三嶋暦師河合家の天文台

  2020/10 作成途中
 

1.はじめに
 歴史の古い三嶋暦師河合家(国の登録有形文化財)は筆者(相原)が住む三島市大宮町2丁目にある。

 
図1.三嶋暦師河合家   2020/09/10撮影.
 家屋は,安政元年(1854)の東南海地震(安政地震)で倒壊し,その後焼失し、多くの古い資料が失われたようである。
 現在の家屋は,江川太郎左衛門の指示により,裾野市十里木にあった関所の建物を移築したものである。
 
図2,むくりはふ
玄関の屋根は少し盛り上がり,起り破風(むくりはふ)というつくりである


 三嶋暦師河合家やその南西に隣接する相原の土地は,南側の「字金谷町」(昔の地名)と北側の「宮町」(昔の地名)の境界付近に位置する。
 字金谷町と宮町の両地域は,土地の位置及び形状を示す地図に食違いがあり,一続きの地図にすることができない,断層によるずれもないのに,不思議な土地である(図3、図4)。

 
図3、昭和51年 相原の登記済権利証書に添付された地図。
 土地は一続きだが、地図上の古い住所は、三島市宮町2丁目3494−6
と三島市字金谷町1151−1に分筆され、つなげる事ができない。
 
図4、,令和2年 静岡地方法務局沼津支局の地図
相原の土地は、赤枠の3494−6と1151−1である。
紫色の線は宮町(北側)と字金屋町(南側)の堺である。


 文献「ふるさと三島」によると、「三嶋暦師河合家の天文台の確かな場所はわかりません。(大宮町2丁目4−10地先か)」とある(土屋・稲本 1989)。大宮町2丁目4−10は相原の現住所だが、この考えには疑問を持っていた。三嶋暦師河合家のある地域や三嶋暦などの歴史を確かな資料(重要文化財の三嶋大社全図や大正3年に写した写真など)から調べてみた。
 最後に、太陰暦と太陽暦について触れた。

2.三嶋暦師河合家と大宮町二丁目の歴史.

 図6の重要文化財 三嶋大社全図 江戸時代 矢田部家 (三嶋大社宝物館,1998)には、道、水路、社家(江戸時代、三嶋大社の行事に携わる家をいう。番頭役、流鏑馬役、暦師、大工役、舞役、・・などがある。)の建物など正確に記載されている。この重文、三嶋大社全図から、社家の河合家、長田家、青木家、前島家、井口家などの家屋や土地を知ることができた。その頃、三嶋暦師河合家の土地は、図5の宮町と字金谷町の堺から北の橙色の線で囲まれた部分と思われる。


図5,令和2年 静岡地方法務局沼津支局の地図(図4の北に続く)に加筆。
 重文、三嶋大社全図によると、江戸時代の三嶋暦師河合家の土地は橙色の線で囲まれた部分となる。
紫色の線は宮町と字金屋町の堺である。
 
図6,重要文化財 三嶋大社全図 江戸時代 (矢田部家文書)のスケッチ図(三嶋大社の許可済み)。
青色:水路、池など。茶色:道路、小路など。緑:樹木。

 金谷町は,江戸時代鋳物師が住んでいたことから呼ばれた地名だが,いま金谷町という地名が残っていないので正確な場所が分からない。薬師院の北を通る東西方向の道は「金谷小路」と呼ばれ、図6の重文、三嶋大社全図にも記載されている。金谷小路の西方向へは三嶋大社の池の北を通って、浦島神社へつながり、東方向へは「鎌倉古道」へつながる古い道といわれている。従って、字金谷町(以後金谷町とする)は金谷小路を中心とする、薬師院の北側から暦師河合家や相原家、長田家、青木家の南境界付近(図4,図5の紫線)までと思われる。
 江戸時代,三島の鋳物師は,朝廷から任命された斉藤氏で伊豆国鋳物師の総取締役を努め,苗字帯刀を許される身分でした。また,南の方にもその分家があって,南金谷と呼んでいたと思われる。金谷小路周辺には斉藤氏を中心に鋳物師や鍛冶職人などの仲間が住んでいて、梵鐘,鍋,釜、刀物などを作製していたと思われる。その後,鋳物師の斉藤氏は甲州からきた沼上氏に引き継がれた(土屋・稲本 1989)(三嶋暦の会 2015)。

