柳原商店街周辺の神社仏閣


長栄寺 深島神社 多奈波太神社 八王子神社
久国寺 解脱寺 西光寺 尼僧学林
豪潮寺 七尾天満宮 普光寺 西来寺

 


長栄寺 名古屋市北区柳原2−17−11

略縁起

 当寺は愛知郡諸輪村(現東郷町)にあり、越智泰澄大師を開祖とした。古刹であったが長く廃寺になっていたものを、尾張藩より招請を受けた豪潮律師が文政六年(1823)現地へ金城鬼門鎮護祈願所として再興したものである。
 よって豪潮律師を長栄寺中興第一世とし、当寺を一般には豪潮寺と呼んでいた。

 本尊准堤観世音菩薩は定朝法印第三十一世赤尾右京の作で光格帝より拝領されたもので、ある時雨庵は豪潮律師が二世実戒に後を継がせ隠いし入寂したところである。

 豪潮律師の遺骨は昭和55年3月28日一願山不動院豪潮寺に奉安された。また、文政四年(1821)頃造られた豪潮律師等身大座像も同じく豪潮寺へ移安された。

豪潮律師以後現在までの住職は実戒、善徳、豪亮、豪海、円学、円澄、円隋、豪天、そして現住職鈴木康永。

天台宗開宗1200年記念 寺院名鑑「悠久」 平成15年9月30日発行


天台宗の寺院。住職の豪潮が余りにも有名だったので豪潮寺ともいう。

 長栄寺はもと東郷村諸輪にあったもので、創建者はかの有名な泰澄である。泰澄は奈良時代「越の大徳」といわれ、元正天皇から神融禅師の号を得た名僧である。また聖武天皇から大和尚位を受けた僧でもある。
 加賀白山の僧で白山神社を創建、新躍系の人ともいわれる。中部一帯は白山信仰の多い土地であり、その布教の為来住し建立したと考えられる。
 文政六年(1823)豪潮は、藩主徳川斎朝の命によって、現在地に寺院を移した。寺は戦災にあい、寺域も縮小されて往年の面影はない。   

 豪潮寛海 文化十四年(1817)藩主のたっての招きで来往。熊本の出身で6才で僧籍に入り16才で比叡山に登り仏学に精進。その徳は遠近に聞こえ活き仏といわれた僧である。87才で没したが寺の名より、むしろ「豪潮さん」「豪潮寺」といわれて世人に親しまれた有徳の僧であった。

実戒亮海 豪潮に次いで長栄寺の二世となった僧である。苦学精進、荒行も行ったという。維新後、権大教正にまで進んだ。83才で没した。

北区の歴史  昭和60年11月20日発行


深島神社

 祭神は、多岐理比売命である。田霧姫命、田心姫命とも書き、宗像三女神の一神である。

 社名は柳原の古名「深島」からつけられたもので、深島様とか深島弁財天と呼ばれた。

 那古野庄の三弁天の一つとして、藩主初め民間の信仰が篤かったという。
 弁財天は七福神の中の紅一点で、一切の衆生のために愛福をさずけるインドの神様で、日本のタキリヒメノ命になぞられた神である。室町時代の中期より信仰の対象となって広まったという、大黒様が大国主命なぞられたのと同じ意である。

 なお深島神社は名古屋城の鬼門の守護神として崇敬された、柳原蓮池17番地の時は2000坪だったが戦前には226坪。宝物は昭和20年戦災のため焼失。現在の御本殿および社務所は昭和27年に改築現在にいたる。

北区の歴史 昭和60年11月20日


多奈波太神社

 祭神は天之棚機姫命、応神天皇、天照大神、スサノオノ尊、大己貴命、大山津見命の六柱である。
 田幡の地名も社名も関係がありそうである。

 こう見ていくと、この付近に住みついた新羅系、百済系の人々を中心とした氏神社ではないかと推察される。
 祭神の天之棚機姫命の名から七夕祭が行われるようになったものであろうか。もともとは機織りの人たちが祀った神社と思われる。

