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 『婦系図』 青空文庫

 仮にその日、先生なり奥方なりに逢ったところで、縁談の事に就いて、とこう謂うつもりでなく、また言われる筋でもなかったが、久闊振《ひさしぶり》ではあり、誰方も留守と云うのに気抜けがする。今度来た玄関の書生は馴染《なじみ》が薄いから、巻莨《まきたばこ》の吸殻沢山な火鉢をしきりに突着けられても、興に乗る話も出ず。しかしこの一両日に、坂田と云う道学者が先生を訪問はしませんか、と尋ねて、来ない、と聞いただけを取柄。土産ものを包んで行った風呂敷を畳みもしないで突込んで、見ッともないほど袂《たもと》を膨らませて、ぼんやりして帰りがけ、その横町の中程まで来ると、早瀬さん御機嫌宜しゅう、と頓興《とんきょう》に馴々しく声を懸けた者がある。
 玄関に居た頃から馴染の車屋で、見ると障子を横にして眩《まばゆ》い日当りを遮った帳場から、ぬい、とを出したのは、酒井へお出入りのその車夫《わかいしゅ》。

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