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 『雛がたり』 青空文庫

 逗子にいた時、静岡の町の光景《さま》が見たくって、三月の中ばと思う。一度彼処《あすこ》へ旅をした。浅間《せんげん》の社《やしろ》で、釜で甘酒を売る茶店へ休んだ時、鳩と一所に日南《ひなた》ぼっこをする婆さんに、阿部川の川原で、桜の頃は土地の人が、毛氈に重詰《じゅうづめ》もので、花の酒宴《さかもり》をする、と言うのを聞いた。――阿部川の道を訊ねたについてである。――都路《みやこじ》の唄につけても、此処を府中と覚えた身には、静岡へ来て阿部川餅を知らないでは済まぬ気がする。これを、おかしなものの異名だなぞと思われては困る。確かに、豆粉《きなこ》をまぶした餅である。
 賤機山《しずはたやま》、浅間《せんげん》を吹降《ふきおろ》す風の強い、寒い日で。寂しい屋敷町を抜けたり、大川の堤防《どて》を伝ったりして阿部川の橋の袂へ出て、俥《くるま》は一軒の餅屋へ入った。

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