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藤原惺窩林羅山林鵞峰林鳳岡菅得庵


譯註 先哲叢談 卷一

原善公道著

文學士 藤田篤譯註
(1998.6 公開。2011.5 難字表記改訂。)

藤原肅字は斂夫、惺窩と號す、北肉山人、柴立子、廣胖窩は皆其別號、播磨の人

惺窩は中納言定家十二世の孫なり、世々播磨三木郡細河村を食む〔封邑として領す〕、父爲純の時土豪別所長治の爲に侵略せらる、爲純長子爲勝と與に、之を禦ぎて利あらず、皆死す、是時に當り、織田右府覇を唱へ、其臣羽柴秀吉盛に事を用ふ、惺窩乃ち秀吉に告げ、死者の爲めに、一たび之を雪がんと欲す、秀吉答ふるに時を待つに若かざるを以てす、是に於て其地をうしなふ、惺窩初年髪を削りて釋〔佛教〕に入り、名を蕣(*「しゅん」=木槿)、妙壽院と號す、後其非を悟り、遂に儒〔孔孟の教を奉ずる者〕に歸す、時に海内騷亂、日に干戈を尋ね、文教地を拂ふ、惺窩獨り卓然道を其間に唱へ、百世文學の祖となる、豪傑の士に非ざるよりは、豈に能く此の如くなるを得んや、物茂卿が都三近に與ふる書に曰く、在昔邃古〔太古〕吾東方の邦、泯々乎(*「びんびんこ」=愚か)として知覺なし、王仁氏〔百濟の王子歸化して漢籍を傳ふ〕ありて而後字を知り、黄備氏〔吉備大臣眞備〕ありて而後經藝始めて傳はる、菅原氏〔道眞〕ありて而後文史稱すべし、惺窩氏ありて而後人々言へば、則ち天を稱し、聖を語る、此四君子者は世々學宮に尸祝〔祀る〕すと雖も、可なりと、此言信なり
甞て關白秀次の召に應じて、五山の緇徒〔僧侶〕と與に、同じく詩を相國寺に賦す、他日復た召さるゝも、辭するに病を以てし、弟子に謂つて曰く、君子小人黨あり、黨に非ずして交はるも、終に相容るゝを得ず、余を以て秀次に交はるは、唯終に相容れざるのみにあらず、後必ず悔の追ふべからざるものあらん、余復た見ることを欲せずと、秀次聞きて之をふく〔怨を含む〕、惺窩免れざるを懼れ、避けて肥前名護屋に之く、是時に當り、豐太閤異域に事あり〔朝鮮征伐〕、諸侯を率ゐて此地にのぞむ、惺窩初めて東照君〔徳川家康〕に見えて禮せらる、又中納言秀秋〔小早川氏〕に見ゆ、秀秋は性豪倨なれども、惺窩至れば肅然として容を改め、其性行も更むる所多しと云ふ
播磨の赤松廣通學を好み、獨り流俗を抜きて惺窩を師尊す、甞て學校を剏め〔創立す〕釋典せきてん〔孔子を祀る〕(*釈奠)を行ふ、惺窩竊に以爲く此人當に斯道を期すべしと、石田三成佐和山に在り、亦惺窩を重ず、戸田内記と云ふ者をして之を聘せしむ〔幣を致して招致す〕、惺窩往かんと欲して果さず、廣道故ありて自刄す、惺窩之を哭して慟す、朝鮮のきやうかうに與ふる書に曰く、赤松公今新に四書五經の經文を書し、予に請ひ、宋儒の意を以て倭訓を字傍に加へ、以て後學に便べんせんと欲す、日本に宋儒の義を唱ふる者、此冊を以て原本となすと、今世徒に上杉謙信、小早川隆景、高阪昌信、直江兼續等ありて、文を鍪筈とうかつ(*ママ)〔干戈と云ふが如く戰亂の形容〕の間に好むを知り、而して赤松廣道あるを知る者は鮮し(*と)
