堀川

城下町を支える大動脈「堀川」 堀川の開削 黒川船着場


下町を支える大動脈「堀川」

 堀川は名古屋城下町と熱田を結ぶ経済水路である。

 最初の名古屋城下町の計画には堀川開削はみられないが、計画の進行中突如として堀川計画が持ち上がった。その計画の経緯について知る史料はない。

 名古屋城を構築する為、石材、木材などの物資を運ぶ為に堀川を開削する(慶長14,15,16年頃に着手)。
 完成の年月日は記録にないが一年で完成したと考えられる。

 堀川開削に際し、熱田の大工棟梁 岡部又衛門とその子の又七朗は「名古屋迄の御用入水積」という報告書を提出している。彼らは堀川三つの運河計画の基礎調査を命じられていたのである、調査の内容は次の通りである。

  • 熱田のきしより名古屋迄御船入水斗り八尺の違 3,6000間(約6,480m)
  • 熱田東のさくたか(または「さえたか」とあるが裁断橋の事)はしより御器所毎津(前津)迄水斗り一丈一尺の違、3,200間(約5,760m)
  • 名古屋より、ひはしま(枇杷島)迄の水斗り一丈五尺の水斗り但是は名古屋の方高し。
    是は御船入りぬけ道 1,600間(約2880m)

 

 そのうち、堀川は河口部から上流部めで土地が八尺(約2.4m)高くなり、距離は6.48Kmであった。
 「抜道」を枇杷島に通じ、庄内川を下る環状水路を計画した。

 一方精進川水路は一丈一尺(約3.4m)の落差があり、川の長さは堀川より約700m短い。
 このうち堀川水路だけが実現を見た。

 堀川の長さは3,600間は堀留から河口までの距離。現在の水路に当てはめると、旧デザイン博白鳥会場の南端に達し「七里の渡し」までは約800m不足する。この事は伊勢湾が深く湾入し、旧白鳥会場南部が海岸線であった事が示唆している。
 最初堀川はこのあたりから掘り始め、堀留までの3,600間で計画して完成させたと推定できる。
 その後干拓新田の南下によって堀川の水路も年と共に狭められて南に伸びて行った。
 熱田に集った船は、堀川の水運によって城下町の中心部に物資搬入の便を得ることができ、町と熱田の水運とを結びつけた。

北区誌 区政50周年 平成6年2月11日発行


堀川の開削 殖産興業の壮大な構想

 江戸から明治への時代の変貌は名古屋にも大きな変化を追っていた。
 それまでは69万石という全国有数の大藩である尾張藩の政治の中心地であり、行政、商業の町として栄えて来たが、維新ににより中央集権国家が成立すると政治の中心は東京に移り、名古屋は衰退が懸念されていた。

 都市に新たな機能を持たせる事が必要になっていたのである。名古屋は日本の中心に位置し、広い平地と温暖な気候、蓄積された資本や人口の集積など、産業を興すのに有利な条件もある。その反面、主要街道から離れており、当時の大量輸送手段であった、舟運の便が悪く、発展するためには交通網の整備が不可欠であった。

 木曽、信濃から名古屋への物資輸送には木曽川が使われ、桑名から熱田へ、さらに堀川をさかのぼって名古屋へと送られていた。

 名古屋の北西に大きく迂回する木曽川経由の輸送は日数と費用がかかり、堀川は水深が浅くなり充分な輸送力がなくなってきていた。名古屋唯一の幹線輸送船が、満ち潮を待たなければ通れない状態であり、明治4年(1871)からは愛知県の常例工事として浚渫が行われていた、また、熱田の海岸も堀川、精進川(新堀川)からの土砂で水深が浅くなり、大きな船は接岸できない状態であった。

 もう一つの問題は、当時の基幹産業である農業の振興であった。
 今の小牧から春日井、名古屋市の北区にかけて広がっていた田は、木曽川から取水し庄内川に流末が注いでいる新木曽川用水により灌漑していた。この用水は幅わずか2間(3.6m)しかなく、日照りが続くと下流の村では水不足で大変なことになった。
 村人は用水を改修して流量を増やし、新田開発を行う計画の検討を明治2年(1869)から始め、測量などして9年(1876)には県に改修計画書を出していた。

