熱血的格闘ゲーム論・その1
〜あるいは「キャラ性と戦闘力の極限を目指して」 
あるいは「雨野村雲先生に捧げる格闘ゲーム文」〜





俺の知人に、雨野村雲先生という人がいる。
彼は熱血であり、故に俺も、各方面に渡り、彼には多大な影響を受けている。

そんな彼が、先日、彼のサイト「青龍王宮殿」において、「闘う理由(わけ)」
というタイトルの「格闘ゲーム論」を公開された。
まずは、上のリンクをクリックしてお読みいただきたい。

読んだか?
読んだな。

そう。
「熱い」のだ。
そして、その熱さに触発され、俺も格闘ゲーム論を書く運びとなったからと
いって何の不思議があろうかいや無い(反語)。

*


お読みになった方ならお分かりかと思うが、上記の彼の文章のキーワードは
「キャラクター性至上主義」である。
少々抜粋してみよう。

さて、ここで言っておきたいのは、俺は
「格好良いもの」
に全く目が無いと言う事だ。
(中略)
俺にとって第一は、「そのキャラらしい闘いか」である。
そして「そのキャラらしさを出しながら、いかに格好良く闘い、勝利する
か。」が、俺にとっての命題である。
だが、ただ無謀と言う訳では無い。
「勝利へのこだわり」と「美学へのこだわり」のギリギリの線を選択して闘
い、そして技を競い、勝利する。
そのプロセスを楽しむ…そう、俺は
「外見も技も格好良いキャラを演じたい!」
と考えて闘いに望むのだ。


‥‥俺の言いたいことが全て言われているのである。(苦笑)

*


そのキャラらしい闘いか。
キャラらしさを出しながら、いかに格好良く闘い、勝利するか。
俺も、全く同じところにこだわる。

そして、俺もまた、彼と同じように、「勝利へのこだわり」と「美学への
こだわり」のギリギリの線を選択して闘うのだ。

*


思うに、格闘ゲームと言うのは、突き詰めていけば、「ロールプレイング」
だと思うのだ。
「役を演じる」という、本来の意味での「ロールプレイング」。

「キャラクターを使う」以上、それは意味のある行為でなければならない。
キャラクターを使うことに「意味」を持たせること‥‥それはすなわち、
そのキャラクターに思い入れを持ち、その性格、そのバックボーンまでをも
知り尽くし、そして「演じる」こと。
それこそが、キャラクターを使う、ということなのだ。

*


しかし、また同時に、それが格闘ゲームである以上、そこには「勝敗」という
ファクターが存在する。
そして、我々が人間である以上、勝ちたい、という欲求もまた、否定される
べき物ではない。

だから、我々は、勝利を目指すべきである。

*


「演じる」事と「勝利を目指す」事。

これらを両立するのは、確かに難しい。
だが、これらは、決して矛盾しない。ただ難しいだけなのだ。
決して、乗り越えられない壁ではないのだ。

*


雨野村雲先生は言う。

闘いの場においては、誰もが投入したコインを賭けて闘う。
「勝つ事にのみ重点を置く者」も、
「正々堂々とした勝負を楽しむ者」も、
「ただ他人を負かしたい者」も、
俺のような「キャラクター性至上主義」も、全ての主義主張は、闘いの場に
おいては無意味なのだ。
(中略)
だから、 勝利を渇望するものよ、その衝動のままに極めよ。
信念を持つ者よ、その胸の誇りのままに闘え。
ただ卑しく快楽を欲する者よ、ただ無駄な時間を生きよ。
全ての闘う理由(わけ)は、それぞれの魂の中にのみ存在する等価なものだから。


それは、全く正しいのだろう。

だが、村雲先生ほど人間の出来ていない(苦笑)俺は、敢えて言うのだ。

演じよ! そして勝て!
それは努力により両立できる!


*


ところで。
ここまで意見の一致を見た(笑)俺と村雲先生であるが、実は、その意見に、
1ヶ所だけ、大きな違いがある。

村雲先生は、上の抜粋の通り、「外見も技も格好良いキャラを演じたい!」と
考える方である。
だが、俺は、
「一見カッコ悪いキャラをカッコよく演じたい!」

と考える人間なのである。(笑)

人間のカッコ良さとは、その内面だと思う。
だからこそ、外見が今ひとつかっこいいとは言えないキャラを使い、その
内面を引き出してやりたい、と思うのだ。

正直、これはイバラの道である。っていうかイバラ過ぎる。(^^;

*


だがしかし、俺の生涯でただ一人、この「イバラの道」を歩くことに成功
した、と俺が思っているキャラクターがいる。
それは‥‥

‥‥その2に続く。(笑)






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