 徳川時代は東照宮の管理で藩主の尊信も篤く、一般人は柵外よりの参詣で7月7日のみ垣内参拝が許された。

 創建年代は不詳である。しかし廷喜式所載の1千年以上の社歴を持つ式内神社である。
 昭和20年5月14日の空襲で名古屋城と共に全焼したが昭和39年に再建された。

北区の歴史 昭和60年11月20日


八王子神社

 祭神は天忍穂耳命、天津日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野日命、田心姫命、端津姫命、市杵島姫命、の八柱である。この八柱の神は天照大神とスサノオノ命の誓約によって生まれた神である。
 後者の三神は宗像神社の神々で新羅系海人族の守護神といわれる。

 創建は文武天皇の時代(697−707)というが平安時代の神名帳に記載されていない。もと那古野庄古野今市場(名古屋城内)にあったが名古屋城築城の際、東北の護りとして現在地に移ったという。

北区の歴史 昭和60年11月20日


八王子神社  8人の王子をまつる

 高力猿猴庵の「尾張年中行事絵抄」に、八王子社の祭礼の図が描かれている。

 神前の御手洗い池の中に高い台が建てられている。
 台の上には山が作られ、提灯が数多く飾られている。まばゆいほどの灯りだ。
 提灯には銀杏の華がつけられている。八王子社に大きな銀杏の木があったので、それにちなんで紋所として用いられたのである。

 町並みのどの家にも神灯が飾られ、はなやかなものだ。
 人形からくりの石橋車という山車が一両、通りをにぎやかに引かれていく。

 現在のひっそりした八王子神社からは想像もできないような賑わいである。

 広大な敷地の中にある御手洗池に建てられた高い山そこに飾られた提灯を見上げる多くの人々、八王子社のまつりは、尾張を代表する祭礼であった。
 八王子社の祭神は素戔嗚尊と天照大神との誓約によって生まれた八柱の神(五男三女)である。
もともとは、名古屋村(名古屋城内)の亀尾天王社の地内、若宮八幡宮ともに八王子社は三社で鎮座していた。
 慶長十五年(1610)名古屋城を築城するにあたり、神社を他の地に遷座するくじを神前でひいた。
 くじの結果、若宮八幡宮は府南に移り、八王子社は志水に移る事になった。亀尾天王社だけが城内の三の丸に残った。

 八王子神社は子供の守り神として敬われていた。子供の守り神らしい伝説が「尾張名陽図会」に載っている。

むかしは神殿の扉も明はなしになりて有りし時代に、里童この正体を取り出して前なる御手洗の池をうずめ、さまざまにもてあそびしを、所の者よろしからずとて、これを禁じて戸を閉じたり。その夜俄に村中の人大勢病を煩ひ、我毎日子供などと面白く遊びしものを、何とてとどめたるぞと、口走りて止まず。人々甚だ恐れて元のごとくにせしかば、忽ち狂病なほりしとかや。

現在八王子神社には、春日神社と合祀されている。

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平成16年3月6日発行


久国寺

 本尊は行基の作、別堂の「子育観世音菩薩」は弘法大師の作という。曹洞宗慶長年間(1600)ごろ徳川家康の守護仏を三河の法蔵寺からもらい受て建立した寺である。
 室町時代の最後の寺といってよい。

 寛文三年(1663)現在地に移る。この時名古屋城の鬼門除けとし、本丸天長峰の名をとり、天長山と改めた。
 また、城中の鳥芻沙摩明王を移して祭った。

 尾張藩主等の葬儀の際は、この寺が棺休みの場所であった。

 過去二度の火災(天明年間)にあったが再建された。この寺は雲水の修行道場でもあった。

 戦火で全壊したが近代的な寺院として再建された。

北区の歴史 昭和60年11月20日


久国寺  岡本太郎の鐘の音 

 久国寺は慶長年間(1596〜1615)に徳川家康の守護仏を三河の法蔵寺からもらいうけ、それを本尊として建立つされた寺である。寛文3年(1663)に、現在の地に移った。

