま二十五歳になって、すでに久しくこちらの自由な大学の風潮に感化されたせいか、心中なんとなく穏やかでなく、奥深く潜んでいた真実の自分は、徐々に表にあらわれて、昨日までの偽りの自己を攻撃するかのようだ。私は自分がいまの世の中に時めく政治家になるには適当でなく、また立派に法律書を暗唱して判決を下す法律家になるにもふさわしくないことを悟ったと思った。
私はひそかに考えた。母は私を生きた辞書にしようとし、上官は私を生きた法律にしようとしたのではないか。生き字引たることはそれでも可能であるが、歩く法律となるのはとうてい我慢がならない。今まではごく些末な問題にもきわめて丁寧に返答してきた私がこのころから上司に寄せた手紙には法律の細部にとらわれるべきでないことをあげつらい、「ひとたび法の精神さえ学びえたならば、あれやこれやの些事は一気に解決できるものだ。」など大口をたたくこともあった。また大学では法科の講義はそっちのけにして、人文・歴史に傾倒し、そろそろ面白みも分かる域に達してきた。
上官はもともと意のままに使うことのできる機械を作ろうとしたのだろう。独自の考えを抱いて、人並みでないつらがまえになった男をどうしてこころよく思うはずがあるだろうか。そのころの私の地位は実にあやうかったのだ。けれどもこればかりではまだ私の地位をくつがえすには足りなかったのだが、ここに日ごろベルリンの留学生のうちで、ある勢力あるグループと私との間におもしろくない関係があり、その人たちは私をそねみ疑い、またついに私にぬれぎぬをかけて陥れるに至ったのだ。とはいえ、これとても理由のないことではなかった。
その人たちは私が一緒にビールのジョッキを取り上げず、玉突きの棒も取らないのを、強情と自制心のせいにして、あざけりもし、妬みもしただろう。しかし、これは私を知らないからだ。ああ、このいわれは、自分自身さえ気づかなかったものを、どうして他人に知られるはずがあったろうか。私の心はあの合歓という木の葉に似て、物が触れれば縮んで避けようとするのだ。私の心は処女に似ている。私が幼いころから年長者の教えを守って学問の道をたどってきたのも、仕官の道を歩んできたのも、どれも勇気があってできたのではない。継続努力の力と見えたのも、すべて自分を欺き、人までも欺いたからであり、人のたどらせた道をただ一筋にたどっただけだ。他の方面に心が乱れていなかったのは、外界を捨ててかえりみないほどの気概があったからではなく、ただもう外界を恐れて自分の手足を自分でしばっていただけなのだ。故国を出る前も、自分が前途有望な人物であることを疑わず、また自分がいかなる困難にも耐えられる意志の持ち主だと深く信じていた。ああ、それもつかのまのことだったのだ。
船が横浜を離れるまでは、あっぱれ豪傑よと思っていた自分が、せきとめられない涙に思わずハンカチを濡らしたのをわれながら不思議なことと思ったが、これこそかえって自分の本性だったのだ。この心は生まれつきなのだろうか。それとも、父を早く失って母の手に育てられたことによって生じたのだろうか。
彼らがあざけるのはもとよりしかたがない。しかし、妬むのは愚かなことではないか。この弱く、憐れむべき心を。
赤く白く顔を塗って、真っ赤な色のドレスを身にまとい、酒場に座して客を呼ぶ女たちを見ても、そこに行って共にふざける意欲がなく、また山高帽をかぶり、眼鏡で鼻を挟むようにして、プロシアでは貴族まがいの鼻音でしゃべる道楽者を見かけても、これと遊び回る意欲がない。これらの意欲がないので、あの活発な同郷人たちと交際しようがない。この交際下手のために、連中は単に私をあざけり、または妬むにとどまらず、さらには私にあらぬ疑惑をかけるに至った。これこそ、私が無実の罪を問われ、わずかの間にはかりしれない苦難を味わうきっかけとなったものなのだ。
ある日の夕暮れのこと、私は動物公園を散歩して、例のウンター・デン・リンデンを過ぎ、モンビシュウ通りの自分の下宿に帰ろうとして、クロスター小路の古い教会の前まで来た。
あの大都会の灯火の海を渡ってきて、この狭く薄暗い横丁に入ると、ここには階上の手すりに干したシーツやシャツなども取り込まずにいる人家があり、頬ひげを伸ばしたユダヤ教徒の年寄りが前に陣取った居酒屋があり、また一つの階段が屋根まで通じ、一つは穴蔵住まいの鍛冶屋に通じているような貸家がある。それに向き合って、凹字の形に引っ込んで建てられた、この三百年前の古寺を眺めるたびに、我を忘れて立ち尽くしたことは幾度であったろう。
今この場所を通り過ぎようとするとき、教会の閉ざされた門扉にもたれたまま、声をおさえて泣いている一人の少女がいるのを見た。年のころは十六七か。頭にかぶったスカーフからもれ出ている髪は淡い金色で、衣服は垢じみて汚れている感じもない。私の足音に驚いてふりかえった顔は――私は詩人の天分に恵まれていないのでここに写すことができない。とりわけこの青く澄み、もの問いたげに悲しみを帯び、なかば涙の露を宿した長いまつげにおおわれたその眼は、どうしてただ一度こちらを見たばかりで、この用心深い私の心の底まで貫いたのだろうか。
