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續近世畸人傳 卷2

伴蒿蹊・三熊思孝、三熊露香女画
井上通泰・山田孝雄・新村出 顧問、正宗敦夫 編纂校訂『續近世畸人傳』
(日本古典全集・第三期 日本古典全集刊行會 1929.4.25)

※ 伴高蹊の伝は、解題を参照。

 序(浦世纉)  目次  序(三熊花顛)  題言(伴蒿蹊)  桜花帖序(六如)  三熊花顛伝(伴蒿蹊)  巻1  巻2  巻3  巻4  巻5  附録
 【巻2】  里村紹巴  本阿彌光悦  岡野左内  子松源八  原田長兵衞  龍造寺平馬  杉山撿校  角倉了以 並 自玄之  能順  村上等銓  三輪執齋  松岡恕庵 附 稻若水  三宅石庵  桑原爲溪  下村道瑞  奧田三角  加々美櫻塢  一祚梨一  百井塘雨  其蜩庵杜口  瀧野瓢水  高森正因  端文仲 氏家伯壽  僧 幻阿  古谷久語
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續近世畸人傳卷之二

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里村紹巴

里村紹巴せうは、本姓は松井氏、いとけなくして興福寺中明應院の喝食かつしき(*禅寺に仕える有髪の児童)たり。はやく志ありて、
「たとひ賤しき事といふとも、必ず名を天下に成さん。」
といへり。時に周桂しゆうけいといへる時宗の僧ありて、たまたま南都に來れり。連歌をよくするが爲めに、これを好むもの其の門にあつまる。紹巴もとより本土(*当地)の連歌師大東正云たいどうしやううんに學びしかば、此の時ひそかに周桂にしたがひて平安にのぼる。是れより苦しみつとめて、その技妙にいたり、王侯士庶みな師としあふぐからに、其の名天下にあまねし。時に里村昌叱しやうたく(*ママ)(*「しょうしつ」:里村昌休の子。紹巴は昌休に師事し、昌休の死後、昌叱を養育したという。)あり。連歌において紹巴と名を齊しうす。松井の氏まぎらはしき故あるをもて、かの里村を冐すとなん。又臨江齋の號は、三條西稱名院殿(*三条西実隆の子、公条〔きんえだ〕)の給へる所、即ちの御染筆臨江齋の三字并に天龍寺の策彦叟さくげんそう(*策彦周良)の添へ書等南都に傳へ持てる人あり。さて後法橋になれるも、また故有り。
明智光秀本能寺に押しよせ、事遂げて後、介信忠(*織田信忠)のおはす室町妙覺寺へいたる。妙覺寺の構へ疎かなれば、其の南隣陽光院の宮後陽成院の御父。御即位に及ばずして崩ず。)の小池の御所をかりて城介殿うつらる。陽光院は禁中へ遁れさせ給ふに、事急なれば、乘輿なく、歩洗足かちはだし(*ママ)(*歩跣足か。)にて出でさせ給ふ。折しも、紹巴其の門を過ぎ、やがて自ら輿をくだり、是れを奉りしかば、此の賞として法印位を賜はりしに、恩を謝し奉りて後、やがて法服を返し奉りていふ。
あやふきを見て節をいたすのみ。豈むくいをはからんや。」
と。こゝに於いて法橋(*僧綱のうち僧位の称。法印・法眼・法橋等。中世以降、儒者・仏師・連歌師・医師・画工等にも称号として授けられた。)に叙せらる。
豐太閤の時に至りて、屡かへりみをかふむり、其の名ますます高し。技能妙に至る者七人。紹巴其の一人なり。宅を大炊御門堀川の東南に賜ふ。今も紹巴町といふ。(大炊御門は下立賣なり。寶珠庵と名づけられしが、如意嶽を東に見る故なり(*如意宝珠の縁からか。)と、花顛は記せり。)後秀次の師たるが爲に疑ひを蒙り、三井寺にてき(*ママ)せられ(花顛云はく、三井寺中莊嚴寺なり。)みとせを過ぎしが、終に赦にあへり。