 徳川家との関係から、この寺が尾張藩主の葬儀の時には棺休みの場所となった。

 江戸時代2度の火事にみまわれた。
 天明3年(1783)10月28日の火事の様子を「猿猴庵日記」は、次の様に記している。

 二十八日五ッ比、杉村久国寺火事、早鐘の音遠方へ近く聞、小林辺にては久屋せいがんじの音かと思ひ、広井にては山の薬師かと疑ふ。
 此半鐘は世に名高き鐘の由、此弟子坊主、或人に銭を借りて遣い込み、急にかへしがたきよし、断りを申せども、貸し主聞不人、左様ならば寺の道具にても、請取べしといふ。弟子がてんせず、もし師匠へ知れ候時、いたしかたなしと断り申し候処、直直聞分けず、左様ならば火をつけてやけ樽分に云ひなして、諸色を盗みてなりともかへせと申すゆへ、火を付けし由説あり。

 借金の取り立ての厳しさは昔も、今も変わりはないようだ。
 金を借りたが返す当てのない弟子坊主に、寺の道具を持出して返せと催促する貸し主。
 師匠に知れたら困ると断る弟子坊主に火をつけて、焼けた事にして盗み出せと責め立てる。
 窮してとうとう付け火をしてしまう弟子坊主。

 現在での新聞の三面記事に載っているような事件だ。昔の判決はすばやい。
 12月の25日には弟子坊主は、火あぶりになっている。火を付けた弟子坊主がもえたぎる火であぶり殺されるのも、なんとも皮肉なものだ。

 江戸時代に久国寺の鐘は世に名高き評判の鐘であった。現在の鐘は岡本太郎の製作によるものである。
 この鐘も鬼才、岡本太郎の代表作として広く知られている。

 久国寺の境内には、享保、宝暦期(1716〜1764)の名古屋俳壇の雄、白梵庵馬州の供養搭がある。
 馬州は、犬山の城に勤める藩主であった。
 ある時、妻と子が木曽川のあたりで遊んでいた。子供がひょっとしたはずみで川にはまってしまった。
 母親が慌てて川に入り、子供を助けようとした。あいにく川水は深く、ふたりとも溺れ死んでしまった。
 馬州はその事があって武士をやめ、法体となって尼ケ坂に粗末な小屋を建て俳句三昧の生活を送って暮した。
 供養搭は、馬州の門人の太一庵快台や雨橘が師を偲んで建立したものである。

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解脱寺 臨済宗

 名古屋の都心、栄町に白林寺という臨済宗の閑静なたたずまいの寺がある。

 犬山城主成瀬家二代目住職全用和尚と成瀬家二代目当主の正虎とのあいだで悶着が起きるという出来事があった。
 成瀬家で不祥事を起した家臣が白林寺にかけこみ全用和尚に救いを求めたためである。

 全用和尚は正虎からのか家臣引き渡しの要求に頑として応じなかった。正虎は全用和尚を騙すようなかたちで、家臣を手打ちにした。
 全用和尚は怒って故郷の上州に帰ってしまった。

 全用和尚の激怒にふれて、正虎は家臣の手打ちにした事を後悔し、その菩薩を弔うため、荒れ果てた薬師堂を再建し、解脱寺と名づけて、白林寺の末寺とした、明歴3年「1657」のことである。 

 明歴三年(1657)江戸より竹天和尚を招き、薬師堂、小庵を立てたのが始まりである。本尊は薬師如来で竹天和尚の持仏という。

北区の歴史 昭和60年11月20日


解脱寺  粟稗(あわひえ)にとぼしくもあらず

 名古屋の都心、栄町に白林寺と云う臨済宗の閑静なたたずまいの寺がある。犬山城主成瀬家代々の菩提所である。
 江戸時代、この白林寺の2代目住職全用和尚と成瀬家2代目当主の正虎とのあいだで悶着が起きるという出来事があった。

 成瀬家で不祥事を起した家臣が白林寺にかけ込み全用和尚に救いを求めたのである。全用和尚は正虎からの家臣引き渡しの要求を頑として応じなかった。正虎は全用和尚を騙すようなかたちで、家臣を手打ちにした。
 全用和尚は怒って故郷の上州に帰ってしまった。
 全用和尚の激怒にふれて、正虎は家臣を手打ちにした事を後悔し、その菩提を弔うために、荒れ果てた薬師堂を再建し解脱寺と名づけて、白林寺の末寺とした。明暦3年(1657)の事である。