彼女は思いがけない深い悲しみに遭って、自分を振り返る余裕もなく、ここに立って泣いているのだろうか。わが臆病な心もさすがに憐れみの情にうち負かされて、私はふとそばに寄った。「どうして泣いていらっしゃるのですか。こちらに知り合いもない他国者のほうが、時によってはかえってお力になることもあるかもしれません。」思わず言葉をかけたが、われながら自分の大胆なのにあきれてしまった。
彼女は驚いてこの黄色人種の顔を見つめていたが、私のまじめな気持ちが顔色にも表れたのか、言葉を発した。「あなたは良い人だと思います。あの人のようにむごくはないでしょう。また私の母のように。」しばらくかれていた涙の泉は、またあふれて愛らしい頬を流れ落ちた。「私をお救いくださいませんか。私が恥しらずの人間になってしまうのを。母は私があの人の言葉に従わないからといって、私をぶちました。父は死んだのです。明日はお葬式を出さなければならないのに、家には一銭のたくわえもないのです。」
あとはすすり泣きの声ばかり。私の目はこのうつむいた少女のふるえるうなじにばかり注いでいた。
「お家までお送りしましょう。だから、まず気持ちを落ち着けなさい。声を人に聞かせてはなりません。ここは往来なのだから。」彼女は話をするうちに、われ知らず私の肩に身をもたせかけていたが、この時ふと頭をあげ、はじめて私を見たように、恥じてかたわらを飛びのいた。
人目を避けて足早に行く少女のあとについて教会の筋向かいにある大きな門を入っていくと、割れてひびの入った石の階段があった。これを昇って四階にくると、腰を曲げてやっとくぐれるほどの戸がある。少女は、錆びた針金の先をねじ曲げて作った把手に手をかけて強く引いた。すると、中にしわがれた老人の声で「誰だい。」といった。
「エリスが帰りました。」と答えるほどもなく、戸を乱暴に開いたのは、半白の髪をして、人相は悪くないが眉間の深い皺に貧苦のあとをしのばせる老女で、古ぼけたネルの上着に、汚れたスリッパを履いていた。そしてエリスが私に会釈して中に入るのを待ちかねたように、戸を激しく閉てきった。
私はしばらく呆然として立っていたが、ふとランプの光に透かして戸の面を見ると、エルンスト・ワイゲルトとペンキで書いた表札の下に仕立物師と注記してあった。これが亡くなったという少女の父親の名前なのだろう。戸の内では言い争うような声が聞こえていたが、また静かになって、戸は再び開いた。夫人がまた現れて今度は丁寧に自分の非礼を詫び、私を中へ招き入れた。中はすぐに台所で、右手の低い窓には真っ白に洗った麻布を掛けてある。左手には粗末に積み上げたレンガの竃がある。正面の一室は戸が半分開いているが、中には白布をおおった寝台があった。横たわっているのは故人であるらしい。竃の横の戸を開いて私を案内していく。この場所はいわゆる屋根裏部屋が街路に面した一室なので、天井もない。隅の屋根裏から窓に向かって斜めに下がっている梁を壁紙で張ってある下の、立てば頭がつかえそうなところに寝床がある。中央にある机には美しい敷物を掛けて、上には書物一、二冊とアルバムを並べ、陶器の花瓶にはここに似合わしくない高価な花束を活けてある。そのそばに少女はきまりわるげに立っていた。
彼女はたいへん美しい。乳白色の顔は灯火に映じてかすかに赤みがさしているように見えた。手足がか細くすらりとしているのは、貧しい家の女性らしくない。老婆が部屋を出た後、少女は少しアクセントのある言葉で語った。「どうか許してください。あなたをここまでご案内した軽はずみなふるまいを。あなたはきっと良い方でしょうから、どうぞお腹立ちにはなりませんように。父の葬儀は明日に迫っているというのに、頼りに思っていたシャウムベルヒが、―そう、あなたはご存じないでしょう。それはヴィクトリア座の支配人なのです。その男に雇われてから、もう二年になるので、子細なく私たちを助けてくれるものと思っていたのに、人の弱みにつけこんで、身勝手な言いがかりをつけてくるとは。―どうか、あなたのお力で私をお救いください。お金は少ない給金の中から必ずお返し致します。たとえこの身は食らわずとも。それもできないならば、母の言葉に……。」彼女は涙ぐんで身をふるわせた。その見上げた目には、人に否と言わせぬ愛らしさがあった。この目の働きは意識してするのか。それとも自分では気づかないのか。
手元には二、三マルクの銀貨があったが、それで用が足りるはずもないので、私は懐中時計をはずして机の上に置いた。「これで急場を凌いでください。質屋の使いがモンビシュウ街三番地の太田まで訪ねてきたときには、代金を支払うからと言って。」
少女は感銘を受けた様子だった。私が別れのために差し出した手を唇に当てたが、はらはらと落ちる熱い涙が私の手の甲にそそいだ。