此邦に宋學を講ずる者、僧の玄惠を以て始となす、爾後間之を唱ふる者あれども、其學振はず、惺窩專ら朱説を奉ずるに至り、林羅山、松永昌三、那波活所の諸賢、皆其門に出で、時の爲に歸仰せらる、之に繼ぎて山崎闇齋獨立して自ら振ひ、亦洛閩〔朱子学〕を以て宗とす(*尊崇する)、是に於て乎、朱學始めて大に行はる、闇齋が眞邊まなべ仲庵に答ふる書に曰く、朱書の本朝に來る、凡そ數百年獨り清軒玄惠法印始めて此書を以て正となす、而して尚佛たるを免れず、藤太閤〔藤原前關白〕(*藤原道長)亦以爲く程朱の新釋肝心かんしんすべし、而して猶佛に惑ひ、遂に實に之を尊信する者あるを聞かずと、慶長元和の際、南浦自ら謂ふ之を信ずと、而して亦佛を尊ぶ、惺窩自ら謂ふ之を尊ぶと、而して亦陸〔陸象山にして陽明派の元祖〕を信ず、陸の學たる、陽は儒にして陰は佛なり、儒は正にして佛は邪なり、其懸隔ただ〔啻〕に雲泥のみならず、既に之を尊びて彼を信ず、則ち肯庵草廬の亞流のみ
一日直江 兼續かねつぐ來りて見んことを求む、惺窩欲せず、乃ち將命の者〔取次なり〕をしていつはりて〔いつはり〕不在なりと言はしむ、三たび來りて皆此の如し、最後惺窩謂つて曰く、渠〔彼〕若し復た來らば則ち吾之を見んと、次日即ち復た至る、時に其實に不在なるに値ふ、兼續悵然〔失望の貌〕として曰く、余先生を見んことを願ひ、而して得べからず、今已に將に北に發して會津に歸らんとす、則ち終に邂逅する〔遇ふ〕に由なし信に天なりと、言畢りて去る、頃くあり惺窩歸りて之を聞き、曰く、渠尚未だ遠からずと、即ち追うて大津驛に至り之に及ぶ、兼續大に喜び、厚く禮敬を致して曰く、予正に有道(*有徳者)に就かん〔正に就くは質すといふが如し〕と欲する者多し、前日數ばいたりて數ば不在なり、圖らざりき、今親しく玉趾を降さんとは、是れ天余に假すにを納るる〔弟子となる〕の縁を以てするなり、然も倉猝〔草卒 いそがしきこと〕の際、他は問ふに遑あらず、請ふ一事を正さん、絶を繼ぎ傾を扶く〔絶を繼ぎ傾を扶くは暗に豐家の再興を意味す〕、今の時に當り、當に行ふべきや否や、惺窩答へずして出づ、慨然として曰く、渠尚未だ覇王に屬するを思はず、又將に謀る所あらんとす、嗚呼生靈のくるしみを受くる、一に何ぞ忍ぶの甚しきやと
釋承兌、靈三、共に才學を以て自負す、甞て惺窩をなじりて曰く、吾子ごし初め佛を奉じ、今又儒となる、是れ眞を棄てゝ俗に歸するなり、吾子何ぞ此義に昧〔暗〕きや、惺窩曰く、所謂眞俗二てい(*ママ)は浮屠〔佛〕の説く所、而して俗とは自ら謂ふなり、夫れ天理に戻り、人倫を廢し、何を以て之を眞と謂はんと、二釋默然たり、他日又某所に會す、壁間に數行の草字を掛く、二釋讀む能はず、座者皆曰く、草固より讀み難し、楷の讀み易きが如きに非ずと、惺窩一覽朗誦して曰く、古人云く、能く楷を讀む者は必ず能く草を讀むと
羅山先生の撰せる行状に曰く、先生酒を嗜むも、然も或は旬を經て唇を沾ほさず、或は痛飮すれども、輙ち醉うて亂れず、又曰く、先生男あり、小字(*おさなな)を冬と曰ひ、女あり既にけい〔嫁〕(*15歳で成人する、婚約する)と、江邨北海の日本詩史、那波魯堂の學問源流、倶に惺窩儒に歸するの後、妻妾を蓄へず、酒肉を御〔食ふなり〕(*飮食物をすすめる)ざることを載するは則ち誤れり
惺窩旁ら倭歌を好み、時に吟詠して情緒を發舒〔ノベル〕す、其集四卷本集に合せて世に刊行す、羅山始めて至る、倭歌を賦して之に贈り、以て其成立を庶幾す
歌に曰く、

なれこぶし雲の上までいや高き
      なのまことをもしかれとぞ思ふ
惺窩集二版あり、一は則ち羅山の編次、菅得菴の續編、合せて八卷、字に僞舛ぎくわい〔舛は誤〕(*ママ)(*ぎせん)、一は則ち權中將ちうしやう(*ママ)爲經の編、水戸義公之を校し、倭文を併せて十七卷となし、冠するに後光明帝の御序を以てす、元寛(*元和・寛永)以降奎運大に興り、文儒盛に行はる、其著作の世に布くもの、汗牛充棟〔運ぶには牛を汗し積めば棟に充つるをいふ〕、然も未だ甞て一も至尊の賜序あるを聞かず、惺窩が如きは希世の栄耀と謂ふべし
