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 多田東渓  久野鳳湫  根本武夷  福島松江  服部蘇門  首藤水昌  河野恕斎

先哲叢談續編卷之九

                          信濃 東條耕 子藏著
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多田東溪
名は儀、字は維則、東溪と號す、通稱は儀八郎、平安の人にして、館林侯に仕ふ、

東溪は其先世〃攝津の人にして、嚴然たる望族なり、鎭守府將軍源満仲、始めて多田邑に居り、其曾孫明國、封を多田全邑に受け、遂に地を以て氏と爲す、明國、頼盛を生む、頼盛は攝津守に任ぜらる、頼盛、行綱を生み、行綱、基綱を生む、承久中勤王して、鎌倉の兵と抗戰し、宇治に敗績す、其子重綱、其子宗重、其子長重、其子重國、民間に在り、子孫自ら降りて庶人と爲り、數世多田邑に土著す、父悠怡業を商販に起し、始めて平安に徙る、辻氏を娶り、東溪を東坊の谷街に生む、故に長じて後、此を以て自號と爲す、
東溪初め舅桑原空洞が爲めに鞠養せられ、其嗣子と爲りて、桑原篤靜と稱す、筆札の技に巧にして、心を臨池に專らにすと雖も、素と其好む所にあらず、空洞は講經の暇、性筆札を好み、常に以て字を書して自ら娯み、傍ら生徒に教ふ、業一時に振ふ、學術之が爲めに■(手偏+合+廾:えん・あん:おおいつつむ。奄・掩。:大漢和12359)はれ、世稱して書師と爲す、東溪已むを得ず、此を以て教授す、能書の名、洛下に聞ゆ、
東溪少くして書を讀むを好む、三宅尚齋の門に入り、專ら山崎氏の説を修む、講習年あり、遂に濂洛關■(門構+虫:びん:種族の名:大漢和41315)諸家の書に通ず、尚齋門下の塾規嚴禁にして、出でて他姓を冒すを排斥す、故に義子と爲りて、人の後を嗣ぐ者、學に志あり、能く先後する所を知り、倫理を辨別すれば、興起特立して、本姓に歸服するを以て、學術操行の第一と爲す、東溪從遊の後、既に其他姓を冒すの道にあらざるを知る、然れども未だ脱去する能はず、幾ばくもなく、其縁由を告ぐ、空洞亦能く其志を爲さしめ、之を許す、遂に空洞に辭謝して、本姓に歸復するを得たり、
東溪平安に在りし時、林壑の深秀を愛し、別墅を泉谷に築き、時々此に寓す、額して心遠堂と曰ふ、蓋し之を陶靖節(*陶淵明)の詩句に取るなり、
東溪初め江戸に到り、芝口門外に僑居し、〔今の芝口新橋は、享保中廢して置かず、〕講説して徒に授く、後秋田侯の聘に應ず、侯延いて門客と爲し、禮待頗る厚し、侯是より先き、大に學舍を起して、造士館と曰ふ、學政一に山崎氏(*山崎闇斎)に從ふ、侯東溪が尚齋の門に出づるを以て、經を館に講じ、子弟を訓導せしむ、曳裾五年、後、室鳩巣と交驩し、持論立説、多く其初と異なれり、侯之を悦ばず、東溪又舊規に拘泥するを厭ふ、遂に病に託して辭し、其の禮待を謝す、蓋し當時山崎氏の學を奉ずる者、事々物々、師説を確守し、授受固執す、好みて門戸の見を持し、其謬を知ると雖も、多方回護して、其陋習を言ふを欲せず、寵樹比黨、拘泥殊に甚し、故に東溪を忌む者は、斷然として放(ほしいまゝ)に先修を駁し、好みて定説に違ふの言を以て沮裁し、之を屈抑せんと欲す、是に於て、意を侯に失ふに至る、〔按ずるに、秋田學黌は始め造士館と曰ふ、中に明道館と曰ふ、今は日智館と曰ふ、其學風屡〃變ず、初は山崎氏、中は物氏(*荻生徂徠)、今は山本北山なり、〕
東溪東遊の後、鳩巣と一貴紳の宴席に相見る、鳩巣深く其學術の精密を稱し、竟に屡〃盍簪す、鳩巣益〃其人と爲りを識り、以て後進の領袖と爲す、東溪亦其長者の風あるに信服し、遂に質を門下に執る、
東溪は性度寛裕、風神朗徹、程朱を崇奉し、師説を確信すと雖も、世の山崎の學を治むる者に似ず、嘗て曰く、僕向に以爲らく、山崎翁の學は、特に理一に專らにして、分殊に略する者なり、君臣の大義あるを知りて、湯武の放伐と、君臣の義を、竝び行はれて相悖らざるを知らず、經義に内外の分あるを知りて、修身以上、敬を爲して、以て内を直し、齊家此下を以て義と爲し、以て外に方るを知らざるなり、此れ其大なるもの、既に違馳せり、其他見る所、多く一理に執定して、分殊を知らず、神道に流るゝ所以なり、今謹みて程朱の説く所を思ふに、其理一なるものは、義理の一隅なり、本原一理の處に於て、見る所未だ徹せず、故に往々窒礙する所あり、其見る所を以て、之を一にす、是れ其分殊に略するものなり、理一に精なれば、分殊に■(鹿三つ:::大漢和47714)なるもの、固より理の致す所に暗し、今其説を確守する者、各其好む所に阿るは、豈に斯れ學の旨ならんや、因つて思ふ、先賢言を垂れ教を示すの精核、後學其意を發揮するの至難、愼まざるべからず、近時の人、横に異論を生じ、妄に先儒を毀るは、其明察認得を缺くの弊なりと、
東溪は、元文中、稻葉迂齋の薦を以て、館林侯武元〔從四位下侍從松平右近將監〕に筮仕す、禄百五十石を受け、侍讀と爲り、數〃封地に往來す、後、西城の下邸舍に移居す、時に侯列相と爲り、政務を宰輔し、大任に服し、煩劇に居ると雖も、學を好み士に下る、東溪其優遇に感じ、贊成翼戴すること、二十年一日のごとし、今に至るまで、一藩の典刑法制、皆其創定する所に出で、之を沿用すと云ふ、
東溪嘗て館林に在り、權に郡宰を攝すること三年、封邑大に治る、境内を循行し、利害を偵伺し、以て人の知る能はざる所を知り、人の斷ずる能はざる所を斷ず、壅滯を通じ、棄闕を補ふ、民大に喜ぶ、
東溪郡宰と爲るの日、治下の民、金五圓を亡ふ者あり、檢覈するに跡なし、唯二僕婦のみ在り、之を訊ふ、肯て承くる者なし、命じて伊勢大神宮の禳符の木箸一を持ちて去らしむ、告げて曰く、盜まざる者は、明夜木箸故の如し、盜む者は、明夜必ず長ずること三分と、既にして之を觀れば、一は故のごとく、顔色自若たり、一は三分を剪り去る、蓋し其長を慮るなり、一言遂に服す、
東溪曰く、我邦語録の書あるは、山鹿素行を以て、之が始めと爲す、近時若林強齋の歿するや、友人山本復齋、其平生筆記する所を編次し、遺書と曰はず、概して語録と曰ふ、蓋し其言行の散逸に就くを慮るなり、然りと雖も、語録の字は、原と釋氏に出で、儒家の效ふべき所以にあらざるなり、朱子語録、既に之を排斥する者あり、曰く、宜しく遺書或は遺事と云ふべし、豈に浮屠氏の爲す所に效はんやと、是に由つて之を觀れば、書名の一事と雖も、志を道義に留むる者は、苟も爲すべからず(*と)、
東溪は元禄十五年壬午五月晦日を以て生れ、明和元年甲申八月廿六日歿す、享歳六十三、谷中の里玉林寺に葬る、配埜野氏五子を生む、長は維長、季は維厚、女は武井生に適ぐ、餘は皆夭す、著す所、世本正誤一卷・心遠堂雜録十二卷・東溪筆記八卷・文集十卷あり、