ああ、思えば何という不幸な巡り合わせだったのか。この恩に感謝しようとして自分から私の下宿を訪ねてきた少女は、ショーペンハウアーやシラーの著作に囲まれて一日中座りどおしのわが読書の窓辺に、一輪の美しい花を咲かせたのだった。この時からはじめて、私と少女との交際はだんだん度重なっていき、在留の日本人たちにまで知られることになったが、彼らは早合点にも私が踊り子たちに近づく好色漢であると考えたのだ。我々二人の間には、まだ子どもじみた喜びしかなかったというのに。
ここにその名前を出すのははばかられるが、同国人の中にいらぬ口出しを好んでする者があり、その男は私が足しげく芝居小屋に出入りして女優と交際するということを上官のもとまで報告したのである。ただでさえ私の学問がずいぶん脇道にそれていくのを苦々しく思っていた上官は、とうとうその一件を公使館に伝え、私を罷免してしまった。公使がこの命令を伝えるとき、私に向かって言うには、「君がもしすぐに帰国するならば旅費は支給しようが、もしまだ当地に留まるのであれば公費の助成を求めてはならない。」ということであった。私は一週間の猶予を願って、あれこれ思い悩むうちに、生涯でもっとも悲痛を覚えさせた二通の書状に接した。この二通はほとんど同時に出したものだが、一通は母の自筆、もう一通は親戚の者が母の死を、私がこのうえなく慕う母の死を知らせてきた手紙であった。私は母の手紙の文言をここに繰り返すことができない。涙がこみ上げてきて筆の運びを妨げるからだ。
私とエリスとの交際は、この時までははたから見るより潔白だった。彼女は父親が貧しいために十分な教育を受けず、十五の時舞踏の教師が生徒を生徒を募集したのに応じて、この恥ずかしい生業を教えられ、レッスンが終了したあとはヴィクトリア座に出て、今では場中第二位の地位を占めている。しかし、作家ハックレンダーが現代の奴隷といったごとく、踊り子の身の上はまことにはかないものだ。少ない給金で束縛され、昼は稽古、夜は舞台と休みなく酷使され、楽屋の化粧部屋に入れば白粉もつけ、華美な衣装もまとうけれども、場外に出れば、自分ひとりの衣食すらままならぬ有樣であるから、まして親兄弟を養う場合などその苦労はどれほどのことであろう。だから、彼女たちの仲間で、この上なく賎しい稼業に身をもちくずさぬ者は少ないということだ。エリスがこれを免れてきたのは、おとなしい性質と、頑固な父親の保護によっていたのだ。彼女は幼時から本を読むことはそれでも好きな方であったが、手に入るのはコルポルタージュと呼ばれる巷の貸本屋の小説ばかりだった。それが私と知り合ったころから、私の貸し与える本を読むことを覚えて、徐々にその面白みを知り、言葉の間違いも改め、私に宛てた手紙にもほどなく誤字が少なくなってきた。そういう次第で、我々二人の間にはいわばいわばまず師弟の交際が生じたのだ。突然の私の免職を聞いたとき、彼女は真っ青にあった。私は自分の進退に彼女のことが関係していたことは隠したが、彼女は私に向かい、母親にはこのことを黙っていてほしいと言った。これは、私が留学費用を失ったことを母親が知って私との交際をいやがることを恐れたからだ。
ああ、ここにくわしく書く必要もないことだが、私の彼女をいとおしく思う気持ちがにわかに強くなって、とうとう離れられない仲となったのはこの時である。一生の大事を控えて、まことに危急存亡の秋であるのに、このような行いがあったのを不審に思い、また指弾する人もあろうが、私がエリスを愛する気持ちは、初めて出合ったときから浅くはなかったうえに、いま私の不幸を憐れみ、また別離の予感に悲しみを表して寂しくうつむいた顔に、額わきの髪の毛がほどけて垂れかかっている、その美しい、いじらしい姿は、悲痛の極にあって度を失った私の脳髄を貫いて、我も忘れてここに至ったのをどうしようもなかったのだ。
公使に約束した日限も近づき、私の運命の時は迫ってきた。このまま国に帰れば、学成らずして汚名を負ったこの身が再び浮かび上がることはあるまい。といって、ここに滞留するとして学資を得る手段がない。
この岐路にあって私を助けたのは、いま私と同船している者の一人、相沢謙吉である。彼はその当時東京にいて、すでに天方伯爵の秘書官を務めていたが、私の免官の記事が官報に載ったのを見て、ある新聞の編集長を説き伏せて、私を社の海外通信員となし、ベルリンに留まって政治・学芸の記事などを報道させるようにはからったのだ。
社の報酬は言うに足りない額だったが、昼食をとるレストランを代えたなら、細々ながら生活はしていかれるだろう。とかく思案するうちに、誠意をあらわして私に助け舟を出してくれたのはエリスだった。彼女がどのようにして母親を説得したものか、私は彼ら親子の家に身を寄せることとなり、エリスと私とはいつからとなく、わずかな収入を合わせて、苦しい中にも楽しい月日を送ることになった。
