名古屋城築城について


名古屋城は明治26年(1893)に国宝に指定されていた。

現在の名古屋城は再建の為指定を受けていない。

平成16年4月撮影


徳川の世、首邑の候補地として

  1. 那古野(現 中区三の丸)
  2. 古渡り(現 中区古渡町)
  3. 小牧

の3ヶ所が選ばれた。

名古屋城が出来るまで
主な出来事
1600年(慶長五) 松平忠吉、尾張に封じられる。
1607年(慶長十二) 徳川義直、清洲城主となる。
1609年(慶長十四) 徳川家康、名古屋の築城を決定する。
1610年(慶長十五) 名古屋城築城に着手する 「普請始め」
1613年(慶長十八) 清洲越の緒士や町人の住いが定まる。 
1614年(慶長一九) 名古屋城竣工、徳川秀忠、名古屋城を検分する、 
1616年(元和二) 徳川義直、駿河より名古屋城に移る。
1643年(寛永二十) このころ、地名を「名古屋」に統一する。

「教師が語る名古屋の歴史」から

家康が名古屋台地を選んだ理由

  1.  城が築かれた那古屋は標高10m前後の名古屋台地の北端に位置し、北部は急な崖で標高2〜3mの沖積平野に接している、その為清洲の様な水害や水攻めの心配のない立地条件。
  2.  城のまわりに広い土地が用意できる点も見逃せない。
     慶長以前から、各農村に分散した兵を呼び集める不便を改めて、城の周辺に兵をい住させ、戦力を早くまとめるように変って来ていた。
     名古屋台地の北端は、城を築くのに適していたが、それ以外に周辺にい住させる家臣のい宅や、集兵場が確保できる土地だった事も見逃す事はできない。兵農分離から始まる近世の城の機能的変化に対応する事が清洲では難しく、この事も清洲放棄につながった様だ。
  3. 豊富な湧き水。
     名古屋の名泉をたどると、名古屋台地の緑辺部、崖になった地形に多くみられる。

    等があった。

    台地上では

    等が知られている。

     天守閣に掘った「黄金水」も台地の北緑部の崖にあたり、良い水を得る事が出来たと考えられる。
    この様にこの地域は豊富な湧き水に恵まれていた事がポイント稼ぎになったろう。

  4. 熱田湊の存在
     南に伸びた台地は南端には湊町がある。ここは築城以前から各地と物資の交流が行われていた。
     熱田神宮が鎮座する熱田は『日本書記』にもみえる。
     時代と共に熱田への民間信仰が盛んとなり、神社の門前には旅人宿泊の門前町ができたり、熱田海岸地域には船着場が出来たりして、湊として発展していったと考えられる。

築城前の那古野

『金城温故録』には築城前の那古野は「葦深く生ヒ雉子沢山ニスミケル」と書かれている。
 この一帯は、信長が生まれたといわれる「那古野城」もすでに廃城となっており、葦が深く茂り、雉子等が沢山住んでいたが、古井戸等があちこちにある為に鷹狩もできないような有様だった様だ。


信長ゆかりの史跡

 織田信長は名古屋城ができる80年ほど前の天文三年(1534)5月、名古屋城ならぬ那古野城で生まれたというのが定説だ。
 往時の那古野城の跡を示す碑が名古屋城二之丸茶亭前の一角に建っている。巨大な自然石に彫られた碑には、「那古野城之跡」と記されていたようだが、戦災に遭って「那古」の2字だけが残る。


信長が青春時代を過した那古野城

 アシの繁る湿地帯が続いていた那古野の北の台地に最初に城を築いたのは今川義元の父、氏親で、大永元年(1521)のことという。
 城と呼ぶには規模が小さく、「柳之丸」といっていた。
 氏親はここに親族を住まわせ、尾張や美濃の動静を探る拠点とした。

 ところが織田信長の父、信秀の策略にひっかかり、天文元年(1532)に奪われてしまう。

 乗っ取った信秀は「那古野城」と命名した。
 その2年後、この城で信長が産声を上げる。

 信長が3才になると、信秀は古渡城(現 中区東別院境内)に移り信長を城主とした。
 小高い丘の上にあった那古野城の周りには、農家がぽつんぽつんと見られるだけ。
幼名を吉法師のちに三郎と呼ばれた信長はのびのびと育った。そして後見役の平手昌政秀らが政務を代行しながら、信長の教育にあたった。

 信長が元服したのも那古野城時代の天文十五年(1546)、父の居城、古渡城に出向き、元服式を挙げている。織田三郎信長と名乗ったのはこの時以来である。

 しかし平手政秀らが教育を間違ったのか、若い頃より奇行が始まる。髪は抹茶たてる茶せんのように結び、半袴、腰に巻いたしめ縄に朱色の太刀をさして町を闊歩した。
 朝夕、馬を乗り回し、家来たちに竹槍で試合をさせたり、夏は付近の川で泳いだりの毎日だった。

 天文十七年(1548)、美濃の斎藤道三の娘、濃姫と結婚したが、「尾張の大うつけ,大馬鹿者、という評判は近隣にも伝わっていた。
 道三は嫁にやる前、「本当に大うつけならこれで刺せ」と短刀を手渡したという。濃姫は「父上を殺す刀になるかもしれません」と言葉を返し、道三をうならせている。

 そんな濃姫との新婚生活も、那古野城が舞台だった。清洲城の織田信友を攻め滅ぼして那古野城を去るのは弘治元年(1555)、信長22才の時である。

 その後那古野城には叔父(父信秀の弟)の信光が城主となったが12月に変死する。
 一説には邪魔な存在になったので信長が家臣に殺させたともいわれるが、変死の翌年廃城となった。

 那古野の台地に再び活気が戻るのは約半世紀後の名古屋築城時である。  

名古屋なぞとき散歩  平成10年10月10日発行


名古屋城築城

 家康は加藤清正、福島正則、前田利光、黒田長政らの西國大名を総動員して築城工事に当らせた。
 しかも城の大部分は名古屋台地の上に築かれてはいるものの、二之丸の北部と本丸、御深井之丸の一部は、台地北部の沼地に張り出し台地面まで高くして造られた。木材などで敷地を固めるのは、大変な物入りであったという。


外様二十大名に城普請命ず

 名古屋城築城が始まったのは慶長15年(1610)のことである。

 まず堀や石垣を築く土木工事(普請)から始まった。

 家康は前田利光(加賀、能登)、加藤清正(肥後)、黒田長政(筑前)、細川忠興(豊前)、福島正則(安芸、備後)ら二十大名に手伝い(助役)を命じた。
 手伝いとは名ばかり。工事費用はすべて大名が負担し、家康は口は出すが金はビタ一文も出さない。
 指名された大名は莫大な量の資材を人夫ともども国元から運ばねばならず、一度指名されると、相当な大藩でもやせ細るといわれた。