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滕鳳湫
(*久野鳳湫)
名は俊明、字は彦遠、鳳湫と號す、又老饕生と號す、通稱は彦八、江戸の人にして、尾府に仕ふ、

鳳湫は久野氏、本と藤姓より出づ、故に文詩に於ては、艸を去りて滕と爲す、嘗て細井廣澤に見え、談我土の氏族に及ぶ、廣澤又藤姓より出づるを以て、自ら修めて滕と爲し、既に之を行ふ、是より先き、安藤東野物徂徠と相謀り、文詞の上に於ては、一切滕に爲し、安藤となす者なし、鳳湫又時習に沿ふなり、
鳳湫の父圓法、出でて小谷氏を冒す、和歌を以て名あり、鳳湫十二歳の時、父に從ひて、水府肅公に其邸館に謁見す、公試に詩を作らしむ、立どころに賦して曰く、

筆は擬す鍾王の跡、詩は摸(*「莫/手」)す李杜の風、懷を暢ぶ臺閣の裏、何を以て君公に謝せん(*筆擬鍾王跡、詩摸(*「莫/手」)李杜風、暢懷臺閣裏、何以謝君公)
公之を嗟賞し、目するに奇童を以てす、親しく書籍數種を賜ひて、之を稱譽し、圓法に命ずるに、師を擇びて之を教ふるを以てす、遂に林榴岡の門に入る、
正徳辛卯、歳僅に十六、榴岡に陪從し、韓使に應接す、韓客唱和の間、人の索に應じて、敬の字を大書す、索むる者、重ねて傍に細書せんことを請ふ、管を搦(と)りて踟■(足偏+厨:::大漢和37868)す、鳳湫筆を援(ひ)き、主一無適(*主一に適する無し。)の四字を寫し、以て之を示す、韓客大に喜びて、其■(手偏+ト+ヨ+足の脚:しょう:「捷」の俗字:大漢和12445)敏を嘆賞す、
鳳湫一たびも、物徂徠を見るに及ばざりしと雖も、其説に信服し、中年の後、舊習を變更し、修辭是れ務む、故に■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)社の徒、之と汎交し、聲價頗る著る、
鳳湫は對馬の雨芳洲(*雨森芳洲)・紀府の祇南海(*祇園南海)・長門の小倉八江・赤石の梁蛻巖(*梁田蛻巖)と、交驩最も久し、四人皆其才學を推賞し、以て及ぶべからずと爲す、鳳湫殊に修辭の文を善くす、芳洲之を王鳳洲に比す、彦會ある毎に、必ず諸生と相言つて曰く、鳳洲生來るや否やと、故に從遊の士、號して鳳洲先生と曰ふ、然れども其誇大に渉るを以て、之を禁止すれども可かず、亦曰ふこと故の如し、因つて自ら改めて鳳洲と爲すと云ふ、
享保丙申、尾府に筮仕し、學問所の儒員と爲る、班は書院直郎に比す、最後府事多端にして、弊冗を改正し、諸曹貶黜する者多し、鳳湫獨り介立汚濁なきを以て、擢でられて侍讀と爲り、更に禄二百石を加賜せらる、侯藩に就く毎に、必ず之に陪從す、人皆之を榮とす、
鳳湫職君側に侍するを以て、班内臣に在り、故に事猥に外交を爲すを許さず、乃ち舊友賓客を謝絶して、恬靜身を持し、志を鉛槧に專らにす、獨り雨・祇・小倉・梁の四人とは、鴻鯉往來殆んど虚日なし、又物金谷(*荻生金谷)・鳴錦江(*成島錦江)と友とし善きのみ、故に晩暮に至るまで、遊道甚だ廣からず、
寛保中君命を奉じて、書籍を外山の別邸に校正すること、凡そ三千餘卷、皆我土の記傳叢記なり、名古屋に在り、四庫の紛雜を整理し、凡そ二萬餘卷を檢閲す、上、經解・史傳・九流・百家より、下、道釋・異説・話本・雜劇に至る、前後數次、褻服を賞賜せらる、今現に其朱抹標書する所を存し、明倫堂に藏す、近時岡田新川磯谷滄洲等其校正の精核を稱して、以て及ぶべからずと爲す、
鳳湫は資性端正、壯より仕籍に上るを以て、顧問に服事すること二十餘年、毫も過失なし、家人子弟と雖も、未だ嘗て人物を臧否するを見ず、其人と對話するに、書を讀む者にあらざれば、終日學を言はず、文を談ぜず、知らざる者は、以て未だ嘗て學ばざるの人と爲す、中外に出入するに、見る者肅然として容を歛め、之を遇す、
鳳湫は元禄九年丙子八月某日、江戸萱葉街に生れ、明和二年乙酉十月廿六日市谷の邸舍に歿す、時に七十歳、下谷宗延寺に葬る、原田氏を娶る、一男・二女を生み、先だちて歿す、男俊在、字は君績、禄を襲いで侍臣と爲る、長女は府の後官に仕へ、季女は府の醫員栗崎道喜に適ぐ、著す所、左傳杜解補注三卷・春秋釋例圖考二卷・史漢異同考六卷・説文亥豕小學考各二卷・鹿莊隨筆六卷・病間筆記四卷・悦情集三卷・鳳湫文集、皆家に傳ふ、
余少壯の時、嘗て鳳湫の遺墨數幅を、冢田大峯の許に觀る、蓋し文衡山を學ぶ者なり、當時滕廣澤(*藤廣澤?)・葛烏石等の爲す所と同じからず、二家は其早晩を論ぜず、一に形似筆勢を摸(*「莫/手」)倣し、以て得たりと爲す、鳳湫は形似を主とせず、專ら晩年の骨髓を學ぶ、故に險勁法あり、小楷尤も妙なり、世未だ其書を知らず、故に之に併せ及ぶ、


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根武夷
(*根本武夷)
名は遜志、字は伯修、武夷山人と號す、通稱は八右衞門、根本氏にして、自ら修めて根と爲す、相模の人なり、