 三嶋暦師河合家についての資料を羅列的になるが上げてみる。
 @ 河合家の現在当主(河合龍明)は53代目である(敬称略)。 51代の河合竜節が書き遺した「暦家相続之由来書」には,「光仁天皇御宇,宝亀十年(779年),豆州三島エ住居罷在,清和天皇貞観年中ヨリ貞享年間迄(859年〜876年)ハ私家ニテ暦算仕」と書かれている。
 A 「北条五代記」には,「こよみをば伊豆の国三嶋,武蔵の大宮,両所にて作り出す」と書かれている。三島暦は約千年にわたって発行していたことがわかる。
 B 室町時代から江戸時代にかけての暦は,西の京暦,東の三島暦によって全国の勢力圏が二分されていた。後北条によって治められていた東日本は,三島暦が全盛であった。河合家には,天文23年(1554年)11月25日の日付で,北条氏康から暦師の河合左近将監に宛てた文章がある。それは,三島暦の作暦と販売権を河合氏一人と定めて許可したものであった(三島市誌,1987)。
 C 古い暦は,肉筆で書き写したものだが,三嶋暦は彫刻による版暦として日本最古の暦といわれている(友野,1979)。
 D 文献に三嶋暦の名が最初に見えるのは義堂周信(1325〜1388)の「空華日工集」の応安7年(1374)3月4日の条である。
  「熱海に浴す。けだし三嶋暦は、この日を以て上巳節(3月3日)となす・・・」とある(杉村1987)。
 E 現存する最古の三嶋暦は、栃木県真岡市荘厳寺で発見された、康永4年(1345年10月)から貞和3年(1347年)の仮名暦である。それに次ぐものが永享9年(1437)のもので栃木県の足利学校に合計8枚残っている(三嶋大社宝物館,1998)。図7はその一部だが、次の文字が読める(杉村1987)。
   「永享9年 ひのとのみのとし  凡三百五十二日  
   三嶋    大しやうぐん ひがしにあり」

 
図7.三嶋暦 永享9年(1437)
コラム
 三島刷暦 すりごよみの模様は焼き物(陶器)に使われ,「三島手 みしまで」として知られている(図8)。 
 
図8. 「三島手 みしまで」.三島すりごよみのような細かい模様がある茶碗。
文字の模様(右)や花の模様(左)などがある。
(三嶋大社前の杉浦陶器店で購入) 
 「三島手」「三島茶碗」
 韓国の「粉青沙器」といわれる茶碗は、朝鮮半島中南部で焼かれ、日本へ早くから渡来していた。その細かい模様は三島暦に似ているので「三島茶碗」といわれていた。
 日本ではこのような茶碗を「三島手」「三島茶碗」と名付けて愛好されている。 時代や文様の違いによって、「古三島」「暦手」「花三島」・・などに分かれている(杉村 1987)。 

3.三嶋暦師河合家の天文台
 河合家の家伝には「光仁天皇宝亀中,三島宮神領内,暦門埋橋二六百坪ノ宅地ヲ構へ住ス」とある。また 暦を作るには,星座や月などの天体観測が必要であり,三嶋暦師河合家には天文台があった。三嶋暦師河合家や天文台があった付近は,「こみかど」(暦御門)という地名で呼ばれていた。「こみかど」には,約680坪(約2246m²)の周囲に土手をめぐらし,その中に天文台があった(土屋・稲本1989)。 