 この2つの課題を同時に解決する壮大な構想の一部として行われたのが堀川開削である。
 犬山は舟運の盛んな木曽川の岸に位置し対岸の鵜沼は中山道が通り、以前から尾張北部の行政、商業の中心地であった。
 ここから取水している新木津用水の幅を広げ、庄内川から堀川につながる水路を掘り、併せて熱田に港を築く。これにより犬山から名古屋まで直線的に船を通し、さらに熱田港で海運とも連絡する――木曽、美濃などと名古屋経済園の関係を深め、さらに日本全国とも早く円滑に輸送できる都市基盤をつくる構想である。

 この大事業を担当したのは明治8年(1875)に愛知県技師になったばかりの弱冠29才、黒川治愿(はるよし)であった。翌9年11月に「庄内川分水工事」として黒川開削が始まった。今の水分橋のたもとに元杁中樋口(川から取水する施設)を設けて南に水路を掘り、三階橋の北で川村(現守山区)から流れてくる御用水と合流。矢田川は伏越(水路トンネル)でくぐり、南岸で堀川と結ぶ新しい水路と御用水や庄内用水などを分流させる。
 ここから御用水に沿って南西に水路を新設し、従来から掘川に流し込んでいる大幸川に接族。これにより庄内川の水が堀川に流れるようになり、水勢、水量とも増えて堀川は常時船が通航できるようになった。

 工事は明治10年(1877)10月に完成し、総工費は3万9千円であった。この年には熱田港築造工も行われ、干潮の時でも船が接岸できるようになり舟運の便は大きく改善された。

 残るもう一つの課題、新木津用水の改修であるが、拡幅により耕地が減る上流の農民の反対がありすぐには着工できず、明治16年(1883)になりやっと完成した。ここに犬山と名古屋、熱田を結ぶ舟運と灌漑の大水路が誕生した。それから2年後の明治18年黒川は病に臥し退官した。庄内川と堀川を結ぶ川は黒川治愿の功績に報いて「黒川」と名付けられた。

北区歴史と文化探索トリップ 名古屋北ライオンズクラブCN40周年記念誌

平成16年3月6日発行

 2004年4月現在、庄内川からの試験導水によって毎秒1tの水が堀川に通され、堀川の浄化を目指している。


黒川船着場  べか舟が運んだ人と舟

 北清水橋から掘川を見下ろすと、護岸にはさつきが植えられ、川沿いに散策路があって、橋の近くには広場になっている。人工の滝が落ち、花や水生植物が植えられ、昔の常夜灯のようなものも設けられている。
 ここは、かつて黒川の船着場だったところだ。すぐ上流には小さな黒川橋がかかっている。

 この橋は、かつての幹線道路「稲置街道」は国道41号が通る北清水橋が幹線道路だが、この道は昭和になって整備されたもので、堀川が掘られたころは、まだなかった道だ。

 黒川は、犬山と名古屋、さらに熱田を結ぶ舟運路を開くことで、城下町から近代産業都市へと名古屋の都市再生をめざして開削された。
 明治になり、列強諸国に伍して、日本が在続してゆくには、殖産興業が必要であるとして国は急速な工業化をはかった。
 工業振興には、資材や商品の大量輸送が必要であるが、鉄道やトラックが普及するまで、それが可能なのは船だけであり、水運業の確立と港湾の整備が一番の課題であった。

 明治3年(1870)ころには熱田と四日市を結ぶ汽船による定期航路が始まり、5年には堀川から四日市への航路がこの地方の事業家により開設されている。8年になると三菱商会により開港地横浜を結ぶ定期航路が始まり、10年に西南戦争が勃発すると、軍は名古屋鎮台の兵を輸送するため、三菱商会に四日市と熱田の定期航路運行を命じた。

 戦争終結後の運行は危ぶまれたが、愛知、三重両県などの補助金により継続する事となった。
 これにより、開港地横浜から四日市を経由して熱田を結ぶ動脈となる定期航路が確保された。

 あわせて必要なのは、内陸部へと広がる航路である。そこで明治10年に黒川の開削と熱田での波止場築造が行われたのである。

 黒川開削と同時に、犬山から庄内川まで続く新木津用水の幅を広げて、船を運航する計画であったが、地元農民の同意を得られず、拡幅事業が遅れ、明治17年になってやっと完成した。
 明治19年2月6日には犬山と名古屋を結ぶ舟を運行する「愛船株式会社」が設立され、農業用水の取水に支障のない毎年9月21日から6月10日まで運行した。

