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譯註先哲叢談 卷八

秋山儀、字は子羽(、)小字は儀右衞門、玉山と號す、肥後の人、國侯に仕ふ

玉山世々本藩(ほんはん−ママ)に禄せらる、秋山需菴といふ者玉山の從父にして、扁倉(へんさう)〔古代の大醫二人の名即ち醫者の代表〕(*扁鵲と耆婆か。)の術を以て亦俸を受く、玉山出でゝ之が後たり、早く其技を習ふ、又少より學を好み、博く群籍を窺ふ、發明(*原文ルビ「そのはつめい」とあり。一字脱か。)する所、宿學〔老先生〕皆驚歎(けいたん−ママ)す、是に於て侯命じて更に他子を養ひて醫を嗣がしめ、玉山をして一に儒學をなさしむ、乃ち江戸に來り、祭酒林鳳岡先生に從ふ、先生其才學を奇愛し、講説の日に方(あた)り、己れ疾病あれば、玉山をして代らしむ、久しくして業大に進み、其國に歸るや、贄(し−ママ)を執り門に及ぶ者千に踰ゆと云ふ
寶暦乙亥熊本新に時習舘を剏む、此れ玉山が建議(げんぎ−ママ)して興す所なり、玉山之が提學〔學校總裁〕となり、學規十三則を掲げ、俊才を薦めて子弟を教ふ、是に於て藩中斐然(はいぜん)として〔盛なる貌〕化に嚮ふ、岩謙齋に復する書に曰く、廟學〔孔子廟と學校〕の命新に下る、以て菊地氏の廢を興すに足る、是れ不佞が涓埃(けんあい)〔微少の意〕我公に報を圖る所以なりと、又越子聰に復する書に曰く、弊邑菊地氏の時、蓋し始めて學を建つ、加藤氏に至るに及び、荒廢修めず、絃誦〔禮樂を講ずるより轉じて學問のこと〕久しく熄(や)む、加藤氏亡びて國除かる、未だ幾くならずして我先公實に茅土(ばうど)の封(はう)〔諸侯領地の故事〕を享け入りて立つ、五世今公(きんこう)に及び、儒教(じけふ−ママ)を尊信し、學舘を再興し、扁して時習と曰ふ、臣儀蓋し與(あづか)りて議するありと云ふ、紀平洲が小語に曰く、肥後秋山儀子羽は余と親交ある十數年、會飮醉語、是非四應し、未だ甞て一たび人を拒むの言を聞かず、又曰く、子羽は外(ほか)柔にして内(うち)剛なり、親友に髑髏〔人の頭蓋骨〕の杯を作れる者あり、諸客皆擧ぐ、獨り子羽敢て飮まず、詩を作りて之を諷す〔間接に忠告す〕
富士山に登る者役の小角(せうかく−ママ)(*おづぬ)の法を修め、六月朔より七月二十日に至る間を以て登陟(たうちよく)の期となす、然るに玉山七月二十一を以て登る、是日天清く風和し、獨り攬勝(*原文ルビ「らいしやう」は誤植。)〔見物〕を擅にす、遂に富岳記あり、其文朗暢〔ホガラカにて窮苦の態なし〕にして人の賞する所なり、南郭甞て稱して曰く、天地に富嶽あり、乃ち始(はし−ママ)めて此記あり、苟も神にして文ならずんば、則ち已む、群玉の圃、一たび名山に題して、萬古愈顔色を増す、夫の木華(ぼくくわ)の神の如きは、則ち固より當に粲然(さんぜん)〔笑ふ貌〕玉齒を啓くべきのみと
一日古伯彜と與に劉文翼が所に飮む、玉山謂つて曰く、余は伯彜と同じく酒を嗜(たし−ママ)む、而して伯彜は劉下惠〔古賢にて無頓着〕にして、余は則ち伯夷〔賢者にて孤介をいふ〕なりと、蓋し伯彜は善否を問はず、玉山は醇に非ざれば飮まず、故に此言あるなり
玉山已に詩文を以て一時に冠冕〔首位〕たり、又工(たくみ)に字を作り、短章片墨と雖も、人の爲に傳へらる、赤松國鸞が三上宗順に與ふる書に曰く、秋玉山の詩一首、即ち其手書する所、詩固より超乘〔最上等〕、書も亦凡ならず、遣りて以て清玩に供す、玉山は海内の一名家、僕甞て忘年の交を辱(かたじけな)くす、今は則ち亡し
玉山は林門に出でゝ交道甚だ廣く、■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園の徒に於て、南郭、仲英、蘭亭、鶴臺が輩と尤も驩(くわん)〔歡と同字〕をなす、南郭、蘭亭の歿するや、爲に詩數首を作りて之を弔す


青木敦書、字は厚甫、小字は文藏、昆陽と號す、武藏の人、大府に仕ふ

昆陽は初め處士〔民間に在るの士(、)官途に仕へざる者〕なり、其才學早く大岡忠相に知られ、官庫の書を觀ることを許さる、自ら謂(おもひら)く草莽〔クサムラにて田間〕の臣にして官書を窺ふことを得るは、古より未だ之あらず、西土〔支那〕と雖も亦然り、皇甫謐が自ら表して書一車を借るが如き、武帝の舊交あるが故なり、予大岡公の遇に非ざるよりは、焉ぞ能く此榮を得んやと、元文己(*原文「巳」は誤植。)未大府の命を拜して典籍の事を管す、後屡旨を奉じて諸州に至り、梵刹(せつ−ママ)〔寺〕民家に投じ、其舊録の以て國家の事を徴するに足るものを捜索して之を進呈す、其著述する所亦上らざるはなし、延享甲子紅葉山〔幕府書庫の所在地〕火番に擧らる、尋いで評定所儒者となり、終に遷りて書物奉行となる
昆陽は伊藤東涯の門に出づ、其學一に有用に志す、經義文章に於て必ずしも究思せず、故に堀川の徒〔伊藤門の弟子〕に類せざるものゝ如し、然も始より他師あるに非ず、山崎氏社中の剳記に、青木文藏といふ者中邨■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)齋に學び、後淺見絅齋を師とする事を載するは、此れ同名異人にして昆陽に非ず
甞て歎じて曰く、凡そ罪あり、死刑にあらざるもの、遠く之を島嶼に放つ、要は其をして天年を終らしむるに在るのみ、然るに諸島に穀少く、常に海産木實(ぼくじつ)を以て食に給す、是を以て往々餓死を免るゝ能はず、豈に亦痛からずや、種藝〔栽培と同じ意〕の地も歳歉(さいけん)に遇へば、民菜色なき能はずと雖も、意(おも)ふに百穀の外、以て穀に當つべきもの、蕃薯〔サツマイモ〕に若くはなしと、乃ち官に陳して種子を薩摩に求め、試に之を藥苑中に種(う)え(*ママ)たる〔播植〕に、極めて蕃衍〔繁殖〕す、是に於て國字を以て蕃薯考一卷を著し、其栽植の法を演し(*ママ)、官板に鏤(ろう)して種子を併せて諸島及び諸州に行下(かうか)す、未だ數年ならずして處として種え(*ママ)ざるなし、今に至るまで上下(じやうか−ママ)之を便とす、歳登(みの)らずと雖も、民■(之繞+瑞の旁:せん・ぜん:しばしば・速やかに:大漢和38988)(にわか)に餓えざるもの、實に昆陽の惠無窮に及ぶ、其墓門の碑に題して、甘薯先生之墓と曰ふは以(ゆゑ)〔故〕ある哉
昆陽の時に當り、未だ(*原文「未が」は誤植。)和蘭(おらん−ママ)の學を講ずる者あらず、昆陽獨り以爲(おもひら)く其説に於て、必ず収用すべきものあらんと、而して和蘭の字蚊脚蟹行〔横文字の形容〕、未だ通解し易からず、或は長崎に之きて譯者に質し、或は博く其書に攷(かんが)へ、遂に粗(ほゞ)了會するを獲たり、近者(ちかごろ)此學漸く闢けたれども(、)皆昆陽に本かざるを得ずと云ふ、大槻玄澤が六物新誌に曰く、和蘭學の一途、白石新井先生に草創し〔ハジマリ〕、昆陽青木先生に中興し、蘭化前野先生に休明し、■(壹+鳥:い・えい:鵜:大漢和47315)齋杉田先生に隆盛なり、故に近時斯(こゝ)に從事する者皆四先生に淵源〔原本〕せざるはなしと
昆陽は博學洽聞著書甚だ多し、而して其■(金偏+契:けい・けつ:鎌・刻む:大漢和40635)梓〔上木〕する所のもの、唯蕃薯考の一卷のみ、餘は皆家に藏す、是を以て世未だ其撰する所、何書あるを詳にせず、青木一清といふ者あり、吾之を知る、即ち昆陽の後となす、因りて遍く遺著を見ることを得たり、乃ち其目を記せん

經濟纂要十二卷、後集五卷、續集三卷、官職略記十三卷、刑法國字譯十二卷、昆陽漫録六卷、續録一卷、國家食貨略、國家金銀錢譜、答問小録、奉使小録、對客夜話、夜話小録、一夕話雜集、郡名考、和蘭勸酒哥解、和蘭櫻木一角説、長崎聞書各一卷、和蘭文字略考三卷、和蘭話譯、草廬雜談一卷


