8.富士山と文化

 私は、伊豆の山々の向うに、左右対象の美しい富士山をみて育ち、子供の頃から富士山が好きで、富士山の絵をよく描いたのを覚えている。

多くの人は富士山の美しさに心を動かされ、絵画に文学に表現し,また山岳信仰の行場となった。

1.北斎と広重が描いた富士山

 富士山を描いた多くの絵画から、葛飾北斎(1760〜1849年)の「凱風快晴」と安藤広重(1797〜1858年)の「東海道五十三次の原」を見ると、どちらも急な斜面が誇張された富士山である。


北斎の「凱風快晴」

広重の「東海道五十三次の原」

葛飾北斎の「凱風快晴」は富士山を描いた「富嶽三十六景」中でも人気を集めた作品である。「富嶽三十六景」の他の作品を順次上げる。

 
東海道金谷ノ不二 24番目の宿駅 
島田の宿駅との間に難所の大井川があり、その河越の様子を描いている。

2.富士山の文学

@ 聖徳太子伝暦

 平安時代初期の聖徳太子伝暦には次のような記述がある。
推古天皇の6年(598年)、聖徳太子は25歳のとき、数百頭の馬から選んだ、カラスのような漆黒で、足が白い馬に乗って、東の方へ飛び去った。
 聖徳太子は3日後に帰ってきて左右のものに語った「私はこの馬に乗って雲を踏み、直ちに附神岳(富士山)の上に至り、転じて信濃の国に行き、越の国を経て、今帰って来た。

A役の行者(えんのぎょうしゃ)伝説


 えんの行者は「続日本紀」で役君小角(えのきみをづの)と呼ばれている。
 えんの行者は大和国の葛城山に住む、修験道の開祖と仰がれている伝説的人である。
 文武天皇の3年(699年) えんの行者は弟子におとしいれられ、伊豆国へ流された。
 天皇の命に従い、えんの行者は、昼は伊豆国で修行し、夜は「駿河の富じの嶺」(富士山)に登って修行した。「富じ明神」の信仰が認められ、許されて、仙人となった。

 私の古郷、伊豆の国市に葛城山があるが、伊豆国へ流されたえんの行者と関係があるかもしれない。

B「万葉集
」噴火の記録

 
 万葉集では山部赤人の和歌がよく知られている。
         反歌
  田子の浦ゆうち出でて見ればま白にそ富士の高嶺に雪は降りける

 ここでは富士山噴火の場所など具体的に説明した歌を取り上げた。
 天平4年(732年)頃、高橋連(むらじ)虫麻呂歌集
        不尽山を詠みし歌一首  
 なまよみの 甲斐の国 うち寄する 駿河の国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる
 富士の高嶺は 天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びも上らず 燃ゆる火を 雪もて消ち
 降る雪を 火もて消ちつつ 言ひも得ず 名付けも知らず くすしくも います神かも 石花(せ)の海と
 名付けてあるも その山の 堤める海そ 富士川と 人の渡るも その山の 水のたぎちそ 日ノ本の
 大和の国の 鎮めども います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 富士の高嶺は 見れど飽かぬかも

               反歌
   富士の嶺に降り置きし雪は六月の十五日に消ぬればその夜降りけり
   富士の嶺を高み恐み天雲もい行きはばかりたなびくものを 


 甲斐の国(山梨県)と駿河の国(静岡県)と、それぞれの国の中に立つとあり、富士山の位置が正確で、噴火の様子も歌っている。
「せの海」は現在の精進湖と西湖に分かれる前の湖のことである。
 「せの海」は貞観6年(864年)溶岩を流出する大噴火があり、精進湖と西湖に分断された。この溶岩流が青木ヶ原丸火である。

