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 『眉かくしの霊』 泉鏡花を読む

「直きでございます。……今日は此の新館のが湧きますから。」成程、雪の降りしきるなかに、ほんのりと湯の香が通ふ。洗面所の傍の西洋扉が湯殿らしい。この窓からも見える。新しく建増した柱立てのまゝ、筵がこひにしたのもあり、足場を組んだ処があり、材木を積んだ納屋もある。が、荒れた厩のやうに成つて、落葉に埋れた、一帯、脇本陣とでも言ひさうな旧家が、いつか世が成金とか言つた時代の景気に連れて、桑も蚕も当たつたであらう、此のあたりも火の燃えるやうな勢に乗じて、贄川はその昔は、煮え川にして、温泉の涌いた処だなぞと、こゝが温泉にでも成りさうな意気込みで、新館建増にかゝつたのを、此の一座敷と、湯殿ばかりで、そのまゝ沙汰やみに成つた事など、あとで分つた。「女中さんかい、其の水を流すのは。」閉めたばかりの水道の栓を、女中が立ちながら一つづゝ開けるのを視て、堪らず詰るやうに言つたが、次手に此の仔細も分つた。……池は、樹の根に樋を伏せて裏の川から引くのだが、一年に一二度づゝ水涸があつて、池の水が干ようとする。鯉も鮒も、一処へ固つて、泡を立てて弱るので、台所の大桶へ汲込んだ井戸の水を、遥々と此の洗面所へ送つて、橋がかりの下を潜らして、池へ流込むのださうであつた。
 木曽道中の新版を二三種ばかり、枕もとに散らした炬燵へ、ずぶ/\と潜つて、
「お米さん、……折入つて、お前さんに頼みがある。」と言ひかけて、初々しく一寸俯向くのを見ると、猛然として、喜多八を思ひ起こして、我が境は一人笑つた。「はゝゝ、心配な事ではないよ。――お庇で腹按配も至つて好く成つたし、――午飯を抜いたから、晩には入合せに且つ食ひ、大に飲むとするんだが、いまね、伊作さんが渋苦い顔をして池を睨んで行きました。何うも、鯉のふとり工合を鑑定したものらしい……屹と今晩の御馳走だと思ふんだ。――昨夜の鶫ぢやないけれど、何うも縁あつて池の前に越して来て、鯉と隣附合ひに成つて見ると、目の前から引上げられて、俎で輪切は酷い。……板前の都合もあらうし、また我がまゝを言ふのではない。……

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