朝食のコーヒーをすませると、彼女はおさらいに行き、稽古のない日は家にいる。私はケーニヒ街に行き、間口が狭く奥行きの長い新聞閲覧所の中で、あらゆる新聞を読み、鉛筆を取り出してあれこれと材料を集める。天井に開いた引き窓によって採光を行っているここの部屋には、定職のない若者や、多くもない金を人に貸して自分は遊び暮らしている老人、取引の合間をぬってしばしの憩いを求める商人などがいる。それらと隣り合って、冷たい石のテーブルの上で、せわしなく筆を走らせ、給仕の少女が運んでくる一杯のコーヒーが冷めるのもかまわず、細長い板切れに開いて挟んだ新聞を何種類も掛けわたした脇の壁にしきりに往来する日本人を、知らない人は何と思ったことだろう。また、一時近くにもなると、稽古に出かけた日には帰り道に立ち寄って、私と一緒に店を出る、この小柄でひときわ軽やかな、まるで掌の上で舞うことさえできそうな少女を、けげんな顔で見送る人もあったにちがいない。
私の学問は棄ててしまった。屋根裏部屋の小さな灯火がかすかに燃え、エリスが劇場をひけて、椅子に腰かけ縫い物などをするそばの机で、私は新聞の原稿を書いていた。むかし、法令の条目の枯れ葉を紙の上に掻き寄せていたのとはちがい、今はいきいきと活動している政界の動静や、文芸や美術に関連した新現象の批評など、いろいろと関連づける一方、ビョルネよりはむしろハイネに学んで文章の構想を立て、力の及ぶかぎり、さまざまの記事をものした。中でも、皇帝ヴィルヘルム一世にすぐ続いてフレデリック三世の崩御があり、新帝の即位、ビスマルク侯爵の進退いかんなどのことについては、とくに詳細な報道を行ったりもした。そんなわけで、この頃からは思っていたよりも忙しく、多くもない蔵書をひもといて以前の勉強を進めることも難しくなった。大学の学籍はまだ削られないものの、謝礼を納めることが困難なので、たった一つに絞った講義でさえ、聴講に出かけることはまれであった。
私の学問は棄ててしまった。しかし、私は別の意味で一種の見識を身につけることができた。それは何かといえば、いったい民間の学問というものが広まったことは、欧州諸国の中でもドイツにまさるものはあるまい。何百種という新聞雑誌に散見する議論には、相当高尚なものも多いのだが、私は通信員となった日から、かつて大学に足しげく通っていたころに培った眼力によって、読んではまた読み、写してはまた写すうちに、今まで一本の道だけを走っていた知識は、おのずから総合的になって、同郷の留学生などの大半は夢にも知らぬ境地に到達することができた。彼らの仲間には、ドイツの新聞の社説すら満足に読めない者がいるというのに。
明治二十一年の冬がやってきた。表通りの歩道では凍結にそなえてすべりどめの砂を蒔いたり、スコップで雪掻きもするが、クロスター通りのあたりは道のでこぼこしたところは分かるようだが、表面ばかりは一様に凍って、朝、窓扉を開くと飢えて凍え死んだ雀が落ちて死んでいるのも哀れな光景だ。部屋を暖め、炉に火を焚きつけても、石の壁を貫き、衣服の中綿を通す北ヨーロッパの寒気はずいぶん耐え難いものである。エリスは二三日前の夜に舞台で倒れたといって、人に介助されて帰ってきたが、それ以来気分がすぐれないというので舞台を休み、食事のたびに吐くのを悪阻であろうと初めて気づいたのは母親であった。ああ、さなきだに心細いのはわが身の行く末であるのに、これが真実であったらどうしたらよいのか。
今朝は日曜なので皆家にいるが、心は楽しまない。エリスはまだ横になるほどではないが、小さな鉄製のストーブの近くに椅子を近づけて言葉少なである。この時、戸口に人の声がして、まもなく台所にいたエリスの母は郵便の手紙を持って来て私に手渡した。見ると見覚えのある相沢の筆跡であるが、郵便切手はプロシアのものであり、消印にはベルリンとあった。けげんに思いながら手紙を開いて読んでみると、「急のことであらかじめ知らせる方法もなかったが、昨夜こちらに到着なさった天方大臣に随行して自分もやってきたのだ。伯爵が君に会ってみたいとの仰せであるので、すぐさま来るがいい。君の名誉を回復する機会も今この時をおいてあるまい。心ばかり逸って用件だけ伝える。」とあった。読み終わって茫然とした顔つきを見て、エリスは言った。「お国からの手紙ですか。悪い便りではありますまいか。」彼女は例の新聞社の報酬に関する手紙だと思ったのだろう。「いや。気にするには及ばない。あなたも名前を知っている相沢が大臣とともにここに来ていて、私を呼んでいるのだ。急ぐそうだから、今からすぐに行って来よう。」
かわいい一人息子を出かけさせる母親でもこれほどは気を配らないことであろう。大臣に謁見することもあろうかと思ったのか、エリスは病身をおして立ち上がり、シャツもきわめて白いものを選び、丁寧にしまっておいたゲエロックという二列ボタンの服を出して着せ、ネクタイまで私のために手ずから結んでくれた。