奥田士享、字は嘉甫、小字は宗四郎、蘭汀と號し、又南山と號し、又三角亭(*三角)と號す、伊勢の人、津侯に仕ふ

三角幼時表叔柴田蘋洲に就きて學ぶ、蘋洲甞て謂つて曰く、書を讀まば宜く天下第一の人を師とすべし、今の世に當り、京師の伊藤原藏即ち其人なり、汝往きて學ぶべしと、是に於て笈を負ひて東涯の門に遊び、親炙〔側に侍す〕十年、殆ど其室に入る〔造詣深きをいふ〕、乃ち擢んでられて津侯に仕ふ、謹愼事を勤め、四君に歴事し、五十年未だ甞て過あらず、侯亦眷顧甚だ渥し、老年致仕し、後時に之を召見するも、呼んで先生と曰ひ名いはず
三角賦質〔資性〕謙讓年七十七、身後に及び、人の諛墓〔墓に諂ふ〕の文を撰せんことを恐る、是に於て壽碣(じゆかつ−ママ)を建て、自ら履歴を紀す、其銘に曰く、田間に起り、廳直(ちやうちよく)に升(のぼ)る、何を以て之を得たる、稽古〔古を學ぶ〕の力(*と)
年三十三父を喪ひ、翌年東涯に訣(わか)る〔永訣にて死別〕、爲に酒肉を絶ち、心喪(しんも)を服するもの合せて四年
亭の三角と名くるは兪退翁に傚ひ、虧盈(かえい−ママ)(*きえい)〔盈れば缺くる〕の戒(かい)を存するなり、集中亭記及び詩を載す、詩に「人間交際謙損ヲ重ズ、天道循環滿虧ヲ警ム(*人間交際重謙損、天道循環警滿虧)」の句あり、後偏(ひとへ)に物の三角を好み、文房諸具より、百の雜器(ざつき)に至るまで、多く製するに三角を以てすと云ふ
三角の詩、其誦憶して人に益するもの、食禁の歌なり、曰く

天門赤豆鯉ヲ食フ勿レ、葱蒜鼈李鷄子ヲ惡ム、棗菱酢李共ニ蜜ヲ畏ル、無膓公子ハ梨柿ヲ避ク、妊婦ハ桑椹(*「そうちん・そうじん」=桑の実)鯉鱠(*鯉の膾)卵、子薑ハ瘡ヲ發シ枝指ヲ生ズ、苦苣蜜ヲ忌ミ■(魚偏+善:ぜん:海蛇・ごまめ:大漢和46499)醋ヲ忌ム、魚鱠ハ蓼ヲ用ヒテ肚裏ヲ穩ニス、胡桃麻姑■(魚偏+即:せき・そく・しゃく・しょく・ぞく:鮒:大漢和46304)蕎麥、葱麪鮎魚ハ渾テ雉ヲ犯ス、鰻■(魚偏+麗:れい・らい・り:大鮎・するめ:大漢和46626)鰍■(魚偏+善:ぜん:海蛇・ごまめ:大漢和46499)川椒ヲ忌ム、楊梅ト葱ト雀ト李ト、笋鰕糖ヲ畏レ、(*ママ)鶉菌ヲ畏ル、■(艸冠+見:かん・けん:ヒユ・にっこり笑う・喜ぶ:大漢和31074)鴨ト鼈ト■(金偏+奇:き・ぎ:鋸・鑿・釜・傾く・そばだつ:大漢和40560)ヲ同スルヲ休メヨ、魚目睫有リ腹ニハ丹字、鳥足伸ヒ(*ママ)ザルハ是レ自死、■(魚偏+即:せき・そく・しゃく・しょく・ぞく:鮒:大漢和46304)魚糖餅黄魚蕎、一タビ犯セバ永訣シテ(*「シテ」は略字を使う。)屍紫ニ變ズ(醋■(魚偏+善:ぜん:海蛇・ごまめ:大漢和46499)相犯ス、食經ニ載セズ、而して(*ママ)余二人ノ死者ヲ見ル、以て(*ママ)厨壁ニ掲グ)(*天門赤豆勿食鯉、葱蒜鼈李惡鷄子、棗菱酢李共畏蜜、無膓公子避梨柿、妊婦桑椹鯉鱠卵、子薑發瘡生枝指、苦苣忌蜜■忌醋、魚鱠用蓼穩肚裏、胡桃麻姑■蕎麥、葱麪鮎魚渾犯雉、鰻■鰍■忌川椒、楊梅與葱雀與李、笋鰕畏糖(、)鶉畏菌、■鴨與鼈休同■、魚目有睫腹丹字、鳥足不伸是自死、■魚糖餅黄魚蕎、一犯永訣屍變紫(醋■相犯、食經不載、而して余見二人死者、以て掲厨壁))
三角集は巾箱本(きんさうほん)五卷、合三冊、詩文略諸體ありて、書牘を缺く、曰く、尺牘〔書簡〕の文固より志(しる)すに足らず、事を言ふは直を賣るに似たり、問に答ふるは智を誇る嫌(けん)ありと
三角集は文二卷、卷首毎に奥田士亨著と題す、詩は三卷、卷首毎に■(手偏+帝:てい・たい・てき・ちゃく:乱れる・戯れる・取る・捨てる・笄〈こうがい〉:大漢和12379)水燕■(人偏+倉:そう・じょう:田舎者・無頼者・卑賤の者:大漢和964)(ていすゐえんさう)著と題(たい−ママ)す、■(手偏+帝:てい・たい・てき・ちゃく:乱れる・戯れる・取る・捨てる・笄〈こうがい〉:大漢和12379)水燕■(人偏+倉:そう・じょう:田舎者・無頼者・卑賤の者:大漢和964)は何の謂なるを知らず、而して近時其説を聞くに、伊勢に櫛田川あり、三角の居之に近し、因りて■(手偏+帝:てい・たい・てき・ちゃく:乱れる・戯れる・取る・捨てる・笄〈こうがい〉:大漢和12379)水と曰ふ、而して奥田(おくでん)の反〔反切〕は燕、士亨の反は■(人偏+倉:そう・じょう:田舎者・無頼者・卑賤の者:大漢和964)、其見に姓名を署せざるもの抑も故あり、南郭の始めて其集の初篇を刻するや、入江南溟以爲く古人の集皆死後に及びて、人之を傳ふるなり、其身自ら之を梓に■(金偏+浸の旁:しん・せん:刻む・彫る:大漢和40474)(しん)する〔出版〕(*「■梓」=印刷)に至りては、則ち笑ふべきの甚しきなりと、乃ち書を三角に通じて以て(*原文「以を」は誤植。)之を辯ず、三角答書して南溟に和〔賛同〕し、倶に南郭を駁(はく−ママ)す、而して世に生前其詩文を鏤〔刻版〕するもの漸く多く、人亦稱して盛事となす、三角心に之を羨み、遂に自ら其集を刻す、然も前言に恥ぢ、詩集に至りては、則ち隱名(いんめい)を用ふ(*と)


高惟馨、字は子式、蘭亭と號し、又東里と號す、本姓は高野裁して高となす、江戸の人

蘭亭の父勝春は百里居士と號し、俳諧を以て世に名あり、蘭亭は幼にして徂徠に從ひて學ぶ、既に其大義を了す、而して十七瞽となる(、)是より一に心を詩に潜め〔意を專にして研究す〕、三百篇以下、漢魏六朝唐明大家(が−ママ)の作、大抵之を暗誦す、其自ら賦する所、殆ど佳境〔巧妙の域〕に入る、遂に一時の名士南郭輩と聲譽並馳(へいち)す、紫芝園漫筆に曰く、胡元端の詩藪(しさう)に曰く、唐人宋雍初め令譽なし、瞽疾に罹(かゝ)るに及んで、詩名始めて彰(あらは)〔顯〕ると、雲溪友議に見ゆ、我友高子式年十七にして明を失ふ、厥後(そのゝち)詩才漸く高し、豈に造物の均くせ〔人の長短を平均す〕るものか、人をして其長を兼ねざらしむ、抑も造物の慈なり、人をして彼に失ひ此に得せしむと
蘭亭平生の擧止、悉く相者(しやうしや)〔盲目の引手〕を俟つ、是に於て瞽者■(人偏+長:ちょう・そう:狂う・迷う:大漢和742)々(ちやう\/)〔マヨフ貌〕の状をなさず、甞て曰く、余が明未だ喪はざる時、盲人の動もすれば其左右を摸索〔手サグリ〕するを見るに堪へず、豈に今之に傚はんや(*と)
世に蘭亭盲後の書蹟あり、此れ世人が彊(し)ひて求むるものなり、天履仁數張〔數枚〕を藏す、嘗て曰く、人の蘭亭の書を喜ぶは、徒に玩弄(*原文ルビ「らうぐわん」とあり。)に供するのみ、余は其蹟(せき)をして他日人の■(女偏+喋の旁:せつ:汚す・狎れる・侮る・乱れる:大漢和6524)黷(*原文ルビ「てふとく」は誤り。)(*せっとく)〔汚す〕に逢はしむるに忍びずと、遂に皆土中に■(病垂+夾+土:えい・うずむ:埋める:大漢和22395)(うづ)む
蘭亭の詩、人と往復する者、常に藤華岡に屬して、之を書せしむ、故に時人或は華岡を謂つて蘭亭の書佐〔書記〕となす
吾祖少年にして江戸に在る時、蘭亭と親善なり、甞て祖に謂つて曰く、余婚を覓(もと)(*原文は俗字「不+見」を使う。)〔求〕む、媒媼(ばいをん)曰く、二氏あり、一は姿色多くして女工拙し、一は才徳あれども貌甚だ寢(しん)なり〔陋にて醜なり〕、吁才色並に茂(も)なるは古より得難しとなす、苟も此に一あれば足る、余何れをか妻となさんと、祖曰く、色を愛するは目見て而後心之を悦ぶなり、始めより見るあらずんば、醜美何ぞ論ぜん、如かず其刺繍〔裁縫〕に善き者を納れて、以て家事を理(り)せしめんにはと、蘭亭歎じて曰く、誠に然り、誠に然り、交はるに信を以てするにあらずんば、孰(たれ)か能く之を言はんと、然るに終に才徳を舍てゝ姿色を娶(めど−ママ)る、夫れ婦人は必ずしも責むるに徳を以てせずと雖も、亦色を以て主となすべからずと、蘭亭惑ふ、果して六たび娶りて終に子なし
蘭亭性酒を嗜(たし−ママ)む、而して豪宕〔氣が強く物に拘はらざること〕奇を好む、常に髑髏杯を擧げて飮をなす、伴蒿蹊が閑田自筆に、百井塘雨が筆記を引きて曰く、蘭亭鎌倉の教恩寺に於て、平重衡が舞妓千壽と宴をなしたる杯(はい)を得たり、此より飮に興を添え(*ママ)、尚且つ足らず、大舘次郎が墓を發(あば)〔掘〕きて髑髏杯を製し、以て玩弄に供す、其墓を發くに當りてや、大に雷雨すれども、敢て顧みず、遂に其意を行ふ、翌年此日暴(にはか)に卒すと、此れ妄言(ばうげん)を傳聞して他に考へざるなり、蒿蹊之を信じ、以て蘭亭を毀(そし)るは、甚だ誤れり、凡そ倭學を修むる者は多く儒學を厭ひ〔嫌ひ〕、一味〔只管〕漫罵す、蒿蹊も亦免れず、蘭亭病むこと數月、終に起たず、暴卒にあらざるなりと、山惟熊が撰せる墓誌に見ゆ、余聞く、鎌倉には今現に大舘次郎の墓あり、過ぐる〔經由〕者必ず就きて之を弔すと、奈何ぞ其れ之を發くことを得んや、秋玉山は蘭亭の友人なり、髑髏杯行の詩あり、何人の髑髏なるを知らずと記す、乃ち叙を併せて之を録す、序に曰く

