1/6  [INDEX] [NEXT]

續近世畸人傳 序・題言・目次

伴蒿蹊・三熊思孝、三熊露香女画
井上通泰・山田孝雄・新村出 顧問、正宗敦夫 編纂校訂『續近世畸人傳』
(日本古典全集・第三期 日本古典全集刊行會 1929.4.25)

※ 伴高蹊の伝は、解題を参照。

 序(浦世纉)  目次  序(三熊花顛)  題言(伴蒿蹊)  桜花帖序(六如)  三熊花顛伝(伴蒿蹊)  巻1  巻2  巻3  巻4  巻5  附録
[TOP]

續畸人傳序

(*訓点・鈎括弧は入力者。)
此年西遊、未2一枝巣居1。暫寓2閑田廬1。主人(*伴蒿蹊適侵2余之倦睡曲1肱、几上出2續畸人傳』者1見眎(*■(目偏+示:し:「視」の古字:大漢和23213))。余曰、
也西遊幾歴2十有餘國1、探2山川之奇絶1、未2其奇1、尋2諸藩之畸人1、未2其畸1。然履跡所及徃々靡2之『畸人傳1。今又修2此『續篇1、何其盛也。」
主人笑曰、
「足下見2奇絶12之奇1、遇2畸人12之畸1。海内之廣、山川之奇、不擧。方今文明之盛、託物遯世之人、豈其鮮少哉。如余固非奇。以2其不1好、反知3近古之多2奇人1。所謂『傍観者明2于當局1。』之類是耶。足下索2奇於千里之外1、故見2奇絶1奇、遇2畸人1畸。所謂『観海者、不水。』之類是耶。可2亦是一畸人1也。請以2此語12此卷首1何如。」
之、且曰、
「余也空労2歩於海外1、有眼不2奇絶1、無識不2畸人1。不3之坐耕2筆于閑田廬1也、遠矣。幸以2斯語1之、不2亦可1乎。」
石見 浦世纉
寛政丁巳(*寛政九年〔1797〕)初夏


[TOP]

續近世畸人傳目次

第一卷 第二卷 第三卷 第四卷 第五卷
  • —————
 附録 前編漏脱并異聞五條
續近世畸人傳目次終


[目次]

(序)

往年伴のうし前編を録せられし時、「我れはとし老いたり。後を期すべからず。」と、拾遺をに任ぜられしが、此の六とせばかり、病みて已に死なんとすること三たび、辛うじて命をつなぎ、但馬の温泉に浴して病ひを養ふの間、つれづれなるまゝに、是れかれ聞きあつめし(*原文「聞きあしめし」)事どもを思ひ出でて筆にまかす。猶とし月をつみて正さば正すべけれど、若とてたのまれぬ命にしあれば、唯大かたにしるして、うしの挍(*■(手偏+交:こう・きょう:〈=校〉:大漢和12050))讎を需むることにぞ。
寛政五年癸丑(*1793年)湯島訥齋の僑居にして記しぬ。
花顛居士 三熊思孝


[目次]

題言

蒿蹊曰はく、花顛子此の草稿を録し、春待ちて後京に歸りても猶ほ考ふるよしにてありしが、事しげきにまぎれて、月比たいめせである間に、使もて頻りにまねかれしかば、八月十三日訪らひしに、
「おのれ今はたのみなくおぼゆ。此の草稿はあらかじめ足下そこ挍讎けうしうをこはんと思ひしからに、ひとへに委ねまゐらす。いかにも心のまにまに正し給へ。唯畫のことは、おのれがむねとする所なれば、たとひ他人の手をかるとも、其の圖樣を見ずしてこれに加へんことは欲りせず。」
と聞えられしに、
「おのれ、今は六十を過ぎて、一夜の間ものどかにたのみぬべき齡にはあらねど、もし幸にながらへば事を遂げなん。さて畫のことは前編既にあり。こたびも無くてはさうざうしく書肆もうけがふべからずや。」
と語らひしかば、
「げにそれも理なり。さらばかろく書かしめ給へ。」
と云へり。是れはおもふに、此の人の畫、時代によりて人物の服裳ふくしやう器財の考へあれば、他人其の意を得ざらん事をいたむ成るべし。かくて明くる十四日より病ひすみやかに言滯り、終ひに廿六日に身まかられしも、いとあはれに、「此のことをおのれに語らはんとて、しばしながらへけるにや。」とまでおぼえき。
花顛草稿には、惺窩闇齋等の諸先生、宗祇貞徳芭蕉ごとき諸老、澤庵盤珪禪師の類ひあれども、こは其の門流廣く、其の傳おぼつかなからず。又たとへば、澤庵禪師を納むべくは、一絲禪師(*仏頂国師)を洩らすべからず。しかも先に皆成書あるものから、今は此の類ひをはぶく。またあるひは、大原古知谷の彈誓たんせい上人澄禪和尚のごときは、畢竟(*化生の人)といふべく、奇の又奇なる行状なれども、既に傳記あまねく世に行はれたれば納めず。あるひは又名高き紹巴法橋のごときも連歌にのみ聞えて奇行のしられぬは、花顛が出せるに潤色して擧ぐるも有り。此の外およそ加ふるも省くも心を用うる所あり。もとより前編に云へるごとく、畸に一定なし。たとへば他の欺きを受けざるを操とする武人の奇もをかしく、歎きを容れて咎めざる文人の奇もをかしければ、唯其の奇のまゝに録す。奇は奇にして、其の心行の善惡是非は、事状の上に明らかなれば、評論を必とせず。
○あまりに人數の多きも煩はしく、又似たることの重なれるも珍らしげなからんなど諫むる人もあれば、既に印行せる書に出でたるは撰みておほよそこれを除く。惣べて一篇のうへ難なきは、彼の人(*三熊花顛)草案のまゝにうつし、章段おぼつかなく、言語たどたどしきは、唯意をとりて文を改むるなど、託せるまゝに愚意を用う(*ママ)
○刪補大やう終れるころ、書林はたして畫のことに及ぶ。されども遺意かくのごとくなれば、其の輕くと云へるはいかゞすべからんと語らへるに、一書肆はかりて、
の妹氏露香女の畫あらば、故人もよも恨み給はじや。」
と云へるを、ことわりに覺えて、傳中畫くべきものすこしをとりて、圖やうなどの志に背くまじうものせられよと語らひぬ。又櫻は故人一生のちからを盡しけるものなれば、其の自畫をもてはしに掲げ、はた六如上人の『櫻花帖の序』を録す。小傳を附するもまたこれが因みなり。


