「アキレスと亀」と「二分法(二分割)」について


解説付き

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作成日 2010/10/6

皆さん御存知かと思われるが、ここで「アキレスと亀」と「二分法」について少し説明させて
いただく。

まず「アキレスと亀」とは、どういうものかというと、
「・・・・・アキレスはどうかというと、この論拠からわかるように、彼は自分が追っている亀
に追いつくことはできない。なぜなら、アキレスは自分が亀に追いつく前に、亀が動きはじめた
地点に達しなければならないからである。ところが、アキレスがこの地点につくために必要な時間
の間に、亀はこの時間を利用してさらにある距離だけ進んでいる。亀はアキレスより遅いから、
この距離はアキレスの進んだ距離より短いが、それでもやはり亀は先を進むことになる。
なぜなら、亀は一つの地点に止まっていないからである・・・・・
このように、亀が進んだ距離をアキレスが進むためにかかる時間の間に、亀はさらにある距離
だけ遠く進んでいる。アキレスの速さが大きいためこの距離はだんだん縮まっていくが、しかし
そうであっても亀はやはり先を進んでいる・・・・・」
アキレスがどんなに速く走ろうとも、彼と亀の間にはつねに間隔があり、アキレスは亀に
追いつかない。

というものである。

次に「二分法」とは、どういうものかというと、
「運動というものは始まることはない。なぜなら、ある距離を進む場合、まずその距離の半分を
進まなければならないからである。ところが、その半分を進むためには、まず最初の四分の一を
進まねばならぬ。こうして、これが無限に続く。」
最後の結論は運動はありえないということになる。

というものである。


参考文献 「時間のはなし」 チェル二ン著 田井正博訳 東京図書


これらについて私の個人的見解を述べさせていただくことにする。

「アキレスと亀」と「二分法」における矛盾は、「無限小の距離に無限個の位置(位置としての点)
が間隔をあけて存在する」ことによるものである。このような位置(位置としての点)に基づくと矛盾
する。この矛盾を解消するためにはどのようにすればよいかというと、位置(位置としての点)
を客観的実在ではない「存在の認識に与えるもの」、「主観的なもの」とすればよいのでは。
そうすれば、主観的思考の世界ではアキレスは亀に追いつけないが、実際には追いこしてしまう。
また主観的思考の世界では運動は始まらないが、実際には運動は始まる。ということになり矛盾
は解消する訳である。

主観的思考の世界には位置(位置としての点)に従うアキレスと亀がいて、アキレスは亀に
追いつけない。主観外の世界には位置(位置としての点)は無く、位置(位置としての点)の
呪縛も無い、したがってアキレスは亀を追いこす。「二分法」も同様である。


位置が隣接して無限個並んだものと最初の一つの位置は等しくなる。これを妨げるものは
何もない。このことは位置が主観外に量をもたないことを表している。



解説

ゼノンのパラドックスの「アキレスと亀」と「二分法(二分割)」を解くキーワードは、何と言っても
「位置」である。さらに言うと「位置としての点」、「点としての位置」
である。

両パラドックスのポイントは、無限小の直線距離に無限個の位置(点としての)が間隔をあけて存在する
ということだ。なぜ、そのようなことになるかというと、正確に言えば、位置(点としての)は「長さ」
有しない、持っていない。だから、点が無限個並んでも線にはならない。即ち、間隔があるという訳だ。
これは点という概念が矛盾していることによる。有なのに無、無なのに有、点は量を持たない、なのに
点として存在する。

そんなものが主観外(脳外)に客観的に存在する訳が無い。

もっともこれらはすべて主観的思考の世界(脳内)での話である。位置は客観的実在で、物自体に米粒
のように、くっついているものなのだろうか。位置とは主観内の現象(脳内)に「私」が付与するもの
であって、客観的実在(脳外)では無い。

それではなぜ、位置(点としての)は実用的なのか?それはおそらく、多くの場合、光は直進するからで
あろう。客観的物自体(脳外)とその現象に付与した点(脳内)が光でつながっているからであろう。




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