武夷は家世〃相の鎌倉の人なり、少壯より武技を好む、撃劒を長沼四郎左衞門に學び、其秘奧を極む、蓋し撃劒の術、其原始は得て詳にすべからず、蓋し天文以降、戰國の世に起る、技撃の餘流のみ、技撃は兵中の最下と雖も、猶三軍の用を爲す、撃劒は乃ち一人の敵たり、其技愈〃卑し、然れども彼刺客の徒、能く此を以て、報讐の意を行ひ、人生を一拳の下に殪す、其機益〃精しく其術益〃熟し、變幻逸宕、端睨すべからず、後世に至るに逮び、人門戸を立て、各〃相授受す、明良の士、其少技たるを知ると雖も、苟も刀を佩ぶる者は、習演せざるを得ず、上、侯伯大人より、下、衆庶細丁に及ぶまで、盡く意を此に留むるもの、滿天下皆是なり、武夷將に此を以て身を起さんとす、八町溝に僑居し、士類に教授し、諸侯の邸第に出入す、歳廿五に及び、未だ書を讀み、道を講ずるを知らず、自ら劒客を以て居り、世の豪侠冶遊と伍を爲す、
武夷歳廿六、初て物徂徠に謁し、孫子を講ずるを聽く、初て將帥の任は、全く節制調練と規律森嚴とに在るを知る、又荀子を講ずるを聽く、荀卿兵を趙の孝成王の前に論じ、技撃を以て兵の最下なるものと爲す、是によりて、慨然として自ら學に從事せざるを悔い、節を折りて書を讀み、遂に束脩を徂徠に行ひ、之が弟子と爲る、
武夷徂徠に從事し、學術既に成る、專ら文藝を攻むと雖も、傍ら尚撃劒を以て子弟に教授す、嘗て謂ふ、我東方の人、其長ずる所は武技にして、文藝は遠く此に及ばず、故に開國の大祖、神文と曰はずして、神武と曰ふ、然れば吾輩武人ならざるべからず(*と)、常に武威雄壯にして、人を摧服せんと欲す、■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)社の徒、呼んで武威生と曰ふ、最後朱子文集を讀み、武夷九曲の詩を知る、故に武威を改めて武夷となす、原と傍人の呼ぶ所に從ひて、自ら以て號と爲す、
武夷弱冠の後、長沼翁に從ひ、佐藤直方厩橋侯の讌席に逢ふ、直方は闇齋の高弟なるを以て、舊と崇重せらる、其人豪邁抗簡、世人を傲視す、翁に謂つて曰く、夫れ劒は小技なり、項籍猶之を學ぶを恥づ、況んや項籍たらざる者をやと、其言倨驕、意之を輕蔑するに在り、武夷側に坐して之を聞き、竊に其不遜を慍ると雖も、未だ項籍の何人たるを知らず、遂に之と對話する能はず、是に於て、憤然として學に向ふの意あり、
武夷は講經の暇、韜略に旁通す、常に子弟に謂つて曰く、武技を治めんと欲せば、宜しく先づ文治より始むべし、後、盤根錯節、利器始めて神なりと、
武夷晩年李王の歌詩を厭薄し、好んで白香山(*白居易)・蘇東坡の二集を誦す、■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)社の徒、皆之を非駁す、怡然として曰く、公等未だ其美腴を嘗めず、何ぞ味の辛甘を論ぜんや、若し將に眞味を知らんとせば、但之を愛玩せよ、之を久しうして後、必ず心醉ひ神飫くあり、自ら其妙を驪・黄の表に得ん、吾今超然として言を問難の間に忘れ、將に舊習聲律の弊を一洗せんとすと、蓋し海内滔々として李王を奉崇する時に於て、自ら摸(*「莫/手」)擬■(食偏+丁:::大漢和44024)■(食偏+豆:::大漢和44179)、萬口一轍の眞詩にあらざるを識る、洵に具眼と謂ふべし、是によりて之を觀れば、■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)社の徒、其非を知る者なしと謂ふべからず、近人■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)社を排撃する者、動もすれば輙ち、一人も其非を省る者なしと謂ふ、嗚呼寃なるかな、
武夷嘗て山井崑崙〔名は鼎、字は君彝、江戸の人にして、西條の儒員なり、〕と同じく、下野の足利學に學び、七經を校勘して還る、七經とは詩・書・易・春秋・禮記・論語・孝經を言ふなり、蓋し我土傳ふる所の舊本を以て、同異を標擧し、明版注疏の誤脱を刊正するものなり、其書御覽を經、銀錠十枚を賞賜せらる、後又經筵を講官物北溪〔名は觀、字は叔達、玄覽子と號す、徂徠の弟なり、〕に命じて、其遺漏を補葺せしめ、益すに孟子を以てす、總べて二百六卷、三十六本、題して七經孟子考文補遺と曰ふ、蓋し徂徠の建言する所に依る、官之を刻して天下に布く、享保十七年壬子正月、長崎の尹をして、之を彼土に傳致せしむ、彼清仁宗、嘉慶二年、之を飜刻し、稱して以て盛擧と爲す、其原は皆崑崙・武夷の手鈔する所に出づ、眞に不朽の業と謂ふべし、
武夷又梁の皇侃論語義疏十卷を校定して世に刊行す、按ずるに馬端臨文獻通考は、梁の皇侃の論語義疏十卷を擧目し、晁公武の言を引きて云く、皇朝の刑■(日/丙:::大漢和13836)、正義を撰び、皇疏に因ると、詳に其辨論に及ばず、唐末宋初、既に舊く散逸して、我土之を存し、復た世に顯はるゝは、武夷の功なり、寶暦の初、彼土に傳送す、高宗の乾隆三十八年、詞臣をして四庫全書總目提要四庫簡明目録の二書を編纂せしめ、之を著録し、稱揚して此文に功ありと言ふ、〔按ずるに、我土の人、多く是等の言を知らず、武夷の此校刊は、たゞ論語に功あるのみならず、以て光を海外に發するに足る、近時儀徴阮元極めて其功を稱す、其言其著す所の論語註疏校勘記、及び■(研/手:::大漢和12324)經室全集等に見ゆ、好古の人、知らざるべからず、〕
清人古歙の鮑廷博、酷だ鉛槧を嗜む、群書を校訂して、知不足齋叢書全函三十集を刊行す、其第一集に、太宰春臺が校刻する所の古文孝經孔氏傳を收め、七集に武夷が校刻する所の論語義疏を收む、敢て一字を増損せず、夫れ孔傳の僞りは、辨論を待たず、其他彼に佚し此に存し、取りて收集に入るもの、猶亦少からず、義疏は首に服南郭(*服部南郭)の序を載せ、眉に根本八郎右衞門(*根本武夷)校正、寛延三年庚午六月の十六字を題し、以て我土原刻の舊樣を存す、
明和元年甲申十二月二日歿す、歳六十六、相の久良岐邑の弘明寺に葬る、著す所、相中八雄傳鎌倉風雅集東遊筆記劒技小録板東八平氏傳武藏七黨傳武夷山人遺稿等あり、


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福松江
(*福島松江)
名は興世、字は子幹、松江と號す、通稱は茂左衞門、福島氏にして、自ら修めて福と爲す、江戸の人にして、巖邑侯に仕ふ、

