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 『眉かくしの霊』 泉鏡花を読む

 こゝは弥次郎兵衛、喜多八が、とぼとぼ/\と鳥居峠を越すと、日も西の山の端に傾きければ、両側の旅篭屋より、女ども立出で、もし/\お泊りぢやござんしないか、お風呂も湧いて居づに、お泊りな/\――喜多八が、まだ少し早いけれど――弥次郎、もう泊つてもよからう、なう姐さん――女、お泊りなさんし、お夜食はお飯でも、蕎麦でも、お蕎麦でよかあ、おはたご安くして上げませづ。弥次郎、いかさま、安い方がいゝ、蕎麦でいくらだ。女、はい、お蕎麦なら百十六銭でござんさあ。二人は旅銀の乏しさに、そんなら然うと極めて泊つて、湯から上ると、その約束の蕎麦が出る。早速にくひかゝつて、喜多八、こつちの方では蕎麦はいゝが、したぢが悪いにはあやまる。弥次郎、そのかはりにお給仕がうつくしいからいゝ、なう姐さん、と洒落かゝつて、もう一杯くんねえ。女、もうお蕎麦はそれ切りでござんさあ。弥次郎、なに、もうねえのか、たつた二ぜんづゝ食つたものを、つまらねえ、これぢやあ食ひたりねえ。喜多八、はたごが安いも凄じい。二はいばかり食つて居られるものか。弥次郎……馬鹿なつらさ、銭は出すから飯をくんねえ。……無慙や、なけなしの懐中を、けつく蕎麦だけ余計につかはされて悄気返る。その夜故郷の江戸お箪笥町引出し横町、取手屋の鐶兵衛とて、工面のいゝ馴染に逢つて、ふもとの山寺に詣でて鹿の鳴声を聞いた処……

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