 時うつり、解脱寺に代々封鎖されている本尊があった。五劫思惟(ごごうしい:阿弥陀仏が誓願を成就するために五劫の長いあいだ、思いをこらしたこと)の弥陀像である。

 本尊が封鎖されている扉を開くと、たちまちに盲目になると言い伝えられ、長く秘仏になっていた。
 白林寺から解脱寺へ移ってきた何代目かの住職が、この話を聞いて「仏像は人に拝ませて、はじめて利益があるものである。扉を閉じで、人に見せない像はあってはならない。これを聞いて盲目となる道理はない」といって扉を開いた。目もくらやむ程の弥陀像であったが、扉を開いて盲目になる事はなかった。

 解脱寺が再建される以前の薬師堂に竹葉軒という草庵があり、貞享5年(1688)7月20日松尾芭蕉が訪れている。薬師堂の僧侶で竹葉軒の主人、長虹を荷兮や越人らとたずね、歌仙を巻いた

粟稗にとぼしくもあらず草の庵

 芭蕉が詠んだ発句である。粟稗の豊かな実りが眺められるこの草庵は貧しい風情ではない、静かないい住いであると云う意の句である。句碑が寺の南側の庭に建っている。

 境内には雨橘家もある。碑には

ほたるにもならずいつまで蚊遺哉

という句が刻まれていて、雨橘は太一庵快台の門下で杉村で塗師をしていた。

続いても落ぬ木の実や後の月

という岡本柳南の昭和の初期につくられた句碑も境内には建てられている。

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西光寺  曹洞宗

 安永元年(1772)掘泉州尼が庵を結んだのが始まりである。

 泉州尼は成瀬家の医師宮掘隆兄の妹である。

北区の歴史 昭和60年11月20日


尼僧学林

 明治41年(1901)田畑に変わった祭場殿の東南の地に、全国初の高等尼学林が誕生した。
 この地に移るまでは春日井市高蔵寺に修行地があったが、不便であったので柳原に引越してきた(現在の魚春、長生堂の一角)。

 1200坪の土地を無償で堤供したのは梅本金三郎である。金三郎から4代目が黒川ドリーム会の事務局長、梅本隆弘氏。

 梅本さんには地元の為に献身的に尽くすという金三郎の血が流れている。現在は堀川を清流にする運動を熱心に続けていらっしゃる。

 金三郎ゆかりの深い柳原の尼僧修行の地も昭和20年5月空襲で焼けてしまい、現在は愛知専門尼僧堂して千種区城山町(日泰寺付近)に移転した。

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平成16年3月6日発行


豪潮寺  火の用心をする不動孫

 一代の傑僧、豪潮の終焉の地が豪潮寺である。
 豪潮寛海(1749)は、肥後国、玉名群山下村の生まれ。一食一菜の厳しい修行をつんだ天台宗の僧で、柳原長栄寺を開山した。
 文化14年(1817)の春には、知多郡岩屋寺の住職もした。

 肥後の国に陰栖していた豪潮が再び名古屋に来たのは、10代藩主斎朝の加持祈祷のためである。斎朝の病気も、名僧豪潮の祈祷により、直ぐ治ったという。

 豪潮寺には、2体の不動尊がまつられている。御堂の中の像が、木像の一願不動尊像である。
 この像には次のような伝説がある。

 明治の中頃の話である。美濃の御嶽教の修行者であった清覚の夢の中に一願不動が現れて「私は今、古道具の中でがらくたに囲まれている。私を古道具から連れ出して、おまえのところに置きなさい」といわれた。
 清覚は、翌日、早速古道具屋にいってみると、夢の中でみた一願不動が店先に置かれている。だいじに前津小林町の御嶽教の教会に、一願不動を持帰り、まつったという。

 境内に立っているのは、石の不動尊である。セメントで首の部分と腰の部分の2ヶ所が修繕してある。顔のあたりも黒こげがある。戦火にあった跡がいたいたしい。この不動尊は火伏せ不動として信仰を集めている。

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七尾天満宮  亀の背に乗る天神さん

 金鱗九十九之塵は、七尾天満宮の縁起について、次のように記している。 昔、文亀年中(1501〜1504)この辺は、一面山林であった。その頃、俗世を避けて、ひとり、この山中に隠れ住む僧がいた。小さな庵を結び十一面観世音の秘法を修行していた。