 図9.写真の左手の人が,天文台は,ここにあったと位置を示している。大正3年撮影(友野1979)。
 家屋の手前(西)にある大きな木はなくなり、現在その付近には池がある。また家屋の左手にはクスノキやタイサンボクやヒバなどが茂っている。写真は人の着物から冬撮影したもので、周辺の畑には寒さを防ぐ植物が植えられている。
 
図10、重要文化財 三嶋大社全図 (江戸時代)の三嶋暦師河合家の土地付近を拡大したスケッチ図(三嶋大社の許可済み)。社家や小路の名を加筆した。青線:水路。茶色線:道、小路。緑:樹木。
河合家の土地には3つの建物(K,T,Y)が記載されている。
KとTは東西方向に並んでいる。Tは西から見て背の高い建物を記載してある。Yは北の道際にある。

 三嶋暦師河合家の天文台は、河合家の家屋の西にあったことを主張するものとなった。 
 @ 図9の写真(友野1979)は,写っている家屋の切妻屋根の見える角度、生えている庭木などから,図5の3494−5付近からカメラを北東へ向けて撮影したもので、天文台が三嶋暦師河合家の家屋の西に、ほぼ並んだ位置にあったことを示している。
 A 図6,重文、三嶋大社全図における社家の家屋は、現存する位置と比較検討すると正確に記入されている。この三嶋大社全図の三嶋暦師河合家の土地には3つの建物(Y,T,K)が記載されている。図10の南側に東西に並んだ建物のうち、東の建物(K)が家屋で、西の建物(T)が天文台とすると、図9の写真撮影位置、方向そして家屋の写り方など矛盾なく説明できる。また、河合家の屋敷には、「暦ノ宮アリテ社宮司明神ト云」とある(三嶋暦の会、2015)。北側にある建物(Y)はこの「暦ノ宮」に違いない。現在、「暦ノ宮」は加茂川神社(三島市加茂川町)に合祀されている。加茂川神社は大正4年宮町に鎮座する十柱神社を合祀するとある。「暦ノ宮」は十柱神社の内「加茂社神」に違いない。
 B 天文台は、三嶋暦師河合家の南西の大宮町2丁目4−10地先にあったとすると、図5の三嶋暦師河合家の土地から南へはみ出て金谷町にあったことになる。

ご意見があリましたらメールを頂きたい。 aihara@mxz.mesh.ne.jp     


4.暦について
 われわれの生活に関係した周期には,昼と夜の周期の1日,月の満ち欠けの周期の1月(ひとつき)(1朔望月=29.53059日),夏と冬の季節の周期の1年(365.2422日)がある.1月の周期も,1年の周期も,ちょうど1日の倍数ではなく,暦は複雑になる。暦を作るとき,月の動き1月を主とするか,太陽の動き1年を主とするかによって,太陰暦と太陽暦に分けられる。
 暦の説明には,プトレマイオスの「天動説」という間違った考えだが、天球についての概念が必要である。太陽や恒星などすべての天体を乗せた半径無限大の球面を仮想し,これを天球という(図11)。天球の中心に地球があって動かないと仮想する。地球の赤道を天球まで広げた円を天の赤道という。地球が西から東へ自転しているので,見掛け上、天球は東から西へ1日に1回転する。 また地球が太陽の周りを公転運動するため,太陽は天球上を恒星(星座)の間をぬって西から東へ1年間に1周する。この太陽が移動する道を黄道という。黄道と天の赤道の交点が春分点と秋分点で,太陽が南から北へ天の赤道を横切る点を春分点という。天球上の季節による太陽は,3月21日ごろ春分点,6月22日ごろ夏至点,9月23日ごろ秋分点,12月22日ごろ冬至点を通過する。
 太陽が春分点を出て,再び春分点にもどるまでの期間は365.2422日すなわち1年である。(地球の公転周期)


 図11.天球
事実と違うが、地球は天球の中心にあって動かないとする。
(天動説)