松江は其先世〃紀伊の人にして、父大量矢田侯初て封を受くる時に當り、屡〃輔弼の勳あり、之に仕ふること數年、三子を生む、伯有適嗣を襲ふ、叔有道早逝す、季は乃ち松江、別に出仕して世子の侍臣と爲る、享保中、有適内を喪ひ、幾ばくもなく、事に坐して去る、松江是によりて同じく去る、母氏猶在り、伯兄二姪と己と、供に五人、一朝禄を失ひ、窮迫殊に甚し、計、朝夕を支へ、之を全うするなし、或人之に勸むるに、醫を爲すを以てす、松江曰く、我れ方技に於て、嫌ふべきにあらず、人命至重なり、唯學ばざるを奈何せん、已むなくんば儒かと、遂に赤坂傳馬街に僑居し、教授を業と爲す、
松江少きより書を讀み、略〃能く大義に通ず、嘗て服南郭(*服部南郭)の門に入り、修辭の説を治む、餘熊耳石筑波(*石島筑波)・宇■(三水+旡2つ+鬲:せん:川の名、ここは人名:大漢和49237)水(*宇佐美■水)等と友とし善し、赤羽社中の諸子、皆詞藝に鋭意し、一人志を實踐に留むる者なし、松江特に操行確質を以て著はる、
松江は稟性至行、母に孝に、兄に友なり、常に謂へらく、經史を講習し、文藝に從事するは、固より嚮注する所、束帛戔々、信に微薄と雖も、猶以て數口を供給するに足るべし、伯兄二姪をして、四方に餬口して、これを家に養はしむるに忍びずと、是時に當りて、母既に耄し、兄亦善く病む、倦遊家居し、仕に志なく、内に拮据す、松江租を外に蓄へ、輔事相推し、煦■(口偏+需:::大漢和4455)相持し、以て流離せざるを得たり、之に加ふるに、歳登らざるに遭ひ、穀價騰躍し、貧窶言ふべからず、然れども衣を易へて出で、日を併せて食ふ、未だ嘗て此を以て憂と爲さず、甚だ母氏の歡心を得たり、
松江少くして武技を演習し、射御槍劒、究窮せざるなし、尤も拳法を善くす、嘗て盜の其家に入るあり、松江之を捕へて、路上に投抛す、盜疾く走りて去り、三日を經て死す、人其武技を知る者なし、亦自ら之を言はず、故に家人子弟と雖も、概して以爲らく、其善くする所は獨り文學のみと、平生緘默謙虚を以て、所長を韜藏し、これを言談の間に見はさず、
松江は謙遜敦厚、人を臧否せず、其子弟と雖も、未だ嘗て喜慍の色を見ず、然れども一の不義あれば、舊交熟知も、暫くも假借せず、必ず之を面折す、或は交際の間に於て、爲す所不恭なる者あれば、意絶して見ず、嘗て一人自ら知りて之を悔ゆるあり、服南郭に頼りて、其罪を謝す、可かず、南郭強ひて之を要す、講解再三、遂に其意を回す能はず、
寛延元年、巖村侯松江の名を聞き、禮を厚くして之を聘す、遇するに公養の禄を以てす、遊事年あり、常に經義を以て、其世子に教誨す、後、遂に臣と爲り、三十口糧を受く、師保の任に居り、班火器隊長に比す、累遷して藩の參政に至る、
寶暦中、郡上侯頼錦〔金森兵部少輔、〕罪ありて國除かる、官巖村侯をして其城邑を收めしむ、故事に凡そ城邑を收むるに、近鄰の諸侯皆盡く警あり、此任に當る者、尤も之を艱澀とす、侯能く松江の斡旋の器材あるを識り、衆に擇んで之を擧ぐ、節を假して、將帥總督を攝行せしむ、騎士十人・歩卒三百人を率ゐて、巖村を啓發し、衆士に誓言す、號令齊整、一の失錯なく、公事を勾當す、遂に振旅して還る、侯大に其勞を賞す、
郡上の役既に畢る、侯松江を信任すること益〃厚し、松江新參を以て衆士の先に居り、侯の知遇に感じ、極めて懇誠を致す、裨益する所多し、毎に入りてはこれを内に告げ、出でてはこれを外に順ふ、號令制條の布告あるに及び、人其約を納むる所、■(片+戸+甫:ゆう:櫺子窓:大漢和19890)よりするを知らず、封境の政事、皆其手に決す、陰に其恩庇に頼る者、頗る衆し、
松江は明和元年甲申六月十日を以て歿す、歳五十一、城西赤坂の專福寺に葬る、姪元綏嗣となり、禄を襲ぐ、著す所、王制分封田畝考喪服圖解各一卷・官制稱號通考四卷・世語類備八卷・世説私考二卷・絶句解考證三卷・松江詩集四卷・文集六卷あり、


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服蘇門
(*服部蘇門)
名は天游、字は伯和、蘇門道人と號す、又嘯翁と號す、服部氏にして、自ら修めて服と爲す、通稱は六藏、平安の人なり、