高子式山人は達士〔事物を達觀して超脱せるもの〕なり、髑髏杯を置き、時々把玩す、死生を一にし、形骸を遺(わす)れ、超然自適(してき−ママ)す、少年輩爭ひ飮んで豪擧〔エライ事〕となす、予獨り蹙■(安+頁:あつ・あん:鼻筋:大漢和43447)(しゆくあん)して〔額にシワを寄せるなり〕飮む能はず、衆予が未達〔超脱悟了せざる〕を笑ふ、因りて髑髏杯行〔行は詩の一體〕を作りて自ら嘲り、兼ねて髑髏の爲めに嘲(あざけり)を解く、詩に曰く
既ニ月支ノ頭ニ非ス(*ママ)、亦智伯ノ仇無シ、山人奇ヲ好ミ奇(*原文は踊り字「々」を使う。)骨ニ至ル、日ニ美酒ヲ盛ルニ髑髏ヲ以テス、少年爭ヒ飮ミテ豪擧ニ誇リ、皆道フ山人ハ達士ノ流ト、坐中ノ一客字ハ子羽、蹙■(安+頁:あつ・あん:鼻筋:大漢和43447)飮マズ心獨リ憂フ、試ニ髑髏ニ問フ汝何ノ辜アリテ甘夢ヲ驚駭シテ休ムヲ得ザル、又問フ汝ハ何物ゾ、奴カ隸カ將タ王侯カ、樽前頭ヲ搖シテ嬉笑ニ供ス、若ハ侏儒ニ非レバ必ズ俳優ナラン、髑髏答テ言フ世ニ在ル時、只タ(*ママ)記ス沈湎シテ酒池ニ飮ムヲ、又記ス朝ニ戴ク漉酒ノ巾、夕ニ著ス白接羅、時有リ興來リテ草聖ト稱ス、帽ヲ脱ス何ゾ妨ゲン■(髪頭+兵:びん:「鬢」の俗字:大漢和45469)ノ糸(*ノ)如キヲ、一タビ蓬累山河ニ歸テヨリ、貴賤貧富復タ知ラズ、我肉既ニ飫カシム烏鳶ノ腹、我顱偶爾鴟夷ニ匹ス、我形須ヒズ司命ノ復スルヲ、我魂要セズ宋玉ノ辭、糟丘煙霞我ヲ喚ヒ(*ママ)起シ、知己誰カ山人ノ奇(*ニか。)如クナラン、山人日々我頂ヲ摩シ、■(骨+饒の旁:こう・きょう:鏑矢:大漢和45276)然何ゾ天下ヲ利スル┐ヲ爲ス、蓬蒿ヲ出離シテ(*原文送り仮名は略字を使う。)綺席ニ厠ル、子羽謾ニ支離ヲ嘲ル莫レ、我聞ク古ノ酒人、一棺徒ニ身ヲ■(揖の旁+戈:しゅう・おさめる:武器をおさめる・集める・安んじる:大漢和11617)ム、縦ヒ陶家ノ土ニ葬ラルゝモ、何ゾ湘水ノ濱ニ異ナラン(*と?)、涓滴到ラズ劉伶ノ冢、南州■(鷄の偏+隹:けい:鶏の本字:大漢和42124)絮豈ニ唇ヲ沾サンヤ、淵明終ニ臨ンデ足ルヲ得ズ、畢卓生ヲ了シテ復晨セズ、古來酒人孰(*カ)我(*ノ)如クナル、宿習綿々天眞ニ醉フ、管セズ功名ノ朽不朽、論セ(*ママ)ズ形神ノ不親親ヲ(*原文「不親親」は「親不親」か。)、未(*ダ)阿梨七分破ヲ作サズ、常ニ■(酉+余:と・ず:麹・もろみ酒・濁り酒・どぶろく:大漢和39867)醉萬斛ノ春ニ染ム、君見ズヤ無功ノ日月醉郷ニ終リ、■(麗+邑:り・れき:〈地名・人名〉:大漢和39753)生ノ意氣高陽ニ盡ク、中山千日偏ニ短キニ苦ム、百年三萬亦長キニ非ズ、■(禾+尤+山:けい:〈地名・人名〉、ここは人名:大漢和8272)(*原文は別体字〈8273〉を使う。)阮化シテ褐之父(*ト)爲リ、黄公■(土偏+盧:ろ・りょ:黒土・粗い土・囲炉裏:大漢和5586)下暗ニ悲傷ス、笑殺ス人間北海ノ守、何ンゾ地下ノ南面王ニ如ン、自ラ誇ル唯我酣暢ナルカナ、長夜首ヲ濡シテ首(*原文は踊り字「々」を使う。)杯ト作ル、子羽頭顱此語ヲ聞キ、口ヲ同シテ子羽ヲ責ム、子羽汝ハ生頭顱ト爲シ、彼ハ死頭顱、生死頭顱亦奚ゾ擇バン、况ンヤ子璋ガ血摸糊ナルニ勝ルヲヤ、蹙■飮マズ一ニ何ゾ愚ナル、汝今飮マズ歳將(*ニ)去ントス、俛仰ノ間彼ト伍ヲ爲サン(*ト)(*既非月支頭、亦無智伯仇、山人好奇々至骨、日盛美酒以髑髏、少年爭飮誇豪擧、皆道山人達士流、坐中一客字子羽、蹙■不飮心獨憂、試問髑髏汝何辜驚駭甘夢不得休、又問汝何物、奴耶隸耶將王侯、樽前搖頭供嬉笑、若非侏儒必俳優、髑髏答言在世時、只記沈湎飮酒池、又記朝戴漉酒巾、夕著白接羅、有時興來稱草聖、脱帽何妨■如糸、一自蓬累歸山河、貴賤貧富不復知、我肉既飫烏鳶腹、我顱偶爾匹鴟夷、我形不須司命復、我魂不要宋玉辭、糟丘煙霞喚我起、知己誰如山人奇、山人日々摩我頂、■然何利天下爲、出離蓬蒿厠綺席、子羽莫謾嘲支離、我聞古酒人、一棺徒■身、縦葬陶家土、何異湘水濱、涓滴不到劉伶冢、南州■絮豈沾唇、淵明臨終不得足、畢卓了生不復晨、古來酒人孰如我、宿習綿々醉天眞、不管功名朽不朽、不論形神不親親、未作阿梨七分破、常染■醉萬斛春、君不見無功日月終醉郷、■生意氣盡高陽、中山千日偏苦短、百年三萬亦非長、■阮化爲褐之父、黄公■下暗悲傷、笑殺人間北海守、何如地下南面王、自誇唯我酣暢哉、長夜濡首々作杯、子羽頭顱聞此語、同口責子羽、子羽汝爲生頭顱、彼死頭顱、生死頭顱亦奚擇、况勝子璋血摸糊、蹙■不飮一何愚、汝今不飮歳將去、俛仰間與彼爲伍)
蘭亭故と勝情を負ふ〔山水の景色を好む〕、鎌倉の山水奇麗なるを喜び、歳に一再名人韻士と相追隨し、品題〔品評して詩文に入る〕殆ど遍し、甞て茅堂(ばうだう)を圓覺寺の傍に結び、松濤館と名け、以て遊息の所となす、曰く、吾死せば、即ち此に安ぜん乎と、乃ち壽碣(じゆかつ−ママ)を建つ、松崎君修記を撰(ぜん−ママ)す、後三年にして江戸に卒す、門人■(木偏+親:しん・かん:棺:大漢和15851)〔棺〕を輿(よ)し、往いて之を營葬す〔葬儀を營む〕


井通熙、字は叔、小字は嘉膳、蘭臺と號し、又圖南と號す、姓は井上修して井氏となす、江戸の人、備前侯に仕ふ

蘭臺の先は周防大内氏の族なり、七世の祖某は逆臣陶晴賢の難に死す、某井上氏を娶り、了心を生む、了心母(*原文「毋」字を使う。)の姓を冐す、爾後世々之を沿稱す、父通翁字は玄■(玉偏+番:はん・ぼん:魯の宝玉の名〈■與〉:大漢和21247)は大府の醫員なり、三男子あり、伯〔兄〕玄存職禄を襲(つ)ぐ、仲は蚤(はや)く夭す、叔(しく−ママ)〔弟〕は則ち蘭臺なり、幼にして潁敏學を好む、年十二、元日詩を賦して曰く

