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 『婦系図』 青空文庫

 お妙は玄関傍《わき》、生垣の前の井戸へ出て、乾いてはいたが辷りのある井戸流《ながし》へ危気《あぶなげ》も無くその曲った下駄で乗った。女中も居るが、母様の躾《しつけ》が可いから、もう十一二の時分から膚についたものだけは、人手には掛けさせないので、ここへは馴染《なじみ》で、水心があって、つい去年あたりまで、土用中は、遠慮なしにからからと汲み上げて、釣瓶《つるべ》へ唇を押附《おッつ》けるので、井筒の紅梅は葉になっても、時々花片《はなびら》が浮ぶのであった。直《すぐ》に桃色の襷《たすき》を出して、袂を投げて潜《くぐ》らした。惜気の無い二の腕あたり、柳の絮《わた》の散るよと見えて、井戸縄が走ったと思うと、金盥へ入れた硯の上へ颯とかかる、水が紫に、墨が散った。
 宿墨を洗う気で、楊枝の房を、小指を刎《は》ねて〓《むし》りはじめたが、何を焦《じ》れたか、ぐいと引断《ひっちぎ》るように邪険である。
 ト構内《かまえうち》の長屋の前へ、通勤《つとめ》に出る外、余り着て来た事の無い、珍らしい背広の扮装《いでたち》、何だか衣兜《かくし》を膨らまして、その上暑中でも持ったのを見懸けぬ、蝙蝠傘《こうもりがさ》さえ携えて、早瀬が前後《あとさき》を〓《みまわ》しながら、悄然として入って来たが、梅の許なるお妙を見る……

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