 ある時、この僧が修行を終え、山林を巡り歩いていた。
 尾が七つある亀が管公の木像を背負ってやってきた。亀は木の下の石の上に管公の木像を置いて、七度石のまわりを回って、ふもとの池に帰っていった。不思議に思って、しばらくの間見ていた。
 これは十一面観世音が、威応してくださったのかと尊像を庵に持ち帰り崇め奉った。亀を刻んで神座とし、亀尾の天満宮と称した。

 永正年間(1504〜1521)には、この地に真言宗の長久寺の末寺、永正寺を海雅法師が開山した。
 永正年間の開基であるので亀尾山永正寺と号した。

 明治元年(1868)神仏分離令が出され、その余波で永正寺は毀されてしまった。天満には「天満宮」の意と「管公の霊威が満ちわたっている」の意がかけてある。

 境内には、何本もの梅の木が植えられている。
 梅の木には、おみくじの札が結ばれている。梅の木の傍には絵馬がかけてある。さまざまな願い事が絵馬には書かれているが、学問の神様、天満宮らしく合格祈願がもっとも多い。

 今は建物にさえぎられて何も見る事はできないが、かつては坂の上のこの地は名陽五景の一に数えられていた。
 眼下にはのどかな柳原の田園地帯、その中を流れる御用水が見える。
 田幡の森のむこうには志賀の里が続いている。御岳、白山の遠望も楽しめる勝景であった。

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平成16年3月6日発行


西来寺  強力の和尚が持帰った門扉

 西来寺の庭に立って、外をながめる。他の寺院の門扉と異なり、この寺のものは武家門扉でである。扉の上の部分に縦の桟を5本打っただけの透しとなっているので、外を寺の中から見ることが出来るのだ。この門扉にまつわる逸話が伝わっている。

 享保年間(1716−1735)の事である。西来寺の首座(しゅそ:禅宗で一山大家中の首位の者)に開田和尚という豪力の僧がいた。名古屋城に所用があって出かけた。御深井丸の庭を歩いていた時だ。庭に門扉が捨ててあるのを見つけた。「寺には門扉が無い」、これを寺の門扉として持帰ることは出来ないだろうか」と開田和尚は考えた。

 庭の番人に聞いてみると西北隅櫓(旧清洲城)の門扉が不要になったので捨てたものだと云う。
「寺に頂けないだろうか」と和尚が番人に頼んだ。
「何枚ほしい」と番人が聞く。
「勿論1枚だけでよい」
 番人は「2枚、しかもひとりで持帰るならば、これをやろう」という。
 重い門扉は、ひとりで持つ事も難しい。持上げる事さえ難儀であるのに、それを担いで寺まで持って帰る事は至難の事だ。難題を出せばあきらめるだろうと、番人は条件を、出したのだ。開田和尚は「持って帰ります」となにげなくいって、門扉を軽々と持上げて、呆然としている番人を尻目に悠々と立ち去った。

 安永3年(1774)に鐘が鋳造された。素晴らしい音色の鐘で近隣に鳴り響いていたという。

私の子供の頃、西来寺の梵鐘が朝夕つき鳴らされ、師団のドン「午砲」と共に時を告げたのは懐かしい思い出の1つです。「金城の遺跡、史話 三谷政明氏」。

 この鐘も太平洋戦争に応召されて、寺から鐘の音は消えてしまった。昭和44年(1969)、新しく鋳造された鐘が、明治38年(1905)に建立された鐘楼に吊るされた。

 開田和尚の門扉で名高い西来寺の開基は、遠く明応4年(1495)にさかのぼる。
 真言宗、地蔵寺として祐禅阿闍梨が、今の名古屋城正門西北付近に建立した寺である。
 本尊は弘法大師と伝えられる木像の地蔵菩薩である。その後荒れるがままになって居た寺を慶長(1569−1614)のはじめに楽甫和尚が真言宗を曾洞宗に改め、寺号も西来寺とした。

