鎌倉古道
                                    2022/05 高田平八郎、  相原 仁、 相原 淳  


         
写真の左下に願成寺がある。鎌倉古道は願成寺の南を右手(東)の方向へ向かい天神社の下を通る。

1,はじめに
 平安時代、延暦19年(800年)の富士山の噴火のようすは、駿河国司から京都の朝廷へ次のように報告されている。「延暦19年3月14日から4月18日まで噴火がつづき、昼は噴煙であたりが真っ暗となり、夜は火炎が天を照らし、雷のような音がする。灰が雨のように降り、ふもとの川の水はみな真っ赤になった」と、延暦19年6月に報告された。さらにこの噴火について、延暦21年正月1日の報告では、「砂礫があられのようにふる」とあって、降灰に埋まって通れなくなった箱根超えの「足柄路」が廃され、新たに箱根路(鎌倉古道)が開かれることとなった。延暦19年の噴火は中央火口からの大噴火であった。
 三嶋大社から東へ向かう鎌倉古道は、箱根の小沢、元山中まで何処を通ったか分からなかった。山田小学校や山田中学校のある山の上を通ったという人がいるが、高い所から神社を見下ろす事になり、バチが当たってしまう。
 鎌倉古道を調べながら次のような事に気付いた。
 (1)険しい箱根を夏越えるのに、必要なのは、山田川であり、「水」であった。暑くなると水を浴び、馬にも水を飲ませたい。。出来るだけ、川に沿った所へ古道を作ったに違いない。箱根を越えるのには「水」が大事である。
 (2)山田川や鬼石からの山田川の支流に沿って、10数Km(約3里)ごとに神社(天神社、山神社、小沢の八幡宮、元山中の竜爪山など)、がある。木造の神社は風雨にさらされ壊れるが、直ぐに再建される。人々は再建しなければ、祟りが生ずると考える。従って、神社はいつまでも続き、その起源は古いのである。
 (3)神社の下を通る古い道が鎌倉古道に違いない。神社と鎌倉古道の位置関係や形式が背後の斜面によって多少差はあるがよく似ている。その頃の人達は、鎌倉古道からよく見える高い所へ神社を建て、道中の無事を祈願した。また、道表示の意味もあったと考えられる。
(4)鎌倉時代について、鎌倉幕府が統治した文治元年(1185)から元弘3年(1333)までを日本史では鎌倉時代としている。
 以上を考察して、鎌倉古道は何処を通ったか分かってきた。以下詳しく説明する。(2022年5月)

2,三嶋大社から天神社まで


        国土地理院 1:25000 地形図「三島」 拡大

赤線:鎌倉古道


三嶋大社:鎌倉古道から本殿の方向を撮影。鎌倉古道は神社を念頭に置いて作られた事が分かる。


 鎌倉古道の旅人は大場川をどの様にして渡っただろうか。改修前の昔の大場川の主流は、右岸*の高田平八郎宅の前を流れていた。改修工事で広げた大場川の左岸周辺には畑が分布していた。高田平八郎宅は搗屋(つきや)をしていたが、水車を回した水は三島市営住宅付近で大場川へ合流した。鎌倉古道の旅人は流量の少ないときは大場川を馬や徒歩で渡ったと思われる。(右岸*:下流の方向を向いて右手の岸)

A:天神社:鎌倉古道から撮影。
A :天神社 鎌倉古道は三嶋大社を横切り、大場川を渡って、願成寺の南を通り、天神社の下を通る。
3.山田集落(滝川神社・山神社・鬼石)



    国土地理院 1:25000 地形図「三島」 拡大


B:滝川神社 山田川の左岸*にある滝を祀る神社。滝川神社は鎌倉古道より歴史が古く、鎌倉古道を作るとき既にあった。


C:腹帯地蔵(安産祈願のお地蔵さん)は、旅人が無事にお産して、お礼のお地蔵さんを神社と同じ様に鎌倉古道から見える高い所へ建てたと思われる。


鎌倉古道は九十九橋を渡らず、右岸*に入って山神社の下を通る。土地の老婦人の話によると、この道は昔、「古い道」とか「背戸の道」と呼び、若い頃使っていた。今は竹が生えて通れない。
(右岸*:川の流れる方向を向いて右手。)