蘇門は其先伊賀の人なり、祖道智始めて京師に移居す、父和久、織造を以て業と爲し、機匠數人を畜ふ、蘇門躬の多病なるを以て、家資を族人に讓り、其業に服せず、讀書これ耽る、族人勸むるに、儒生となるを以てし、其費を資給す、歳廿五にして、觀自在堂を上長者千本東入街に卜築し、生徒に教授す、其學漢魏傳注を主とし、專ら博洽を務む、兼ねて佛乘に渉り、上、四庫の群籍より、下、我土兩部の衆説に■(之繞+台:たい・だい:及ぶ:大漢和38791)ぶまで、瀏覽せざるなし、躬衡門に在りと雖も、博通の聲は朝野に達す、貴紳從學する者衆し、
蘇門は壯歳、物徂徠の復古の説を追慕し、講習私淑す、後始めて其非を知り、物氏を攻撃するを以て、己が任と爲す、論辨明晰、餘力を遺さず、常に其説を奉崇する者を指笑して、以て無眼の人と爲す、特に宇明霞(*宇野明霞)始めて之を排詆し、五井蘭州繼ぎて之を非駁するを以て、吾心を得たりと爲す、嘗て謂ふ、今時の人は未だ此二家の識見に及ぶ能はず、乃ち物氏をして獨り美を海内に擅にせしむる、此に五十年なり、何ぞ其■(阜偏+貴:::大漢和41894)々たると、此言誇大に似たりと雖も、天下滔々として其學流に淪胥するの中に於て、其溺るゝを援けんと欲し、口を極めて之を謗刺す、敢て見る所なしと謂ふべからず、
蘇門常に東坡(*蘇東坡)の文を愛し、其識見に信服す、故に持論とする所、多く此に出づ、嘗て云ふ、彼國簒弑の賊、歴代相望む、孰れか南巣・牧野を援きて、以て口實と爲さざる、湯既に自ら徳に慚づ、亦奚ぞ分疏を容れん、善いかな、東坡曰く、武王は聖人にあらずと、嗚呼蘇の筆を曲げざること、董孤復た出づと謂ふべし、千歳の後、猶凛々として生氣あるを覺ゆ、是故に後世亂賊の臣、猶諱みて湯武を稱す、これに次ぎて、王莽攝を周公に比し、曹丕祚を舜禹に擬す、王敦の闕を犯すは、太甲の不君を以てし、太宗の東宮を殺すは、管蔡の不軌を以てす、これに加ふるに、王安石は新法を周禮の泉府に假り、蔡京は侈靡を豐亨豫大に托す、僉な聖經に據つて、以て附會して事を濟さゞるなし、故に人は聖人の道を得ざれば立たず、不善人も聖人の道を得ざれば行はれず、夫れ天下の善人少くして不善人多きは、聖人の天下に利するや少くして、天下に害あるや多し、
蘇門年三十八、自ら■(髟/几:::大漢和)して緇衣を服し、佛乘を研窮す、又老莊を講じ、志を道釋に專らにす、然りと雖も、經史を以て生徒に授くる、猶故の如し、自ら號して三教主人と曰ふ、
蘇門四十歳に至り、自ら齢の半百に至るべからざるを識り、自ら蘇門山人傳無名子解二篇を著し、意を此に寓す、其人名を好まずと曰ふと雖も、不朽を身後に謀るの慮なり、後、門人永田觀鵞、〔名は忠原、字は俊平、藜祈道人と號す、〕正隸に傳を書し、世に上梓す、〔蘇門山人傳に云く、山人は其姓名・郷里を忘る、嘗て晉の孫登の人と爲りを慕ひ、自ら蘇門山人と號す、家貧にして妻子なく童僕なし、常に自ら井臼を操る、蔬食菜羹と雖も、大牢を享くるが如し、一棉衣三十年、弊るれば則ち之を緝し、緝に勝へざれば則ち累々下垂す、室僅に方丈、内宅の貯なし、貯ふる所は、唯書籍の外、一几・一筆・一研のみ、疑塵席に滿つるも湛如たり、性嗜好少く、獨り書を讀むを好む、飽飯の後、北窗の下に偃臥す、架上の卷帙、手に信せて亂抽し、且つ讀み且つ鈔す、時に著す所あり、亦たゞ性靈を發舒して以て自ら娯むに在り、始め其巧拙を贊毀するに意なし、既に藁に就き、隨つて輒ち之を棄つ、或は朋友・門生これに造れば、欣然として相對し、清談靡々、日を竟へて倦まず、嘗て謂ふ、天の我を遇する厚しと謂ふべし、夫れ天我に約するに窮を以てし、能く嗜欲に澹ならしむ、我を佚するに疾を以てし、肯て世故に間ならしむ、我を縦つに識を以てし、眼をして宇宙に空しうせしむ、我を恣にするに膽を以てし、放言自快せしむ、是亦足れり、優游自在、聊か以て歳を卒る、唯天我を驕らすに才を以てせざる、是れ恨むべきのみ、然れども亦此に因つて、人の役たるを免れしむ、其意固に厚し、又何ぞ恨まん、其喜此の如し、贊に曰く、昔は陶淵明自ら五柳先生の傳を著す、世以て實録と爲す、今山人の傳に於ける亦然り、然りと雖も、この傳は誠に山人の實にして、山人の實は未だ此に盡きず、山人の學の如き、三教に精通し、百子に博渉し、旁ら天文・暦數・方技・小技に及び、兼綜せざるなし、今一の是に及ぶことなし、何ぞや、將に謙なからんとするなり、然れども山人は狂者自ら居る、素と情を匿して、以て長厚を沽る者にあらざるなり、則ち尤も解すべからず、嗚呼噫々我れ之を知る、山人自ら云はずや、眼宇宙を空しうすと云ふのみ、則ち三教聖人と雖も、亦其中に在り、況や其他の小家數、又■(言偏+巨:きょ・ご:豈に・何ぞ・苟も・止まる・至る:大漢和35370)ぞ言ふに足らん、然れば則ちこの傳、山人の實を盡すと謂ふも可なり(*と」)、無名子の解に云く、無名子は無名子を以て自ら命ず、投刺修牘より以て、詞藻論著に至るまで、悉く署するに無名子を以てし、復た其姓名を著さず、或は之を難じて曰く、子の自らこれに命ずる所以は、其名を逃るゝが爲めに似たり、矯激太だ過ぎ人情に近からざるなり、夫れ萬世師法とすべき者は、三教の聖人にあらざるか、三教の聖人は、皆其言立てり、其名傳はれり、則ち必ずしも名を避けざる者に似たり、今吾子乃ち此の如し、將に勝げて之を上げんとするか、則ち多く其量を知らざるを見る(*と)、無名子曰く、是れ王■(合/廾:::大漢和9610)州の言なり、曰く、莊生(*荘子)死生を齊しうして、物我を平せんと欲するに至る、一切有爲の迹を擧げて、之を空しうす、乃ち亦孜々たり、務めて一家の言を成さむと欲す、其言を爲すを度るに、工ならざれば止まず、故に夫れ古の立言と稱する、未だ名の爲めに使はれざる者あらず、是れたゞ莊生を知らざるのみならず、抑〃亦自ら相牴牾すと言ふ、何となれば、夫れ謂はゆる死生を齊しうし、物我を平せんと欲す、一切有爲の迹を擧げて、之を空しうする者は、有智の人にあらざるよりは能はず、今無智の人を以て、有智の人の説を創むること、萬此理無し、■(合/廾:::大漢和9610)州固より眼中翳あり、故に是矛楯の論を持して、自ら覺らざるのみ、張季鷹言はずや、我をして身後の名あらしむるも、即時一杯の酒に如かずと、季鷹猶此の如し、況や莊生をや、然れば則ち其南華經(*荘子)ある所以の者は何ぞや、意ふに、當時發憤の爲す所なるか、爾らざれば、亦唯此に藉りて、以て逍遙の具と爲すに過ぎざるのみ、豈に世の名を■(口偏+敢:::大漢和4299)するの徒、紙上の言に齷齪して、これを不朽に期する者の比ならずや、嗚呼名の道縁を障るや深し、故に迦文は以て五欲の一と爲す、老子謂ふ、名と身と孰れか親しき(*と)、其警戒を垂るゝや切なり、唯孔子乃ち名を以て教と爲す、謂はゆる君子世を沒して、名と稱はざるを疾むが如き是なり、然れども此れ特に勸誘の語のみ、夫れ上士は名利倶に忘れ、中士以下は名に趨らずんば利に趨る、名は善に近く、利は不善に近し、孔子名を以て教と爲し、驅つて善にゆかしむる者は、蓋し中人以下の爲めに設くるなり、唯顔子(*顔淵)之を知る、故に曰く、夫子は循々然として、善く人を誘ふと、以て見るべきのみ、嗟呼滔々たる者、天下皆■(合/廾:::大漢和9610)州の徒なるかな、動もすれば輒ち曰く、不朽不朽と、■(澹の旁:::大漢和35458)々たる小言、これを金石に鏤め、之を堅固と謂ふ、壑舟夜遷るを知らず、能く不朽を保たんや、學博大と雖も、才富贍と雖も、終に是れ中人以下の資たるを免れず、悲しいかな(*と)、今按ずるに、此二篇又文鈔中に載す、少しく異同あり、併せ見るべし、〕
蘇門嘗て云く、堯舜を神述し、文武を憲章すと、子思、孔子を贊すること、此の如きのみ、孟子は堯舜に賢ること遠し、乃ち孟軻の卓見、衆に超越する所以なり、而も大抵古を榮とし、今を虐とす、是れ世の常情のみ、たゞ眼中翳なき者は、乃ち能く套を跳ね格を破る、然して後、始めて與に道を語るべきのみ、是に由りて之を言へば、陽明(*王陽明)の良知は、孟子より徹す、達摩(*達磨)の指心は、釋迦より■(手偏+ト+ヨ+足の脚:しょう:「捷」の俗字:大漢和12445)なり、郭象の清言は、莊周より玄なり、魏武(*曹操)の兵法は、孫子より神なり、游藝の天文は、羲和より審に、蘇軾の文は、韓柳(*韓愈、柳宗元)より妙なり、施耐庵の敍事(*水滸伝等)は、司馬遷より高く、呉友可の醫論は、張仲景より長ず、其餘まさに類に觸れて之を演ずべしと、其著す所の放言、此の如き類、極めて多し、蓋し其學術の醇疵、未だ以て之を言ふに足らず、時習の陋見を■(手偏+倍の旁:ばい・ほう・ふ:打つ・打たれる・打撃・攻撃:大漢和12244)撃し、能く獨得する所を抒ぶ、人の餘唾に依らず、頗る其人縦横の學を爲す者に似たり、
蘇門歳十四の時、一貴紳の宴席に陪す、廳頭、林道榮の書する所の學孔晞顔の四大字の横扁あり、賓主共に未だ四字の出づる所を知らず、貴紳之を問ふ、諸老之を知らず、蘇門席末に在り、聲に應じて曰く、學孔は孟子に見え、晞顔は揚子法言に見ゆと、滿坐の人、之が爲めに驚歎す、
蘇門初め徂徠の學を喜ぶ、故に門人永田觀鵞李王絶句解備考を著すの時、之が爲めに序を作り、慫慂して之を梓に授けしむ、後、其非を悟りて、舊習の人を誤るを悔介し、斷然として其見る所を抒べて云く、夫れ李王は明世の一文人のみ、固より古道に■(立心偏+夢の頭/目:::大漢和53340)く、洙泗に背馳し、剿竊摸擬、復古の説を鼓す、殆んど扮戲の子弟のごとし、當時輕俊の士、之が爲めに煽動せられ、苟も具眼ある者、歸有光徐渭のごとき、既に其籠絡を受けず、嘉隆以降、百孔千痍、人益〃厭薄すること、啻に燕石鼠璞のみならず、實に文苑の一厄なり、徂徠之を知らず、其遺訓を崇奉するは、愚の又愚なる者なり、余其書を見る毎に、人をして嘔■(口偏+歳:::大漢和4372)の堪へざらしむと、蓋し其排詆の言、多く誣妄に渉る、徂徠の徒たる者、之を仇視せざるを得ず、間〃其才識の卓絶を知る者ありと雖も、皆門戸の見を爲し、相惡むこと已に甚し、故に書を贈りて難詰する者、前後數人、敢て之を校せず、傲然として曰く、天下自ら公論あり、以て辨ずるに足らずと、〔按ずるに、燃犀録等の諸書、物氏を攻撃するを以て專務と爲す、其一言隻句と雖も、之を排詆せざるはなし、皆悉く其膏肓に中る、物氏に左袒する者と雖も、之と辯難して、其攻撃を斥非するを得ず、實に物氏の益友と謂ふべし、たゞ惜むらくは、其攻撃する所、往々枉を矯げ正を過ぎ、吹求の言を免れず、中井竹山非物編森東郭非辨名等、皆蘇門を待つて後に作るなり、〕蘇門年不惑を踰え、舊痾彌〃留り、褊急益〃甚し、遂に明和六年己丑九月十六日を以て歿す、生の享保九年四月六日を距る、春秋四十六、洛□(*原文1字欠)善福寺に葬る、其簀を易ふるに及び、門人永田觀鵞に遺命して、著述草稿、曁び儲藏する所の書卷畫軸の類を附託す、又平生愛玩する所の、明人陳眉公十集全部を以て、殉葬すと云ふ、
平生暫くも筆を休めず、其起稿する所數十百卷、就中燃犀録・同續録・同別録各二卷・同餘録・同遺録各三卷・落草放言續放言赤■(身偏+果:::大漢和38099)■(身偏+果:::大漢和38099)各一卷・碧巖方語解蘇門文鈔各二卷・前戲録後戲録各一卷・嘯臺餘響・同遺響各二卷、皆世に行はる、


