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 『夜行巡査』 青空文庫

「いまだに忘れない。どうしてもその残念さが消え失せない。そのためにおれはもうすべての事業を打ち棄てた。名誉も棄てた。家も棄てた。つまりおまえの母親が、おれの生涯の幸福と、希望とをみな奪ったものだ。おれはもう世の中に生きてる望みはなくなったが、ただ何とぞしてしかえしがしたかった、といって寝刃《ねたば》を合わせるじゃあない、恋に失望したもののその苦痛《くるしみ》というものは、およそ、どのくらいであるということを、思い知らせたいばっかりに、要らざる生命《いのち》をながらえたが、慕い合って望みが合《かの》うた、おまえの両親に対しては、どうしてもその味を知らせよう手段がなかった。もうちっと長生きをしていりゃ、そのうちにはおれが仕方を考えて思い知らせてやろうものを、ふしあわせだか、しあわせだか、二人ともなくなって、残ったのはおまえばかり。親身といってほかにはないから、そこでおいらが引き取って、これだけの女にしたのも、三代崇る執念で、親のかわりに、なあ、お香、きさまに思い知らせたさ。幸い八田という意中人《おもいもの》が、おまえの胸にできたから、おれも望みが遂げられるんだ。さ、こういう因縁があるんだから、たとい世界の金満《かねもち》におれをしてくれるといったって、とても謂うこたあ肯《き》かれない。覚悟しろ! 所詮だめだ。や、こいつ、耳に蓋をしているな」
 眼にいっぱいの涙を湛えて、お香はわなわなふるえながら、両袖を耳にあてて、せめて刑の宣告を聞くまじと勤めたるを、老夫は残酷にも引き放ちて、
「あれ!」と背くる耳に口、

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