D:山神社 鎌倉古道から撮影。



   国土地理院 1:25000 地形図「三島」 拡大


E:鬼石:鎌倉古道は鬼石から、山田川の支流に沿って小沢へ抜ける。
 鬼石は支流へ入る道標になった。(直径約5m)


E〜F:鬼石から小沢へ抜ける鎌倉古道。カメラを上流へ向けて撮影。
鬼石から小沢へ抜ける鎌倉古道には山田川の支流が流れている。鎌倉古道は、何処までも「水」を求めながら作られていることが分かる。鎌倉古道は山田川支流の右岸にあったようだが、舗装道路の改修工事が進み分からなくなった。

F:小沢の神社(八幡宮) 
鎌倉古道は八幡宮の下を通り、元山中へ向かう。

 
      国土地理院 1:25000 地形図「三島」 拡大
小沢で道は二つにわかれ、小沢ウオーキングコースの案内板がある。
左へは茶臼山展望台、右へは小沢の里とあるが、小沢の里の方に
八幡宮があり、鎌倉古道は八幡宮の下を通り、小沢の里を通って、
元山中へ抜ける。
 
国土地理院 1:25000 地形図「三島」 拡大
G:元山中。H:諏訪神社


 
I.鎌倉古道の三島宿への入口。  芦ノ湖カントリー   
2022年5月3日、東海バスで芦ノ湖カントリーまで行き、「鎌倉古道入口」から三島宿へ向かっての説明である。
 「鎌倉古道入口」から元山中までの鎌倉古道は急な下り坂で、箱根ローム層に覆われ、滑りやすく距離もあり難所であった(約2時間30分かかる)。
 「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川と謳われたように、鎌倉時代、箱根や大井川は難所であった。


 
H:諏訪神社     鎌倉古道から撮影。
 諏訪神社と鳥居は緩やかな斜面にある。


 
 
山ノ神社        諏訪神社の南西数百mにある。
 小田原城攻撃のため徳川軍は、天正18年(1590)山中城を背後から攻めるため、この地へ陣を敷いた。
 平成2年山ノ神社南側(鳥居があった付近)を発掘調査し、 中世の古銭、銅製品、漆器、陶器などが出土し、鎌倉古道が確認された。
 



山中関所跡 
山中関所跡は鎌倉時代の関所で 元山中の鎌倉古道わきにある。古木を示すクスノキなどの巨木が昼なお暗く生えている。。
江戸時代の関所は芦ノ湖の箱根町に関所跡がある




引用文献
つじ よしのぶ(1992):富士山の噴火 万葉集から現代まで 築地書館 55〜62p
藤井敏嗣(2015):富士山大噴火 徳間書店 47p
森下 晶(1974):富士山 その生成と自然の謎 講談社 68〜69p、145p




三嶋暦について
               


 歴史の古い三嶋暦師河合家(国の登録有形文化財)は筆者(相原)が住む三島市大宮町2丁目にある。

 
図1.三嶋暦師河合家   2020/09/10撮影.
 家屋は,安政元年(1854)の東南海地震(安政地震)で倒壊し,その後焼失し、多くの古い資料が失われたようである。
 現在の家屋は,江川太郎左衛門の指示により,裾野市十里木にあった関所の建物を移築したものである。
 
図2,むくりはふ
玄関の屋根は少し盛り上がり,起り破風(むくりはふ)というつくりである

 文献「ふるさと三島」によると、「三嶋暦師河合家の天文台の確かな場所はわかりません。(大宮町2丁目4−10地先か1..三嶋暦師河合家と大宮町二丁目の歴史.
 図6の重要文化財 三嶋大社全図 江戸時代 矢田部家 (三嶋大社宝物館,1998)には、道、水路、社家(江戸時代、三嶋大社の行事に携わる家をいう。番頭役、流鏑馬役、暦師、神饌、大工役、舞役、・・などがある。)の建物など正確に記載されている。この重文、三嶋大社全図から、社家の河合家、長田家、青木家、堀池家、前島家、井口家などの家屋や土地を知ることができた。その頃、三嶋暦師河合家の土地は、図5の宮町と字金谷町の堺から北の橙色の線で囲まれた部分と思われる。