「これで見苦しいとは誰も言えますまい。私の鏡の方を向いてご覧なさい。どうしてそんな不機嫌なお顔をなさっているのです。私もご一緒したいほどですのに。」少しまじめな顔になって、「いいえ。こうして衣服をお更めになったのを見ると、何となくわたくしの豊太郎様には見えません。」また少し考えて、「たとえ富貴の身におなりあそばしても、わたくしを見捨てなさいませんね。わたくしの病気が母のいわれるようなものでないとしても。」
「なに、富貴だって。」私は微笑した。「政治世界などに出ようとの望みをとうに絶ってから何年かが経っているよ。大臣になど会いたくもない。ただ長年別れたままの旧友に会いに行くだけなのだ。」エリスの母が呼んだ一等馬車(ドロシュケ)は車輪に雪をきしませて、すぐ窓の下まで来た。私は手袋をはめ、少し汚れた外套を背中におおいかけて手は通さずに帽子を取り、エリスにキスをして建物を降りた。彼女は凍った窓を開け、北風が髪を乱すにまかせて私の乗った馬車を見送った。
私が車を下りたのは「カイザーホーフ」の入口である。門衛に秘書官相沢の部屋の番号を尋ね、久しく踏み慣れていない大理石の階段を昇り、やがて中央の柱にヴェルヴェットのカバーを掛けたソファを置き、正面には姿見を立てかけた控の間に入った。外套をここで脱ぎ、廊下を通って大臣の部屋の前まで来たが、私はいささかためらうところがあった。ともに日本の大学に学んでいたころ、私の品行方正であることを高く評価していた相沢が、今日はどのような顔つきで出迎えることであろう。さて部屋に入って見ると、姿かたちは以前に比べてがっしりと太って逞しくなったものの、相変わらず快活の性格は、私のしくじりをもそれほど問題にしていないらしく見えた。一別後の事情を詳しく述べるひまもなく、私は彼に連れられて大臣に拝謁し、さっそくに委託されたのはドイツ語で書いた至急文書を翻訳するようにとのことであった。私が文書を拝受して大臣の部屋を出た時、相沢は後から来て、私と昼食を共にしようと言った。
食事の席では、彼がもっぱら聞き役で、私がそれに答える側だった。彼のこれまでの生活がおおむねなだらかに来たのに対して、不運不幸であったのは私の身の上のほうであったから。
私が心を開いて一部始終を語った不幸な経歴を聞いて、彼はたびたび驚きの声を挙げたが、むしろ私をとがめるよりは、かえって他の凡庸な留学生仲間たちを罵倒した。しかし、身の上話が終わった時、彼は厳しい表情になって私に忠告するには、「この一件は、根が君の生来の心弱さから発したことであるから、いまさらどうこう言ってもしかたのないことだ。とはいっても、学識・才能を持った者がいつまでも一少女の情にほだされて目的の無い生活を続けてよいものでもあるまい。今は天方伯爵もただ君のドイツ語の語学力を利用しようというお気持ちに過ぎない。自分もまた伯爵が君の免官の理由をご存じであるから強いてその先入見を改めようともしないでいる。いらぬことをして伯爵から道理を曲げてまで人をかばいだてするなどと思われては、わが友のためにもならず、わが身にも不利だからだ。人を推薦するには、まずその能力を見せるに越したことはない。翻訳文を見せて、伯爵の信用を求めるがいい。また例の少女との関係は、たとえ彼女にまごころがあっても、いかに二人の仲が深いものになったとしても、才能を知っての恋ではなく、慣習という一種の惰性から生じた関係である。思い切ってこれを断て。」ということであった。これがその忠告の言葉の概略である。
海原で舵を失った船員が、はるか遠くに山の影を認めたという譬えが、ここで相沢の私に示した今後の方針にあてはまるだろう。けれどもこの山はまだ幾重にも濃く立ちこめた霧の中にあって、いつ行き着くとも、いや、果たして到達すべきものとも、さらにまた衷心から満足を与えてくれるものとも、いっさい定かなものではなかった。貧しい中にも楽しいのは現在の生活であり、エリスの愛情は見捨てがたい。私の弱い心には決意するすべもなかったが、ここはさて友人の言葉に従ってこの関係を断つことを約束した。私は自分の側のものを失うまいとして、わが身に敵対するものに対しては抵抗するけれども、味方の友人に対してはいつも断わりきれないところがあった。
友と別れて表に出ると、風が顔に吹き付けた。二重のガラス窓をしっかり閉ざして、大きな陶製の暖炉に火を焚きつけたホテルの食堂を出たのであったから、薄い外套をとおす午後四時の寒さは格別耐え難く、鳥肌が立ったが、私は心の中にも一種の寒さを覚えたのだった。
翻訳は一晩で仕上げてしまった。カイザーホーフ・ホテルに通うことはこれ以後だんだん数多くなっていくうちに、初めは伯爵の言葉も用事だけであったが、後には最近故国であったできごとなどを取り上げて私の意見を徴し、折々は道中で一行の人々が失敗したことなどを告げてお笑いになった。