今時詩を作る者、或は宋詩を奉じ、白石南郭輩が作る所を目して模擬剽竊となす、是に於て唐詩品彙、唐詩選、明の七子集漸く廢せられ、瀛奎律膸ゑいけいりつずゐ、聯珠詩格等盛に行はる、而して惺窩が人に教ふる、已に此書を取りて式となす、春齋の西風涙露編に曰く、惺窩言あり、曰く古詩を學ばんと欲せば、則ち選詩風雅翼を見るべし、律詩を學ばんと欲せば則ち瀛奎律膸を見るべし、絶句を學ばんと欲せば、則ち聯珠詩格を見るべしと

林忠一、名は信勝字は子信、羅山と號し、又三郎と稱す、文敏と私諡ししす、平安の人なり、大府に仕ふ、薙髪して道春と稱し、民部卿法印となる
羅山其先は加賀の人、後紀伊にうつり、父信時に及び、平安に住す、羅山生れて秀偉、幼にして學に向ふ、甲斐の徳本、父によぎ〔來訪〕太平記を讀む、羅山時に年八歳、一聞之を記し、背誦〔諳誦〕するもの數十張、又甞て某の許にいた〔至〕り、論語集中を講ず、中一葉を脱す、乃ち筆をり、暗寫以て之を補ひ、一字を謬らず、其強識率ね此類なり
年十四建仁寺に寓して書を讀む、時の宿僧才學ある者、亦皆屈して字を問ふ、遂に以爲く此人佛に入らば、必ず當に善知識となるべしと、皆勸むるに出家を以てす、羅山可かず〔聴かずと訓ず〕、僧京尹〔京都の奉行〕前田玄以に請ひ、之を父の信時に強ゆ(*強ふ)、信時曰く、唯兒の好む所のまゝなりと、羅山愈(いよ\/)可かず、竟に去りて家に歸り、再び寺門に入らず
羅山の少時、世に未だ宋説を奉ずる者あらず、羅山年十八、始めて朱子集註を讀み、心之に服す、遂に徒をあつめて朱註を講ず、清原博士、之を議して曰く、古より勅許なければ、書を講ずるを得ず、朝紳尚然り、況んや處士にして抗顔〔威張る〕、新説を講ず、罪せざるべからずと、東照君博士の議をしりぞ〔斥〕け、而して羅山を稱して見る所ありとなす、是に於て羅山益其學をおさむ、時に惺窩性命の學を以て聞ゆ、乃ち吉田玄以を介して其門に入り、業大に進む、いくばくもなく東照君に謁見し、席間顧問に應じ、光武の世系、孝武返魂香はんこんかうの出典、及び離騷載する所の蘭を解して旨にかなふ、時に年二十三
寛永中井伊侯羅山に謂つて曰く、人樊噲(くわい)〔漢の高祖の臣〕の勇を稱す、然も其勇吾亦之を能くす、何ぞ深く稱するに足らんやと、羅山答へて曰く、噲が稱せらるゝ所のもの、其闥を排して〔戸を推開く〕直諫したるを以てなり、此れ實に大勇者に非ざれば能はざるなり、若し夫れ身矢石しせきに當り、敵を卻(しりぞ:原文ルビ「しりげ」)〔退〕けて首を斬り、其戲下ぎか(*大将の旗の下、旗本=麾下:きか)の急を脱するが如き、勇は則ち勇なり、然も苟も甲をつらぬ〔着す〕〔兵器〕を執る(*甲を身につけ、刀を執る。「左伝」に拠る。)者は、以て難しとなさず、君盍ぞすこしく其言を愼まざるや、内に自ら省みなば、必ず及ぶべからざるものあらんと、侯赧然たんぜん〔赤面〕として曰く、誠に然り、吾甚だ噲に慚づと、羅山蓋し諷する〔暗に指す所あり明示せざるをいふ〕ありと云ふ