 9月29日開業式が犬山の木津用水元杁「取水口」前で行われた。来賓一同を乗せた舟は、木津用水、新木津用水をくだり庄内川へ。ここを横断して庄内用水の元杁から庄内用水「黒川」へ入り、一番の難所といわれる矢田川の伏越「水路トンネル」を経て辻町に出る。
 南西にくだりお城の北から西を経て都心の納屋橋に到着し、堀川西岸にある、料亭『得月楼(現在は鳥久)』で祝宴を張ったという。

 これにより、木曽川をくだり桑名から熱田を通って運ばれていた美濃や木曽の物資は犬山から直線コースで運搬でき、時間と経費の大幅な削減が可能になったのである。
 当時の県知事勝間田稔は祝辞のなかで「これまで7日あまりかかっていたのが、わずか4時間で到着できるようになった」と述べている。

 この運送に使われたのは「べか舟」と呼ばれた底の浅い舟で、船頭が竿で操り進めていた。
 犬山から名古屋へは流れとともにくだるので比較的楽であったが、帰りは数隻の舟をつないで、一人の船頭が舟を操り、他の者は先頭の舟に結んだロープを岸から引いていったそうである。

 人を乗船させたほか貨物も運び、主な積物は、薪や炭、米や麦、木曽川の河原で採取された丸石、犬山で造られた天然氷などであった。

 薪や炭は名古屋という都市では生産できない貴重な燃料であり、主食の米や麦も同様である。木曽川の丸石は家の基礎や石垣、川の護岸などの工事に使われた。
 珍しいのは天然氷で、古老の思い出の中で一番残っているのが、子供の頃、氷を積んだ舟に橋の上から「氷をなげて」とせがんだ事だという。

 犬山市に残る明治24年の記録では『数年前から製氷事業が始まり、前年12月から2月にかけて、500余トンが製造でき、代価は1000余円。多くは名古屋へ出荷』とある。
 今 氷屋で売る長方形の氷にすると、500トンは13万本以上になる。
 実に大量の氷が犬山で製造され舟で運ばれてきたわけだ。

 製氷は吹きさらしで気温が低い木曽川河川敷で行われていた。
 犬山橋より上流の木曽川は川底が岩礁で、岩の窪みに渓流の水を竹の桶でひいたり、木曽川の水が入り込んでいる岩のところでは板で波よけを作ったりして凍らせた。
 氷の厚さが2寸(約6cm)以上になると、1尺6寸(約48cm)角に切って貯蔵業者に販売した。
 貯蔵業者は氷室と呼ぶ施設でこれを保存し、暑くなる頃名古屋に向けて出荷したのである。
 以前はモンキーパークの東に氷室という地名もあった。

 名古屋では明治21年1月に「愛知製氷会社」が上長者町が設立され、氷の卸小売業を始めている。
 ちょうど犬山で製氷事業が始まったころであり、木曽川で造られ、愛船株式会社の船で運ばれた氷の販売を行っていたものと思われる。

 船賃は乗客1人で7銭、米などは、1俵3銭5厘だった。おのころの活版植字工の日当が上級で15銭、下級で10銭であったので、乗客の場合日当の半額程度の運賃である。

 行き来する船のために、航路の所々に船着場が設けられ、荷物の積み下ろしや船頭さんの休憩する茶屋などがあった。
 北清水橋のたもとにある親水広場は、かつての船着場の1つであつ。すぐ上流の黒川橋は主要街道(稲置街道)がとおり、ここは舟運と陸運の交差として非常に便利な場所であった。
 また、金城橋の北西に川からあがる階段が残されているが、ここでは近くの建材屋さんが常滑から運ばれた土管を陸揚げしていたという。

 小牧市の味岡駅の近くに、新木津用水に面して立つ割烹『清流亭』は船頭さんのための茶屋の始まりだそうである。

 名古屋と犬山の交通と流通を大きく改善した航路も明治35年(1902)には名古屋と犬山を結ぶ定期乗合馬車が運行されるようになり、大正元年(1912)には名古屋電気鉄道が犬山まで開通して徐々に利用が減りついに大正13年、38年間続いた愛船株式会社の運行は廃止された。

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