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「藤枝あやめのいた世界」
太正15年春。
帝都東京を脅かす悪はことごとく、帝国華撃団の手により砕かれた。
それは一つの戦いの終わり、そして一つの戦いの始まり。
華撃団の隊長である大神一郎は、もたらした平和の中に在ることを許されず、程なくして
旅立つ事となる。
新たなる戦いの地、フランスへと。
「あやめさん・・」
出発の朝、大神の姿は帝劇の舞台の上にあった。
立ち尽くし、そして呼んだ女性の名は藤枝あやめ。
この場所にて出会い、彼が救い、救われた人。
大神は既に一度、彼女に別れを告げている。
黒之巣会の脅威を払ったその時と、この別れは酷似していた・・ただ一つ、藤枝かえでという名の女性が、彼の傍らにいることを除いては。
「いってらっしゃい、大神君。姉さんもきっと、あなたのことを見守っているわ」
「ええ」
大神はかえでに向かい軽く笑みをこぼし、答えた。
しかしその笑顔は、まるでシャボン玉の様に儚く弾けて消えてしまう。
次の瞬間大神は、唇を真一文字に結んでいた。
しばらくの間沈黙を起き、やがてかえでに問いかける。
「あやめさんは・・どうしてあんなにまで強い人だったんでしょう。不必要なくらいに」
それは、あやめが花組の下を去ってからずっと、大神が抱き続けていた疑問であった。
当時23歳の女性にしては、余りにも強すぎる・・心も、身体も。
対降魔部隊にて死闘を繰り広げていたという事実を差し引いても、その強さは尋常でない様に大神には思われた。その強さが彼女自身を滅ぼしたのではないかとも。
返答に困るかとも思われたかえでであったが、しかし彼女は躊躇することなく、微笑を交えて大神の問いに答えた。
「姉さんはね・・もとはとても甘えん坊な、頼りない人だったの。まだ小さかった頃なんか、
よくわたしが姉の方だと間違われたものよ」
「あやめさんが・・」
「対降魔部隊に所属している時も、幼い頃とそう変わっていなかったみたい。姉さんが劇的に変化したのは・・
降魔戦争が終わった直後のことだったと聞いているわ」
「降魔戦争・・」
激しい戦であったと聞いている。
一体の巨大降魔を筆頭に、帝都に群がる数多の魔物に対し、あやめや米田を含むたったの4人で、しかも生身の身体で立ち向かったというのだから無理もない。
やがてさくらの父、真宮寺一馬の命を犠牲として、その戦は終わりを告げたのだと、大神は数年前に米田より聞かされていた。
そしてもう一人、生き延びつつも魂を失った悲劇の人がいたらしい。
奇しくも大神は、あやめのいなくなった帝劇の前で、その人物と出会うことになった訳だが・・。
「詳しい事は全て、姉さんの胸の内に・・だけどあたしには何となく分かるの。
あの人は本当に正直で真面目な人だったから・・哀しみを受け流す術を知っていながら、そうすることを潔しとしなかった・・」
「亡くなった真宮寺大佐や、いなくなった山崎少佐のことを思えばこそ・・ですか」
「ええ」
大神には、かえでの言わんとしていることが淡く理解できた。
かえでの知る幼き日のあやめ。そして大神の知る変わってしまったあやめ。
どちらにも共通する藤枝あやめの本質をもって、彼等は一様に己の知らぬ、もっとも輝いていた頃の藤枝あやめに思いを馳せているのだ。
力強い父達に囲まれ、愛しい人に身体を預け・・屈託なく笑うあの古ぼけた写真の様な、
藤枝あやめの群像に。
**********
米田は背中に両腕を軽く組み、陸軍省応接室の窓からぼんやりと外の景色を眺めていた。
微動だにせぬ冷めた表情とは裏腹に、組み合わされた掌の内側からは血が滲み、自身に対する殺意にも似た強い憤りを、容易に見て取る事ができる。
彼一人立つその部屋に、やがて遠くから靴底の廊下を叩く甲高い音が聞こえてきた。
「・・来たか」
「失礼いたします、米田中将」
軽いノックと共に押し開かれた扉の奥から現れたのは、まだうら若い少女の覚悟に満ちた瞳であった。