羅山は國家創業の時に際し、大に寵任せられ、朝儀を起し律令りつれいを定む、大府須ふる所の文書、其手を經ざるものなし、謂つて我叔孫通しくそんとう〔漢代初めて朝儀を定めたる者〕なりと爲すも可なり、稻葉默齋の墨水一滴に曰く、羅山年十三にして元服し、又三郎信勝と稱す、慶長中神祖〔家康〕めしを蒙り、四朝に歴仕す、即位、改元、行幸、入朝の禮、宗廟祭祀の典、外國蠻夷の事、與り議せざるはなし、正保中病んで家に在り、執事元老旨を承けて書を寄せ、或は就きて事を論じ、官醫をして病を看せしむ、時に日光山に事あり、便殿べんでん(*天子の休息所。正殿に対する。)に召見す、特に輿に乗りて城に入るを許さる、旨あり、其齢漸く高きを以て、朔望〔一日十五日〕に朝せしむと云ふ
歳暮菅得庵、羅山に謂つて曰く、余未だ通鑑綱目つうかんかうもく(*ママ)を讀まず、請ふ先生明春を以て余が爲に之を講ぜよと、羅山曰く、子の心誠に之を求めば、何ぞ來年を待たんと、即ち除日じよじつ〔大晦日〕を以て講起す、又甞て人にむか〔迎〕へられて、祇園神會じんゑを觀る、適ま一諸生棠陰比事を袖にして來り問ふ、羅山一々之を説き、きう(*ママ)(*「き」=日脚。)既に移りて、遂に會を觀ず
甞て春秋〔書名〕を講ず、羅山書を寄せて曰く、古人春秋を羅浮らふに讀む、羅浮なるもの是れ羅浮に在らずして足下が明窻浄几の上に在り、古人が羅浮の意を得ば、處に隨ひて羅浮あらんのみと、因りて遂に羅山を以て號となす、其餘羅浮、浮山、羅洞、羅山長、胡蝶洞、梅村花、夕顔巷せきがんかう、顔巷、飄巷、麝眠、雲溪、尊經堂、皆其別號なり
寛永寺の地、舊名は忍岡、山わう祠より清水觀音くわんおんに至り、數千は羅山の賜莊〔賜はりし邸〕に係る、春齋の櫻峰記に曰く、櫻峰なるもの何ぞや、忍岡の別號なり、滿岡の櫻は先考〔父〕の栽する所なりと、此に據れば今存ずる老幹らうかん數十章〔本〕は蓋し其遺植なり、山王祠のかたはら、又稻荷小祠あり、古老尚呼んで林稻荷と曰ふと云ふ
羅山の詩文を爲〔作〕る、翰を揮ふこと飛ぶが如く、頃刻〔暫時〕に千言を成す、明暦乙未朝鮮の信使愈秋潭ゆしうたん發歸はつきの前一夕、扶桑壯遊百五十韻を寄せて、以て賡(かう)詩〔韻を次ぐ〕を求む、時に内子ないし〔妻〕荒川氏重疾に罹り、羅山護視してかたはらに在り、而して夜間口づから和し、男春徳をして之を録せしむ、曉に至りて稿成る、一點を加へず、即ち人を遣はして齎し追はしめ、小田原驛に及び之を致す、秋潭大に驚く
羅山 博洽はくかふ〔博覽〕にして、天下の書、讀まざるなし、其著す所凡そ百有餘部皆傳ふべし、本集百五十卷、詞こう〔巧〕ならずと雖も、其言徴する(*徴証とする、拠り所にする)に足るもの甚だ多し
暮年視聽衰へず、勤力猶少年の如し、二十一史〔支那歴朝二十一代の歴史〕少より之を讀むもの數過、而して晉書以下未だ句せず、年七十四に及び、遍く之を句せんと欲す、是歳晉書、宋書、南齊書業を卒り、翌年棺をおほ
明暦丁酉正月十九日、郭北火を失す、弟子免るべからずと報ず、羅山首肯し書を讀んで輟〔止〕まず、又報ず延燒剥膚〔切迫〕なり、先生盍ぞ去らざるやと、是に於て其讀む所を手にして轎〔駕篭〕に上る、轎中之を讀んで猶輟まず、既にして郭外の別業〔別莊〕に至る、神色自若(*顔色が普段と変わらない。)、讀むこともとの如し〔元の通り〕しばらくありて一人あり馳せて報ず、第宅だいたく(*ママ)盡く焦土となると、羅山曰く銅庫に及ぶ乎否や、曰く共に烏有となると、羅山慨然として天を仰ぎて歎じて曰く、多年力蓄する所のもの、一旦祝融〔火災〕の爲に奪はる、惜むべし、惜むべし、是夕鬱々として適せず、越えて五日奄然〔氣息の閉づる貌〕として長逝す
弟永喜、一名は信澄、東舟と號し、又樗敦ちょとんと號す、平安の人なり、惺窩羅山に學び群經に博洽し、百氏を網羅す、名も又羅山とひと〔同等〕、年二十八大府に仕へ、はつを削りて刑部卿法印と曰ふ、羅山に先ちて沒す、羅山其に銘す
