検索結果詳細


 『婦系図』 青空文庫

 中途で談話《はなし》に引入れられて鬱《ふさ》ぐくらい、同情もしたが、芸者なんか、ほんとうにお止しなさいよ、と夫人が云う。主税は、当初《はじめ》から酔わなきゃ話せないで陶然としていたが、さりながら夫人、日本広しといえども、私にお飯《まんま》を炊てくれた婦《おんな》は、お蔦の他ありません。母親の顔も知らないから、噫《ああ》、と喟然《きぜん》として天井を仰いで歎ずるのを見て、誰が赤い顔をしてまで、貸家を聞いて上げました、と流眄《しりめ》にかけて、ツンとした時、失礼ながら、家で命は繋《つな》げません、貴女は御飯が炊けますまい。明日は炊くわ。米を〓《に》るのだ、と笑って、それからそれへ花は咲いたのだったが、しかし、気の毒だ、可哀相に、と憐愍《あわれみ》はしたけれども、徹頭徹尾、(芸者はおよしなさい。)……この後たとい酒井さんのお許可《ゆるし》が出ても、私が不承知よ。で、さてもう、夜が更けたのである。
 出て来ない――夫人はどうしたろう。
 がたがた音がした台所も、遠くなるまで寂寞《ひっそり》して、耳馴れたれば今更めけど、戸外《おもて》は数《す》万の蛙《かわず》の声。蛙、蛙、蛙、蛙、蛙と書いた文字に、一ツ一ツ音があって、天地《あめつち》に響くがごとく、はた古戦場を記した文に、尽《ことごと》く調《しらべ》があって、章と句と斉《ひと》しく声を放って鳴くがごとく、何となく雲が出て、白く移り行くに従うて、動揺《どよみ》を造って、国が暗くなる気勢《けはい》がする。

 2691/3954 2692/3954 2693/3954


  [Index]