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 『春昼』 泉鏡花を読む

 と、一言で直ぐ応じたのも、四辺が静かで他には誰も居なかつた所為であらう。然うでないと、其の皺だらけな額に、顱巻を緩くしたのに、ほか/\と春の日がさして、とろりと酔つたやうな顔色で、長閑に鍬を使ふ様子が――あの又其の下の柔な土に、しつとりと汗ばみさうな、散りこぼれたら紅の夕陽の中に、ひら/\と入つて行きさうな――暖い桃の花を、燃え立つばかり揺ぶつて頻に囀つて居る鳥の音こそ、何か話をするやうに聞かうけれども、人の声を耳にして、それが自分を呼ぶのだとは、急に心付きさうもない、恍惚とした形であつた。
 此方も此方で、恁く立処に返答されると思つたら、声を懸けるのぢやなかつたかも知れぬ。
 何為なら、扨て更めて言ふことが些と取り留めのない次第なので。本来なら此の散策子が、其のぶら/\歩行の手すさびに、近頃買求めた安直な杖を、真直に路に立てゝ、鎌倉の方へ倒れたら爺を呼ばう、逗子の方へ寝たら黙つて置かう、とそれでも事は済んだのである。

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