春齋曰く、先考れい七十五にして終はり、東舟は五十四にして終はる、二先生偶明道伊川〔宋儒にして程氏兄弟〕と其壽を同うす、但其先後異なるのみ、亦奇ならずや、若し其氣象を論ずれば、先考の和なる明道に似たり、東舟の嚴なる伊川に似たり、其學ぶ所の優劣は世皆之を知る、余が言を待たず
羅山四男あり、長は叔勝すゑかつ、字は敬吉、小字は左門年十七にして沒す、羅山墓銘を作る、次は長吉亦早く夭す、次は春齋嗣〔原注「鼠は繼」とあり。〕ぎて家學を承く、次は清字は彦復げんふく、祝髪〔剃髪〕して春徳と稱し、又凾三と號す、又考槃邁かうばんまい(*考槃は楽しむ意。)、讀耕齋、欽哉亭きんさいてい、静廬の號あり、博學にして著作多し、一時聲稱あり、亦大府に仕ふ、寛文元年病を以て沒す、年三十八、其家今に存せり

林恕、一名は春勝字は子和、春齋と稱し、鵝峰と號す、ひそかに文穆と謚す、羅山の第三子、父の職を襲ひて治部卿法印となる
春齋の幼時、羅山江戸に來る、春齋母と與に平安に居り、文詞に於ては那波活所を師とし、筆札〔書道〕に於ては松永貞徳を師とす、年十七始めて江戸に入る、此より家庭にわし〔父の前に出づる〕、文藝日に益警抜(*抜群)なり、其登用せらるゝに及び、初乃父(*其父の意か。)と與に、倶に朝儀を造るの議に與る、後數數しばしば旨を奉じて編著するもの極めて夥し、人或は之に謂つて曰く、少しく思慮を省きて攝養を致せよと、春齋乃ち曰く、武人の兵を執りて戰ひ、死をいた〔致〕して功を建つ、學者の書を讀んで言を立つ、爲に性命をおと〔亡〕すも、固より其望む所なり
春齋豪材博識にて專ら力を述作に用ふ、五經皆私考あり、數十卷を累ぬ、其他の小品極めて多し、其卷帙の浩瀚〔部數の多き〕なるもの、本朝通鑑三百十卷となす、寛文四年十一月草を起し、十年十月成る、其通鑑を修むるや、爲に群儒を聚む、官月俸を賜ひて、以て資用に供す、其文を作る、唯腹稿(*腹案)に憑〔據〕りて口占す〔口授する〕、而して善書者も給する能はず〔間に合はぬ〕、又諸家系圖傳の如き、亦三百餘卷、寛永十七年草を起し、二十年九月成る
本集は百二十卷あり、鵞峰文集と名く、之を讀めば益あること、猶羅山文集の如し、近時の學人詞藻を求めて事實を考へざる者、以て見るに足らずとなす
中江藤樹は王陽明を奉じ、山崎闇齋は程朱を信ず、皆春齋と世を同じうす、春齋が石川丈山に贈る書に曰く、近歳蠢頑〔愚鈍〕なる者あり、名を王守仁〔王陽明〕に借りて其邪教を唱へ、以て蚩々ちゝ(*ママ)〔無智〕の民を惑はし、延きて士林に及ぶ、誠に是れ當世の一弊事、而して我が憂ふる所なり、禁遏せざるべからず、芟除さんじょ〔刈盡〕せざるべからずと、蓋し是れ藤樹を指すなり、又西風涙露編に曰く、近年聞く性理を高談し、以て程朱再び出づとなす、而して文字もんじを擲ち博識を以て妨げありと稱し、而して余輩を指して俗儒となす者も亦之ありと、彼は彼たり、我は我たり、道同じからざれば、則ち相爲に謀らず〔經書の成語〕、余は唯家業を守るのみと、蓋し是れ闇齋を指すなり
某侯一夜近臣左右〔側に在る者〕と飮む、侯問うて曰く、江戸より京に至る、國を經る幾ばくぞと、一人指を屈して答へて曰く、武藏、相摸、伊豆、駿河と、而して言窮す、座に少年あり、春齋の詩を稱して曰く、「武相豆駿遠州際、參尾勢江雍路中」と、侯喜んで其句を稱するもの再三