[目次]

題櫻花帖

(*訓点は原文。鈎括弧は入力者。)
梅竹蘭菊、傳照逼眞、擅(*原文「檀」)2名當時1、固不人。櫻花乃我邦之奇種、最所2精究1巧。而振古未2其人1。穠■(*■(禾偏+農:じょう::大漢和25324)■(豐+盍:えん:「艶」の本字:大漢和36332))者過肥、疎鬆者太痩。忍使3國色死2于拙工手1、不2亦寃1乎。富麗中一段氣韻、爭2豪髪(*毫髪)於環施之間1者、舍2三熊生1而將2安求1焉。曾題2其幅1曰、「櫻花已來凡馬空。」具眼以爲2信然1。嗚呼千古年來、天機之妙、獨慳2此花1者、一旦而迸出。之貧且病、豈或觸2造物之怒1與。少陵(*杜甫)云、但看古來盛名下、終日坎壈(*■(土偏+稟:らん::大漢和5530))2其身1。吁亦異哉。雖然齊侯千駟、身後灰滅。此雖2小技1、名足2千秋1。我已保2之今日1三熊生亦可2以少慰1矣。寛政癸丑(*寛政5年〔1793〕)夏五
淡海 六如散衲


[目次]

三熊花顛傳

介堂三熊氏、名は思孝もとたか、はじめ正親をきみと通稱す。號は花顛子。城西鳴瀧(*現京都市右京区)の産。
幼きより畫を好みて、肥前長崎の畫人月湖に從ひて漢法を學ぶ。後自らおもへらく、「凡そ麟鳳および龍虎りようこ獅象しざうのごとき、見も知らぬものをゑがくは、唯一旦の眼をよろこばしむるのみにて世に益なし。古き代の公事・民間の有樣をうつして傳ふるや、或ひは今の世の人物・調度眼にふるゝ物を圖して後に示すなどこそよからめ。」と。是れをつとむ。遂ひにまた思惟すらく、「櫻は皇國の尤物にして、異國にはなし。是れをゑがくは國民の操ならん。はた枕の草紙に、繪に書き劣りするものに櫻を載せたるは、昔よりよくゑがく人なかりけるにこそ。いで、これを勉むべし。」と。研究して生花しやうくわうつしたるが、知る人は
「從來いまだかゝるものを見ず。」
といへり。
人世にすねたるやうにて貧をうれへず、生産をことゝせず。書畫器財にいたるまで、古物を好み、自らの書も亦上代樣によりてよくす。
生涯すべて奇に終る。其の奇のとぢめは遺言していはく、
「たのむぞよ柝骨にして櫻の木」
此のこゝろは、其のからを荼毘し、骨を川に流し、なき跡のしるしには、さくらの木を植ゑよと云へることとぞ。此の柝骨といへるは、さだめて佛家に説あることならんと、諸學匠に問へども知る人なし。此の人は聞きとゞめたること有りしなるべし。さて知己の人、遺言のごとく、東山にて火葬せし骨を、ただちに携へて嵯峨に行き、戸南勢となせ(*戸奈瀬)の前の流れに沈めぬ。こゝは櫻のいとおもしろき所なれば、同じ河の中にもよかんめりと戲れしによれり。又日野の外山に平生用ひたる禿筆ちびふで及び其の書畫の反故ほうごをうづみて一樹の櫻を栽ゑ、一片の石碣せきかつ(*ママ)を建て、六如僧都の銘を録す。こは醍醐山素川法師の領せる地をあたへ、その肉弟山縣蕪亭生ともにはかりて、逝者の志を遂げしめ、妹女露香のねがひを果たせるなり。

(*序・題言・目次 <了>)


 序(浦世纉)  目次  序(三熊花顛)  題言(伴蒿蹊)  桜花帖序(六如)  三熊花顛伝(伴蒿蹊)  巻1  巻2  巻3  巻4  巻5  附録
[INDEX] [NEXT]