藤枝あやめ・・3ヶ月前に勝利とも敗北ともつかぬ形で幕を閉じた戦い・・通称降魔戦争において、人の側の先鋒として戦った4人のうちの1人である。
米田はゆっくりと振り返り、あやめの自分に向けた表情を確認すると、僅かに抱いていた躊躇を頭から無理矢理に振り払った。
そもそもこれから話そうとする事実を、隠し通すことなどできようはずもない。
それでもなお彼が迷いを抱いたのは、それが或いは目の前の少女に、死を選択させるかもしれぬ
強い圧力をかける事になりかねないと・・そのことを憂慮すればこそであったのだが。
目の前の少女は、そんな米田の不安を拒絶している。
だから米田には、話す以外にとるべき道がなかった。
「一馬が・・死ぬ。そう一馬から報せがあった」
「!!」
あやめの表情が、刹那崩れそうになる。
しかしすぐにまた元の強張った様子を取り繕うと、あやめは米田の言葉の先を瞳で促した。
「俺は行く。奴の最期を看取るのはせめてもの・・償いにもなりはしないが。
しかしあやめくん、君がどうするかは君自身が決めればいい。余りに辛い様なら来なくてもいいし、
何より・・」
「・・分かりました。教えてくださったこと・・感謝します」
あやめは米田の言葉を遮ると、すぐに振り返り部屋を出ていこうとした。
取っ手に手をかけ、引き開こうと力を込めるあやめの背中に、付け加えるように米田が言葉を投げかける。
「山崎の行方は掴めていない。その様子だと君の方もまだ・・」
「米田中将」
半身米田に向き直り、あやめは決然とした面持ちで言葉を返した。
「彼はわたしが、必ず見つけ出してみせます・・命に換えても」
言い終わった頃には、あやめの姿は部屋から完全に消えていた。
米田はまた元の様に窓から外の景色に目を移すと、溜息を1つつき、やがて誰にともなく呟きを漏らしていた。
「これほどに重い春は・・いつ以来だろうな・・」
太正八年三月。
訪れた平和に人々が酔いしれる最中。
皮肉にも平和をもたらした張本人達の最大の試練は、その平和をもって始まりの時を
迎えていた。
**********
悲哀。焦燥。不安。憎悪。恐怖。
己の内に渦巻くあらゆる負の感情を、あやめは初め、押し隠すことしかできなかった。
自分達の・・自分の前から忽然と姿を消した盟友、山崎真之介を探し出すという目的を盾にして。
だからこの3ヶ月、帝都はおろか日本中あらゆる土地をさ迷ってなお、彼の行方の手がかりすら掴むことのできなかった事実にも、あやめは絶望することがなかった。
むしろ彼女自身が、そのことを望んでいたのかもしれない。
山崎が彼女の前から姿を消してからこちら、見るべき事実にすら目を逸らしている様な自分が仮に彼と再会することができたところで、果たしてどれだけの意味を成すというのか。
きっとあやめには分かっていたのだ。
まず己が強く成長しない限り、山崎が真に自分の側へ帰ってくることはないということを。
「風が・・」
真宮寺の家へと続く桜並木を一人歩きながら、吹きつける風の季節にそぐわぬ冷たさに
ふと気が付いた様にあやめは足を止めた。
どこまでも続くかと思える木々の並びに満開の花弁・・一見するとそれは穏やかな春の風景に他ならないのだが・・しかしあやめは胸の奥からわき上がる吐き気にも似た悪寒を、気のせいと受け流すことができなかった。
「歓喜・・邪な笑みがそこかしこからこぼれているわ・・」
眉根を少し寄せ険しい表情のあやめの視界を、舞い落ちる桜の一片が刹那、覆い隠す。
しかし次の瞬間、覆われた視界は、まるで幕が開くかの様に真中から鋭く引き裂かれた。
あやめが腰に差す神剣、白羽鳥を、鞘からおもむろに引き抜いたのだ。
「真宮寺大佐の死が・・そんなに嬉しいの、あなた達!」
振り上げられた刀の切っ先は、仙台の地・・いや、この日本に巣食うすべての魔なる存在に向けられていた。
・・と、開かれたあやめの視界の端に、何時の間に現れたのか人のものらしき影が映っている。
あやめは我が眼を疑った。
見慣れた長身、風にたなびく白銀色の髪。
間違いない、その者の名は・・!