天邊雲物改、海上日華新ナリ、先ヅ酌ム屠蘇ノ酒、庭ニ趨リテ老親ニ献ス(*天邊雲物改、海上日華新、先酌屠蘇酒、趨庭献老親)
父之を異(い)なりとし、期するに他日の盛名を以てす、弱冠天野曾原に從ひて學ぶ、既にして林鳳岡の門に入る、享保中鳳岡旨を奉じて官庫の書を校す〔校正にて誤を訂す〕、蘭臺與かる、時に未だ蘭臺の號あらず、而して人蘭臺を以て之を呼ぶ、遂に以て號となす、元文五年備前侯の辟に應じ、教授(けふしゆ−ママ)の職に任ず
蘭臺字は叔、而して世以て子叔となすもの、石筑波が山陽行録に序して子叔と稱せしに因る
蘭臺戸を閉ぢて書を讀む、客至るあれば、則ち自ら答ふるに不在を以てす、客以て戲となす、蘭臺聲を勵して曰く、主人の自答此の如し、何の僞(ぎ)か之あらんやと、書を讀んで輟(や)〔止〕まず
蘭臺伊洛の學を信せ(*ママ)ず、甞て讀鳩巣室先生文を作り、其朱説〔朱子の説〕を固守するを非駁(ひはく−ママ)す、且つ國家(こくか)必ずしも宋儒に依らざるの證を擧げて曰く
通熙竊に以爲く先朝行ふ所にして、而して後主必ず行ふものならば、漢武〔漢武帝〕公羊を好む、宣帝當に穀梁を立つべからず〔公羊穀梁は春秋時代の書名〕、其遇ふ所の時異なればなり、國初の官板諸書、亦皆宋儒の著す所にあらず、豈に盡く程朱の説を取ることをなさんや、文敏公甞て經筵に侍し、論語の厩焚(きうふん)章を進講す、神祖〔家康〕曰く、不(ふ)を讀んで否(ひ)となすは如何と、曰く、臣謂(おも)ふに人を問ふべし、豈に馬を問ふ(*原本「問う」は誤植。)べけんや、曰く(、)然らば朱熹の解にあらず、曰く、臣愚以爲く若し國厩と云はゞ、則ち馬を問ふべし、是れ孔子の私厩なり、人を重んじ、馬を賤む、其義當に然(あた−ママ)るべし、不を讀んで否となすもの、固より朱註の意にあらず、對問の語載せて本集に在り、當時の經筵盡く朱註に依らざる、亦見るべし、享保中講官物先生朝命〔幕府の命〕を奉じて古註疏〔漢唐の傳註にして朱註に異なり〕を校す、室先生亦與かる、編成りて進呈す、悉く以て梓に■(金偏+浸の旁:しん・せん:刻む・彫る:大漢和40474)(しん)し、天下に頒布(はんふ−ママ)す、七經孟子考文是なり、伏して惟ふに朝廷の徳意、先後各立つる所あり、必ずしも相因らず、然らば則ち諸家の學、義相反す〔見解背馳するの意〕と雖も、猶之を並置すべし、豈に偏絶すべけんや
蘭臺の學頗る徂徠に似たるものあり、澁井太室曰く、蘭臺は告子〔孟子の門弟〕の言に得ざれば、心に求むる勿れといふが如しと、邨正舒に答ふる書、其所見を陳す、今左に節録す、曰く
夫れ道なるもの大路(たいろ)の如く然り、瞽者も徃き、聾者も徃く、豈に之を辨究せんや、心性なるもの學問の先(さき)とすべき所にあらず、是故に六經は之を論せ(*ママ)ず、孔子も亦罕に言ふ所なり、思孟の書首唱して、而後性道の説紛々〔糸の亂れたる貌〕競(きそひ)起り、遂に宋儒に至りて極まる、其弊や蹶然(けつぜん)〔ツマツ(*ママ)ク〕大澤に陷る、又曰く、夫れ古の聖王道を立てゝ、以て天下の人をして之に由りて行かしむるもの、豈に谿壑(けいがく)の水涸れて徒跣(とせん)〔ハダシなり(、)歩して渉ること〕すべき者の如くならんや、道は猶溟渤〔海水の深き〕の測るべからざるが如し、人性亦猶舟楫(しう\/)の如し、舟楫海(かい)に遵(したが)ひて漕(さう)すれば、百萬の粟も運して致すべし、然りと雖も海と舟楫とは一物にあらず、人性道を守りて行はゞ、億兆の衆教へて用ふべし、然りと雖も道と人性とは一物にあらず、又曰く、熙幼にして孤貧、師保〔教師と保傅〕の訓なし、然りと雖も詩〔詩經〕を誦して雅頌〔詩篇の名〕あるを知り、書を讀んで堯舜あるを知る、然後困學二十年一日の如く、益々仲尼の道を信ず、何の暇ありてか宋儒藤物二家に及ばんや、宋儒聖人を知らず、與に言ふに足らず、藤維■(木偏+貞:てい・ちょう:ねずみもち・親柱・基礎となるもの:大漢和15163)は自ら古學と稱すれども、宋儒の弊を免れず、物茂卿二辨を作爲し、又論語徴、庸學解を著す、亦唯二義及び定本發揮(はつき)と何ぞ擇ばんや、縁飾(えんしよく)する(*文章を飾る。)所ありて、仁齋を駁(ばく)するもの、亦果して是か非か、熙の未だ知らざる所なり
井上金峨業を蘭臺に受く、蘭臺之を友視し、待つに弟子を以てせず、毎に謂つて曰く、子は誠に才ある者なり、自ら當に一家を成すべし、吾(わが)籬下(りか)〔カキネの下にて蔭となるの意〕に立ちて人に後るゝ勿れと、金峨後自己の見を立つ、而して尚父執〔父の友〕蘭臺先生と稱し、終身師事す
甞て齒(は)を牛島の牛女(ぎうぢよ)祠畔に■(病垂+夾+土:えい・うずむ:埋める:大漢和22395)(うづ)め、石を建てゝ之を表し、金峨をして記を作り、東江をして書丹せしむ、蘭臺歿後、東江以爲く字未だ工(たくみ)ならずと、乃ち石を易へて改書す、蓋し初は楷を以てし、後には八分〔書體〕を以てす
蘭臺少より淫欲を絶ち、其婦人に於ける、老少なく一語も交ゆるを欲せず、人の所を訪ひ、方に宴飲歡をなす時と雖も、婦女出づれば則ち速(すみやか)に辭し去る
蘭臺戸口氏の子を養ひて嗣となす、潜字は仲龍四明と號す、學博く行修まり、早く重名(*原文ルビ「ちゆうめい」は誤植。)あり、今年八十七、矍鑠能く古を談ず、男觀字は賓玉、亦儒職を承く、孫四子あり、長は天祥、字は徴民、次(つぎ)は天覺、字は先民、次(*原文ルビ「づき」は誤植。)は天祐、字は順民、次は天爵、字は錫民、皆善士なり、蓋し蘭臺が徳澤の及ぶ所なりと云ふ


石川正恒、字は伯卿、小字は平兵衞、麟洲と號す、平安の人、小倉侯に仕ふ

麟洲幼より學を好み、才氣を負ふ、先輩皆其成るあるを期す、初め柳滄洲、堀南湖に從ひて學び、弱冠の比ひ、其父拉し〔携〕て江戸に來り、某生を見せしむ、生即ち修辭家が作る所の艱澁〔難かしく讀みがたきこと〕の文を出して之を試む、麟洲一目、輙ち誦を成す、生驚きて器重(きちよう)す、壯なるに及び、小笠原侯の徴(めし)に應じ、後進を誘掖す〔引立てる〕、其啓迪(けいてき)〔蒙を啓き智を開く〕作興(さくかう)の功尤も多し、寶暦己卯父を京に省す、會(たま\/)病作りて起たず、時に年五十有三
麟洲甞て辯道解蔽を著して、徂徠の學を彈刺す、其持論多くは■(穴冠+款:かん:空虚・穴:大漢和25655)(かん)(*「くわん」が正しい。)〔急處〕に中る、門人増井彦敬亦儒を以て名あり、同じく小倉に仕へ教授となる、石増二先生文抄世に行はる、彦敬甞て書を吾祖に修め、以て交を求む、祖復書して曰く、石子逝く後、其著す所の辯道蔽解(*ママ)を獲て之を讀む、其鄙見と頗る異同あるは論なし、然も其大要は大に鄙衷〔自家の心〕に合するものあり、乃ち潜然(さんぜん−ママ)たる〔涙の流れる貌〕もの久し、曰く夫れ聖遠く道湮(いん)〔沒却〕し、諸家紛然たり、晩生後學墻面〔故事にて壁に向ひて立ち何物も見えぬが如し〕なきにあらず、而して能く卓爾群を出で、以て後進の木鐸たるべきもの、方今僅に石子輩あるのみ、奚すれぞ斯人(このひと)にして長逝するや(*と)


湯元禎、字は之祥、小字は新兵衞、常山と號す、姓は湯淺、修して湯氏となす、備前の人、世々國侯に仕ふ

常山の父子傑素と學を好む、常山結髪(けつばつ−ママ)〔少年の時〕庭訓(ていくん−ママ)〔家庭の訓導〕を受け、書を讀むを知る、時に其藩に曹子漢といふ者あり、伊物の説を學ぶ、常山之に兄事し、勉學倦まず、年二十四、江戸に來る、是時贄を南郭に取り、專ら古文辭を修む、幾くもなく郷に歸り、後八年にして復た江戸に來り、春臺、蘭臺、觀海等諸名流と交を結ぶ、一時嘖々(さく\/)輿稱〔世間の聲譽〕ありと云ふ
寛延庚午侯の命を奉じて讃の丸龜に赴く、海上風濤驟(にはか)に起り、舟將に覆沒せんとす、衆皆生色なし、常山神色自若、朗吟して曰く