續日本紀、養老六年七月、天下に勸課して晩禾蕎麥けうばくを種樹せしむとあり、是言に據れば、世の蕎麺(*原字:麥+面、以下も同じ。)を啖〔食〕ふや尚〔久〕し、意ふに當時獨り農食に給せしのみ、其上下通じて之を用ひ、製殊に精巧を極め、以て珍膳滋味に代ふるもの、蓋し鞬櫜〔干戈の袋に収まるをいふ〕以来始まる、春齋が戲に煙酒〔煙草と酒〕を惡むに答ふる文に曰く、近歳蕎麥麺を嗜む者器に盛りてたゐをなす、放飯流歠〔長すゝり〕、口を張りけん(*顔)ふくらし、腹に滿ち喉に擁し、十餘椀を更へて、果然厭かず、消麺蟲にあらざれば、則ち此に及ばざるべし、蓋し是れ田舎野人の食なり、然るに侯伯〔大名〕の席、文雅の筵〔學者文士の宴席〕にも、往々之を以て頓點〔供具〕となす、流俗の化之を奈何ともするなし、煙酒の行はるゝこと、既に五十餘年、蕎麥の行はるゝも、殆ど三十年、共に是れ人に益なしと雖も、亦害なきや必せり
春齋別號多し、向陽軒、(*ママ)軒、竹よう(*ママ)爬背子ははいし、晞顔齋、也魯やろ齋、物格庵、温故知新齋、頭雪眼月齋、傍花隨柳堂、辛夷塢しんいう(*ママ)(*塢は「オ」:土手・堤)、仲林、南牕、恒宇かうう、南墩、櫻峰、碩果等、皆自稱する所なり
春齋二男あり、長は春信、字は孟著、勉亭と號し、又梅洞と號す、才學あり、本朝通鑑の修、與りて力あり、年二十三さきだちてそつす、士論之を惜む、著す所梅洞遺稿、史舘茗話等あり、春齋西風涙露編を作りて之を悼む、其書に載す、陳元贇曰く、父子名をひとしくするは古來希なり、林家は三代秀才相繼ぐ、日域の美談と謂ふべしと、次は鳳岡嗣ぎて箕業〔遺業〕を承く

たう名は信篤、字は直民、鳳岡と號し、又整宇と號す、私に正献と謚す、春齋の男にして先職を襲ふ、初め春常と稱し、大藏卿法印たり、後從五位下大學頭に改め、晩に大内記と稱す
鳳岡人となり、豪俊雄邁〔傑出〕、其學亦父祖に承けて、通博多識、一代の碩儒〔大儒〕たり、天和新政の時に當り、夙夜公署に在り、幾ど虚日なし、一夕大君〔將軍〕に侍す、命あり、曰く吾未だ汝が詩を作るを見ず、試に蝋燭らふしょくを賦せよと、鳳岡聲に應じて賦して曰く
玉殿沈々トシテ冬夜長シ、九牧晷(*九州)ヲ繼ギテ影{火+旁}(*{王+旁}か。)煌、寒花添ヘ得タリ徳輝ノ美ヲ、一抹ノ紅雲建章ヲ遶ル
鳳岡素と文藻〔文字の綾〕に屑々たらず〔頓着せざること〕、而して思致敏{扌+(ト/ヨ/足の脚)}(*捷)、其才概見すべし
元禄中文教大に興り、家々讀み戸々誦す、是より先き未だ有らざる所なり、初め羅山先聖〔孔子〕の詞を忍岡に剏む、鳳岡旨を奉じて之を湯島臺に移す、其經營規畫〔建築規模〕、更に巧麗を加ふ、大君親く大成殿の三字を書して之を掲ぐ、又宅地を郭内に賜ひ、朝參に便ず、蓋し我邦在昔文學盛と稱す、保平〔保元平治〕以降皇綱解弛かいちし、區宇〔海内〕雲擾し、士大夫皆筆を投じて金革〔干戈旗鼓〕に從事す、是に於て文藝は僧徒の物となり、其の事一に五山に歸す、國家隆平を致すに及び、儒者別に家を立つ、然も尚目して制外〔成規の外〕の徒となし、其顱を禿して〔髪を剃る〕士林に列せず、是れ戰國の頽俗〔敗風〕未だ革まるに及ばざるなり、鳳岡慨然として以爲おもひらく儒の道は即ち人の道なり、人の外に儒の道あるにあらず、而して斥〔擯斥〕して制外の者となすは弊俗と謂ふべし、時に大君儒術を崇ぶ、命を蒙りはつを植えて〔蓄髪すること〕、大學頭信篤と稱す、此れ元禄四年正月十四日の事となす、是に於て和田春堅は傳藏と稱し、大河内春龍は新助と稱し、林春益は又右衞門と稱し、人見きん(*ママ)(*ぎん)は又兵衞と稱し、阪井伯隆は三左衞門と稱し、伊庭春庭は五大夫と稱し、深尾春安は權右衞門と稱し、其餘列國〔諸藩〕の儒者盡く名を改め形を變じ〔坊主を止める〕、以て士に入る、今に至り人賢愚となく、儒教の世用せいようを主とするを知るは、實に鳳岡の力なり