 家康の狙いは指名した大名の藩財政を窮乏させる事にあり、指名を受けた二十大名は、いずれも以前豊臣方に通じていた外様大名ばかりだった。
 前年別の城の築城を手伝ったばかりの福島正則が「もう国に帰る」と言い出したのも無理はない。
 ところが普請総大将の加藤清正は「お手伝いが嫌ならすぐに国へ帰って謀叛を起すがよい。それが出来ないなら、軽はずみな事を言うな」と一喝。正則がしぶしぶ納得したエピソードが残っている。

 結局は負け組。理不尽なお手伝いと知りつつも家康の威光を恐れ、身の安泰のため従わざるを得なかった。5月、工事分担表が発表され、指名された諸大名たちは二度びっくりした。
 工事区分が非常に細かく分割され、しかも同じ大名の現場が少なくとも2、3ヶ所、多いところは10数ヵ所に分散されている。
 工事区分をわざと複雑に分けて境界部分の大名同士がケンカしやすいようにする。そしていさかいを起せば御家の取り潰し、あるいは小藩への移封ができると読んだ家康らしい深慮遠謀だった。

 秀吉の又従兄弟にあたる加藤清正は戦に強く、家康ににらまれる条件が充分である。
 ひたすら恭順の意を示すため、もっとも費用のかかる大小天守台の土木工事をみずから進んで申し出ていた。
 ところが細かく区分された工事分担が発表されると、「肥後殿(清正)だけが1ヶ所の現場で逆にもうけた」とうらやましがられる始末である。

 大名たちは石垣に使う大石を各地から必死に集めた。そして苦心して集めた石が盗まれない様、それぞれの大名の刻印を打った。
 また担当箇所の境界の石に印を付けて間違えないようにした。

 城内の石垣に象形文字のように刻まれた文様は、外様大名たちの苦心の跡である。

名古屋なぞとき散歩  平成10年10月10日発行 


哀れ普請大名たちのその後

 資材の調達や多大な出資に眉をしかめる大名が多いなか、取り潰し候補筆頭の加藤清正だけは明るく振舞っていたようだ。

 天守台用の大石は熱田の浜で船から下ろされ、城下を通って普請場へ運ばれた。
 その様子が「加藤清正石引の図(↓)」として「尾張名所図絵」に描かれている。

 毛氈で包んだ大石を地車に乗せ、数百人の人夫が掛け声をかけて引っ張る。巨石の上には真っ赤な陣羽織、日の丸の軍扇をかざした清正が乗り、お供のものといっしょになって沿道の見世物客にモチや菓子を振る待っている。
 誇張はあるだろうが、築城当時の石曳きの様子を伝えてくれる。

 名古屋城内には、センスを広げた清正が大石に乗った「清正公石曳きの像」が建っている。
「名所図会」を元に彫られたのだろうが、皮肉な事に東南隅櫓にさえぎられて、碑のある位置から天守閣は望めない。
 清正の目線も「名所図会」と違って下を向いており、なんとなく元気はない。
 また本丸東側の石垣に巨石があり、清正石と記された案内板が建っている。しかし築城当時の分担表を見ると清正はこの部分の石垣を請け負っていないので明らかに誤り。
 あまりの大きさに後世の人が「清正石引の図」と重ね合せて伝えたと思われる。

 普請は夜、昼を問わず突貫工事で行われ、清正が受け持った大小天守台は3ヶ月ほどで完成した。
 完工検査が行われたが、大天守の四隅の目立つ大石に工事を担当した清正の家臣たちの名が刻んであった。
 不審に思った検査の侍が問いただすと、清正は「石が盗まれないため」と答えた。
 「目印にしてはていねいに彫ってあるな」と検査の侍は皮肉をいいながらも、そのまま認めた。
 家臣たちの苦労を後世に伝えたい。清正の意地の刻印は現在でも天守台の石垣にくっきりと残されている。

 天守台以外も、ほとんどが年内に工事を終えて、大名たちはやれやれと国元へ帰りひと息ついた。

 ところが家康、というより封建の世の非情さはすさまじい。10年と経たない元和5年(1619)、福島正則は、広島50万石を没収され、川中島へ追放される。
 加藤清正は心労なためか、普請が終った翌年没した。
 長男忠広が後を継いだが、寛永9年(1632)、清正にとっては孫にあたる、わずか14才の正光の冗談話が幕府にもれてしまった。
 謀叛をたくらんだという罪で加藤家は熊本52万石を奪われ、庄内へ移封される。
 飛騨高山へ流された光正は責任の重さにうちひしがれ、餓死同然でまもなく果てたという。

 手伝った普請大名二十家のうち、明治維新まで、そのまま残ったのはわずか十二家という過酷さ。石垣の刻印は封建の世の非常さに翻弄された大名たちの怨念が込められている。

名古屋なぞとき散歩  平成10年10月10日発行


誰が金シャチを造ったか? 初代
 金シャチといえば名古屋人の誇りだが、これだけ有名になりながら、誰がどうやって造ったかとなると全く分っていない。
いわば一種の埋蔵金のようなもので、どうも極秘にされた形跡がある。

新100%名古屋人「マイタウン」平成5年1月1日発行

 また、加藤清正がサラシに巻かれたシャチに乗って屋根まで釣り上げられたという話もある。
し−鯱

 いわずと知れた「金鯱」<きんこー鯱鉾>

 尾張名古屋は城で持つは名古屋国のシンボルであり名古屋人の誇りである。初代のシャチは、慶長十七年(1612)に慶長大判をなんと1940枚も使っての豪華版。

 大凧に乗って金の鱗を盗んだという柿木金助の伝説は有名。

 東京の湯島聖堂で行われた日本初の博覧会や、ウイーンの万博にも出品されたほどの日本を代表する芸術品である。

 戦火で焼失し、現在の2代目♂1272kg、♀1215kgの18金張りである。

やっとかめ大名古屋語辞典 2003年9月12日発行

金シャチの歴史
 名古屋城の天守閣の大棟に金シャチが置かれたのは慶長17年(1612)。大棟の両端に装飾をつけるのは、中国では宋代、日本では室町の頃からの事で、飾るシャチを金にした例は名古屋以前にもあった。
 名古屋城だけが、江戸時代を通じて残ったのだという。

 当時の金シャチに使われた金は、小判に換算してざっと18000枚弱。心木(軸)はカヤ材、銅などの金属で下地を作り、その上に金を貼った。
 当時、天気の良い日にはかなり遠方からでもその輝きが見えたとかで、東海道の旅人の土産話と、城下の住人の誇りになった。

 金シャチの知名度を決定的に高めたのは明治5年(1872)東京の湯島聖堂で開催された日本最初の博覧会の場。 明治3年、当時の名古屋藩庁が忠義を示す意味で明治新政府に金シャチの献納を申し出、翌4年には東京へ。 そのうち1体がさらに翌年、湯島で衆目にさらされた。

