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 『歌行燈』 従吾所好

「二三町行つた処で、左側の、屋根の大きさうな家へ着けたのが、蒼く月明りに見えたがね、……彼処は何かい、旅篭屋ですか。」
「湊屋でございまさ、なあ、」と女房が、釜の前から亭主を見向く。
「湊屋、湊屋、湊屋。此の土地ぢや、まあ彼処一軒でござりますよ。古い家ぢやが名代で。前〈ぜん〉には大きな女郎屋ぢやつたのが、旅篭屋に成つたがな、部屋々々も昔風其のまゝな家〈うち〉ぢやに、奥座敷の欄干〈てすり〉の外が、海と一所の、大〈いか〉い揖斐の川口ぢや。白帆の船も通りますわ。鱸は刎ねる、鯔は飛ぶ。頓と類のない趣のある家ぢや。処が、時々崖裏の石垣から、獺が這込んで、板廊下や厠に点いた燈を消して、悪戯をするげに言ひます。が、別に可恐〈おそろし〉い化方はしませぬで。こんな月の良い晩には、庭で鉢叩きをして見せる。……時雨れた夜さりは、天保銭一つ使賃で、豆腐を買ひに行くと言ふ。其も旅の衆の愛嬌ぢや言うて、豪い評判の好い旅篭屋ですがな、……お前様、此の土地はまだ何も知りなさらんかい。」

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