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滕水昌
(*首藤水昌)
名は元■(日/丙:::大漢和13836)、字は仲虎、水昌山人と號す、通稱は文二、首藤氏にして、自ら修めて滕と爲す、美濃の人なり、

水昌の父、名は煥、字は季發、美濃巖村の人にして、邑里に教授す、水昌幼にして背せらる、歳十七、良師友を洛攝に求め、遂に伊勢の桑名に到り、南宮大湫に謁す、此に從事すること十七年、大湫、親炙の久しきを以て、乃ち之を塾中に長たらしむ、性詞藻を好み、吟詠これ耽る、善詩の聲、一時に著聞す、
水昌は信濃の石作駒石と同じく、大湫の家に寓す、筆硯に從事し、情交尤も密なり、亦之と其甲子を同じくす、同社の人、呼んで美虎信駒と云ふ、
水昌少きより記性人に絶す、嘗て尾府に遊び、松平君山〔名は秀雲、字は子龍、尾府の圖書府監事なり、〕が老杜(*杜甫)の飮中八仙歌を講説するを聞きて云ふ、知章(*賀知章)が馬に乘るは、船に乘るに似たり、眼花地に落ちて、水底に眠る、其水底に眠るを解するもの、辯説多端にして、疑似に渉り、復た明解するなし(*と)、水昌、晉書王祥醉ひて肩輿に憑り、頭擧らずして歸る、其親戚之に戲れて曰く、子が眼花井底に在り、身水中に在り、睡るも亦睡らざるやの語を擧げて、之(*君山)に質問す、亦新唐書賀知章の傳を暗誦して、以て其沈醉の情状を言ふ、君山之が爲めに舌を吐く、時に歳十五なり、
大湫桑名に僑居し、業を講じ徒に授く、明和戊子、東のかた江戸に遊び、日本橋南呉昌街に居る、此に居ること四年、萱葉街に卜築す、水昌前後之に從ひて、塾中に在りと雖も、京師・大阪・名古屋・桑名の諸地に遊ぶこと數次、一就一去、居趾を定めず、安永元年壬辰の春、大湫之が爲めに、居宅を深川の松井街に買ひて、水昌をして之に移り居らしむ、教授を業と爲す、又將に以て其氏女を擇みて、之に妻はさんとす、幾ばくもなく、其居火に罹り、復た大湫の家に寄寓す、
水昌飮を好み斗を盡し、磊落不羈、儀容を收めず、常に窮に處ると雖も、未だ嘗て世の榮辱得失を以て、其志を紊さず、朝暮あるなく、飮酒たゞ好む、後之が爲めに疾を得、起つべからざるに至る、
水昌病中の雜詠十六首、瑕瑜互に存すと雖も、以て其人の志操を知るに足る、故に石作駒石曰く、首々以て一部の紀事に充つべしと、其詩に云く、

仲春中の五日、正に是れ痾を抱て歸る、只開花の色を見て、落花の飛ぶを見ず (*仲春中五日、正是抱痾歸、只見開花色、不見落花飛)
曉小舟を棹て歸り、高臥して甕■(片+戸+甫:ゆう:櫺子窓:大漢和19890)を掩ふ、吾が病痕を知んと欲せば、正に是れ當■(土偏+盧:::大漢和5586)の酒 (*曉棹小舟歸、高臥掩甕■、欲知吾病痕、正是當■酒)
病牀眠成らず、午後寒と熱と、藥餌自ら相將ふ、人の蹇劣を尋る無し (*病牀眠不成、午後寒與熱、藥餌自相將、無人尋蹇劣)
柴門朝寂寂、忽ち喚ふ賣花の人、夭桃の色を買得て、瓶に挿て秦を避るを學ぶ (*柴門朝寂々、忽喚賣花人、買得夭桃色、挿瓶學避秦)
寺有り家の前後、魚の近鄰に覓る無し、自ら知る過去の世、應に是れ野僧の身なるべし (*有寺家前後、無魚覓近鄰、自知過去世、應是野僧身)
三春の好に辜負して、坐て惜む三春の去るを、春風花を吹落し、飛て枕を欹つ處に入る (*辜負三春好、坐惜三春去、春風吹落花、飛入欹枕處)
蓬頭長く櫛らず、垢面浴するに時無し、鏡を照して驚き相ひ問ふ、知らず君は是れ誰ぞ (*蓬頭長不櫛、垢面浴無時、照鏡驚相問、不知君是誰)
微躯病て且つ貧し、家に■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・助ける〈=擔〉:大漢和1195)石の蓄へ無し、只賣殘の衣を典して、還て調飢の腹を滿す (*微躯病且貧、家無■石蓄、只典賣殘衣、還滿調飢腹)
酒有れども飮む能はず、花有れども看るを得ず、間窗の下に偃臥して、春色の闌を何する無し (*有酒不能飮、有花不得看、偃臥間窗下、無何春色闌)
皮裏陽秋に在り、桃花血色に奇なり、何ぞ吹毛の刃を得て、此造化の兒を刺ん (*皮裏陽秋在、桃花血色奇、何得吹毛刃、刺此造化兒)
管絃郭の東西、櫻花樓の咫尺、獨り多病の人と爲り、紅塵の陌を過らず (*管絃郭東西、櫻花樓咫尺、獨爲多病人、不過紅塵陌)
神仙吾れ願はず、生死吾れ愁へず、只愁ふ病苦多く、此の身自由ならざるを (*神仙吾不願、生死吾不愁、只愁多病苦、此身不自由)
吾今父母無し、誰か其れ病を之れ憂ん、自ら憂へ且つ自ら慰す、身は是れ風流を病む (*吾今無父母、誰其病之憂、自憂且自慰、身是病風流)
杖藜小艇に乘り、疾を力て春華を問ふ、花開と鳥弄と、未だ詩魔を伏するを得ず (*杖藜乘小艇、力疾問春華、花開與鳥弄、未得伏詩魔)
蝸廬寂として未だ寐ず、枕上孤燈に對す、忽ち聽く南無の唄、正に知る食を乞ふ僧 (*蝸廬寂未寐、枕上對孤燈、忽聽南無唄、正知乞食僧)
嚢底錢の多少、瓢中食の有無、病を抱て猶勞苦す、深川の一腐儒 (*嚢底錢多少、瓢中食有無、抱病猶勞苦、深川一腐儒)
水昌は安永元年壬辰八月廿二日を以て、大湫の家に歿す、年三十三、終に臨み、詩を賦し、大湫に永訣す、其詩に云く、
茫々たる泉路復た誰にか憑らん、未だ恩を酬ゆるに及ばず涙冰の若し、秋風一片南■(片+聰の旁:::大漢和19883)の下、吹き入る牀頭半夜の燈 (*茫々泉路復誰憑、未及酬恩涙若冰、秋風一片南■下、吹入牀頭半夜燈)
蓋し此年の春、居を松井街に移す、幾ばくもなく病に罹り、夏火災に遭ふ、其奇窘言ふべからず、大湫之が爲めに、棺斂を具へ、東叡山下の泉龍寺に禮葬す、又碣文を製して、之を石に刻む、當時其師弟の間、懇誠の厚き、以て欽賞すべし、
水昌編選する所、日本名家詩選七卷、盛に世に行はる、原刻摩滅して、再三版に至る、其他赤穗四十六士論一卷・唐話小説二卷・水昌山人遺稿一卷、皆梓行す、平生意を進取に絶ち、講貫益〃密なり、頗る其師大湫の人と爲りに類似す、時名ありと雖も、未だ其の抱負する所を展ぶるに至らず、眞に惜むべし、