 実はこの時点で名古屋城は、ゆくゆく解体、撤去されることになっていた。 しかし明治10年一転にて城の永久保存が決定する。

 かわいそうなのは、バラバラにされた一対の金シャチだ(いちおう雄雌だし)。
 ひとつは湯島の博覧会ののち、ウイーン万博博覧会に出陣のため海を渡り、残るひとつも、当時、各地で盛んに開催された博覧会の目玉としてあちこち引っ張り回された。

 明治11年改めて名古屋から宮内庁へ金シャチ返還の願書がだされた。その時も一方は愛媛の博覧会に出陣中、一方は東京で保管中ーーという泣き別れ状態。
 無事返還かなって、翌12年再び名古屋城天守閣の大棟へふたつ揃って帰って来たわけである。

 以上が金シャチが有名になった経緯であった。全身を金でおおう身ながら、日本中を巡業せねばならぬ境遇を体験するなどの涙ぐましい過去を思えばアダやオロソカにはけなせない物だ。

完全「名古屋人」マニユアル 1996年5月8日発行

金シャチの製造秘話。
 名古屋城の再建された時(昭和34年)工事を請け負った当時の間組社長が、加藤清正と同じ様な事をやろうとして一悶着おこしている。
 実際、シャチに巻かれたたサラシが解かれる日、職員の目を盗んで天守閣の上で堂々と「奉納碁」をやってのけている。シャチの目にダイヤモンドを入れたいと言い出した人だ。「正確な復元」を主張する市側の猛反対で実現せず、その夢は若松城で断行されることのなる。

 この間組社長、東宮御所の建築をたったの1万円で落札して話題を呼んだことも。名古屋城も4億を切る価格で入札、「あまりにも安過ぎる」と逆に話題に話題になったほどだ。


誰が金シャチを造ったか? 2代目

 当時名古屋市建築局の総務課長であった水谷さんの話。
「(間組の)社長は竣工するまでは自分の権限で自由にできると思っている人ですから、何をしでかすかわからず目が離せなかった。正門が竣工した時など、ひいきの芸者衆ーーそれも30人か50人かに見せようとしたので、慌てて止めたそうだが、碁の時だけは工事用のエレベーターで知らないうちに上がられてしまって全く気が付かなかった」とか。

「工事用のもうせんを引いて、日本棋院の島村八段を相手に堂どうやられちゃった。こちらは下から見上げて、あれよ、あれよとウロウロするばかり。悪い事に事前に新聞社に連絡がしてあって、その様子がカラー写真でデカデカ載っちゃりしましてネ。」

――むしろ自由にやらせたらーーという意見は出なかったのか?

「とんでもないー、冗談じゃないですよ。お陰でわれわれ関係者は大目玉を食いました」。

 金シャチと言えば、水谷さんがその製造秘話を披露して下さった。
 あれは大坂の造幣局で造られたものだが、ある日突然、水谷さんのもとに2週間の「納期延長願」が届いたそうである。
 今頃になって何事だ?と電話で確かめてみたら、職人が急に仕事が「遂行」出来なくなってしまったと言う。
 金シャチの本体はブロンズ製で、防蝕剤兼接着剤としてウルシが用いられている。
 水谷さんが下腹部を指差しながら「仕事の途中にその職人がトイレへ行ったと言うんですネ。何しろ上質のウルシだもんですからポンポンにはれてしまって、2週間くらいは何ともならんと言うんです。可笑しいやら、かわいそうやらーー」。

新100%名古屋人「マイタウン」平成5年1月1日発行

1里四方から眺められた金シャチ
 天守閣に夫婦で仲良く睨めっこしている金シャチ夫婦は西の丸跡から見て左(北)がオス、右(南)がメス。身長はオスが約2.62m、メスは約2.58mとオスの方が少し高い。

 創建当初はともにサワラ(後にひのき)の体に鉛の下着を付け、銅の衣を重ねたうえに金のウロコの晴着をまとっていた。

 ウロコの数はオスが194枚(現在112枚)、メスは236枚(現在126枚)で、やはりメスの方がきらびやか。
金の量は慶長大判で1940両分、慶長小判なら17975枚分に相当したという。慶長金の純度は84%で、今なら大変な金額だ(現在のシャチは18金でオスが44.7kg、メスは43.4kg)

宮の浜には魚が寄らぬ
金のしゃちほこ陽に光る。

 江戸時代にこううたわれた金シャチ。「宮の浜」とは現在の熱田区の南端あたりで、当時は伊勢湾の海岸線がそこまで伸びていた。「魚は獲れない宮の浜だが、尾張名古屋の金シャチが太陽に光って見える」と俗謡はうたっている。

 今のようにビルやマンションなどが建っていない江戸時代、尾張城下の高層建築物といえば南のはずれにあった東本願寺名古屋別院の本堂「36m」ぐらい。
 車の排気ガスもなく空気が澄んで、宮の浜から金シャチが見えてもおかしくはない。一里四方から眺められたという金シャチは宮の浜近くの宮の宿「熱田宿」や、熱田と桑名を舟で結ぶ「七里の渡し」からも視界に入った。

 十辺舎一九の「東海道中膝栗毛」は宮の宿で一泊したものの尾張城下に立ち寄らない。「名古屋飛ばし」をやっている。しかし弥次さん喜多さんは熱田の宿や七里の渡しの船上から、燦然と輝く金シャチを眺めた。

名古屋なぞとき散歩  恩田耕治著者  平成10年10月10日発行

藩財政を救うたびに輝きが減少 〜江戸時代編〜
 東海道を行き来する旅人たちの目を楽しませ、「尾張名古屋は城で持つ」と歌われた名古屋城。
 現在でも全国に名城は多いが、なぜ名古屋城だけ金のシャチホコなのだろう。

 シャチはクジラのように水を吹くといわれる中国の伝説上の魚である。
 もともと名古屋の建物は木造で火災に弱い。この為防火のまじないとして室町時代あたりから城や寺院など大規模な建物の屋根の両翼にシャチを置くようになったようである。
 しかし、ほとんどは木の芯に青銅を貼ったり、土瓦など地味なものだった。ところが安土桃山時代あたりから、城は防衛のための砦であるとともに城主の威厳を誇示するものとなり、金銀いたるところに散りばめられた。

 織田信長は派手で、清洲城に金の鬼瓦を使ったり、安土城に城として始めて金のシャチを乗せるなどしている。
 しかし、黄金好みの豊臣秀吉によって造られた大阪城や伏見城はなかった。

 名古屋城よりわずか数年前の江戸城築城の際にも、徳川家康は天守に金シャチを置く事を思いつかなかった。それなのに名古屋城の天守閣には金シャチを飾っている。
 築城時がほぼ天下を掌中にして、権力、黄金力の両方を思いのままにできる家康の絶頂期だったからこそ、実現可能だった。

 徳川家康が天守閣に金シャチを乗せたのは、いざ戦争という時の軍資金にする狙いもあったようだ。ところが本丸が完成した元和元年(1615)の大坂夏の陣によって豊臣方との決着がつき、完全に徳川の天下となった。
 以降、太平の世が250余年続き、軍資金の役割が薄れてしまった。