ひと月ばかり過ぎて、ある日伯爵は突然私に向かって、「私は明日の朝、ロシアに向かって出発する。君も随行するか。」と言われた。私は数日の間、例によって公務繁忙の相沢には会っていなかったので、この問いかけは不意を突いて私を驚かせた。「ぜひとも仰せに従いましょう。」私は自分の恥をここに告白しなければならない。この返事は即座に決断して言ったものではない。私という人間は自分が信頼する気持ちを起こした人に、急にものを尋ねられた際、とっさの間のこととて、その答えの及ぶ範囲をよく考えもせず、すぐさま承諾することがあるのだ。そうして承知したあとになってその実行しがたいことに気づいても、その時に心が空虚であったことを無理にも覆い隠し、我慢工面して約束を実行することがよくあった。
この日はいつもの翻訳の代金に加えて、旅費まで添えて下賜されたのを持ち帰り、翻訳代金をエリスに預けた。これでロシアから帰って来るまでの経費をまかなうことはできよう。彼女は医者に診せたところ身重であるとのことだった。貧血を起こすたちであったから、何ヶ月か気づかなかったのであろう。支配人からは舞台を休むことがあまりに長くなったので除籍したと言ってきた。休んでからまだひと月ほどであるのに、これほど厳しいことを言ってきたのはわけがあるからであろう。彼女は私の旅立ちのことにはそれほど心を悩ます様子も見えなかった。偽りのない私の心を篤く信じていたのであったから。
鉄道で行けばそれほど遠くもない旅であるから、支度というほどのものもない。身の丈に合わせて借り着をした黒の礼服、新しく買い求めたゴタ版のロシア宮廷貴顕録、それに二三種の辞書などを手提げ鞄に入れたばかりだ。エリスはさすがに心細いことばかり多いこの頃のことであるから、私が出て行く後に残るのも気が重いだろうし、かといってまた駅で涙をこぼしなどしたら後ろ髪を引かれる思いになってしまうので、翌早朝、母に伴って知人の家へ世話になりに出してやった。私は旅支度を整えて家の戸を閉め、鍵を建物入口に住む靴屋の主人に預けて出かけた。
ロシア旅行については、何も書くべきことはない。私は通訳としての任務により、たちまち希望の星を手中に収めた。私が大臣の一行に従ってペテルスブルクにあった間、私の周囲を取り巻いていたものは、パリでも最高の華麗を氷雪の中に移しかえたかとも思われる宮殿の装飾であり、わざわざ黄色い蝋燭をおびただしく点した中に、きら星のようにまばゆく光る勲章の数々、いくつもの肩章にきらめく光、技巧の粋を尽くした彫刻の施された暖炉の火に寒さをも忘れて官女たちが使う扇のそよぎなどであった。この人々の中でもフランス語をもっとも流暢に話すのは私だったので、主客の間をとりもって用を足すのもほとんどが私の務めだった。
この中にも、私はエリスを忘れなかった。いや、そういっては正しくない。彼女は毎日のように手紙をよこしたので、忘れようがなかったのだ。
「あなたがお発ちになったその日は、いつになく一人で明かりに向き合うのがつらく、知り合いの所で夜になるまで世間話を交わし、疲れるのを待って家に戻り、そのまますぐに寝てしまいました。翌朝、目が覚めたとき、依然として一人留守をしているのが夢ではないかと疑いました。ようやく起き出したときの心細さ。暮らしに困ってその日の食べ物がないような日にも、こんな思いはしたことがありません。」これが第一の手紙のあらましである。
またしばらくしてからの手紙は、よほど思いつめて書いたらしく思われた。初めを「いいえ」という文字で書き出してあった。
「いいえ、あなたを愛する心のたけを今こそ思い知りました。あなたは故国には頼りになる親類など無いとおっしゃいましたから、こちらで暮らしの立つ何かよい方法があれば、ずっとこちらにいらっしゃらないはずがありません。また、私の愛情でつなぎ止めずにはいないでしょう。それも力及ばず、東洋にお帰りになるというならば、母親と一緒にお供するのは簡単ですが、そのための多額の旅費をどこでこしらえたらいいのでしょう。どんな仕事をしてでも、この土地に踏みとどまって、あなたがご出世あそばす日を待つのだと常に思っていましたが、しばらくの旅といってお出かけになってからこの二十日ばかり、別離の思いは日数とともに深まっていくばかりです。たもとを分かつのはただ一時のつらさに過ぎぬと思っていたのは間違いでした。私の身体もだんだん目に立つようになってきたことです。たとえどのようなことが起ころうと、決して私をお棄てになってはなりません。母とはずいぶん言い争いもしました。けれども、私が以前とは異なり、固く決心した様子を見てはようやく折れたようでした。私が東洋に行くときが来たら、自分はステッティンの辺の農家に遠い親戚がいるから、そこに身を寄せようとも言ってくれます。お手紙にあるとおり、大臣様に取り立てられなさいましたなら、私一人の旅費くらいはどうにでもなりましょう。今はただ、あなたがベルリンにお帰りになる日を待つばかりです。」
