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 『木の子説法』 青空文庫

 もっとも、その前日も、金子《かね》無心の使に、芝の巴町《ともえちょう》附近辺《あたり》まで遣られましてね。出来ッこはありません。勿論、往復とも徒歩《てく》なんですから、帰途《かえり》によろよろ目が眩《くら》んで、ちょうど、一つ橋を出ようとした時でした。午砲《どん》!――あの音で腰を抜いたんです。土を引掻《ひッか》いて起上がる始末で、人間もこうなると浅間しい。……行暮れた旅人が灯をたよるように、山賊の棲《す》でも、いかさま碁会所でも、気障《きざ》な奴でも、路地が曲りくねっていても、何となく便《たよ》る気が出て。――町のちゃら金の店を覗くと、出窓の処に、忠臣蔵の雪の夜討の炭部屋の立盤子《たてばんこ》を飾って、碁盤が二三台。客は居ません。ちゃら金が、碁盤の前で、何だか古い帳面を繰っておりましたっけ。(や、お入り。)金歯で呼込んで、家内が留守で蕎麦《そば》を取る処だ、といって、一つ食わしてくれました。もり蕎麦は、滝の荒行ほど、どっしりと身にこたえましたが、そのかわり、ご新姐――お雪さんに、(おい、ごく内証《ない》だぜ。)と云って、手紙を托《ことづ》けたんです。菫色《すみれいろ》の横封筒……いや、どうも、その癖、言う事は古い。(いい加減に常盤御前《ときわごぜん》が身のためだ。)とこうです。どの道そんな蕎麦だから、伸び過ぎていて、ひどく中毒《あた》って、松住町《まつずみちょう》辺をうなりながら歩くうちに、どこかへ落してしまいましたが。

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