南溟使ヲ奉ズ使(*原文は踊り字「々」を使う。)臣ノ槎、直ニ破ル長風萬里ノ波、忽チ値フ怒濤ノ奔馬ニ似タルニ(、)起ツテ雄劍ヲ提ゲテ■(元+黽〈びん〉脚:げん・かん:大海亀・青海亀・いもり:大漢和48261)■(口二つ+田+一+黽脚:た:鰐:大漢和48306)ヲ叱ス(*南溟奉使々臣槎、直破長風萬里波、忽値怒濤似奔馬、起提雄劍叱■■)
其豪氣此の如し
常山人となり方正特立、身を忘れて國に徇(したが)ふ、數々要職を歴たり、其爲す所貧を賑はし窮を救ひ、慝(とく)〔姦悪〕を詰り、滯(たい)を擧ぐ、或は訟者をして自ら耻ち(*ママ)て言なからしめ、或は契券〔證文〕を焚(や)きて以て衆人を庇覆(ひふく)す、然も危言〔高くして危き言〕(*「危」は高尚・厳格の意か。)刺譏、避くる所なく、終に貶黜(へんちつ−ママ)せらる〔職を解き格を下さる〕、是より門を杜(ふさ)ぎて客を謝し、著書自ら娯む、松崎子允に答ふる書に曰く、禎や豈に敢(あい−ママ)て廉隅(れんぐう)を砥礪(しれい)し〔操行を磨く〕、名聲を鼓簧(こかう)〔鼓吹に同じ〕せんや、亦唯公事に非ざれば未だ曾て權貴の門に至らず、十有七年一日、其自信する所是のみ、又觀海に復する書に曰く、禎や行々の性、狂愚■(立心偏+幸:こう・けい:従わない・悖る・怒る:大漢和10737)直(かうちよく)、機微を知らず、危言忌む所なく、亦且つ強を抑い(*ママ)弱を植(た)つ、當路の惡(*原文ルビ「はく」は誤植。)む所、此數事を以て衆口鑠金(しやくきん)〔衆人の讒言は金を溶す〕の日に當(あた)る、其及ぶ〔禍を受く〕や宜(むべ)なり、幸に寡君の仁恕に頼り、特(こと)に末減(まつげん)に從ひ、明善をして禄を襲はしめ、黒衣の缺を補ひ、人臣の事を執らしめらる、君恩知らざるべからずと
常山武を好む、其文集に古名將の事を紀するもの、極めて多し、常山紀談を著す、亦戰國(せんこく−ママ)の義に死し節に伏(ふく)せる忠臣勇者の跡を索め、或は異傳雜説を考覈す〔考へ調らぶる〕、此れ皆武を好むの心に出づ、毎に子弟を戒めて曰く、苟も武士たる者、寧ろ文事を廢するも、武事を廢すること勿れと
常山大府の代官野口直方と友とし善し、直方甞て備中倉敷に住す、其去りて江戸に赴くに及び侯、常山をして之を郊外に送らしむ、常山男子誠を携へて〔伴ひて〕送り、謂つて曰く、元禎今日君を送らんと欲して公事あり果さず、故に兒をして代らしむ(*と)、直方曰く、異なるかな言や、先生既に辱(かたじけ)なく自ら臨む(*と)、常山曰く、今日君を送るもの、寡君が命ずる所にして、私送にあらず、余は則ち兒をして代り送らしむるのみと
井四明が撰せる行状に曰く、先生壯歳父を喪ひ、哀毀(あいき)禮に過ぐ、衰〔麻の粗布〕以て襯(しん)〔襦袢〕となし、三年脱せず、毎且往いて其墓を拜し、慟哭し〔大に悲み泣く〕て歸る、二十五月にして止む、母を喪ふも亦此の如し、其忌日(きじつ)に遇へば、必ず嗜(たし−ママ)む所のものを薦め、告ぐるに生日の語を以てし、哭泣聲を失ひて已む


瀧長■(立心偏+豈:かい・がい・やわらぐ:和らぎ楽しむ:大漢和11015)(ちやうかい)、字は彌八、鶴臺と號す、長門の人、本府に仕ふ

鶴臺本姓は引頭氏、瀧の後となり、遂に其姓を蒙る、幼より英邁〔俊敏人に勝る〕學を好む、其郷に居る、周南に從(したか−ママ)ひて徂徠の説を承く、後江戸に來る、時に徂徠の歿する已に三年、乃ち南郭の門に遊ぶ、南郭其才を異とし、視るに弟子を以てせず、既にして去りて京に到り、又長崎に之く、往く所として其才學を重んぜられざるはなし、再び江戸に來れば、則ち名聲大に起り、從遊〔弟子〕甚だ多し、寶暦癸未韓使來聘す、是に於て君命を奉じて郷に歸り、之を接伴(せつぱん)す、韓使其學の該博力あるを歎ずと云ふ
紀平洲が小語に曰く、長門の瀧長■(立心偏+豈:かい・がい・やわらぐ:和らぎ楽しむ:大漢和11015)彌八、郷に在りて一權貴と飮む、酒酣にして問うて曰く、凡そ治(ぢ)をなす、和漢孰か難易(ない−ママ)ぞと、彌八曰く、漢は難く和は易しと、曰く何ぞや、曰く彼れ不學の人をして政職に居らしめば、則ち必ず其制を受くる〔支配せらるゝ義〕を恥づ、我は不學の人政職に居ると雖も、而も下(しも)亦其制(*原文ルビ「せつ」は誤植。)を受くるを恥ぢず、彼れ難く我易き所以なりと、合坐色を失ふ〔顔色を變じて恐怖す〕、其人以て君に告ぐ、君曰く、公等を諷刺す、唯是れ此老のみと、又曰く彌八豪邁物に屈する能はず、然も善言美行(みかう−ママ)を與聞すれば、涙(なんだ)必ず睫(せう)〔目フチ〕に交はると
鶴臺傍ら博く釈氏の書を窺ひ、殆ど其説を極む、行状に曰く、最も佛學に精し、其海北に在るや、佛藏〔佛經〕を傾け其旨を究む、藩の宿僧無隱無學の輩、皆推服を極む、其他緇徒其説を得ざれば〔其理明かならざればなり〕、則ち就きて質す者あり、又無隱禪師の雜華集に載す、瀧彌八が來訪(らいばう−ママ)を謝する詩の引に曰く、瀧生は實に天下の奇才なり、其深く儒術に達し、言語■(久+火:きゅう・く:灸〈やいと〉・つける・ふさぐ・支える:大漢和18872)■(車偏+果:か・かい:〈車軸に注す油を盛る〉油壺:大漢和38380)(しやくくわ)〔談論趣味あること、■(車偏+果:か・かい:〈車軸に注す油を盛る〉油壺:大漢和38380)は車に差す膏〕たるに論なく、傍ら吾佛學に精し、故を以て余と方外〔教派外〕無二の交をなすもの、平生の贈答(そうたう−ママ)を見るべし、而して事此集の序文に詳なり(、)爰に偶ま其來訪を辱くし、別に臨んで此詩を賦し、以て謝し、兼ねて和子萼(しがく)に寄す、詩に曰く

遲日青山黄鳥啼ク、歡ブニ堪ユ陶令幽棲ヲ訪フ(*原文返り点は「レ点」を使う。)、城中ノ靈運若シ相問ハゞ、爲ニ道ヘ君ヲ送リテ虎溪ヲ過グト(*遲日青山黄鳥啼、堪歡陶令訪幽棲、城中靈運若相問、爲道送君過虎溪)
雜華集又載す、瀧生書を能くし、其義之の筆法(ひつはふ)を嗜(たし−ママ)むもの、余と癖を同くす、因りて此詩を作りて相嘉尚(かしやう)す、詩に曰く
相逢フ文雅ノ友、臂ヲ把リテ意何ゾ親キ、逸少墨池ノ月、千里兩人ヲ照ス(*相逢文雅友、把臂意何親、逸少墨池月、千里照兩人)
鶴臺が南塘先生に與ふる書に曰く、本邦の書、尊圓親王■(女偏+武:ぶ・む:媚びる:大漢和6361)媚(ふび−ママ)(*ぶび)〔ヤワ(*ママ)ラカに弱き〕(*艶めき、媚びる。)脆弱を以て、一家を成してより、後世の書家其毒を蒙らざる者なし、畫に至りても亦然り、狩野氏が浮靡輕佻〔輕薄にて堅實ならざること〕を以て、世俗の好(かう)に投じ、譽(ほまれ)を當時に擅にせしより、聲に吠へ臭(しう)を逐ふの徒、靡然(びせん−ママ)として風(ふう)に嚮ふと、此れを觀れば、鶴臺の書畫に於ける、亦識ありと謂ふべし、春臺嘗て稱して西海第一の才子となす、虚聲の賛揚にあらず
又兼ねて軒岐の術を好み、山脇玄飛、香川太仲、吉益周助輩に交はり、所謂古醫方を喜び、宋明後の説を屑(いさぎよ)しとせず、其匕劑(ひざい)屡効ありと云ふ、奈大夏に與ふる書に曰く、不佞茲に在り、詩を乞ひ書を乞ひ講を乞ひ、邀飮(きやういん−ママ)〔招宴〕する者に論なく、診を請ふ者も亦履恒に戸に滿ち、其煩に堪へず、而して亦以て間曠(かんかう)〔閑暇〕を消するに足る(*と)、又秦貞父に與ふる書に曰く、不佞の近状聞すべき者なし、醫事頗る劇にして、其煩に堪へず、然りと雖も、夫の世醫(せいゝ)の利に趨(わし)りて其術を攻(おさ)めず、巧言拙を飾り、人を非命に斃(たふ)すの不仁甚しきを疾(にく)む、是を以て黽勉(びんべん)〔精勵〕事に從ふ、亦唯乘輿人を濟(わた)す〔鄭の子産の故事、己が輿にて川を渡すとも少數に止まり徳の遍く及ばざること〕の類(るゐ)、祗(た)〔唯〕だ以て誹笑(ひせう)を取るに足れり(*と)