 名古屋城築城とともに、寺も現在の田幡の地に移ってきた。尾張藩四代藩主徳川吉通の乳母は、5世住持伝和尚の母であった。その縁で寺は尾張藩から特別の厚遇を寄せられた。

 西来寺は戦火にまぬがれたので、円覚院「吉通の戒名」の遺品が寺に大切にしまわれている。

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普光寺  かれは是れ吾れにあらず

明け暮れにうつ鐘の音の聞けずして又も日暮るる浮世なりけり

 杉村八景の1つ普光の晩鐘の音色のすばらしさは、古くから知られていた。
 その普光寺の鐘を鋳る時に、ある人が

ふめたたら やれふめたたら ふめたたら せいさへ出せば 金ハわくわく

と云う歌を詠んだ。
 おりから説法で常滑から来ていた青洲という和尚が「やれふめたたら」の箇所を「ふめふめたたら」と直した。直すことで鐘を鋳る時の調子のよさが5,7,5の頭韻の「ふ」によってよく表れてくる。

 普光寺は御器所の竜興寺の僧、儀在和尚が大正5年(1577)に開基した寺である。塩釜様とも呼ばれていたが、これは嘉永年間(1848−54)に仙台より金綱天猊和尚が塩釜明神を招請したからである。

 本尊は織田信長の秘仏、快慶作の阿弥陀三尊仏。

 山門に入る老僧と若い僧とが問答している大きな石像が目にはいる。若い僧は道元禅師、老僧は中国、天童山の用典座。典座とは、禅の修業道場における食事をつかさどる役の事だ。

 道元が天童山にはじめて登ったのは、貞応2年(1223)24才の時であった。
 石像は嘉禎3年(1237)に道元が選述した「典座教訓」のなかの一場面である。『典座教訓 赴粥飯法(中村璋八ほか全約注、講談社学術文庫)』によりこの場面の訳文を紹介する。

わたしが中国に留学して、天童山で修業していた折、地元の寧波(ニンポー)府出身の用という方が典座の職に任じられていた。
 私は昼食が終ったので、東の廊下を通って超然斎という部屋へ行こうとしていた途中、用典座は仏殿の前で海藻を干していた。その様子は、手には竹の杖をつき、頭には傘さえかぶっていなかった。
 太陽がかっかっと照り付け敷き瓦も焼け付くように熱くなっていたが、その中でさかんに汗をながしながら歩き回り、一心不乱に海藻を干しており、大分苦しそうである。
 背骨は弓の様に曲がり、大きな眉はまるで鶴のように真っ白である。私はそばに寄って、典座の歳を尋ねた、すると典座はいう。「68才である」。私はさらに尋ねていう。「どうしてそんなお年で、典座の下役や雇い人を使ってやらせないのですか」。
 典座は云う。「他人がした事は私がした事にはならない」。私は尋ねていう。「御老僧よ、確かにあなたのおっしゃる通りです。しかし、太陽がこんなに熱いのに、どうして強いてこのような事をなさるのですか」。典座はいう。「海藻を干すのには、今のこの時間が最適である。この時間帯をはずしていつやろうというのか」。
 これを聞いて、私はもう質問をする事ができなかった。私は廊下を歩きながら、心のなかで、典座職がいかに大切な仕事であるかという事を肝に銘じた。

 道元が「如何んぞ行者、人工を使わざる」と尋ねる。典座は「他は是れ吾れにあらず」と答える。他人がした事は、自分がした事にはならない。自分が心をこめて仕事をする、それが典座の仕事だという意だ。
「更に何れの時か待たん」には、今できる事は今せねばならないという事だ。

 境内には弘法観音が建っている。大曽根の坂下にあった弘法の井戸のかたわらにあったものが城東町に移り、さらに昭和63年、普光寺に還座した。眼病に効験があるという。

 昔弘法大師が熱田から小幡の竜泉寺へ参詣の途中、大曽根に檀をかまえて修業をした。その閼伽(あか:仏に供える水や花)の水を汲んだことから弘法の井戸と呼ばれるようになった。尾張名陽図会は

(弘法大師)旧跡が今も残っていてすべり山という。この他には草が生えないという。この時に阿伽の水を汲みなさったところを阿伽塚(あかつか)という。今の赤塚町がこれである。

と赤塚の町名を記している。弘法観音の前には、香煙がたちこめている。観音の眼のあたりは黒ずんでいる。観音の眼をなで、一日も早く快癒する事を願う人が多いからであろう。

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