ゼノンのパラドックス「矢(飛ぶ矢)」


「唯物論的時間」より

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作成日 1999/2/7のゼノンのパラドックス「矢(飛ぶ矢)」

作成日 2015/3/15

ゼノンのパラドックスで、「矢(飛ぶ矢)」と呼ばれるパラドックスがある。どういうものかというと、

「矢の飛行をどのようにかんがえたらいいのだろうか。矢の運動というのは、空間の中での位置の 変化だ。飛んでいる矢はそれぞれの瞬間に違った位置にある。ある決まった瞬間に矢は決まった 一つの位置にある。そして、その位置に静止している。つまり、それぞれの瞬間に、それぞれの 位置で矢は静止していることになる。『これはつまり、運動というものがないということです』と ゼノンが言う。・・・・・」

というものである。


参考文献 「時間のはなし」 チェルニン著 田井正博訳 東京図書


このパラドックスを解くには、どのように考えればよいのか。それには、このホームページの 「唯物論的時間」における5行目から6行目にかけての「未来は無く、過去は、ことごとく消滅 する。残るのは『現存するデータ(記憶、光なども含む)』のみである。」という部分を参考に していただきたい。ここでいう「現存するデータ」は、「運動」も含むのである。

「運動」というのは、あくまでも「データ」であって、とらえ方である。「動いている物体」そのものではない。 したがって、「矢(飛ぶ矢)」の場合も、「矢(飛ぶ矢)」の「運動」という「データ(主観的点時刻表示)」において、「矢(飛ぶ矢)」 は静止している訳だから、なんの不思議もないのである。

主観的とらえ方、データとしての「運動」の或る「時刻時点」における位置と、その対象となっている「勘違いの一般的常識的客観的運動」の「連続上の一点」、つまり 「或る一瞬において静止している矢の位置」とを対応させて比較してみる。前者は「主観的点時刻表示」による主観的サイドに在り、後者は勘違いの「客観的点時刻表示」による 客観的サイドに在る。そのうえで改めて、勘違いの客観的運動の連続(ー)とその(ー)上に在る一瞬における静止は無いんだ。客観的サイドには「動いている物体」 が、「勘違いの客観的位置の移動」による「糸」を引かないで在るだけなんだ。ということに気が付けば辻褄が合う訳だ。あくまでも、データとしての位置・静止であって、 勘違いの一般的常識的客観的運動の連続(ー)上の一点である位置・静止とは違う。私とすれば、客観的運動における連続性(ー)も一瞬一瞬の静止も否定したい。軌跡は主観的作業によるものとしか考えられない。 こうして、客観的外界には客観的位置(?)が糸を引かない「動いている物体」が在るだけである。




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