紹巴の子、玄仍げんしやう玄仲みなよく業を嗣げりと、東涯先生(*伊藤東涯)の『盍簪録かつさんろく(*ママ)(*こうしんろく)に見ゆ。東涯の祖母は玄仲の長女なれば、其の詳説を先人に聞けりとなん。されば、先づ此の説を擧げ、南都のこと又おのれ(*伴蒿蹊)よく正す所あり。次に花顛がしるし置ける所を掲ぐ。これは貞徳翁の『戴恩記』によれるなり。紹巴貞徳兩翁もまた師弟の間、親しく見聞する所の記なれば皆實事なり。先きに見えたる連歌を學ばれし間、「もし成らずは百萬遍(*知恩寺の別称)の長老の擧状きよじやう(*推薦状)を取りて東行し、大岩寺にて談義法師とならん。」と思へるに、幾度か袋を荷ひて出で立たんとしけるを、小川宗叔(能の脇師わきしにて名あり。)いたく惜しみてとゞめ、終ひにことを成せり。後富み榮えても、もと貧しかりしことを忘れず、寢衾ねぶすまを人にまかせず。又和歌の道は稱名院殿に學びしかば、其の御墓に詣づること生涯怠らざりしとなん。其の人がら知るべし。
又生得力強き人にて、秋の田といふ處にて、(思孝(*三熊花顛)云ふ、秋田といふ所未考。もし秋の野の道場か。其の寺は其の比烏丸二條の南に有りしとぞ。)辻切りのものに逢ひしが、それを抓み投げて、刀を奪ひ歸られしを、小田侯(*織田信長)聞き給ひて、御褒美にあひし事あり。
また少しも媚ぶる心なし。或時太閤の御前に侍(*原文「待」)りしに、
おく山にもみぢを分けて鳴く螢
といふ句を成されて、
「懷紙に記せ。」
と仰せ有りしに、紹巴頭をりて、
「御句にはおはしさむらへど、季もたがひ、螢の鳴くと申す事は有るまじき事なり。」
とて、筆を執らず。も色を變じ給ひ、
「それにても苦しからず。」
と仰せけれど、如何にも宜しからぬ由申しける。凡そ此のの御詞をかへすものは、四海の内に無かりけるに、かく爭ひ申すを、玄旨げんし法印(*細川幽斎)、いまだ藤孝といひし時にて座に有り、
「いや螢も筋によりて鳴くものにや。いづれの集にか、
武藏野の篠をつかねて(*「篠を束ぬ」は大雨の形容句。)降る雨に螢より外鳴く蟲もなし
とあり。御句よろしからん。」
と取りなしければ、
「それ見よ。」
と仰せけるに、紹巴も言葉なくて筆を染めけり。さて其の翌日あくるひ藤孝の御もとに參りて、
「昨日のうたは、珍らしきことに侍り。何の集に、誰れ人の所爲にや。」
と尋ねられければ、大笑ひし給ひ、
「律義なる人哉。あのやうなる歌はいづくに有るべき。あれはわぬしが首を繼ぎたるなり。此の後何事を仰すとも、構へて爭はるゝな。」
と戒め給へり。
されば、また或時に、
谷かげに鬼百合さきて首ぐなり
といふ句を仰せ給ふ時、紹巴二三遍沈吟して、
「いかにも神妙の御句なり。」
とて、懷紙にしたゝめければ、紹巴が顔を御覽じ、
「螢はなかざりしが、百合はぐなりとせしか。」
と仰せ給ふ時、紹巴
「宜しき例も候。慈鎭和尚(*慈円)『まくずが原に風さわぐなり』(*「わが恋は松を時雨のそめかねて真葛が原に風騒ぐなり」〔新古今・恋歌一〕)と仰せられ候。」
と申しければ、不斜興じ給ひ、
紹巴は賢きものなり。」
と仰せけるとぞ。
かの三井寺に蟄居の時、貞徳翁とぶらひて、終日物語しつゝ、
滋賀の浦や寄せ來て氷る小波も春にはやがて立ちぞ返らん
と云ひて別れし。そのあくる春免しを蒙りて歸洛(*原文「歸路」)し、後せいせらる。慶長五年(*1600年)なり。大徳寺中正受院に墓あり。