 かわって藩財政の赤字補てんの役割をになわされ、何度もうろこをはがされた。
 尾張藩の財政を救う度に金の晴着はだんだんと色あせてゆく。

 最初は享保十一年(1726)六代藩主継友の時代に「せっかくの黄金を雨ざらしとはもったいない」ともっともな理由をつけ、うろこをはずして改鋳した。
 おりしも将軍吉宗が物価取締まり令を公布した年で尾張藩も倹約令を布き、富商に御用金を収めさせるなど、財政立て直しに懸命だったときだ。

 約100年後文政十年(1827)の改鋳がもっともひどかった。前年に破損したので修理したばかりだが、藩財政窮乏のため、「本磨きは黄金さんさんとして、かえって優美でない。半磨きは黄金にして光輝温瀾」と訳の分からない理由をつけて改鋳した。
 改鋳でもうろこが風に吹き飛ばされたり、鳥につつかれる恐れが出るほど薄かったので、金シャチの周りに金網が張ってあった。
 しかし、縁起が悪いし格好も悪い。金網を取り払おうという意見が出た。
 ところが半磨きまで改鋳したため、取り払うどころか、より頑丈な金網が必要になるほどやせ細ってしまった。

 改鋳は弘化三年(1846)にも行われており、幕末の金シャチの輝きは、藩の威光と同じく風前の灯火だった。

名古屋なぞとき散歩  恩田耕治著者  平成10年10月10日発行

大だこに乗り金シャチはがす 〜江戸時代編〜
 たびかさなる改鋳によって、輝きはだんだんと鈍くなった。
しかし、とにもかくにも金である。小判1枚稼ぐのに大変な苦労をした時代に、18000枚近い小判に相当する金を使用していると聞けば、なんとなく心が豊かになる。

 名古屋っ子が争いごとを好まず、保守的といわれるのは、毎日金シャチを眺めていたせいかもしれない。
 しかし、眺めていただけではフトコロは温まらない。腹もふくれない。「300枚もあるウロコの1枚や2枚はがしてもわからないだろう」と朝夕、眺めながら心の片隅に不埒な考えを抱いていた名古屋っ子も多かった。

 そんな名古屋っ子の願望を代行して、実行に移した希有の大泥棒が出た。

 江戸時代中期、正徳年間(1711−15)の事である。大ダコに乗った男が名古屋城の天守に近づき、馬乗りならぬ、シャチ乗りして金のウロコを3枚はぎとったのだ。
 犯人は直に捕まった。尾張国海西群柿下村(現−海部郡八開村柿木島)の百姓金助というもので、たこ上げを手伝った相棒2人も一緒に御用となった。
 「親父の死後、田畑を庄屋に取られてしまい、日々の暮らしに追いつめられた為にやりました」と日本怪盗伝に名を残す柿下金助事件は大胆な手口に似ず、きわめてありきたりな犯行動機で決着した。

 しかし、いくら太平の世といえ、城内に忍び込むのさえ、幾重もの厳重な警備の門をくぐらなければならない。
 まして城の天守閣へ大タコに乗って堂々と近づくのは、とても無理で勿論フイクションだ。

 ただ、その頃、尾張や隣国美濃を舞台に凶悪な犯罪を重ねて逃げ回り、宝歴十三年(1763)に捕まって死罪となった柿木金助という同名の極悪人の記録が残っている。

 また前後して二之丸御殿の御金蔵「金庫」へ怪盗が忍び込む事件が実際に起きた。

 さらに、その数年後に金シャチの大修理が行われている。

 こうした事件が重なって話に尾びれがつき、当時の庶民の願望も加わってフレームアップされ、城下に広まった。

 まことしやかな噂を聞きつけたのが石川五衛門伝説の生みの親の「怪盗作家」、初代並木五瓶である。早速、物語りに仕立て上げた。
 天明三年(1783)12月。大坂角座において上演された「傾城黄金鯱」は大ヒットし、以来、柿木金助事件は岡本綺堂と岡鬼太郎共作の「金鯱 噂 高浪」に仕立て上げられ、明治35年「1902」東京歌舞伎座で二番狂言として興行されている。明治以降も結構人気者だったのである。

名古屋なぞとき散歩  恩田耕治  平成10年10月10日発行

「無用の長物」と見世物になり全国行脚
 明治維新後、金はシャチは取り壊しの危機に面した。

 皮肉にも最後の藩主、徳川慶勝が藩知事だった明治三年(1870)藩議によって名古屋城と金シャチは「無用の長物」と断ぜられた。
 役に立たない城と金シャチを取り壊してお金に換え、録(給料)がなくなり失業した旧藩士たちの帰農、生計資金に当てようというのだ。

 その年の暮れ、新政府から取り壊しの許可も下りた。

 翌明治4年「1871」、まず金シャチが天守閣から引き下ろされた。ところが、解体寸前に待ったの声がかかる。
 噂を聞いた在日ドイツ公使フォン・ブランドが、名古屋藩知事と政府に取り壊し中止の強い勧告を行ったのである。

 もともと取り壊しを惜しむ地元の声も強かった。徳川慶勝藩知事は解体を思いとどまり、宮内省へ献納することにした。まさに危機一髪。
 ブランド公使は名古屋城や金シャチにとって恩人である。

 新政府に献納された金シャチは、翌年東京、湯島で開かれた日本初の博覧会に展示され大人気となった。

 湯島の博覧会を皮切りに、夫婦それぞれに別れて諸国行脚の旅に出る。

 女性の海外旅行好きはシャチの世界も同じ。メスの金シャチはウイーンの万国博覧会へ出品のため、洋行までしている。
 ウイーンから帰国の船旅の途中の明治6年(1873)乗っていた船が伊豆沖で沈没したため「金シャチ遭難」と一時は騒然とした。
 しかし香港で積み替えられていたため難を逃れるというオマケ付けの外遊だった。

 メスは帰国後、東京の博物館に納められ、ひとやすみ。
 これに対してオスは明治7年(1847)名古屋市中区の東本願寺名古屋別院で開かれた博覧会に里帰りしたあと、東海−北陸道など各地を転々とした。
 夫に休まるひまがないのは人間様と同じである。

 いっぽう名古屋城の天守には当然の事ながらシャチがいない。
 「やはりシマリがない。何とか返してもらって復活させよう」と名古屋っ子の間でシャチ返還の声が年々高まったのも無理はない。

 そこで地元財界の有力者らが中心になって金シャチ返還を宮内省に請願した。3ヶ月後の明治11年(1878)9月、宮内省は特別に返還を許可、11月には雄雌のシャチが名古屋に戻った。そして翌12年の2月、8年の別居生活を終えて、ようやく元のサヤ「天守」に納まっている。

名古屋なぞとき散歩  平成10年10月10日発行

昭和の柿木金助 現れる
 明治時代の始め、天守閣から下ろされていた時期にも2,3の金シャチ盗難事件の記録が残っている。
 しかしウロコ1枚か2枚程度で、そんなに大騒ぎになっていない。