 金谷町は,江戸時代鋳物師が住んでいたことから呼ばれた地名だが,いま金谷町という地名が残っていないので正確な場所が分からない。薬師院の北を通る東西方向の道は「金谷小路」と呼ばれ、図6の重文、三嶋大社全図にも記載されている。金谷小路の西方向へは三嶋大社の池の北を通って、浦島神社へつながり、東方向へは「鎌倉古道」へつながる古い道である。「鎌倉古道」については調べている。字金谷町(以後金谷町とする)は金谷小路を中心とする、薬師院の北側から暦師河合家や長田家、青木家の南境界付近(図4,図5の紫線)までと思われる。
 江戸時代,三島の鋳物師は,朝廷から任命された斉藤氏で伊豆国鋳物師の総取締役を努め,苗字帯刀を許される身分でした。また,南の方にもその分家があって,南金谷と呼んでいたと思われる。金谷小路周辺には斉藤氏を中心に鋳物師や鍛冶職人などの仲間が住んでいて、梵鐘,鍋,釜、刀物などを作製していたと思われる。その後,鋳物師の斉藤氏は甲州からきた沼上氏に引き継がれた(土屋・稲本 1989)(三嶋暦の会 2015)。

 三嶋暦師河合家についての資料を羅列的になるが上げてみる。
 @ 河合家の現在当主(河合龍明)は53代目である(敬称略)。 51代の河合竜節が書き遺した「暦家相続之由来書」には,「光仁天皇御宇,宝亀十年(779年),豆州三島エ住居罷在,清和天皇貞観年中ヨリ貞享年間迄(859年〜876年)ハ私家ニテ暦算仕」と書かれている。
 A 「北条五代記」には,「こよみをば伊豆の国三嶋,武蔵の大宮,両所にて作り出す」と書かれている。三島暦は約千年にわたって発行していたことがわかる。
 B 室町時代から江戸時代にかけての暦は,西の京暦,東の三島暦によって全国の勢力圏が二分されていた。後北条によって治められていた東日本は,三島暦が全盛であった。河合家には,天文23年(1554年)11月25日の日付で,北条氏康から暦師の河合左近将監に宛てた文章がある。それは,三島暦の作暦と販売権を河合氏一人と定めて許可したものであった(三島市誌,1987)。
 C 古い暦は,肉筆で書き写したものだが,三嶋暦は彫刻による版暦として日本最古の暦といわれている(友野,1979)。
 D 文献に三嶋暦の名が最初に見えるのは義堂周信(1325〜1388)の「空華日工集」の応安7年(1374)3月4日の条である。
  「熱海に浴す。けだし三嶋暦は、この日を以て上巳節(3月3日)となす・・・」とある(杉村1987)。
 E 現存する最古の三嶋暦は、栃木県真岡市荘厳寺で発見された、康永4年(1345年10月)から貞和3年(1347年)の仮名暦である。それに次ぐものが永享9年(1437)のもので栃木県の足利学校に合計8枚残っている(三嶋大社宝物館,1998)。図7はその一部だが、次の文字が読める(杉村1987)。
   「永享9年 ひのとのみのとし  凡三百五十二日  
   三嶋    大しやうぐん ひがしにあり」

     



2.暦について

 われわれの生活に関係した周期には,昼と夜の周期の1日,月の満ち欠けの周期の1月(ひとつき)(1朔望月=29.53059日),夏と冬の季節の周期の1年(365.2422日)がある.1月の周期も,1年の周期も,ちょうど1日の倍数ではなく,暦は複雑になる。暦を作るとき,月の動き1月を主とするか,太陽の動き1年を主とするかによって,太陰暦と太陽暦に分けられる。
 暦の説明には,プトレマイオスの「天動説」という間違った考えだが、天球についての概念が必要である。太陽や恒星などすべての天体を乗せた半径無限大の球面を仮想し,これを天球という(図11)。天球の中心に地球があって動かないと仮想する。地球の赤道を天球まで広げた円を天の赤道という。地球が西から東へ自転しているので,見掛け上、天球は東から西へ1日に1回転する。 また地球が太陽の周りを公転運動するため,太陽は天球上を恒星(星座)の間をぬって西から東へ1年間に1周する。この太陽が移動する道を黄道という。黄道と天の赤道の交点が春分点と秋分点で,太陽が南から北へ天の赤道を横切る点を春分点という。天球上の季節による太陽は,3月21日ごろ春分点,6月22日ごろ夏至点,9月23日ごろ秋分点,12月22日ごろ冬至点を通過する。
 太陽が春分点を出て,再び春分点にもどるまでの期間は365.2422日すなわち1年である。(地球の公転周期)