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本阿彌光悦

本阿彌光悦太虚庵、又自徳齋徳友齋とも號す。本佐々木の家族、多賀豐後守高定の孫、片岡治大夫宗春の三男にして、本阿彌光心が養子となる。本阿彌は、刀劒の鑒定めきき磨礪とぎ淨拭のごひ等を家業とし、これを本阿彌の三事といふ。然るに光悦この三事に長じ、殊にその難しとする所の淨拭に委し。是れにつきて自らの戯歌たはぶれうた
一振りはらい(*耒と雷を掛けるか。)のたぐひと思ひしがいま一振りはめきゝものなり
人の刀を相せし時白雨ゆふだちしける故とぞ。
尤も書に妙なり。或時近衞三藐院殿(*近衛信尹〔のぶただ〕。光悦・松花堂昭乗と共に寛永三筆と称せられる。近衛流の祖。)光悦にたづね給ふ、
「今天下に能書といふは誰れとかするぞ。」
と。光悦
「先づ、さて次ぎは、次ぎは八幡の坊なり。」(松花堂をさす。)
と。藤公(*近衛藤公。藤公は藤原氏の氏長者の意か。)
「その『先づ』とは誰れぞ。」
と仰せ給ふに、
「恐れながら(*「わたくし」は室町時代以降、多少卑下の意を伴った自称代名詞として使われたという。)なり。」
と申す。
此の時、この三筆天下に名あり。或ひは粟田尊純そんじゅん法親王を算へ奉りて、四筆ともいふ。藤公以下三人も、或ひは法親王の御弟子といふ説も有り。實否を知らず。また或時、藤公俄かに光悦を召しければ、何事ぞとあわてゝ參るを、即ち御前おまへに召して、が手をきとらせ給ひ、
「汝は、汝は。」
と、言もあらゝかに仰せ給ふに、、思ひ寄らざることなれば、
「御意にたがひし覺えは侍らず。」
と、恐れ恐れ申しければ、打笑はせ給ひ、
「何として斯くはよく書くぞ。」
と、戲れ給ふこともあり。
松華堂とともに、藤公へまゐり、夜の更くるまで、御物語り申せし時、今古の書家を品評し給ひ、
孫過庭そんくゎてい虞世南等、ともに王右軍を學ぶといへども、その風なし。今の人は、その風を學んでその心をまなばず。その姿を眞似るを書奴といふ。書奴の名を得んよりは各我が好にまかせて、一家を成すべしや。」
と宣ふ。二子、
「僕等も常に思ひ侍らふ所なり。」
とて、
「明日ともに書をなして御前にして戰はしめん。」
とて歸りぬ。
約のごとく明る日二子まゐり、公の御書とならべて、各一風を書き出せしを較べける。今も近衞流、光悦流、瀧本流とて、世にもてはやさる。
又茶を好みて、初め宗旦と善し。後其の子宗拙に勘當せられし時、もとより光悦が書の弟子なれば、ひそかに野間玄澤(鷹峰の隱者)に預けたるを、聞き出でて深くうらみ、交はりを絶ちしは如何なる故なりけん。
また陶器を好みて燒きぬるを、今も世につたへて珍重す。
凡そ藝のみにあらず、經濟の才もありて、鷹峰の邊に金掘るべき山を考へ、五ヶ所を得て、人民多くその益を蒙る。
もとより心ばせ正しき人にてありし。その一事は、七月十四日にある町家へ行きたるに、常に同じく家職を營みてありしかば、あやしみて、
「今日は貴賤となく金錢の出納にいそがしき日なり。なぞ斯く常にかはらぬぞ。」
といふに、あるじ、
「町家には利用を計るをむねとしさぶらふ。今日與ふべきものを五日過ぎて與ふれば、何計りの利を得ることにさぶらふ故に、今日は心いそぎも侍らず。」
といひしに、答へもせず、家の内の者共の面を一人一人にらまへて、
「よき畜生めら。」
と云ひ捨てゝ出で、それよりは再び來らざりしとなり。
寛永年間洛北鷹峰をに賜はりしより、此處をひらきて、人家を設けたるに、若狹・丹波の通路なる故に、往來しげくなり、此の邊に山賊などいふもの絶えたり。是れより先きは、かうやうの惡黨かくれ住みて、人を犯す事多かりしとぞ。寛永十四年丁丑二月三日こゝに終る。壽八十歳光悦寺はそのあとなり。
因に云はく、光悦生子なし。光瑳くゎうさは養子なり。その子光甫空中齋と號し、法眼に叙す。家の三事に長ずること光悦に劣らず。茶も翫べり。子十八人あり。季子(*原文「委子」)は八十歳の時まうく。天和二年壬戌七月廿四日、八十七にて終れり。
蒿蹊云はく、此の傳、人の知らぬ事どもあり。花顛よく聞き出せり。一事も加ふるに及ばず。ただ文章の前後を錯綜するのみ。