 ところが昭和12年(1937)1月、のちに「昭和の柿木金助」と呼ばれる大泥棒が現れた。

 事件が起きる前年から、名古屋城は実測図をつくるため天守閣に足場をかけていた。
 犯人は足場のあるこの時期を狙った。しかも正月三箇日があけたばかりで、参観者がほとんどいない1月4日の昼間から天守閣にひそみ、じっと夜を待った。
 夕闇が濃くなり人目につかなくなると、足場を使ってやすやすと天守へよじ登り、北側のオスのシャチの金網をペンチで切り裂いた。
 はがされた金のウロコは58枚。オスのウロコは全部で194枚だったから、その3分の1近くが盗まれた。
 またまたオスが受難。1ヶ月もの間、冬の寒風に素肌をさらす事になる。
 おとそ気分も抜けた7日、実測を再開しようと天守に登った名古屋市職員がウロコのはがれた無残なシャチを直に発見したのは言うまでもない。

 通報を受けた名古屋市長は大あわて。なにしろ昭和5年に宮内省から下賜されたばかりの国宝が盗まれたのだから大変だ。
 ただちに新聞記事の差し止めを行い、内密の内に捜査が開始された。
 金のウロコを盗んだ犯人は、鋳つぶして小口の金塊にし、大坂の地金商や貴金属商へ売り歩いていた。

 1ヶ月後、内偵を続けていた、大坂船場警察署に御用となる。
 捕まったのは広島県出身、40才の男性で、前科2犯。
 モルヒネの盗みで8年の刑を終え、名古屋刑務所を出所した。その時に、立寄った名古屋城の金シャチが忘れられず、犯行を思いついたという。

名古屋なぞとき散歩  平成10年10月10日発行

めすは金の茶釜で第2の人生
 盗まれた金のウロコは名古屋市が新しい地金を買って復元し、再び天守閣に輝いた。

 ところが8年後の昭和20年(1945)の名古屋大空襲によって、300余年の生涯を閉じる事になる。

 日本の敗戦が濃厚になり、名古屋の空に敵機がひんぱんに姿を現すようになった昭和20年5月、戦禍から国宝を守ろうと金シャチの撤去が進められた。
 まずメスが天守閣から下ろされた。次はオスと考えていた矢先の5月14日午後3時、敵機が襲来、名古屋市の大半が焦土と化した。

 名古屋城の天守も御殿とともに焼失し、雄雌の金シャチは城ともども討ち死である。

 改鋳されて身を削られ、天守閣から引きずり下ろされて見世物になったり、盗賊からウロコをはがされるなどご難続き。しかしなんとか命だけは助かって生延びてきた。
 ところが戦争によって息の根を止められた。憎むべきはやはり戦争である。

 幸いだったのは地上に下ろされていたメスのウロコの金が燃え殻として残った事だ。発見されると米軍に一時撤収された。その後昭和42年(1967)に大蔵省から返還され、翌43年に一部が名古屋市旗の竿頭の飾り玉へ。残りは昭和45年(1970)金の茶釜2個に生れ変わった。

 第二の人生を歩む初代金シャチは天守閣展示室の人気者の一つだ。

 現在、名古屋城天守閣に輝いている金シャチは昭和34年(1959)の名古屋城再建時に造られた2代目である。
 幸い実測図が残されており、外観や大きさなどは初代とほとんど変わらぬ姿で再現された。ただし中身は初代と少し異なる。
 胴はヒノキから青銅鋳物にかわり、表面にはウルシが焼き付けてある。ウロコは銅板に金板を張り付けてメラミン樹脂でカバーしてある。ウロコの金量は雄雌合計で金約88kgとたっぷりだ。

 大坂造幣局の勲章作りのベテラン達が腕によりをかけてつくり上げた二代目は、若い頃の初代に負けない輝きを名古屋の町に放っている。

名古屋なぞとき散歩  平成10年10月10日発行

 


築城後のエピソード

 築城後、本多正純が熱田を通った際「この城はもう1〜2町も南へ寄らせて作ったならば費用はうんと少なくて済んだであろうに」と言ったと伝えられている。
 また「尾張普請は迷惑千万」という悪口がはやったとも言われ、各大名がいかに苦しんだかが伺える。

 こうして名古屋築城は西國諸大名に財力を消費させ、幕府への忠誠心を確かめ、もしもの際の軍事拠点にした、まさに一石三鳥の政略といえる。


計画的な城下町の構想

 家康は幕府政治の大理想を確立する為難攻不落の江戸城を築き、江戸発展の基礎を固めたが、名古屋城下町の計画についても、江戸、大坂に次ぐ雄大な構想をもって当り、わく内の基本施設は家康自身の考えで作られたといわれる。

 名古屋城下町は現在中区、東区西部、を中心とし、西区、中村区の一部を加え西北部には城、その南部一帯は基盤割の町人の町、基盤割の東、南、西の三方は侍屋敷になっている。  


清洲越し 「城下町を構想した人々」

 家康は名古屋築城とともに、清洲の町を引越しさせた。これが清洲越である。

 清洲越しはいつ始まったかは明らかでないが『尾張旧話略』には慶長十五年(1610)9月頃から清洲の御家人追追宅を名古屋に移す「緒寺院、神社も移る」とあり、広井八幡社家の記録には「慶長十七年名古屋検地町割」とある。
 また『編年録全文』や『金府紀較』には「慶長十八年名古屋越の緒士や町人の住いが定まる。昨年までは侍、町人共が清洲、名古屋かけもちで近郊に知行所に仮住まいしたものが18年には全部定住した」とある。

 このような資料を総合すると、慶長十五年頃から築城関係者や町人、寺社などで移転準備、あるいは一部移転が始まった。

 このころ、計画的な町割が進み完成したのは慶長十七年頃である。前年から本格的な移転が始まり同十八年には移転が完了したと考えられる。
 「名古屋城氏史」、「蓬左遷府紀稿」によれば、武士を始め、刀や鉄砲などの職人や商人、神社(3)寺院(約110)更に町名(67)から橋の名前にいたる大移動だった。
 『清洲の町名――本町、京町、伏見町、大津町、伊勢町、長島町、長者町、伝馬町、桶屋町、針屋町、鍋屋町、呉服町、鉄砲町、鍛治屋町、瀬戸物町、他多くの町』

 清洲越の伊藤次朗左衛門「呉服屋−茶屋町」 花井七左衛門「惣町代−本町」 和泉屋権右衛門「酒造商−上長者町」 井桁屋久助「質商−福井町」などで伊藤屋忠左衛門「米穀問屋−大船町」 瓦屋八郎右衛門「大船町」 塩屋孫左衛門「塩町」は堀川沿いに集った商人たちである。
 これらの商人達は、名古屋の商業の担い手として活躍した。