宇惠、字は子迪(してき)、小字は惠助、■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水(せんすゐ−ママ)(*しんすい?−大漢和辞典)と號す、本姓は宇佐美、修して宇となす、南總の人、出雲侯に仕ふ

■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水は南總夷■(三水+旡2つ+鬲:せん:川の名、ここは人名:大漢和49237)郡(*現在の夷隅郡か。)に生る、郡に川あり、■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)川と云ふ、居之に近し、因りて■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水と號す、父習翁學を好み、志あり、■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水年十七、父命じて江戸に來りて徂徠に師事せしむ、乃ち其塾に在るもの僅に三年、徂徠歿して未だ全く徂徠の旨を得ず、留まりて社友と相切■(靡+立刀:び:削る:大漢和2281)(せつひ−ママ)す〔互に研磨す〕、居る六年、板美中を携へて郷に歸り、美中を以て食客(しよくかく)となし、日に切■(靡+立刀:び:削る:大漢和2281)に資す、久くして學大に進む、再び江戸に來り、芝三島街に住し、門を開きて徒に授く、晩に儒を以て出雲侯に顯仕し〔顯職に就く〕、其政を與聞し、勤勞ありと云ふ
■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水家世々南總に居(お−ママ)り、豪富を以て聞ゆ、熊耳が■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水の父を壽する頌に曰く、翁本と大姓(たいせい)藤氏に系す、先づ北越に著れ、武功是れ以(もち)ゆ、子孫綿々宇佐美と稱す、中葉微なりと雖も、祀(し)を絶つに至らず、來りて爰に居るより、此に數世、農と賈とに服し、家富(かふ)を以て起る、豪宗(がうそう)多しと雖も、曾て共に比するなし、翁其業を繼ぎて、益以て不貲(ふし)〔資産の多きこと〕、鐘(しやう)を鳴し鼎に食す〔富者豐食の形容〕、千指(し)に幾(*原文ルビ「ちよ」は誤植。)し、聚まれば斯(*原文ルビ「こ」は一字脱あり。)に之を散じ、亦唯是理し、郷鄰を賑及(しんきふ)す
■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水篤く徂徠を信じ、畢力〔極方〕其遺著を校刻す、高足の弟子と雖も、及ばざる所なり、四家雋、古文矩、文變考、絶句解、絶句解拾遺、南留別志の如き、校刻皆其手に成る、自ら著す所辯道考、辯名考、絶句解考證、絶句解拾遺考證、亦皆徂徠の意を領會〔了得〕するを以て主となせり
■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水莊重〔威儀を正して重々しき〕嚴毅にして、師道卓然たり、列侯教を請ふ者あれば、先づ己を待つの儀を書し、之を致して而後往く、井金峨の匡正録に曰く、近世諸侯の招(まねぎ)に應じ、豫め之が禮待を期し、是の如くならざれば、吾敢(あい−ママ)て見ずと曰ふ者あり、夫れ見ざれば止む、唯見て禮至らずんば、亦以て去るべきのみ、惡ぞ先づ之が極をなして而後往(*原文ルビ「ゆく」は一字衍。)く者あらんやと、金峨の此言義に於て乖(そむ)けりとなさず、然りと雖も世の道を學びて苟も合ひ容(いれらるゝ)を取る者■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水に觀れば、慚(はぢ)なかるべけんや
■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水經義を以て任となす、頗る春臺の風あり〔趣あり〕、熊耳の長技〔得意の藝〕は文章に在り、殆ど南郭を追うて交相善し、熊耳謂つて久要兄弟の誼(ぎ)ありとなす
■(三水+旡2つ+鬲:せん・〈しん〉:人名:大漢和49237)水一男あり、多病家學に堪へざるを以ての故に、片山兼山を養うて子となす、兼山徂徠の説を喜ばず、是を以て終に歡を承くる〔父に事ふるの道にて機嫌を取る〕を得ずして出づ、是に於て姪(てい−ママ)徳修字は子莱を以て後となす


武欽■(搖の旁+系:よう・ゆう:由る:大漢和27856)(きんいう−ママ)、字は聖謨、梅龍と號す、初名は維嶽、字は峻卿、中ろ名は亮、字は士明、私に文靖と謚す、美濃の人

梅龍本姓は武田氏、其先三河の篠田村に處す、故に世々篠田を以て氏とす、梅龍初め襲うて之を稱す、明霞遺稿中篠士明と稱するもの是なり、後本姓に復すと雖も、田を省きて單姓となす、少年にして伊藤東涯を師とす、東涯爲に維岳字は峻卿の説を作り、以て之を勗(つと)め〔勸め勵ます〕しむ、而して年二十一、東涯下世(かせい)〔死〕す、乃ち祭文(さいぶん)あり、是に於て宇新(*士新)に從ふ、居る十年士新亦世を異にす、乃ち哭詩あり、此時學既に大成し、終に召されて妙法院親王〔大佛宮〕の侍講(しこう−ママ)となる
梅龍特に藝文に通ずるのみにあらず、兼ねて武事に名あり、其昔を憶(*原文ルビ「あも」は誤植。)ふ歌に云く

東山年少クシテ雄圖ヲ抱キ、弓ヲ學ビ馬ヲ走ラシテ孫呉ヲ讀ム、腰間ノ龍劍金轆轤、青雲ヲ睥睨シテ常ニ鳥呼ス、翻然節ヲ折リテ前途ヲ改メ、自ラ見ル當年ノ君子儒(*東山年少抱雄圖、學弓走馬讀孫呉、腰間龍劍金轆轤、睥睨青雲常鳥呼、翻然折節改前途、自見當年君子儒)
又宇士新の贈詩(そうし−ママ)あり云く、「關ヲ閉チ(*ママ)テ我ヲ憐ム┐久シ、劍ヲ説キテ君ヲ愛スル┐深シ(*閉關憐我久、説劍愛君深)」(*と)
又墓碣(ぼかつ−ママ)の記に曰く、少時武技を習ひ、孫呉の書を講明す、居常(きじやう−ママ)曰く、絳灌(かうくわん)文なく、隨陸武なし〔絳灌隨陸は皆漢の臣〕、全士と稱すべからずと
赤松国鸞同門に出で、其學亦一時に領袖たり、而して甚だ梅龍を重んず、其梅龍に與ふる書に曰く、鴻少時平安に遊び、宇先生に從ふ(、)歳餘、藩命限りあり、未だ盡く益を請はずして歸る、何くもなく先生逝く、後數歳藩命を以て東武に之く、道平安を過ぎ、林生を訪ひ、相與に先生の墓に謁し、感泣已む能はず、林生不佞に謂ふ、子何ぞ一たび武兄(ぶけい)を見て交を定めざる、其人才學富贍(*原文ルビ「ふたん」は誤り。)、且つ宇先生の教を奉ずる年ありと、鴻不佞遂に林生を介して足下を見る、則ち唯典型〔カタ〕の存するのみならず、其言の夫子に似たる、人をして感喜交發せしむ(*と)


家祖原瑜(ゆ)、字は公瑤小字は三右衞門、雙桂と號し、又尚菴と號す、平安の人、唐津侯に仕ふ、(侯後古河に移封す)