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岡野左内

岡野左内は、上杉家の臣、陸奧にありて、壹萬石を領じ、越後守といふ。その武功ども近世の軍記に見ゆる中にも、はからず仙臺侯と一騎打して、猩々皮しゃう\〃/ひ(*ママ。「猩々緋」か。)の陣羽織に二所まで劔の跡つけしを和睦の後、、「誰れぞ。」と尋ねて知り給ひ、其の勇を賞し、彼の陣羽織を給はりけるなどは、殊にいさましき物語りなり。
此の人並びなき福者にてありし。或時、馬屋の中間に、黄金壹枚持ちたる者あるを聞きて呼び出し、奇特なる旨褒美して、黄金十枚を與ふ。貧しくては武功も全くしがたきを思ふなるべし。凡そいとまある時は、金をあまた並べ、その上に臥すを樂みとす。是れを聞く人は、
「武士の道に有るべからぬ振舞ひなり。」
といはぬはなかりしが、或時此のたのしみをなしゐたるに、我がくみの士、口論を仕出したる事を知らせければ、敷きたる金はそのまゝにうち置き、貞宗の太刀を帶び、鹿毛なる馬に鞭うちて走り、一日二夜の間さまざま扱ひなだめて家に歸りしが、其の間は金の事は思ひ出しもせぬ氣色なりしを、傳へ聞く人は更に驚きたりとなん。
又軍陣に臨んでは、必ず能役者を招きて、亂舞をなさしむ。常はかつて翫ばず。人その故をとへば、
「平日は誰れ誰れも好む故に彼等いとまなし。軍陣のことあれば、俄にあわたゞしく、其の設けするがために、かうやうの遊びを顧ず。己れはつねに出陣の用意を備ふれば暇あり。亂舞者も亦いとまあれば、是れを召させて見ることなり。」
といへり。すべて所行ひとの案外に出づる人といふべし。