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河野恕齋
名は子龍、字は伯潛、恕齋と號す、通稱は忠右衞門、平安の人にして、蓮池侯に仕ふ、

恕齋は岡龍洲の長子なり、龍洲、本姓は河野、故ありて岡氏を冒すこと數世なりしが、恕齋を生むに及び、之をして本姓に歸復せしめ、以て河野氏を稱す、
恕齋は初め鶴皐と號し、中ごろ南濱漁人と更む、儒者たるに意なく、意を臨池の技に精しうす、未だ成童に至らざるに、筆札の美、老成の者のごとし、
恕齋は幼より頴悟にして、經史を誦讀す、十歳にして詩を作り、神童の稱あり、龍洲蓮池侯に遊事す、其耆宿たるを以て、優遇して召さず、其家に禄食せしむ、たゞ毎に侯述職して、國に就くの次、大坂の旅館に引見し、疑事を咨詢し、時務を參決す、侯恕齋の學を好むを聞き、併せ召して、試みるに詩賦を以てす、命に應じて立どころに成る、侯大に悦びて、厚く之を賞賜し、益〃之をして意を學業に專らにせしむ、
恕齋僅に弱冠に及び、其學大に進む、該覽せざるなし、尤も文章に長じ、筆を下せば、頃刻にして數百千言、布置結構、自ら法度あり、屹然として都下に名あり、時に龍洲經義を以て一世を風靡す、學徒の輦轂の下に遊ぶ者、趨謁せざる者なし、又退きて恕齋を見、爽然として自失し、爭ひて皆交を締ぶ、故に文章の聲、海内に延譽す、
恕齋、性沈深にして智略多し、蚤に大志を負ふ、嘗て賈大傅(*賈誼)・陸宣公の人と爲りを慕ひ、謂つて曰く、君子の學を爲すや、苟も之を事業に措く能はざれば、全徳にあらずと、寶暦中、蓮池公意を政事に鋭うし、封土の冗費、民に便ならざるものを檢覈す、恕齋弊を救ふの五策を獻ず、一に曰く、恩威を示し、士氣を振ふ、二に曰く、賞罰を公にし、衆庶を懷く、三に曰く、舊習を矯め、吝儉を別つ、四に曰く、請謁を禁じ、侵永を警む、五に曰く、廉恥を勵まし、情實を覈すと、侯益〃喜びて、衣服を賞賜す、
恕齋の建議する所、盡く以て弊を救ふに足る、侯深く其才の用ふべきを知り、遂に擢でて浪華の邸監と爲し、別に禄百石を受く、親ら金礪を爲すの語を書して之を賜ふ、是に於て父子別居し、眷遇殊に厚し、人皆これを艷榮す、
浪華の地は、海運輻輳して、富商大賈多し、故に諸侯皆邸を此に置き、以て糶糴貨財を辨じ、假借濟賃を給するの諸事を爲す、而して監司其人を難んず、昔より此職に居る者、膽略ある者にあらざれば、任に勝うる能はず、蓋し昇平既に久しく、諸侯の用度■(宀/浸:::大漢和59493)〃廣し、給を商賈に取らざるを得ず、商賈其愆■(戈/心:::大漢和?)(*■(立心偏+淺の旁:::大漢和10761)か。)を恐れ、有司の爲す所を視、進退を緩急し、巧に向背を作す、動もすれば輒ち、期に便ならざるを致す、恕齋邸監と爲り、約を信じ、情を誠にし、職に■(艸冠/三水+位:::大漢和31565)みて勤敏、事に遇へば即ち斷ず、邸政清肅、殆んど延滯なし、商賈皆恕齋の處置法あるを視、其期限を定め、貸貰融通す、故に國頻に大喪旱■(三水+珍の旁:::大漢和17246)災■(生/目:::大漢和23228)ありと雖も、調度虧くること無し、皆其功なり、
蓮池の該部、穀九百斛を浪華に運漕せしが到らず、舟師來り報じて曰く、海上颶に遭ひ、船破れ穀沒す、僅に身を以て免る、人幸に恙なしと、因つて沿海司の勘牌を出し、以て詐欺せざるを示す、證左明白、人皆これを信ず、恕齋獨り其支辭を疑ひ、之を拘して推訊すること六晝夜、果して其情實を得たり、蓋し舟師相謀り、言を船破れ穀沒するに託して、沿海の官吏を欺き、其勘牌を乞ひて、竊に之を奸賣し、以て之を利するのみ、既に黠詐を洞視して、乃ち急に之を追捕す、■(貝偏+藏:::大漢和36990)賊倶に獲たり、人稱して以て神明と爲す、
恕齋は吏務に精通し、循吏の風あり、六たび蓮池にゆき、再び江戸にゆく、東西奔歩、皆國事の爲めなり、其邸監たること十有餘年、侯其功勞を喜びて、將に大に之を用ひんとす、未だ果さずして歿す、時人甚だ惜めり、
恕齋は忠誠強直、知りて言はざるなし、嘗て侯樊籠の玩ありと聞き、以爲らく、侯伯の爲す所、慾に從ひ理に悖り、道に乖くの行、游戲弄好の事一ならず、而も樊禽の樂、尤も徳に悖ると爲す、何となれば、和諧自然の音を樂まずして、號哭悲哀の聲を悦び、之を用ひて興を助け、此を用ひて酒を侑む、其忍亦已に甚しからずや、昔家臣其■(豕偏+假の旁:::大漢和36435)子に忍びず、孟孫孤を託す、忍びざるの心、豈に人獸を以て異ならんや、則ち以て號哭悲哀の心を樂み、群黎に臨めば、其能く忍びざるの政あらんや、其れ玩好の事は至微なり至細なり、微に縁つて大を致し、細より以て巨を致す、履霜の漸、實に以て懼るべし(*と)、乃ち樊禽の賦を作り以て諷す、其辭に云く、夫れ何ぞ小禽の衆多なる、羽毛を分ちて、以て各〃儀あり、蒼莽を育して逍遙し、園池を擇みて追隨す、秋實の垂累を啄み、春葩の萎■(艸冠/豕+生:::大漢和56328)を弄ぶ、飮みて滿腹に過ぎず、安寧一枝に踰ゆ、茂陰に交柯して、平林■(之繞+施の旁:::大漢和38785)■(之繞+麗:::大漢和39260)たり、和煕の良辰に屬し、烟景の已に美なるを樂む、■(廱の旁:::大漢和42123)々たるその音、柳條を織りて、以て遷移し、■(口偏+皆:::大漢和3910)々たるその鳴、芳樹に搶(つ)いて決起す、爰に群し爰に友し、すなはち飛び、すなはち止まり、樂の洽きところに稟和す、豈に絲竹の擬すべきのみならむや、乃ち雀羅を設け、■(网/且:::大漢和28245)罘を陳ね、之を駭かし之を掩ふ、之を繋ぎ之を俘にし、之を籠にし之を絡す、收めて之を拘し、雕籠を飾りて、以て之を居らしむ、彩絲を■(糸偏+巣:::大漢和1171)して、以て之を紆にす、侶を絶つて、以て何ぞ慘なる、離群何ぞ孤なる、誠に生意の存せざる、豈に香餌の便のみならん、頭頸を延べて、以て悲號し、羽翼を歛めて哀呼す、目■(目偏+俊の旁:::大漢和23346)々として其れ疑懼す、容瞿々として其れ懷戚す、樊籠豈に煥ならざらむや、桎梏何ぞ益あらん、纏條豈に絢ならざらむや、束縛甚だ厄なり、羽を振ふに地無く、身を運ぶに、安くにか適かむ、莊生(*荘子)を歩啄に思ひ、林公の■(金偏+殺:::大漢和57253)■(鬲+羽:かく・れき:羽の茎:大漢和28776)を悲む、嗟呼稟體の各〃殊なりと雖も、豈に中情曾て換へん、滿坐の樂まざる、一人の嘆を發する、何ぞ世主の甚だ忍びて、唯樊籠是れ玩ぶ、孰れか和諧の能く應ずる、實に窮■(戚/心:::大漢和11158)して、以て叫屈す、乃ち號呼の悽婉を樂みて、悲哀の憤鬱を娯む、仁心安くにか在る、至理何ぞ拂(もど)る、これ聖王の世に御す、實に一視以て恤を同じうす、澤蠕動に及び、恩微物に逮ぶ、胡ぞ此強忍の行なる、豈に狡童の狂に異ならんや、物を禍して樂を作す、以て哭して康を助く、徳を損する、實に危亡よりも甚しきあり、義を愆(あやま)つ、豈に得喪に關する無からんや、■(卵+段:::大漢和16681)卵毀らず、鳳鳥來翔す、■(此/肉:::大漢和29379)骨未だ掩はず、賢者遠く藏る、惡の崩るゝや、巨、繊を以て致し、善の成るや、大、小を以て至る、己を修め身を省みるは、實に矜細に在り、心を存して自ら飾るは、たゞ其れ義に合ふ、大を小に慮れば、その徳累さず、始めを終に省みれば、その功何ぞ墜ちん、是れ乃ち大保旅■(敖/犬:::大漢和20646)の至訓、獸臣司原の篤志なりと、侯見て以て大に悦び、自ら之を懲芥し、立どころに命じ、樊籠を破りて、放ち去らしむ、
恕齋は家庭に學び、專ら漢魏の訓点を主として、經義を講説すと雖も、最後識見自ら改め、志を洛■(門構+虫:びん:種族の名:大漢和41315)の學に留め、性理を研窮す、故に龍洲(*岡龍洲)の遺書、多く刊布を欲せず、其家説と雖も、正誤を補ふ者は、之を言ふを諱まず、獨得の見、別に一格の經義を構ふ、然れども自ら藝圃に優遊し、身を逢掖に終るを欲せず、嘗て謂ふ、吾をして文墨に從事せしむ、則ち寸忠顯さず、經濟の用を展ぶること無しと、
恕齋客を招き友を會す、張設至つて厚く、割烹極めて巧なり、蓋し夫妻躬自ら調理し、婢僕を勞せず、酒を温め茶を煎るの侯のごとき、亦自ら一家の法あり、之を試みるに一ならず、能く得る所あり、其父龍洲復た此の如し、
恕齋客を好み、對酌して詩を賦するを樂と爲す、一日衆に謂つて曰く、時序晴雨の詞、已に陳腐を覺ゆ、請ふ分けて國史を詠ぜむと、皆曰く、善しと、恕齋は源三位頼政を得、〔其詩に曰く、 韜畧文才一世の雄、名家何ぞ辱ん將門の風、妖を射て■(門構/昌:::大漢和41367)闔天を補ふの手、義を昌す桑楡日を廻すの功、皎節長く寒し菟道の水、遺踪空く鎖す梵王の宮、猶思ふ血戰當年の恨、千點の飛螢緑叢に入る (*韜畧文才一世雄、名家何辱將門風、射妖■闔補天手、昌義桑楡廻日功、皎節長寒菟道水、遺踪空鎖梵王宮、猶思血戰當年恨、千點飛螢入緑叢) 葛子琴は左典厩義朝、〔 一生の成敗保平の年、忠孝誰か言ふ兩全を■(匚+口:::大漢和3254)と、山隰那ぞ教ん橋梓の異、釜■(旡2つ/鬲:::大漢和45695)終に豆箕の煎らるゝ有り、文公の■(骨+并:::大漢和45181)脅便ち害に逢ふ、智伯の頭顱孰か憐を乞ふ、遮莫あれ功名兇姦に係る、千秋の瓜■(瓜+失:::大漢和56069、21380)自ら綿連たり (*一生成敗保平年、忠孝誰言■兩全、山隰那教橋梓異、釜■終有豆箕煎、文公■脅便逢害、智伯頭顱孰乞憐、遮莫功名係兇姦、千秋瓜■自綿連) 田子明は内府重盛、〔 長裾殿に昇りて主恩深く、平氏の芝蘭は舊と羽林、椿府規を納れ偏に杖に泣く、育山福を薦て遠く金を投ぐ、蛇を捕へ朝に下る還城の舞、藥を却て官に終ふ報國の心、都輦一び梁木の壞に從ひ、管絃還た鼓■(鼓/卑:::大漢和48361)の音と作る (*長裾昇殿主恩深、平氏芝蘭舊羽林、椿府納規偏泣杖、育山薦福遠投金、捕蛇朝下還城舞、却藥官終報國心、都輦一從梁木壞、管絃還作鼓■音) 、〕 一座嗟賞す、爾後會する毎に、此を以て課と爲す、體七律に限り、積みて數十百首に至る、安永の末、社友曾之唯、■(衣の間に臼:::大漢和53061)輯して册と爲し、題して野史詠と曰ひ、之を刊行す、
安永八年己亥二月九日、■(病垂/祭:::大漢和22458)を疾みて歿す、歳三十七、浪華の光明寺に葬る、著す所、洪範孔傳辨正一卷・國語韋注補正二卷・韓非子解三卷・格物餘録十卷・儒臣傳功臣傳各二卷・享箒集六卷あり、


先哲叢談續編卷之九


 多田東渓  久野鳳湫  根本武夷  福島松江  服部蘇門  首藤水昌  河野恕斎

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