「真之介!!」
叫ぶあやめの声に反応したのかどうか、桜の幹に寄りかかるようにしていたその影は、
唐突に、しかしゆっくりと振り返り、木々の向こうへとその姿を消していった。
あやめは慌てて駆け出すと、その影がいた桜木の前まで辿りつく。
しかしその場所から何処を見渡しても、彼女の求める人の姿は見当たらなかった。
荒くなってしまった息を整えながら、あやめは人影がそうしていたのと同じ様に、桜の幹に我が身をそっと委ねてみる。
不思議と寂しいと感じることはなかった。
むしろ少しだけ山崎と自分との距離が縮まった様な感覚を覚え、あやめは微笑みすら
浮かべていた。
(あたしは・・強くならなきゃいけない。そして、強くなりたい)
あやめは目を閉じ、心に息づく山崎に向かい、そっと語りかけていた。
(真宮寺大佐とあなた・・二人の強さと優しさを、あたし一人で補えるなんて思わない。だけど
あなた達が望んだこと・・いればできたはずのことを実現するために、努力することはできるわ。
甘えた自分を、弱い自分を奥深く・・心の牢獄に閉じ込めて、あたしは強くなる。そうすれば
いつか、あなたともきっと・・そうしなきゃいつまでも、あたし達はずっと・・)
先刻吹き抜けたそれとはまるで異質な、穏やかで心地よい風が、あやめの身体を優しく覆う。
やがてあやめは再び歩き始めていた。
真宮寺一馬の死を心に焼き付けるために。
そして誓うのだ。山崎にそうした様に一馬にも・・。
もう二度と、何からも目を逸らさない覚悟を決めたあやめの瞳は、悠久の時を経たかの様に深く、強い輝きを放っていた。
**********
「さぁ、そろそろ時間よ、大神くん。早くしないと花組のみんなが起きてきてしまうわ。
別れは済ませてあるんでしょう?」
「え? あ、はい・・」
思い出に映る舞台の上のあやめに向かい、名残惜しそうに大神は首を傾けたまま、しかし
両の足ばかりはかえでの後を追い、やがて気が付くと劇場の扉をくぐっていた。
外はまだ朝陽が昇りきれず、ほのかな寒気と共に、薄闇が街を覆い尽くしている。
それは帝劇もまた例外ではなく、大神の瞳に映るその外観は、どこか物悲しげであった。
「かえでさん・・俺はこの帝劇を去り、巴里へ赴くということを、自分の意志で選択しました。
それは自分自身の成長の為に・・そしてこの経験がいつか、花組のみんなの・・帝都で暮らす
沢山の人達の、役に立つ日が来ると思うから。
それはきっとあやめさんも・・同じだったんですよね」
「・・そうね。姉さんは少なくとも自分の行く道を、他の力に委ねるような弱い人じゃなかったわ。
きっと皆の前から姿を消した事も含めて、全ては姉さんが自分で考え、自分で選んだ結果
だったはずよ・・」
もしも二人の推察が真実であるとしたら・・本当の悲劇はあやめではなく、あやめの周囲にいた者にこそ、振りかかったということになる。
大切な人を失うという結末を、彼等が望んでいたはずはないのだから。
そう、彼女と関わった全ての人にとって、藤枝あやめのいた世界は、かけがえのないものであったのだ。
「俺、今まであやめさんは、不幸な人生を歩まれたんだとばかり思っていました・・だけど
違ったんですね。俺達があやめさんを失って哀しい様に、あやめさんにもまたかけがえのない
世界が存在した・・そしてあやめさんは、それを取り戻すために一生懸命生き抜いたんだ。
・・残された俺達にとっては、ちょっと寂しい答えですけどね」
そんな大神の苦笑交じりの言葉に向かい、かえでは軽く首を横に振った。
「それは違うわよ、大神くん」
「へ・・?」
「姉さんは確かに幸せだった・・けれどそれは、姉さんに求める世界があったからだけじゃない・・
今大神くんがしている様に、姉さんを思う人の存在があればこそ、姉さんは幸せだったのよ。
そして忘れないで大神くん・・花組のみんながあなたを思い続けていることを。そうすれば、
行く先に何が起ころうときっと大丈夫・・わたしが保証するわ」
途端、帝劇の屋根の向こう側から、朝陽の目映い光が漏れ出して、大神とかえでの全身を鮮やかに照らし出した。
微笑むかえでに在りし日のあやめの面影が重なったのか、大神はしばし呆けた様に
その顔に見入ってしまう・・しかし気を取り直すともう一度、今度はかえでだけではない、
帝劇を・・そこに住まう全ての人々を心に捉え、大神は頷いた。
「よろしい。では、いってらっしゃい。大神くん」
「・・はい!」
帝劇を背に、花組との思い出を心の中に・・大神は前を向き、そして歩き始めた。
8年前、同じ季節に、藤枝あやめがそうした様に。
自分が今、そんな大神の背中を見送ることができているということ。
そのことこそが、あやめが確かに皆と共に生きていた証なのだと、かえでには思えてならなかった。
(了)
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