 図11.天球
事実と違うが、地球は天球の中心にあって動かないとする。
(天動説)


@太陰暦
 月は29日目または30日目に満月になるので,これを周期として,太陰暦ができた.古代の太陰暦は,日本,中国,インド,ギリシャ,ユダヤなどで使った。
 太陰暦は,29日の「小の月」と30日の「大の月」をもうけ,1年を12ヶ月,または13ヶ月とした。従って,1年の長さには,短い354日から,長い384日などがある。1年が13ヶ月の場合は余分の1月をうるう月という。うるう月は初め2年に1回おいたが,後に8年に3回に改め,次に19年に7回置くメトン周期もあった。
 太陰暦では,うるう月をもうけたので,月日が毎年少しずつ季節とくい違い,種まきや田植えなどの目安にならない。そこで,天球の太陽の位置をもとに決めたのが,太陰太陽暦(旧暦)である。
 太陰太陽暦(旧暦)
春分(黄経0度)・立夏(黄経45度)・夏至(黄経90度)・立秋(黄経135度)・秋分(黄経180度)・立冬(黄経225度)・冬至(黄経270度)・立春(黄経315度)などの8節気をもうけた。これらを3等分した24節気もある。その他,節分(立春の前日)・彼岸(春分,秋分の前後7日間)・八十八夜(立春より88日目)・入梅(太陽の黄経80度)・半夏生(太陽の黄経100度)・二百十日(立春より210日目)などの雑節もある。
 
A太陽暦
ユリウス暦
 エジプトではナイル川が定期的に氾濫することから,その平均を調べて1年の長さは,365.25日であるとした。西暦紀元前46年にローマのユリウスは,1年の日数を365.25日とし,365日を平年とし,366日のうるう年を4年に1回の割合で置くようにした。
       (365+365+365+366)/4=365.25日
グレゴリオ暦
 1年は,365.2422日であるから,ユリウス暦の365.25日を使うと,1年に0.0078日多くなる。ユリウス暦は約1600年間使われ,西暦1582年には暦日に10日のずれが生じた。そこで,ローマ法王グレゴリオ13世は,1582年10月5日から14日までの10日間を暦日から除き,次のように改暦した。
 西暦年数が4で割り切れる年をうるう年とする。ただし,西暦年数が100で割り切れるもののうち,その商がさらに4で割り切れない年は平年とする。
 この改正によって400年に3回うるう年が除かれて,1年の平均日数は365.2425日となる。
  365.25ー3/400=365.25−0.0075=365.2425
 グレゴリオ暦は誤差が少なく、3000年使うと1日多くなる。
  1年の誤差 365.2425ー365.2422=0.0003日
  0.0003 X 3000=0.9日    約1日
このグレゴリオ暦はイタリア,フランス,スペイン,ポルトガル,ドイツ,オランダ,イギリス,アメリカ、ロシアなど世界各国で使われている。
 日本は明治5年(1872)12月3日を明治6年(1873)1月1日とし、これまでの旧暦と太陽暦のずれ1ヶ月を暦から除き、グレゴリオ暦(新暦)を採用した。

引用文献

・Mishima-taisha .Museum of art treasures  三嶋大社宝物館(1998) 三嶋大社発行 22p、123p
・三島市(1987):三島市誌増補.三島市誌増補版編さん委員会.1055−1065p
・三嶋暦の会(2015):三嶋暦とせせらぎのまち.河合龍明,第3章三嶋暦師・河合家,第4章三嶋暦をとりまく 世界.田村和幸,第5章暦工房・三嶋暦師の館.新評論KK  64−130p
・友野 博(1979):目でみる 三島市の歴史.緑星社.85−86p
・土屋比都司(2017):伊豆史談通刊147号.19−22p
・土屋寿山・稲本久男(1989):ふるさと三島・歴史と人情の町.三島印刷. 90−93p
・坪井誠太郎・坪井忠二・鏑木政岐(1956):地学.大日本図書KK.24−43p  
・杉村 斉(1987):三島暦と日本の地方暦 三島市郷土資料館 三島市教育委員会 52−53p
・秋津 亘(1988):三島いまむかし1 東海印刷 78−101p
・三島市教育委員会(s56年):三島の昔話 38p

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