 その他、作者は分からないが、激しく燃えさかる恋心を富士山の噴火であらわした歌がある。
  
    我妹子(わぎもこ)に逢ふよしをなみ駿河なる富士の高嶺の燃えつつかあらむ
 好きなあの子に逢うすべがないので、駿河の富士山のように、心の中で燃えているのだろうか。

    妹が名もわが名も立たば惜しみこそ富士の高嶺の燃えつつ渡れ
 あの子の名もわたしの名も噂になるのが惜しいので、富士山のようにただ心の中で燃え続けている。

C「竹取物語」 富士山という名前の由来及び噴火の記録。
 
 懐かしい子供の絵本として知られる「竹取物語」は作者は分からないが、九世紀末に書かれたとされている。
 この物語の最後の場面は、月の世界へ帰るかぐや姫が、帝に文と不死の薬を形見として贈った。
 悲しんだ帝は文と不死の薬の壺を、天に近い、駿河の国にある山の頂で燃やすよう、勅使の「つきのいわかさ」に命じた。
 つきのいわかさは

   ・・・・・そのよし承りて、つわものどもあまた具して山へ登りけるよりなん、
   その山をふじの山とは名付けける。その煙、いまだ雲の中へ立ち昇るとぞ言い伝へたる。


 つわものども(武士)、あまた(富む)から富士山と名付けた。
 文と不死の薬が燃えている煙と言い伝えられることから、物語を書いた、この時代、富士山が噴火していたことが分かる。

 富士市比奈にはかぐや姫の伝説を伝える「竹取塚」があり、吉原高校勤務(昭和31年から40年)の若い頃、お寺の住職もしている先生の案内で「竹取塚」を訪ねたことがある。お寺の近く、暗い竹林の中にあったのを覚えている。

 2013年6月17日、50年振りに懐かしい岳南鉄道に乗って、「竹取塚」を訪ねた。JR吉原駅10時15分発の電車は1両で乗客は5名であった。比奈駅で下車し、北の方向へ約25分歩くと吉原第三中学校東のきれいな「竹採公園」に着いた。

 
「竹取塚」 2013年6月17日撮る。


D「更級日記」噴火の記録


 更級日記の作者菅原孝標の娘は父の任地である上総の国(かずさのくに)、今の千葉県で育った。
寛仁四年(1020年)秋、任期が終って帰る、父菅原孝標と共に上京の途に就いた。足柄山を越えて、駿河の国に入り、富士山を見て、13歳の彼女は次のように記している。

 富士の山はこの国なり。わが生ひ出でし国にては、西面に見えし山なり。
その山のさま、いと世に見えぬさまなり。さまことなる山の姿の、紺青を塗りたるやうなるに、
雪の消ゆる世もなく積もりたれば、色濃き衣に白き衵(あこめ,丈の短い着物)着たらむやうに見えて、
山の頂の少し平らぎたるより煙は立ち昇る。夕暮れは火の燃え立つも見ゆ。

 この時代、激しい噴火活動ではないようだが、富士山は中央火口からの噴火活動をしていたことが分かる。

E「吾妻鏡」溶岩トンネルの探検

 吾妻鏡 建仁3年(1203年)6月の条には、新田四郎忠常が源頼家に命ぜられて富士の人穴を探検することが記されている。

 三日、己亥(つちのとい)、晴、将軍家駿河国富士の狩倉に渡御、彼の山麓に又大谷(溶岩トンネル)有り。其所を究め見しめんが為に、新田四郎忠常主従六人を入れらる。・・・・

 四日、庚子(かのえね )、陰、巳の刻、新田四郎忠常、人穴より出でて帰参す。往還に一日一夜を経るなり。此洞狭くして踵を廻らす能はず、意のままに進み行かれず、又暗くして心神を痛ましむ。主従各松明を取る。路次の始中終、水流れて足を浸し、蝙蝠顔を遮り飛ぶこと、幾千万なるかを知らず。其先途は大河なり。・・・・


 忠常は4人の郎従を失い、大河へ剣を投げ入れて、ようやく溶岩トンネルから出ることが出来たとある。

F能 「羽衣

 能「羽衣」の作詞・作曲者は不明だが、世阿弥(1500年ころ)の作品ではないかと言われている。 
富士山を仰ぐ春曙の三保の松原で、漁師の白竜(はくりょう)は松に掛かっている美しい衣を拾う。それは天人の羽衣なので返してほしい、羽衣がなくては天に帰れないと、天女の嘆きに心動かされてこれを返してやる。天女はお礼に羽衣を身につけ、美しい舞を舞いながら天に帰っていくという物語である。