ああ、この手紙を見てはじめて私は自分の置かれた立場がはっきり分かったのだった。わが身の鈍さがいかにも恥ずかしかった。私はこれまで、自分一己の身の上はもとより、何の関係もない他人の処世についても優れた判断力を備えているとひそかに誇っていた。しかし、この決断力とは、順境には働いても逆境には行方知れずになってしまうものだったのだ。自分の行為が人にどういう影響を及ぼすかまで考えねばならぬとき、せっかく頼りにしていた知恵の鏡はたちどころにかげってしまうのである。
大臣の信任はたしかに手に入れた。しかし、近視眼な私はただ時分の果たした任務に満足を覚えたのみだった。私はこれに未来の望みをかけることまでは、かけても及ばなかったのである。しかし、いまこのことに気づいて、なお私は平静でいられたろうか。この間、親友が私を推薦したとき、大臣の私に対する信用は、まだドイツの諺にいう屋根の上の鳥のようなものだったが、今はいくらか信用も得たらしいと思えるまでになった。このごろ、相沢が言葉の端に、本国に帰ってからもこうして一緒に働けるなら云々と言っていたのは、すなわち大臣のお言葉であって、公務に関することゆえ、友人ながらもはっきりとは口にしなかったのであったか。今になって思い返してみれば、私が軽率にも彼に向かってエリスとの関係を断とうと言ったのを、彼はもう大臣に伝えたのであったかもしれない。
ああ、ドイツにやってきてから、自分の本領を見出したと喜び、二度と機械的人間にはなるまいと心に誓ったのもつかの間のこと。要するに足を結わえたまま放し飼いにした鳥がしばらく羽を動かしてみて、おのれはもはや自由であると得意げになっていたにすぎないようなものではないか。脚の綱は自分でほどくことができない。初めこの綱を握っていたのは私の勤務していた某省の上官であり、今ではこの綱は、なんと天方伯爵の手中にあるのだ。私が大臣一行とともにベルリンに帰ってきたのは、折しも新年の元日の朝だった。駅で別れて、わが家をさして車を走らせた。当地では今でも除夜に眠らず、元旦に寝る習慣なので、どの家もひっそりと静まりかえっていた。寒気が厳しく、路面の雪は角ばった氷片となり、朝日に映じてきらきらしく輝いていた。車はクロスター小路に曲がって、家の戸口に止まった。この時、窓を開ける音がしたが、車からは見えなかった。御者に鞄を持たせて、階段を昇ろうとすると、エリスが駆け降りてくるのに出合った。彼女が一声叫んで私のうなじに抱きついたのを見て、御者はあきれた顔つきで、何やら髭のうちでつぶやいていたのもよくは聞き取れなかった。
「ようこそ帰っておいででした。このままお帰りにならなかったら、私はとても生きていられないことでしょうに。」
私はこの瞬間まで依然決心がつかず、故郷への思慕と栄達の願望とは、時としては愛情を押し潰そうとしたが、わずかにこの一刹那、うやむやな気持ちは消し飛んでしまい、私は彼女を抱きとめ、彼女の頭は私の肩にもたれて、その喜びの涙ははらはらと肩の上に落ちた。
「何階まで持っていくかね。」破鐘のような声で叫んだ御者は、さっさと階段を昇って上に立っていた。
戸の外に出迎えたエリスの母に、「これで御者をねぎらってください。」と銀貨を渡して、私は手を取って引くエリスに連れられ、急いで部屋に入った。一目見るなり、私は驚いた。テーブルの上には白い木綿、白いレースなどをうずたかく積み上げてあったから。
エリスはにこにこしながら、この山を指さして、
「何だとご覧になりますか。この支度を。」
と言いながら、一つの木綿のきれを取り上げたのを見れば、それは産着だった。
「私のよろこびを想像できますか。生まれてくる子はあなたに似て黒い瞳を持っているかしら。この瞳。ああ、夢の中で何度も見たのはあなたの黒い瞳でした。この子が生まれてきた日には、あなたは正しいお心の方だから、きっとよその名を名のらせたりはなさいませんね。」
彼女はうなだれていた。
「馬鹿だとお笑いになるでしょうが、お寺へ洗礼に行く日はどんなにうれしいことでしょう。」
見上げたその目には涙を一杯ためていた。
二、三日の間は、大臣も長旅でお疲れであろうと思い、あえてお訪ねもせず、家に籠ってばかりいたが、ある日の夕暮れ、使いがやってきて招かれた。出かけていくと格別の待遇で、ロシア行きの慰労のお言葉をかけられた後、「わしと一緒に東へ帰る気はないか。君の学問は想像も及ばぬが、語学だけでも世のために大いに役立つことだろう。当地での滞在がずいぶん長いので、いろいろ知り合いもあろうと相沢に尋ねたところ、そういう者はいないと聞いて安心した。」と仰せられた。
その顔色は、とうていお断りできそうにもないものだった。ああ、しまった、と思ったが、さすがに相沢の言葉を嘘だともいえず、さらにもし、この手づるにすがらなかったならば、本国を失い、名誉を挽回するすべもなくし、この身は広漠たる欧州の大都会の人の海に葬られるかという一念がにわかに湧き起こった。ああ、なんという信念のない人間であろう。「かしこまりました。」と答えた私は。