祖の父は光茂(*原文ルビ「みつしび」は誤植。)と云ふ、小字は三右衞門、甲斐武田機山公の將原虎胤六世の孫(そん)なり、平安に住して仕へず、原芸菴の女を娶る、享保三年十月十三日を以て、祖を生む、祖生れて凝雋群兒に異なり、十歳にして章句を伊藤東涯に受く、稍や長じ學を嗜(たしな)むこと飢渇の如く、口誦手録〔讀むと書くとなり〕、晝夜廢せず、父母之を奇とし、其或は病を得んことを過慮す、謂つて曰く、帷(*原文「惟」は誤植。)を下し、憤を發するは成人の事、兒今童年、唯學間斷なければ可なり、祖曰く、早起して文字を尋思(じんし)すれば、心下(しんか)の鬆爽(しやうさう)〔サツパリ心地よき〕を覺ゆ、稍や晏(おそ)〔遲〕ければ則ち頭(とう)岑々として〔痛む貌〕心裏甚だ安からず、人或は曰く、其先美濃守驍勇〔剛健にして勇氣あること〕を以て著はる、此子他日文事を以て、大に人に過ぐるものあらんと
年十四父を喪ひ、哀毀〔悲しんで身體の弱ること〕禮に過ぐ、服■(門構+癸:おわる:終わる:大漢和25556)(おは)〔終〕りて大阪に之く、既にして江戸に來り、舅氏原芸菴に依り、青厚甫、高子式、呂玄丈輩と往還して文を論ず、居る三歳母を念うて已まず、乃ち大阪に赴く、母尋いで病歿(びやうぼづ−ママ)す、喪を治め素を茹(くら)ひ〔野菜を食ひ魚肉を避くること〕、遂に復た京に歸る
祖兼ねて醫を善くす、其京に居るや、遠近來りて治を請ふ者履恒に戸外(とぐわい)に滿つ、時に土井侯良醫を召す、祖■(立心偏+番:はん・べん:変心する・翻意する:大漢和11237)然(はんぜん)〔變心〕聘に應じて起つ、山脇東洋來り謂つて曰く、請ふ辟に就く勿れ、君は學富み量深し、他日必ず當に三顧の人〔劉備の孔明に於けるが如き人〕に遇ひ、以て其用を竟(お)はるべし、醫術の如き、他人に於ては稱すべし、君に於ては末技のみ、末技を以て僻遠の藩に屈仕するは甚だ之を惜む(*と)、祖曰く、子が言ふ所のものは、宇内に幾くかある、吾烏(いづくん)ぞ敢(あい−ママ)て當らん、且つ既に其召に應ず、義辭すべからずと、遂に唐津に適(ゆ)〔行〕き、十八年を閲して京に歸遊す、途(と)に東洋に遇ふ、東洋祖の手を握り、歎じて曰く、平々たる庸器〔凡物〕にして、皆貴顯に列し、海内の名士をして僻遠に屏處せしむ、信に命なるかな(*と)
唐津に在るの日、地を掘りて髑髏に遇ふ、其夕月明■(窗+心:そう:窗の俗字:大漢和25635)紙(そうし)に女子の影あるを見、出で視れば則ち無し、家人大に怖る、祖は讀書すること自如たり〔平氣〕、頃(しばらく)ありて先子〔先父〕(時に十二三)に謂つて曰く、是れ狐狸の爲す所なり、兒弓を將(も)ち〔以〕て之を射よと、是に於て女影自ら滅す
甞て芳野に遊び、耽戀(たんれん)〔フケリシタフ〕三日去る能はず、遂に一枝を折りて携へ去る、後製して杖となし、終身之を手にす、其常に帶ぶる所二剱の柄(つか)飾るに金を以てし、櫻花を彫刻す、亦其忘るゝ能はざるを表(へう)す
家に二馬を蓄(やしな)ふ、一は蓬莱と名け、一は瑤池(えうち)と名く、仙臺の産、駿逸〔スグレたる逸足〕常に異なり、初め某侯重價(ぢゆうか)を出して購はんと求む、而して蹄噛(ていし)〔蹴り咬む〕近くべからず、遂に之を鬻ぐ、是に於て鹽車(えんしや)に役(えき)し、又飼秣を奪ふ、祖之を聞きて曰く、惜しいかな其能を展(の)べ〔十分に伸ぶる〕ず、而して暴戻自ら縦(ほしいまゝ)にす、此れ之を御する者、其術を得ざるに由るのみ、因りて之を數金に買ひ、一食一石の粟を盡さしむ、則ち雄姿龍の如し、然も其亂氣初の如し、諸(もろ\/)騎を善くする者、各其術を施すも御するを得ず、祖其■(馬偏+兇+夂:そう・す:たてがみ:大漢和44868)(ちう)〔タテガミ〕を捉り、躍りて之に上(の)れば、即ち鞭策(べんさく)の威を假らずして其訓に安んじ、進退周旋〔廻はること〕意の如くならざるなし、詩あり、曰く