・・・・・天の羽衣、浦風にたなびきたなびく、三保の松原、浮島が雲の、愛鷹山や、富士の高嶺、かすかになりて、天つ御空の、霞にまぎれて、失せにけり。


G夏目漱石

慶応3年(1867年)江戸牛込馬場下生まれる。明治26年(1893年)東京大英文科卒業、高等師範学校英語教師に就任、明治40年(1907年41歳) 「坊っちゃん」、「草枕」・・執筆、朝日新聞社へ入社、、朝日新聞小説「虞美人草」を執筆。 大正5年(1916年50歳)胃潰瘍で永眠。

「虞美人草」

京都から東京へ向かう夜汽車が富士から吉原付近で夜明けを迎える。汽車の窓から見た富士山を下のように表現している。
美辞麗句調の文である。このあと汽車は沼津駅に停車し、弁当を買う。当時、丹那トンネルはなく、現在の御殿場線経由である。

・・・・ 長い車は包む夜を押し分けて、遣らじと逆う風を打つ。・・・消え残る夢を排して、眼を半天にはしらす時、日輪の夜は開けた。
 神の代を空に鳴く金鶏※の、翼五百里なるを一時に搏(はばたき)して、漲(みな)ぎる雲を下界に披(ひら)く大虚の真中に、朗らかに浮き出す万古の雪は、末広になだれて、八州の野を圧する勢を、左右に展開しつつ、蒼茫の裡(うち)に、腰から下を埋めている。白きは空を見よがしに貫ぬく。白きものの一段尽くせば、紫の襞(ひだ)と藍の襞とを斜めに畳んで、白き地を不規則なる幾条(いくすぢ)に裂いて行く、見上ぐる人は這う雲の影を沿うて、蒼暗き裾野から、藍、紫の深きを稲妻に縫いつつ、最上の純白に至って、豁然(かつぜん)として眼が醒める。白きものは明るき世界に凡ての乗客を誘う。・・・・・
「おい富士が見える」と宗近君が滑り下りながら、窓をはたりと卸(おろ)す。広い裾野から朝風がすうと吹き込んでくる。

「うん。最先から見えている」と甲野さんは駱駝(らくだ)の毛布を頭から被った儘、存外冷淡である。・・・
「ふふん。ーーーどうだい。あの雄大な事は。人間もああ来なくっちゃあ駄目だ」・・・

※金鶏:星のなかに住んでいて、夜明けを告げる想像上のニワトリ。

H太宰治

明治42年(1909年)青森県北津軽郡生まれ。本名 津島修治。中学生の頃から創作を始めた。昭和5年東京大学文学部に入学、昭和10年授業料未納により除籍。 1948年(38歳)自殺。

「富嶽百景」

 太宰治は昭和13年、山梨県の御坂峠の天下茶屋に逗留していた。

 私は、部屋の硝子戸越しに、富士を見ていた。富士は、のっそり黙って立っていた。偉いなあ、と思った。
「いいねえ。富士は、やっぱり、いいとこあるねえ。よくやっているなあ。」富士には、かなわないと思った。念々と動く自分の愛憎が恥ずかしく、・・・
「よくやっていますか。」新田には、私の言葉がおかしかったらしく、聡明に笑っていた。・・・

 私は、どてら着て山を歩きまわって、月見草の種を両の手のひらに一ぱいとって来て、それを茶店の背戸に播いてやって、「いいかい、これは僕の月見草だからね、来年また来て見るのだからね、ここへお洗濯の水なんか捨てちゃいけないよ。」娘さんは、うなずいた。
 ことさらに、月見草を選んだわけは、富士には月見草がよく似合ふと、思い込んだ事情があったからである。・・・

三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立ってゐたあの月見草は、よかった。富士には月見草がよく似合ふ。


有名な句、「富士には月見草がよく似合ふ」の月見草として知られている花は、実は大待宵草(オオマツヨイグサ)だった、という逸話がある。
3778mの富士の山とあるが、国土地理院の地図では3775.6mとあり、今は海抜高度約3776mといっている。


I新田次郎

 明治45年(1912年)長野県生まれ。本名 藤原寛人。無線電信講習所(現在電気通信大学)卒業後、気象庁に入り、1年のうち3〜4ヶ月は富士山頂で気象観測にあたるという生活を5年間ほど続けたという。昭和31年「強力伝」にて第34回直木賞受賞。昭和41年永年勤務した気象庁を退職。昭和49年「武田信玄」などの作品により第8回吉川英治文学賞受賞。昭和55年2月没。