いかに鉄面皮の自分であれ、帰ってエリスに何と言おう。ホテルを出たときの私の錯乱動揺のさまは、たとえるものも無いほどだった。私は道の東西も分からず、憔悴しきって歩いていく間に、すれ違う馬車の御者に何度も怒鳴られ、その度に驚いて飛びのいた。しばらくしてふとあたりを見ると、動物公園のそばに来ていた。倒れるようにして道路わきのベンチに腰掛けて、燃えるように熱し、木槌で叩かれるようにがんがん響く頭を背もたれにもたせかけ、まるで死んだようになってどれほど時が過ぎたのだろう。ひどい寒さが骨にしみとおるように感じて我に返ったときは、もう夜に入って、雪が盛んに降りしきり、帽子の庇にも外套の肩にも、雪は一寸ほども積もっていた。
もはや十一時を過ぎただろうか。モアビットとカルル通りの間を通う鉄道馬車の軌道も雪に埋もれ、ブランデンブルク門の辺のガス灯は寂しい光を放っていた。立ち上がろうとしたが、足が凍えているため、両手でさすって、ようやく歩けるくらいにはなった。
歩行がはかどらないので、クロスター小路まで来たときには、もう零時を回っていたかもしれない。ここまで来るのに、どうやって歩いてきたのか分からなかった。一月上旬の夜のことで、ウンター・デン・リンデンの酒場や喫茶店はまだ人の出入りで盛んに賑わっていたことと思われるが、一向に覚えていない。わが脳裏には、ただひとえに、自分は許すことのできぬ罪人であるという思いだけが満ち満ちていた。
エリスはまだ起きているらしく、四階の屋根裏には一個の明るい光が、暗い夜空の星のように望まれたが、鷺の舞うごとく降りしきる白い切片に、隠れたかと思えばまた現れて、あたかも吹雪く風に弄ばれているかのように見えた。建物に入るや、激しい疲労を感じ、節々の痛みが耐え難いので、這うようにして階段を昇っていった。台所を過ぎ、部屋の戸を開いて入ったとき、テーブルに向かって産着を縫っていたエリスはこちらを振り返って、「あっ。」と叫んだ。
「どうなさったのです。そのお姿は。」
驚いたのは無理もない。私の顔色は真っ青になって死人のようで、帽子をいつの間にか失くし、髪はぼうぼうに乱れて、さらに何度か道につまずいたため、衣服は泥まじりの雪に汚れ、ところどころ裂けていたのだから。
私は答えようとしたが、声が出なかった。膝ががくがくと震えて、立っていることができないので、椅子をつかもうとしたところまでは覚えているが、そのまま床に倒れてしまった。
意識を回復したのは、数週間も後のことだった。高熱が続き、うわごとを言うばかりであったのを、エリスが一心に看病するうちに、ある日、相沢が訪ねてきて、私が彼に隠していた事の一部始終を知り、大臣には病気のことだけを告げ、良いように取り繕っておいたのだった。私は病床に付き添っているエリスを初めて見て、その変わり果てた姿に驚いた。彼女はこの数週間のうちにひどく痩せ、血走った目はくぼみ、頬がこけて血の気が失せ、灰色になっていた。相沢の援助で日々の衣食には困らないが、この恩人は彼女を精神的に殺してしまったのだ。
後で聞けば、彼女は相沢に会ったとき、私が相沢にした約束のことを聞き、またあの夕方、大臣に申し上げた承諾の返事を知って、急に席から跳び上がり、顔色はまるで土のごとく、「私の豊太郎様、そこまで私をだましていらしたなんて。」と叫び、その場に倒れてしまった。相沢は母親を呼んで一緒に助け起こして寝床に横たえたが、しばらくして目を覚ましたとき、目は直視したままで、近くの人も視野に入らず、私の名前を呼んで激しく罵り、自分の髪をかきむしり、布団をかんだりなどするかと思えば、また急に何か物を探し求めるふうだった。母親が取ってやるものを片端から投げ捨てたが、テーブルの上にあった産着を与えたところ、眺め入って顔に押し当て、涙を流して泣いた。
これ以後は騒ぐことはなかったが、精神の働きはほとんどまったく停止して、その物を解せぬさまは赤ん坊同然だった。医者に見せたところ、極度の心労による急性のパラノイアという病気で、治癒の見込みはないという。ダルドルフにある精神病院に入れようとしたが、泣き叫んで聞き入れなかった。後には例の産着一つを身から離さず、何度か出しては見、見てはすすり泣く。私の病床を離れることはなかったが、これすら意識があってのことではないらしく見えた。ただ、時々、思い出したように、「薬を。薬を。」と言うだけだ。
私の病気はすっかり治った。エリスの生ける屍を抱きしめて涙にかきくれたことは幾度であったか。大臣に随行して帰国の途に上った際、相沢と相談してエリスの母に細々と生計を立てるに足るほどの元手を与え、痛々しい狂女の胎内に遺してきた子どもが生まれたときのことも頼んでおいたのだった。
ああ、相沢謙吉のような親友はこの世に二人とはあるまい。けれども、私の脳裏に一点の彼を憎む心は今日までも残っているのである。

[INDEX] [TOP]