完成と同時に義直入城  春姫が輿入れ

 慶長十五年8月から大小天守閣の造営に取りかかり、本丸や二之丸など土木工事が終ったところから、建物の作事「建築」に入った。

 天守作事奉行の小堀遠江守(遠州)はじめ、のちに日光東照宮を手掛ける大工の棟梁、中井大和守正清、大工頭には安土城天守の大工頭も務めた熱田大工の筆頭、岡部又右衛門ら、建築は当時の城造りの第一線の手によって進められた。

 古い記録によると、城の敷地は本丸だけで11,289坪(37,000平米)、二之丸を含めると26,555坪(88,000平米)あり、江戸城、大阪城に次ぐ大規模な城造りである。

 慶長二十年元和元年(1615)本丸御殿が完成し、初代藩主の徳川義直が清洲から新しい城に移った。
 そして4月には紀伊和歌山37万石の城主浅野幸長の娘、春姫を迎え盛大な結婚式が営まれた。

 春姫の輿入れは真紅の紐に通した銭1000文を肩にかついだヒゲ面の中間100人を先頭にお供女中を乗せた駕篭50丁、長持300棹の婚礼道具の列が続く。
 共侍に守られた一段ときらびやかな春姫の駕篭のあとには、付添いの医者や茶道の師範などが従う。
 輿入れの列は熱田の浜から名古屋城まで延々十数町にわたったと伝えられる。

 家康は老体を運んで天守閣に上がり、行列の様子を満面に笑みを浮かべて眺めていた。
 そして名古屋城の完成と義直の結婚式を見届けて安心したかのように、翌元和二年(1616)4月、75才の波乱の生涯を閉じた。

名古屋なぞとき散歩  平成10年10月10日発行


維新後に跡形もなく消えた地下の黄金

 明治維新後、二之丸御殿が取り壊され、第二次世界大戦で大小天守閣と本丸御殿が灰と化した。

 現在名古屋天守閣は名古屋開府350年、市制施行70周年を記念して昭和34年(1959)に再建されたものである。

 加藤清正が築いた20mの石垣に建つ天守閣は五層で、高さ33.6mの鉄筋コンクリート造り。
 城内のほぼ全域から眺められる金シャチは、ウロコ1枚1枚がはっきり見え、より輝いて見える。

 天守閣への出入口は昔同様に一ヶ所しかない。しかも小天守閣(地下1F、地上3F)を通らねばならない。
 小天守閣を結ぶ橋台の軒下に剣を忍び返しに打った剣塀になっていて外部から簡単には入れない。
 天守閣に近づこうとする敵兵には、それ以前にも白壁の穴から矢や鉄砲が打込まれる。
 突破して石垣によじ登れば唐破風の出っ張りから大石が落とされる。
 優雅な姿でそびえる小天守閣、大天守閣だが、よく見ると二重、三重の守りで固められているのだ。

 大天守閣内部は地下1F地上7F建て。1Fから5Fが展示室になっており、エレベーターが最上階の展望台まで運んでくれる。

 コンクリートで固められた地下には黄金水の井戸跡が残る。
 築城当時に加藤清正が掘ったものだが、深さ12間(約22m)の井戸は最初は水質が悪くて飲み水には、とても使えなかった。
 そこで清正は豊臣秀吉が大阪城に掘った黄金水の井戸を思い出し、井戸の床全面に慶長大判を敷き詰めた。不思議な事に水が澄み、飲めるようになったといわれる。

 戦災に遭う前の地下には、この黄金水の井戸のほか、大きな穴蔵がいくつかあった。

 地下は御金蔵、つまり金庫室になっていて、穴蔵に尾張藩の黄金を保管していた。
 御金蔵に大判、小判、金銀がどのくらい入っていたのか。そして明治維新の混乱期にどう処分されたのか、まったく記録がなく、謎となっている。

 名古屋城の黄金を推測する、一つの材料として、夏の陣で落城した大阪城の財宝を家康が御三家に配分した記録が残る。
 いったん静岡の駿府城に納められたため、「駿府御譲金」として尾張徳川家へ配分された黄金量をざっと計算すると、大判3200枚、小判21000両、銀塊約7700貫などなど。
 これだけの量の金銀が納まったのだから、金庫室の広さも想像できよう。
 もちろん金シャチを改鋳して藩の赤字を補てんした事が何度もあり、御三家といえ、尾張藩も台所は火の車だったろう。
 しかし家康から拝領したいざという時に備えての「軍用金」だけに、たやすく手がつけられなかったはずだ。

 明治新政府への引き渡しのどさくさにまぎれ、勘定奉行の小栗上野介が軍用金を運び出し、どこかへ埋めたという江戸城の黄金伝説は有名である。名古屋城も同じ様な状況だった。

 しかし維新後の金庫室は空っぽ、黄金の井戸の慶長大判も跡形もなく消えていたのはなぜか?
誰かがどこかに埋めたのではないか。

 夢がふくらむ名古屋城の黄金の行方である。

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有事に備えた数々の仕掛け  二之丸跡周辺

 天守閣にあった本丸御殿跡地には基礎が築かれ、その雄大さを伝えている。

 本丸御殿は慶長二十年(1615)に完成し、藩主の住居、政庁として使用された。
 表書院、対面所、清洲から移築された黒木書院など30部屋を超える。
 各部屋は狩野派によって描かれた襖絵や壁、天井板絵などで飾りたてられた。

 藩主義直が二之丸御殿へ居を移した後は、将軍が京へ上る時の宿舎となり、御成書院「上洛殿」や御湯殿書院が享保十三年(1728)三代将軍家光の上洛の際に増築されている。

 国宝の二条城、二之丸御殿と並び称された武家風書院造りの傑作は、第二次世界大戦で惜しくも焼失した。
 しかし取り外しできる障壁画は、空襲に備えて疎開していたため幸い戦禍を逃れた。
 戦前に国宝に指定された345点はじめ、玄関の虎の間を飾った「竹林群虎図」や表書院の「桜花雉図」など1000点を超える傑作の数々は国の重要文化財として現在も残されている。
 一部は天守閣の展示室に飾られており、尾張徳川家の華やかな暮らしぶりを伝えてくれる。

 鹿がのんびりと遊ぶ空掘りをはさんだ本丸東側には、代々の藩主の居館と政務を行なう二之丸御殿があった。
 御殿の南側は藩庁のある表御殿があり、前には木曽の「寝覚の床」を模した深山幽谷の名園「二之丸庭園」が広がっていたという。
 いっぽう北側は藩主や家族が住む奥御殿となっていて、やはり前に庭があったが、こちらは有事に備えた藩主の脱出路を兼ねていた。
 進入者の足音を聞き分けるために勝川石が敷かれ、退路を隠すための巨石がさり気なく置かれていた。
 また危急の際の藩主の集合場所とするため、すぐ抜ける蘇鉄が植えられていた。
 庭の景観の一部となっている大きな石橋が実は脱出路になっており、藩主が渡り終えると、落ちるなど万一に備えた巧みな仕掛けがいくつもあった。