驕氣龍鍾タリ村客ノ家、三年虞阪鹽車ニ苦ム、一朝忽チ英雄ノ駕ヲ獲テ、飛電風生シ(*ママ)テ白沙ヲ捲ク(*驕氣龍鍾村客家、三年虞阪苦鹽車、一朝忽獲英雄駕、飛電風生捲白沙)
祖奮然道を究め經を治むるを以て志となす、漢儒以來の諸説に於て、窺はざる所なし、久くして以爲く咸聖人の旨を得ずと、遂に自己の見を立て、論孟を以て根據となし、細に道徳性命を講ず、甞て一書を著し、洙泗微響と曰ふ、謂(おもひら)く是れ以て百世聖人を竣(ま)ちて惑はざるに庶幾(ちか)かる〔迷はず疑はずの意〕べしと、其大意(*原文ルビ「ただい」は誤植。)増彦敬に復する書中に詳にす、書既に雙桂集に載すれば、茲に復た贅せず〔無用の事を反覆せず〕、夫れ漢唐訓詁の學、道に於て得る所なし、宋に至り、大に變じて大に行はる、然も亦聖人の旨にあらず、此邦元寛以來學者亦皆宋儒に從ふ、伊藤仁齋に及び、始めて之を排す、物徂徠亦一家の言をなし、海内の士と別に旗鼓(きこ)を建てゝ〔學派の陣を張る〕馳す、然も其説聖人の學を去る益遠し、祖の時に當り、學者朱に非ざれば則ち物、物に非ざれば則ち藤なり、是に於て慨然非朱詰物疑藤の三種を作り、洙泗微響と併せて以て梓に■(金偏+雋:せん:鑿・刻む・穿つ・彫る:大漢和40924)(しゆん)せんとす、而して天早く年を奪ひ、大業をして終はらざらしむ、深く惜むべきかな
祖曰く、宋儒は聖學の演義なり、陳志〔陳壽の三國志〕に云く、王允潜(ひそか)に董卓の將呂布に結び、内應をなさしむ、又曰く董卓呂布をして中閤(ちうかふ)を守らしむ、而して布私に侍婦と情を通じて自ら安ぜず、遂に董卓を刺殺(さしころ)すと、而して演義之に添ふるに貂蝉(てふぜん)〔侍婢の名〕連環(れんぐわん−ママ)の計を以てす、猶宋儒が易に究理の二字あるを以て、許多〔澤山〕の格物致知の説を添え(*ママ)、形氣の章、許多の體用理氣を添え(*ママ)、樂記の天理人欲に許多の本然(ほんねん−ママ)氣質を添ゆる(*ママ)が如し、畢竟聖人未だ曾て言はざるの説を以て之を敷演す、此れ宋學猶演義三國志ならずや
又曰く、宋儒は體に精くして用に粗なり、物氏は用を知りて體を知らず、之を均(ひとし)〔齊〕くするに其失は一のみ、然りと雖も、寧ろ宋儒たるも物氏たらず
又曰く、徂徠毎に謂ふ、宋儒の説は佛氏の所謂■(彳+扁:へん:遍く行き渡る、巡る:大漢和10174)一切法界なりと、若し佛の異同を論せ(*ママ)ば、則ち徂徠の説、豈に佛氏の捨身信他念佛衆生(しゆうじやう−ママ)攝取不捨説より轉化し來る〔ウツリカワリ來る〕にあらずや
又曰く、徂徠の學は演劇に聖人を扮〔扮装〕するが如し、堯の服を服し、堯の言を誦し、堯の行(おこなひ)を行はゞ、是れ堯のみと、此れ孟子が爲にする所ありて之を言ふなり、而して徂徠恒に引きて其學を徴〔證〕し、果して其心と徳との如何を問はず、則ち大友眞鳥に類す、孰(たれ)か之を拜して眞天子となさん(眞鳥衆を聚めて僣號し〔自ら天子と稱す〕、未だ幾くならず天兵之を平ぐ)
藩中の一士人南條某といふ者あり、稻葉迂齋に從ひて學ぶ、甞て祖が増彦敬に復する書中凡そ人の生ある、仁義禮智、其他の百徳皆性の具〔有〕する所、則ち具する所なりと雖も、猶是れ微〔僅少〕なり、との語あるを視て、其旨を領せず、祖の門人古舘尚淳、恩田大雅に因りて之を問ふ、祖兩端を叩いて之を竭(つ)くす、而して彼尚朱説を守り、問答反復數十條に及ぶ、古舘恩田二子其語を筆記して聖學辯談録と名く、亦吾家學の大旨(たいし)を窺ふに足る、他日予將に刊布(かんふ)せんとす
年二十八にして京を去りてより、五十來りて江戸に歿するに至るまで、唐津古賀に僻居す、中間合せて二十三年、是を以て交道〔交際〕甚だ廣からず、則ち世未だ實に祖を知る者あらず、且尚之を稱する者あり、伊藤原藏幼にして其門に學べる時を謂つて、後進の領袖となす、伊藤才藏曰く、幼にして頴敏學を嗜(たし−ママ)む、早(つと)に神童の稱あり、長ずるに及び、博學能文、名の爲めに動かず、利の爲めに謀らずと、青厚甫曰く、良吏の才ありと、芥彦章曰く、海の西東に轍跡(てつせき)〔車のアトにて旅行の形容〕巡(めく−ママ)り、群儒を等しくして大論を建つ、古聖を考へて倫を謬らず、命世(めいせい)の傑、先覺の民なりと、又曰く、其事を紀する、之を武事に方(くら)ぶるに、老將の用兵縦聘して覊(き)す〔繋ぎ止むる〕べからざるが如し、而して自ら律度に中ると、僧大潮曰く、今や士林操觚の諸子、將に尸(し)して之を祝せんとす〔尸祝は祭のカタシロとする義即ち渇仰〕、又曰く、其吾を送るの序は昭明の文選諸賦を讀むに似たり、宏麗雄渾誦すべし、先達(せんたつ−ママ)言あり、夫れ文材(ぶんさい)は之を文選(もんせん−ママ)に取ると、余原の文に於て亦云ふと、服仲英初めて見る、劇談半日、退きて歎じて曰く、雙桂先生の如きに至りては、則ち文藝の能事畢ると
祖の大舅(たいきう−ママ)芸菴人となり廓達(かくたつ)〔豁達にて胸の廣きこと〕奇偉、良醫を以て一世に振ふ、毎に人に謂つて曰く、世吾甥(おい)(*せい)公瑤を稱して大儒となせども、余以て腐儒となすと、古河の老小杉元卿甞て江戸に至(*原文ルビ「いな」は誤植。)り、之を聞きて曰く、渠其族に阿(おもね)〔諛〕るなきは則ち可なり、其之を譏謗するに至りては、見て以て詰問せざるべからずと、明日芸菴至る、元卿盛氣〔意氣の鋭き貌〕相詰りて曰く、余聞く吾子毎に腐儒を以て、吾師雙桂先生を呼ぶと、敢て問ふ、説ありや、曰く夫れ古の大儒は必ず貧困にして陋閭〔貧民窟〕を守る、然るに公瑤は家資頗る富む、是れ余が目するに腐儒を以てする所以なりと、元卿掌(しやう)を抵(う)つて大に笑ふ、蓋し腐と富と音近きを以てなり
祖十五にして京を出で、十九にして歸る、是歳東涯故(こ)〔死〕す、其提誨〔提撕誘導〕を受けたるは實に幼時に屬し、後一家の説を立て、伊藤氏と迥(*原文「囘」を「回」に作る。)に異なり、而して疑藤を作り、縦(ほしひまゝ)に之を辯ぜざるもの舊師に背くに忍びざればなり
祖音律を好む、古河に在るの日、日光の樂師上松是雙といふ者を邀(むか)〔迎〕ひ、笙を學び其道を盡くす、祖が常に玩ぶ所の笙は海棠と名く、蓋し畫くに海棠を以てす、故に名くと云ふ、先子横笛(わうてき)を善くし、門人古舘尚淳篳篥(ひつりき−ママ)を善くす、時々合奏以て娯(たのしみ)となす、柴栗山甞て京師より將に佐野に往かんとす、路古河を過ぎ、琴(きん)を携へて來謁し、爲に一曲を彈ず
甞て君侯に扈〔隨從〕して長崎に至る、侯客館(かくくわん)を過ぎ、祖を清商に接せしむ、祖妙に象胥(しやうしよ)に通ず、或は詩を吟じ小曲を唱ふ、清商咸舌を咋(か)む〔驚く〕(*或は改行なしか。)
侯大に喜ぶ、侯又福濟寺に至る、寺主は支那僧なり、其藏する所の書畫數十品を出(いだし)示す、侯亦祖をして之を鑑せしむ、其巧拙眞僞皆能く辯(*辨か)別す、或は彼が讀む能はざるもの、一覽輙ち之を讀む、歸藩の後之を賞賚(しやうらい)〔賞賜〕す
祖丈夫の子三人あり、長諱は良胤、字は朴伯、一菴と號す、幼にして穎敏志を家學に篤くす、而して祖に先づ(*ママ)こと七年にして歿す、寶暦庚辰六月七日なり、年僅に十有九、祖其墓に記して曰く、人となり嚴毅、遊朋群居の時と雖も、未だ曾て聲色財利の事に及ばず、瑜嘗て謂(おもひら)く、行々(ゆく\/)且つ長成せば箕裘〔遺業〕の託、吾其れ憂なしと、奈何ぞ不幸未だ冠せ〔丁年に達す〕ずして夭すと、唐津を去るに及び、墓に別るゝ詩に云く
寂寞空山一片ノ碑、庭ニ趨リ憐ム爾ガ詩ヲ學フ(*ママ)ノ時、面容髣髴トシテ(*原文送り仮名「シテ」は略字を使う。)猶見ルガ如シ、涙ハ滴ル丘前春樹ノ枝(*寂寞空山一片碑、趨庭憐爾學詩時、面容髣髴猶如見、涙滴丘前春樹枝)
次諱は恭胤、字は敬仲、即ち吾先子なり、次諱は光寛、四歳にして夭す
明和丁亥八月先子を携へて江戸に遊ぶ、是時都下の人士祖が名を聞き、來りて謁を求むる者林の如し、而(そう−ママ)して多くは之を謝絶す、九月疫を病む、原芸菴、松本尚齋投劑すれ〔藥を盛る〕ども驗なし、閏九月四日に至り、竟に起たず、年僅に半百、先子及び門人相議して宅兆(たくちやう)〔墳墓〕を江戸城北諏訪山の子院銅泉寺に定め、禮を以て葬る、後石を建てゝ銘序を勒す、芥彦章の撰なり
吾母は土井侯の臣秋田重信の女なり、年十六先子に歸す、居る一年祖病んで歿す、先子服除し襲ひて仕に就く、何(いくばく)もなく病を以て致仕するも允されず、猶乞うて止まず、是を以て罪を獲、禁錮せらるゝこと匝年(さうねん)〔一年〕、終に籍を削らる、初め其辭せんと乞ふに當り、母父母を省す、父母は母に謂つて曰く、汝が爲に壻(むこ)(*せい)を擇ぶ時、以爲く原氏の子才行あり、其禄を言へば、二百石なり、是を以て之に妻(めあ)はす、豈に謂(おも)はんや、其世を嗣ぐに及んで、禄其半に減ぜんとは、然も猶以て飢(き)なかるべし、其仕を辭するに至りては、自ら其量を揆(はか)〔測〕らざるなり、士恒禄なくば何を以て衣食せん、其溝壑に轉ずる〔行倒となる〕、日を計りて待つべし、汝此の如き者に配して永く患難を歴(へ)んよりも、更(あらため)適〔嫁〕して以て良匹(*原文ルビ「りやうひき」は誤植。)〔好き配偶〕を得るに如かずと、母潜然(さんぜん−ママ)涕(てい)を零(をと−ママ)して曰く、嗚呼大人何ぞ此言を出(いた−ママ)すや、妾聞く女子の常理は二庭(てい)を踐(ふ)まずと、又聞く先舅(きう)の時、古の烈女を語るを、其稱述せらるゝ者、或は苦を甞め、或は死を致し、以て其操(さう)を易へず、今や夫(ふ)妾を去らず、妾奈何ぞ自ら去るを求めん、且つ禄ありて配し、禄なければ離る、不義焉より大なるはなし、假令ひ再■(酉+焦:しょう・そう:嫁ぐ〈古代、杯を飲み干して返さない礼から。〉:大漢和40031)(さいしよう)〔再嫁〕以て身に錦繍(きんしう)を纏ひ、口に粱肉に飽くも、豈に願ふ所ならんやと、父母之を奪ふこと能はず、然も猶愛を垂れて時々■(目偏+癸:けい・き:乖く・離れる:大漢和23532)離(きり−ママ)(*けいり)〔離別〕を勸めて置かず、而して母操を堅くして回(かへ)〔避即ち變〕(*原文頭注「囘」字を使う。)らず、遂に先子に從ふ、其先子に事ふるや、儼として孟光の風あり、先子世を終るに至るまで二十八年一日の如し、其姑に侍するや、孝養備(つぶさ)に至る、其始めて江戸に來り、市中に僑居する時、比鄰相謂つて曰く、新來の人、姑と婦と恩情篤密なり、此れ必ず夫は贅壻(ぜい\/)〔入ムコ〕にして、妻(さい)と母と眞の母子ならん、然らずんば爲めに心を相盡くすもの、何ぞ此の如きを得んやと、此言以て其平生(へいぜい)を想ふべし、初め先子に從ひ、古河を辭せんとす、號泣(がうき−ママ)天に■(龠+頁:やく:呼ぶ:大漢和48894)(さけ)んで〔呼號〕曰く、請ふ早く妾が命を奪ひ、父母をして永く其世を同くして再會期なきを憂へしむること勿れ、若し之を得ずんば、則ち歳に一再必ず父母を見、藩を去ると雖も、猶去らざるものゝ如くならしめよと、既にして江戸に來り、先子大府の仕籍に入り、此より屡父母を見ることを得たり、是に於て父母自ら前言(ぜんけん−ママ)を悔ゆと云ふ、善も亦數々(しば\/)其邸に出入し、辱なく侯(*原文「候」は誤植。)及び世子に謁す、著す所賢相野史四卷、許我志三卷、及び校刻する所雙桂集六卷、皆(*原文ルビ「み」は一字脱。)之を上(たてまつ)り、褒稱賜(し)を拜す、以て母の夙志に酬ゆるに足れり、善不肖幼にして讀書を好まず、其句讀(くどう−ママ)を先子の膝下に受くる時、日に督責を蒙り、猶怠惰警(いまし)めず、弱冠(じやくくわん)始めて學ばざる可らさ(*ママ)るを覺れば、先子に背かる〔死なれたといふが如し〕、此より母寡居して善く家事を治め、余をして一に鉛槧〔文筆〕に從事せしめ、以て今に至る、一も得る所なしと雖も、猶箕裘を墜さゞるは、亦母の賜なり、母は佛を奉ぜず、未だ曾て珠串(しゆかん)を掌し、佛號を誦せず、甞て曰く、雙桂先生は儒宗(じゆさう)なり、其子敬仲先生も亦儒なり、其子公道も亦復(また\/)俗士に非ず、之が婦となり妻となり母となり、奈何ぞ彼の天堂地獄の説を信ぜんと、聞く者女中の丈夫となす、今茲(ことし)文化丙子年六十六、健食恙なし、嗚呼其節義天性に出づと雖も、亦祖及び先子の教化に由りて然るなきを得んや、因りて併せて之に及ぶ

譯註 先哲叢談 

(*以上、正編)

秋山玉山青木昆陽奥田三角高野蘭亭井上蘭台石川麟洲湯浅常山瀧鶴台宇佐美しん水武田梅龍原双桂

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( ) 原文の読み 〔 〕 原文の注釈
(* ) 私の補注 ■(解字:読み:意味:大漢和検字番号) 外字
(*ママ)/−ママ 原文の儘 〈 〉 その他の括弧書き
[ ] 参照書()との異同
 bP 源了圓・前田勉訳注『先哲叢談』(東洋文庫574 平凡社 1994.2.10)
・・・原念斎の著述部分、本書の「前編」に当たる。
 bQ 訳注者未詳『先哲叢談』(漢文叢書〈有朋堂文庫〉 有朋堂書店 1920.5.25)
・・・「前編」部分。辻善之助の識語あり。