甞て貴戚に詣る、主人と鳳岡を重んず、延きて坐を與へて欵(*打ち解ける)〔懇談〕す、時に天寒し、鳳岡煙を喫し、且つ傲然として曰く、老人とう冷ゆ、巾〔頭巾〕を用ひざるを得ずと、即ち諸を懷中に取りて之を着く、既にして主人鳳岡のはいを打ちて曰く、膚理〔肌のキメ〕潤澤〔ツヤある〕、矍鑠〔壯健〕なるかな、老翁やと、鳳岡曰く、肩下やう〔カユキ〕を作す、少しく手を伸して之を掻けよと、主人又曰く、寡人〔徳の少き人、諸侯の謙遜する自稱〕敢て一げんの守るべきものを請ふと、鳳岡曰く、唯比丘を節せよと、此時市街に比丘尼の淫を賣るあり、故に俚言好色を謂つて比丘好となす、其豪氣にして權貴に撓〔屈〕まざること、此類多しと云ふ
鳳岡門人甚多し、其中桂山彩嚴さいがん(*ママ)、松浦交翠、徳力有鄰、安見晩山、莊恬逸、岡林竹、土田某等十餘人の如き、鳳岡の薦(すゝめ)に由りて褐を大府に釋く〔仕官する〕、此他儒を以て列侯の辟〔召徴〕に應ずる者、前後少なからず、井上蘭臺が秋山玉山を送る序に云く、羅山鵞峰二公金馬(*未央宮の門。学士の控え所。)に創業し、整宇先生に至るに及び、世の君子庠序〔學校〕を崇ぶを知り、文辭粲如〔光輝あること〕たり、吾黨の甚だ盛に益さかんなる、此より始まる、是故に天下の豪俊爭ひ起ちて之を望むこと、屯雲(*群雲)の如し、贏縢えいとう〔脚袢を着ける〕履蹻〔草クツを穿つ〕、書を負ひ嚢を擔ひ、{(土+鹵)/皿}(*鹽)汗交(こも\/)流れ、喘息薄喉〔非常に急ぐ貌〕、門につぎ(*ママ)業を受くる者、千を以て數ふ、其數千の中、日月の末光にりて、身を青雲の上に致す者あり、或は大小諸侯幣を厚くして之を召し、以て賓師となす、亦勝げて記すべからず、其不遇なるもの卜醫酒徒の中に在り、獨り自ら陸沈〔零落〕す、是に於いてか能く知る者なし。
或は曰く、徂徠亦鳳岡の門に出づと、一日鳳岡柳澤侯を過ぐ、侯徂徠をして伴接せしむ、鳳岡謂つて曰く、聞く汝近ろ異説を倡〔唱〕へて以て程朱を駁すと、程朱を駁するは猶之を恕せん、しかれども程朱を駁する者は、乃ち思孟〔子思孟子〕を駁するのぜんなり、思孟を駁するに至つては、則ち吾決して少しもさずと、徂徠頓首〔頭を地に着く〕して拜謝す
子孫爲に壽筵を設く、四方幣を致して壽を稱す、其かい(*ママ)(*「き」:食物などを贈る。)〔贈物〕陳して坐に滿つ、而して鳳岡喜ばず、人曰く翁の厚福、方今比なき、今日の盛筵を以て之を知る、然るに翁の喜ばざるは何ぞや、鳳岡曰く、若〔汝〕知らざる乎、壽筵は是れ死に瀕〔切近〕するの一關なりと
鳳岡五君に歴事す、凡そ六十年、元禄享保最も信任せらる、正徳中にあたり、新井白石權を弄す、議頗る諧〔協〕はず、數々致仕を請ひてゆる〔許〕されず、其名望の隆きを以てなり、其專掌する所のもの三、曰く官爵曰く譜系曰く喪服、此れ事體の最も大なるものに係る、其餘の機務與り聞かざるなし、故に鳳岡の門客常にち、勢ひ朝野に奮ふ 年八十一にして致仕し、後八年病を以て歿す、實に享保十七年六月朔なり、下舘侯墓銘並に序を作る、今左に銘を録す