 二之丸御殿と庭園のほとんどは明治時代初期に壊され、跡地には現在、広場や茶亭、大相撲名古屋場所が行われる愛知県体育館などがある。
 ただ北側の二之丸茶亭前には五つの築山を背景にした枯滝や、先の大石の石橋などがあり、名勝といわれた「二之丸庭園」の一部をわずかに偲ぶ事ができる。

 二之丸庭園の西側に出ると堀の前に「埋御門之跡」の碑がひっそりと建つ。
 いまは見られないが、周りは高塀で囲まれ、石垣が1mほど、くぼんだところに秘密の門があったという。
 扉を開くと垂直に近い石段が堀の底まで続き、藩主は少数精鋭の供と一緒に綱を使って一気に降りる。
 降り立った底を10数メートル駆け抜けると、深井大堀の前で舟で待っている。そこから対岸の御深井の庭へ渡り、土居下−清水口−大曽根−勝川を経て木曽街道へ落ち延びる手はずだった。
 ところが太平の世が長く続き、江戸時代後期の18世紀末ぐらいになると、藩主やお供の者たちは極秘の脱出口である事を知ってか知らずか、御深井の庭への近道として使っている、と嘆く藩士の日記が残されている。

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「朝命により斬首」の13藩士の謎

 あと数ヶ月で明治の世になる慶応四年(1868)正月20日、藩主徳川慶勝が京から急きょ帰名し、藩士全員に登城命令がふれられた。

 幕末の慌ただしい空気のなか、藩士たちは、「何事か」と不安気な表情でぞくぞくと城に参集した。
 夕刻、控えていた渡辺新左衛門(2,500石)。榊原勘解由(1,500石)。石川内蔵丞(1,000石)。の3重臣に、いきなり十数名の若侍が組み付いた。
 麻縄で後ろ手に縛りあげられた3人は城内二之丸の向屋敷庭前に引き立てられた。
 そして「朝命により死を賜うものなり」と告げられただけで、問答無用とばかりに斬首された。

 25日までに同じ場所、同じやり方で4回計13名の首がはねられた。世にいう青松葉事件。
 一説には謹皇派だった藩主にそむき、幼主、元千代を擁して幕府方に投じようとしたためといわれる。
 しかし郷土史家の長年の研究にもかかわらず謀叛の確かな証拠は見つかっていない。
 真相はいまの謎のままである。

 哀れなのは残された家族たち。家屋敷は没収され、家名断絶、永久に外出禁止、隠居謹慎など世間から白い目で見られて不遇な日々を送っている。
 それにひきかえ、勤皇派家臣の中には時流に乗って出世した人も多い。
 このため「全くの無実だったが、尾張藩を救うために藩命にいさぎよく従った忠臣」として見直す気運が高まった。
 明治時代半ばには追悼会が開かれたり、小説になったりした。現在では「忠臣犠牲説」が主流となっている。

 名古屋城内の二之丸の斬首された跡に建つ碑に刻まれた文字も「尾張勤王 青松葉事件」となっている。
 天守閣を見上げる格好で建つ碑はなんとなく誇らしげ。「やれやれ、ようやく疑いが晴れた」と、幕末の動乱の犠牲となった藩士たちのほっとしたため息が聞こえてきそうだ。

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昔の姿そのままに城を固める4つのヤグラ

 江戸時代の名古屋城の姿そのままを伝えるものには、先に述べた石垣の刻印のほか、本丸へ通じる表二之門と西南、東南、西北の各隅のヤグラの4店があり、いずれも国の重要文化財に指定されている。

 本丸の正門が表二之門。江戸時代には南二之門と呼ばれ、門柱と冠木は鉄板が張られている。
 使われている木割りも太く、どっしりした構えはいかにも堅固そうだ。
 両脇の袖塀は下半分が石塀、上半分は白壁の土塀だが、弓や鉄砲用の狭間が開いており、軍事的にも重要な城の「内玄関」となっている。

 本丸の西南を固める西南隅ヤグラは方角から未申ヤグラとも呼ばれ、二層の屋根があり内部は三階となっている。
 目を凝らすと西と南に石落とし用の張り出しが有り小屋根が付いている。
 明治24年(1891)に起きた濃尾地震によって石垣とともに崩壊したが、宮内省の手によって再建された。このため鬼瓦に、菊花紋のあるめずらしいヤグラだ。

 東南隅ヤグラは文字通り本丸の東南角に建っている。
 規模、構造とも西南ヤグラと同じである。ただ東と南の石落とし用張り出し部分の屋根の形が異なる。
 創建当時の姿を現在に伝えるもので、鬼瓦ももちろん葵の紋である。

 本丸東北部に東北隅ヤグラもあった。他のヤグラとともに旧国宝だったが、戦災で焼失し、現在は跡を示す標識が建っているだけだ。

 御深井丸の西北隅ヤグラは清洲ヤグラともいわれ、外堀の水面に映える昔ながらの優雅なたたずまいで人気が高い。
 北面と西面の外部は千鳥破風がつくられ、落とし狭間を備えている。そこから警備の尾張藩士が今にも顔をのぞかせそうな雰囲気である。

 戦前までは清洲城の小天守を移築したといわれていた。しかし戦後の解体修理の際の調査で、移築ではなく古材を利用しただけである事が判明している。

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名古屋城炎上

 昭和20年5月14日と17日は大空襲があった。この2回の空襲の来讐機数は、480機、468機と名古屋空襲史上最高のものとなった。
 特に5・14の空襲は名古屋北部が中心で、午前8時頃から約1時間半に渡った。

 この空襲は昼間に行われた為、焼夷弾が「まるで手裏剣のようにザーッと落ちてきた」と当時の様子を料亭「魚鉄」の御主人磯部幸子が話される。またこの日、名古屋市民の「お城だけは焼けない」という思いが無残に砕かれ、名古屋城の大小天守閣、東北隅櫓、本丸御殿などの姿は1日にして消えてしまった。

 名古屋市民にとって、この出来事は忘れられないものとなったのである、  

名古屋城炎上の写真を撮られた岩田一朗氏の話
 城はあちこちから炎を吹き始めました。

 どれくらい時間が経ったか分らず、司令部作戦室の屋上から城が炎上するのを見ていました。
 真っ黒をいっても過言でない空に真っ赤な炎がなんと10mほど天に立ち上る姿は何と表現したら良いか解かりません。炎は次第にお城全体を包み真っ赤な火の玉のようになってしまいました。
 その炎のなかから緑色の炎が魔物のように立ち上ります。胴瓦の焼ける炎です。

 空は真っ黒に煙りで覆われ、その中でクッキリと浮んでいます。神々しいまでの美しい勇姿でした。ああこれで歴史も終るのかと思うと涙があふれて来ました。

名古屋城炎上の記憶。「名古屋空襲誌」

名古屋城副監視長の原田尊信氏の話
 当時まさかのときを考えて、鯱を下へ降ろし、土の中へ埋めようと作戦をしていました。

 南側の雌から始めていましたが、重い為ワイヤーが切れて、3階の屋根まで落ちてしまいました。
 約240tもありましたので、機材の不足している時ではどうしようもありませんでした。あきらめて北側の雄のシャチを降ろし掛けていた時に空襲をうけました。