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子松源八

子松源八時達ときさとは、出雲の家士、射藝の師なり。老いて山心さんしんと號す。爲人方正淳朴比類なし。若年の時、兄の過失に連坐せられて祿を離れ、國内大原郡に蟄居し、家貧なれば、日雇して衣食を給す。
その居宅の隣に、農夫茄子なすびう。源八は菜を作る地なければ、これに就いて茄子を買はんと乞ふに、農夫、
「只一人めさんほどは日々といへども、いくばくの事かあらん。ただ我が物のごとく取用ゐ給へ。」
とて、價をうけず。
是れより後、源八茄子を喰はんと思ふ時は、往きて取り價の錢をその莖に結ひ付けて去る。圃主はたけぬし所々に錢の掛かれるを見てあやしみ、此の人の所爲ならんと、取り集めて返せども固く辭してうけず。
又富民の家内皆他に適くことある時は、源八堅固なる人なれば、留主を託せるに、暮れに及び戸障子を引きはなち、家の中央に座し、傍に弓矢を置き、八方に眼を配りて終宵よすがら睡らず。
又ある時、村中莊官の妻出産せし時、源八往きて、
「常常懇意なる故に夜伽に來れり。」
といふ。主悦びて、
「此の比夜伽に皆疲れたれば、今宵は頼み參らせて皆安眠せさせん。」
とて、倶に熟睡に及ぶ。源八ただ獨り産婦の前に端坐し、通宵よすがらすこしも眼を離たず、産婦の顔を守れり。産婦夜明けて家人にいへらく、
「よべは源八ぬしに見詰められてよすがら顔の置き所なかりし。此の後このぬしの夜伽は止め給はれ。」
と云へり。
此の間近隣の小民の家に醜き女ありしが、顔に似ず心やさしき者にて、源八が赤貧にして獨居せるを憐み、しばしば衣を洗ひ、綻びを補ふ。父母禁ずれどもひそかに心を盡して介抱せり。源八心に其の恩を感ずといへども終ひに猥雜のみだりなるを出さず。後君命により歸參する時、速かに駕籠をもたせ、みづから往きて迎ふ。醜女も父母も大きに驚きて信ぜざれども、遂ひにともにかへり、官に達して妻とし、終身其のしうをいとはず偕老の契りをまったくす。
さて老にいたるまで射術怠らざるをもて、俸祿を増さる。是より以前は酒器さかづきを貯へず。茶碗にて飮みしが、此の時に及びて妻諫めて、
「今は諸士と祿同じければ、酒器なくては適ふべからず。」
といふ。
「げにも。」
とて、市店にいたり盃を買ひて、その大小心にかな(*■(立心偏+匚+夾:きょう:快い・適う:大漢和10949))ふを擇みて、
「瑕なきや。」
と問ふ。市人、
「なし。」
と答へたれば、頓て價を出し盃を懷にしてかへりしを、妻つらつら視て、杯の裏の糸底に瑕あるを見出しかくと云へば、源八また懷にして、彼所かしこに往き盃を返して、
「何故に我れを欺くぞ。」
といふ。市人過を謝し、
「値を返さん。」
といふ時、源八
「我れはあざむきを受くることをほりせず。故に盃を返すなり。値を惜むにはあらず。汝は値を欲する故に我れを欺くなり。今我れ欺をうけざれば、望足る。汝も亦値を得れば望たれり。是れ兩ながら望足れば、何ぞ値を返すを受けんや。」
といひ捨てゝかへる。
又或時骨董舗ふるどうぐやに刀の鍔有りしを立寄りて價をとふ。婦人云はく、
「夫他適るすにて價さだかならず。二錢目とか三錢目とか云へり。」
と答ふ。源八懷より二錢目を出しあたへ、又一錢目を出していふ。
「夫歸りて二錢目には賣るまじといはば、又是れを與へよ。」
といへり。
凡そ人にいつはりは無しとして、魚菜を買ふにも
「價を下せ。」
と云ふことなし。我が心に應ずれば買ひ、應ぜざれば(*原文「應せざれば」)買はず。久しくして商人も是れを傳へ知りて、其の家にては價を二つにすることなし。其の家に使はるゝ奴婢も、其の風に化して質朴にして詐らねば、そこに使はれし者といへば、人爭ひて召し抱へたり。
年八十になん\/として眼力衰へ的を見ること明らかならず。射る時は門人側にありて、
「二寸あがれり、三寸下れり。」
と云へば、其の言葉に從ひて矢を放てば必ず中れり。尤も後には其のごとくするも中らねば、弓矢を投げて、
「吾老いたり。今は君の用にも立たず。生きて益なし。」
と、遂ひに食を斷ちしを、妻子門人こも\〃/すゝむれども不食。其の門人に三谷半大夫といふ國老あり。是れを聞きて、往きて自ら粥と箸とを取りて勸むれば、源八押しいたゞき一口飮み、第二口に至りて吐きて云はく、
「吾が病ひ、食を不受。」
と。遂ひに不食して歿す。



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續近世畸人傳卷之二終


 【巻2】  里村紹巴  本阿彌光悦  岡野左内  子松源八  原田長兵衞  龍造寺平馬  杉山撿校  角倉了以 並 自玄之  能順  村上等銓  三輪執齋  松岡恕庵 附 稻若水  三宅石庵  桑原爲溪  下村道瑞  奧田三角  加々美櫻塢  一祚梨一  百井塘雨  其蜩庵杜口  瀧野瓢水  高森正因  端文仲 氏家伯壽  僧 幻阿  古谷久語
 序(浦世纉)  目次  序(三熊花顛)  題言(伴蒿蹊)  桜花帖序(六如)  三熊花顛伝(伴蒿蹊)  巻1  巻2  巻3  巻4  巻5  附録
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