言已むべからず、實に惟れ情に迫る、碑誄〔死者の功徳を稱述すること〕の立つ、爾の雲仍じゃう(*子々孫々)に示す、徳は其固有、教は典型に由る、源濬ふか〔深〕くして流遠し、本立ちて道成る、崇基隆なるかな、惺窩先生遠く(*頭注に「遐は遠」とあり。)絶紐をつな〔繋〕ぎ、太平を恢啓す、羅山峨々〔高き貌〕、博知叡明、交喪復古、文献〔文書〕徴するに足る、鵝峰峻々奕葉はきえう(*ママ)〔累代〕大に鳴る、讀耕豊熟し梅桐薫盈す、家林璧を聯ね、房園英をを(*衍字)とば〔飛〕す、鳳岡期に應じ、周鼎〔徳川氏に譬ふ〕以て興る、先生時に遭ひ、乃ち其名を得たり、温和慈惠、朴質忠貞、身を薄くし志を厚くし、古を好み榮を恐る、手巻を釋てず、義精を厭はず、翩々たる詩賦、玉振金聲、彈冠事にのぞ(*原字は三水を付す。)、規模遠宏、本朝通鑑法を麟經〔春秋〕に取り、貞享ていきゃう(*ママ)以降、式權衡をたすけ、洙泗の風、頽廃日久し、雙樹嚢螢、禅房牖(まど)を開く、先生新に拜す、國子祭酒〔大學頭〕、冠服始めて儼なり、絳袍〔赤色の服〕藻綬、遠近徳になづ(*ママ)、束脩禮存、侯伯權貴、駟を結んで〔四馬に駕して〕門に造る、春秋祭祀、惟れ恭惟れ享く、升降周旋、樂音餘響、殿下みづから臨む、屡祭儀を觀、側ら行殿〔假舍〕を造り、來燕來宜、例經義を講ず、珍魂(*音に「くわい」とあり。或いは「塊」の誤りか。)奇玩、玉泉酒肴、庭實に粲々、大徳名を揚げ、福を享け壽を延ぶ、先生三全、顧ふに是れ天祐〔天のタスケ〕、物に終りあり、天地遁るゝなし、陰陽消長、四時行健、八十九齢、たちま〔倏〕その〔其〕命を殞す、戦々兢々、身を保し性を全くす、謚して正献と曰ふ、遺言銘を求む、吾と夫子〔先生〕と、義丹青を貫く、豈に敢て之を辭せんや、慟哭〔大に哀泣す〕しきりにいたる、悲風衣に入り、涙雨巾をうるほす、今より自後誰にか諮詢〔尋ね問ふ〕せん、銘を石に勒〔刻〕し、用つて後人を啓く。

菅玄同、字は子徳、得庵と號し、又生白室と號す、播磨の人
得庵年二十四にして、京に入り、曲直瀬玄朔を師として醫を學ぶ、既にして惺窩の門に入り、專ら儒學を修む、且つ好んで群書を聚む、架上挿む所、萬卷啻ならずと云ふ、久しくして名遠邇ゑんじ〔遠近〕に聞え、來りて束脩を行ふ者〔弟子となる者〕甚だ衆し、惺窩が高第の弟子五人、得庵其一なり、得庵は播磨飾磨郡蒲田村に生る、故に又蒲田を氏とす、蒲田或は鎌田に作る、蓋し蒲と鎌と倭讀同じきを以てなり
寛永戊辰六月十四日、家人皆出でゝ、祇園會を視る、得庵獨居して書を讀み、方に倦んで微睡す、弟子安田安昌といふ者、ひそか〔密〕に來りて之を伺ひ、即ち就きてじゅんす、得庵未だ身を轉ずるに及ばず、胸洞〔孔明く〕してのど絶す、聞く者識ると識らざると、歎惋たんえん(*ママ)〔ナゲキ惜む〕せざるなし、官安昌を捕へて之を刑す、羅山墓誌を作りて之を惜む、噫彼れ安昌從遊年ありて、甞て羅山が旁譯〔和訓を施す〕する所の五經を校刻す、學を好むこと篤きものに似たり、然るに一旦天地容れざるの罪を犯し、身大辟〔重刑〕に陷る、大善ありと雖も、亦何ぞ稱するに足らんや、中江藤樹論を作りて曰く、玄同の人となり、徒に博物洽聞を事とし、外にしたが〔聲譽を求む〕多きに誇るを以て務となす、而して表裏眞妄の實をかくせず、其安昌を待つ犬彘〔豚〕の如し、故に安昌怒氣の爲に動かされて、逆理亂常の罪を犯すと



藤原惺窩林羅山林鵞峰林鳳岡菅得庵

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 bP 源了圓・前田勉訳注『先哲叢談』(東洋文庫574 平凡社 1994.2.10)
・・・原念斎の著述部分、本書の「前編」に当たる。
 bQ 訳注者未詳『先哲叢談』(漢文叢書〈有朋堂文庫〉 有朋堂書店 1920.5.25)
・・・「前編」部分。辻善之助の識語あり。