 シャチを降ろす為に足場を組み、南側の窓を3つあけておいたのが災いしたのでしょうか、そこえ焼夷弾が入ってしまいました。
 いちどに沢山の爆撃機がきて、爆弾を落していきましたので、お粗末な防火器具や体制ではとても無理でした。

 当時は空襲警報がでたら職員は出てこなくてもいいと言う事になっていましたので、職員はほとんどいませんでした。
 1人で色々と指揮にあたろうとしたのですが、消防車はあったものの消防士が全くいないものですから手の打ちようがありませんでした。燃えるのを傍観していたのと同じ結果となりました。

 燃える時ですが、屋根は銅ですから、紫色の炎を出して燃えました。シャチの金はカレー粉のような物として残っていました。
 天守閣の柱は中へ向けて崩れるようになっていましたが、西北の方へ崩れました、燃え尽きるまで3時間くらいかかったと思います。

 燃え跡に残った炭は200俵余りもありました。

名古屋城全焼の建物および樹木
天守閣、小天守閣、、東北隅櫓、正門、表一之門、東一之門。東二之門、不明門、本丸御殿、樹木153本。
今も残る戦争の傷痕
長栄寺「鈴木柳子さんの話」 

 私は昭和20年(1945)5月13日まで内海に疎開していましたが、たまたま14日は疎開先からお寺に戻っていました。

 午前8時頃、B29がやってきて焼夷弾を落しました。名古屋城に火がついたのと同じくらいに、うちのお寺にも火が点きました。

 初めに火が点いた所は徳川家康の座像がありました御霊屋の屋根でした。
 ちょうど屋根がかやぶきでしたので、ひとたまりもありませんでした。次は庫裡(くり:台所の意)、その次は本堂といった具合に燃えていきました。

 でも山門は本堂と少し離れていたので、何とか残そうと思い近所の方々と一緒に防火用に溜めてあった水をかけました。山門の火を消し止めた時には、池の水は無くなっていました。

この時、お寺の文化財は全部焼けてしまいましたが山門だけは残りました。
現在山門についている焼け跡はその時のものです。

北区誌 北区制50周年記念 平成6年6月22日発行

西光寺「堀泰応さんの話」
 うちのお寺は、昭和20年5月の空襲の前、4月7日の空襲だったと思いますが、本堂に爆弾が落ち壊れてしまいました。
 その日、小牧の大草の方へ疎開しようと思い、布団や畳を大八車に積み終えたところ、空襲警報が出ましたので防空壕に近所の皆さんと隠れていました。その時、爆弾が本堂に落ち、爆風で山門が壊れてしまいました。
 この事によって、防空壕の入口が山門の木でふさがれてしまい、空襲警報が解除された後も、なかなか外に出られませんでした。

 中に入っていた皆さんと苦労して外に出て見ますと、疎開の為に積んでおいた布団が本堂の天井まで飛ばされ、ぶらぶらしていました。
近所の家、庫裡も建ってはいたものの、中は爆風でメチャクチャでした。その時、普光寺も焼けました。

 八王子神社の南では防空壕に直接に焼夷弾が落ちましたので、多くの方々が亡くなったように記憶しています。

北区誌 北区制50周年記念 平成6年6月22日発行

焼夷弾で風呂を沸かした。  北区山田日出男さんのお話
 当時、北区の神戸製作所の近くに住んでいました。
 B29の空襲の後には沢山の焼夷弾の不発弾が落ちています。中には束になって、そのまま落ちたのもありました。ベルトが切れなかったか?、外れなかったか?、私達はその不発弾を器用に着火装置をドライバーと釘を使って取り外しまして、ぜりー(ゲル状)になった油を家に持帰って、缶詰の空缶に移し替えて風呂を沸かしまた。ちょうど焼夷弾1本で、一回は家族が風呂に入れた記憶があります。

 今に思えば、私は小学生5年生の時でした。その程度の知恵で着火装置を取り外しが出来ましたから、とってもシンプルな構造だったんでしょう。
 身近で同じ様に焼夷弾の油をぬく友達も沢山いましたが、怪我をしたとか、手足が無くなったとか、死亡したと言う話は聞いた事がありませんでした。

 油火は風呂釜の一部にしか当りませんので、当った部分が弱ってしまって評判は悪くやめてしまった人もいました。「今の時代、料理屋さんで個鍋で固形燃料を使用して調理するしぐさ」に似ています。

 ゲル状の油は作業工程の都合でしょう?ガーゼで包んでありました。今の時代に当てはめると「国が何もしてくれない」とか「子供に危ない」とか「保証をどうしてくれるか」との話になるでしょうが、当時は回りを見ながら自然に自分の身を自分で守っていたようでした。

自宅の二階から名古屋城炎上を見ていた。  中島
 私が始めて空襲を知ったのは現在の法務局のある所に馬の飼料が貯蔵してあったところにB25(艦載機)が1機だけ飛んで来て爆弾を投下して行きました。
 名古屋城が燃える時は窓という窓からいっせいに火を噴いていた事を覚えています。
 当時は今の様に建物が低かったので自宅の二階から見ていました。

 


信長ゆかりの「猿面茶席」も 

 名古屋城には信長ゆかりのスポットがある。
 天守閣の北側、御深井丸の猿面茶席である。

 もともと清洲城にあったもの。床柱に節が2つあり、まるで2つの目のように見える。
 信長はこの柱の節を指差し、のちの豊臣秀吉、木下藤吉郎に「お前(猿)の顔ようだ」と笑った。
 以来、猿面茶席と呼ぶようになったという。

 古田織部のデザイン設計、信長が建築主の戦国の名席の一つ(後に国宝に指定)。
 名古屋城築城の際、清洲城から二之丸庭園へ移築された。

 しかし明治維新で取り壊しが決まり、民間の粋人に売却された。
 しばらくは、この粋人の自邸内にあったが、明治13年(1880)、中区門前町の博物館境内(のちの愛知県商品陳列館)へ移築され、初めて一般公開されている。

 さらに鶴舞公園(昭和区鶴舞)へ移築されたが、昭和20年(1945)1月の名古屋空襲で焼失という数奇な運命をたどった。

 現在の茶席は復元されたもので、同じように二つの節があり「猿面」のエピソードや、往時の面影を偲ばせる。
 猿面茶席の隣りには茶席織部堂がある。古田織部の茶道と、瀬戸焼きに残した功績を讃えるもので、堂の前に織部灯籠が建ち、堂内に織部の座像が祭られている。

 また又隠の茶席というのもある。
 京都の裏千家にあったものを、安永年間(1772−1780)に一部手を加えて、愛知県常滑市の個人邸に移築した。
 その後転々としたが、名古屋市が寄贈を受け、御深井丸の現在地に安住の地を得ている。

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