@太陰暦
 月は29日目または30日目に満月になるので,これを周期として,太陰暦ができた.古代の太陰暦は,日本,中国,インド,ギリシャ,ユダヤなどで使った。
 太陰暦は,29日の「小の月」と30日の「大の月」をもうけ,1年を12ヶ月,または13ヶ月とした。従って,1年の長さには,短い354日から,長い384日などがある。1年が13ヶ月の場合は余分の1月をうるう月という。うるう月は初め2年に1回おいたが,後に8年に3回に改め,次に19年に7回置くメトン周期もあった。
 太陰暦では,うるう月をもうけたので,月日が毎年少しずつ季節とくい違い,種まきや田植えなどの目安にならない。そこで,天球の太陽の位置をもとに決めたのが,太陰太陽暦(旧暦)である。
 太陰太陽暦(旧暦)
春分(黄経0度)・立夏(黄経45度)・夏至(黄経90度)・立秋(黄経135度)・秋分(黄経180度)・立冬(黄経225度)・冬至(黄経270度)・立春(黄経315度)などの8節気をもうけた。これらを3等分した24節気もある。その他,節分(立春の前日)・彼岸(春分,秋分の前後7日間)・八十八夜(立春より88日目)・入梅(太陽の黄経80度)・半夏生(太陽の黄経100度)・二百十日(立春より210日目)などの雑節もある。
 
A太陽暦
ユリウス暦
 エジプトではナイル川が定期的に氾濫することから,その平均を調べて1年の長さは,365.25日であるとした。西暦紀元前46年にローマのユリウスは,1年の日数を365.25日とし,365日を平年とし,366日のうるう年を4年に1回の割合で置くようにした。
       (365+365+365+366)/4=365.25日
グレゴリオ暦
 1年は,365.2422日であるから,ユリウス暦の365.25日を使うと,1年に0.0078日多くなる。ユリウス暦は約1600年間使われ,西暦1582年には暦日に10日のずれが生じた。そこで,ローマ法王グレゴリオ13世は,1582年10月5日から14日までの10日間を暦日から除き,次のように改暦した。
 西暦年数が4で割り切れる年をうるう年とする。ただし,西暦年数が100で割り切れるもののうち,その商がさらに4で割り切れない年は平年とする。
 この改正によって400年に3回うるう年が除かれて,1年の平均日数は365.2425日となる。
  365.25ー3/400=365.25−0.0075=365.2425
 グレゴリオ暦は誤差が少なく、3000年使うと1日多くなる。
  1年の誤差 365.2425ー365.2422=0.0003日
  0.0003 X 3000=0.9日    約1日
このグレゴリオ暦はイタリア,フランス,スペイン,ポルトガル,ドイツ,オランダ,イギリス,アメリカ、ロシアなど世界各国で使われている。
 日本は明治5年(1872)12月3日を明治6年(1873)1月1日とし、これまでの旧暦と太陽暦のずれ1ヶ月を暦から除き、グレゴリオ暦(新暦)を採用した。

引用文献

・Mishima-taisha .Museum of art treasures  三嶋大社宝物館(1998) 三嶋大社発行 22p、123p
・三島市(1987):三島市誌増補.三島市誌増補版編さん委員会.1055−1065p
・三嶋暦の会(2015):三嶋暦とせせらぎのまち.河合龍明,第3章三嶋暦師・河合家,第4章三嶋暦をとりまく 世界.田村和幸,第5章暦工房・三嶋暦師の館.新評論KK  64−130p
・友野 博(1979):目でみる 三島市の歴史.緑星社.85−86p
・土屋比都司(2017):伊豆史談通刊147号.19−22p
・土屋寿山・稲本久男(1989):ふるさと三島・歴史と人情の町.三島印刷. 90−93p
・坪井誠太郎・坪井忠二・鏑木政岐(1956):地学.大日本図書KK.24−43p  
・杉村 斉(1987):三島暦と日本の地方暦 三島市郷土資料館 三島市教育委員会 52−53p
・秋津 亘(1988):三島いまむかし1 東海印刷 78−101p

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