「強力伝 昭和40年7月発行 新潮文庫」


 新田次郎が昭和7年から昭和12年まで富士山頂観測所へ勤務していた頃、山頂へ運ぶ物資は人と馬であり、荷揚げをする人たちを強力といっていた。強力の一人、力が強く、誠実な人柄で観測所員から愛されていた小見山正がモデルになっている。

・・・ 小宮は、国境線の岩から背負子を切って立ち上った。立ち上った瞬間に、本能的に歩幅と速度と次の休むべき距離を計測する。詳しくいえば呼吸の間隔までが正しい規則でなされるのが小宮の今までの卓越した幾つかの実証を残していた。富士山頂に四十貫(約150Kg)のエンジンボディを担ぎあげたのも、つまり心臓からの信号・・・・

「六合目の仇討ち 昭和48年6月  新潮文庫」
 
 江戸時代の富士講について、次のように説明されている。

 江戸時代の後半、江戸の町民の間に富士講があった。富士講とは富士信仰を中心とした宗教結社で、登山期に入ると、それぞれの講中は先達を中心にして、二十〜三十人ずつの団体を作って富士山へ繰り出して行った。
 富士講中の服装は、おおかた白衣に股引、脚絆すべて白ずくめ、右肩から左脇下にかけて斜めに風鈴をさげ、首に大粒の数珠をかけ、金剛杖を持っていた。・・・
 先達や道者(どうしゃ)は、威厳を示すために、白布で作った宝冠をかぶっていた。宝冠から両耳を覆うように肩のあたりまで垂れ下がった細長い白布が歩くたびに揺れた。先達や道者の白衣にはぺたぺたと朱印がおしてあった。その数は当人の富士登山回数を示すものであり、中には押印の上に押印が押されたような白衣を着ている道者もいた。彼等は押印でよごれた白衣を着ていることをなによりも誇りとしていた。
 ・・・・十人のうち二人ぐらいが女であった。彼女等も揃いの白衣を着ていた。富士山は女人禁制の山だから、彼女たちは三合目までしか行けなかった。・・・・・
 富士講は江戸中期より爆発的に盛んになり、しばしば幕府の弾圧に会ったが、それをはね返すだけの力を持っていた。・・・・
・・・・最盛期には江戸の富士講八百八講と言われたほどの隆盛ぶりを示していた。・・・・

 五合目で支度を整えた吉田の一行はゆっくりゆっくり登って行った。どっちみち狭い山の中の一本道では喧嘩はできない。喧嘩をするならば、樹林帯を出たところである。
 樹林帯を出ると日がまぶしく輝いていた。限りない広さの、石と砂の灰色の斜面が、頂上に向かってのし上っていた。
 六合目あたりにいた白衣の一団は、一行が樹林帯から出ると同時に左右に展開して、吉田口登山道を押える形を取った。
 「ようし掛れ」


「怒る富士 上下 1974年 文藝春秋」

 富士山の宝永4年(1707年)の大噴火により、噴出した多量のスコリアが田畑を覆い、生活できなくなった農民を救うため、また、スコリアで河床が浅くなった酒匂川の治水に活躍する伊奈半左衛門忠順を主人公にしている。地元の古文書、伴野京治著「宝永噴火と北駿の文書」など多くの資料を集めて、よく調べられているので、富士山噴火の防災対策の参考になる。

 宝永4年11月23日巳の刻(午前10時)富士山は爆発した。・・・・・噴火は時間の経過とともにその勢を増した。爆発音は間断なく続き、黒煙の中に火の玉が飛び交い、雷鳴が轟いた。・・・・・
2日目の朝までには富士山東部約70ヶ村の村民たちはほぼ安全地帯まで逃げ延びていた。人々は声もなく、怒る富士を悲しげな眼で眺めていた。
 この富士山の爆発当時の模様については幾つかの確かな記録が残っている。富士本宮浅間神社内乗徳院の社僧飽休庵が書いた「大地震富士山焼出之事」の中・・・・・

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