Boorin's All Works On Sacra-BBS

「帝国怪異譚・鎮守の森」(その1)



月が翳る。
鎮守の森の木立をびゅおびゃおと風が揺らす。
森の一角に建てられた粗末な仮設工事事務所の中で、
男は独り酒を飲んでいた。

「全くツイてねえなぁ。こんな薄気味悪い夜に当直なんてよ。
ただでさえ、ここんとこ妙な事件が続いてるってのによ」

こんこん。

扉を誰かが叩いている。

「どちらさん?」

こんこん。

「誰なの?名乗らないと扉は開けられないよ」

「すみません、道に迷ってしまったのですが」

鈴を転がしたような、女の声。

男はこんな時間にと訝るよりも興味を惹かれて扉を開けた。

その時、再び月が顔を出す。

美しい女だ。
その肌は月光よりも白く輝き、その瞳は闇よりも深い。
艶やかな黒髪に月光が反射し、煌めきを踊らせていた。

こんな美しい女がこの世にいるのか。
男は口も利けずにただ見とれてしまう。

翌朝、鎮守の森の工事事務所の中で頸を鋭利な刃物のような物で
掻き切られた当直の男の死体が見つかった。




「大神さん、知ってます?また鎮守の森で変死体が見つかったんですって。
いつものように頸を刃物で切り裂かれて」

由里がいつものうわさ話を始める。

「へえ、近頃あの辺りは物騒だね。由里くんもあの辺通るときは気を付けなよ」
「大丈夫ですよ。私はあんな場所興味ないですもん。
それより大神さんの方こそ気を付けた方がいいですよ。
あの辺りって買い出しのコースじゃないですか」
「嫌なことを言うね。俺、今日もこれから買い出しに行かなくっちゃならないんだぜ」
「あはは、ごめんなさい。でも大神さんなら大丈夫ですよ。
帝国歌劇団のモギリ・・・じゃなかった、帝国華撃団の隊長の頸を
掻ききれるほどの腕を持った通り魔なんていませんよ」
「そうだといいけどね。なんか気が重くなってきたなぁ」
「あ、うまいこと言って買い出しサボろうと思ってもダメですよ。
買い出しも立派なお仕事なんですからね」
「あ〜あ、ばれたか。じゃ、行ってきます」

いつものように一週間分の食料、足りなくなった日用品をまとめ買いすると
大神は帰路に就いた。

夏の太陽が沈みきる直前、鎮守の森にさしかかる頃、
一人の女が道に蹲っているのに気づいた。
白地に淡い藤の花をあしらった上品な和装の若い女だ。
どうやら履き物の鼻緒が切れてしまったらしい。
腕一杯の荷物を一旦下ろすと、
大神は自分のハンケチを裂いて履き物を修繕してやった。

「応急処置はしましたけど後で履物屋さんでちゃんと直して貰って下さい」
「ありがとうございます」

鈴を転がしたような声。

「じゃ」
「・・・あの。お名前をお聞かせ願えませんか。私は・・・沙夜(さや)と申します」
「名乗るほどの者ではないのですが、お名乗りいただいた以上
こちらも名乗らないと失礼に当たりますね。私は大神一郎と言います」
「大神一郎さん。・・・後日お礼に伺いたいので連絡先を教えていただけますか」
「いや、そんな大したことでないんでお礼なんて結構ですよ」
「それでは私の気が済みません。教えていただけないでしょうか」

美しい女性に、濡れるような黒い瞳で哀願されて断れるほど大神は
人が悪くも硬派でもなかった。

「う〜ん、そうですか。私は大帝国劇場でモギリをやってます。
ですから連絡の方はそちらの方へお願いします。
でもくれぐれも女優さん達には連絡しないで下さいね」
「分かりました。モギリの大神さんですね。
では後日改めてお礼に伺います。では失礼いたします」
女は深々とお辞儀をすると森の方へと消えていった。

「はあ、綺麗な人だなぁ。沙夜さんかぁ」

ふと気づくと辺りはもう暗くなっていた。

「いけない」

大急ぎで荷物を取り上げると早足で劇場へ向かった。




帝劇支配人室。

「え、俺が調査を?」
「そうだ。最近の鎮守の森付近での連続殺人事件で、ついに財界の
お偉方の甥っ子が殺されたんだとよ。あの辺一帯の開発工事を進めている
会社の工事責任者だそうだ。発見者の話では、死の直前まで
被害者は誰かと話していたらしい。こんな時間に客とはおかしいと
思いながら発見者が夜食を持って事務所に近づいていくと
突然悲鳴が聞こえて事務所から何か白い化け物が飛び出してきたそうだ。
形なんぞはよく分からなかったらしいが、その眼が血のように赤く燃えていたらしい。
それで、そのお偉方が帝撃のことを思い出したって訳だ。
化け物も『魔』だろうってな」
「で、何とかしろと」
「ま、そういうこった。なんせうちの大口スポンサーなもんでな」
「分かりました。では、その目撃者の連絡先を教えていただけますか」




夕暮れ前、聞き込みをするために劇場を出ようとすると声をかける者がある。

「モギリの大神さん」
「あ、沙夜さん」
「嬉しい。私の名前を覚えてて下すったんですね」
「あ、いやあ。と、ところで今日はどちらへ」

照れ隠しに聞かずもがなのことを訊いてしまう。

「もちろん、先日のお礼に伺ったのですわ。
ここでは何ですから、どこかのカフェにでも参りませんか」
「あ、いえ。私はこれから約束があるものですから」
「そうですか。それは残念ですわ」

沙夜は表情を曇らせる。本当に残念そうだ。

「あ、でもほんの少しならまだ時間はありますから、大急ぎで行きましょうか」
「本当ですか?良かった」

二人で並んで街を歩く。
なるべく目撃者との待ち合わせ場所に近い場所でカフェに入った。

「まずはこれをお受け取り下さい」

沙夜は和紙包みをテーブルに滑らせた。
中を開けてみると、上等な白絹のハンケチが入っている。

「大神さんのはこの前で駄目になってしまったでしょう。
ですからこれを代わりに使って下さい」
「いや、私のハンケチは木綿の安物ですのにこのようなことを
していただいては却って恐縮してしまいます」
「いえ、ハンケチはハンケチですわ。私がいただいたのはハンケチだけでなく
大神さんのお優しいお心です。それに比べればハンケチなど」
「そ、そうですか。ではありがたく頂戴します」

それから沙夜は改めて丁寧に先日の礼を述べると、大神のことを
色々と尋ねてきた。それに答えるうちにいつしか緊張もほぐれ
沙夜と会話を交わすことが楽しくなってきた。

「あ、もうこんな時間だ。すみませんが僕はもう行かなくてはなりません」
「まあ、本当。いつの間にこんな時間に。どうもお引き留めして申し訳ありません」
「いえいえ、僕の方こそ約束があるのについ楽しくて」

立ち上がりながら伝票を取ろうとすると、それよりも先に沙夜の手が伝票を押さえていた。
沙夜の白い手に大神の手が重なる。

「あ、失礼」
「いえ、ここは私に出させて下さいな。お礼です」

二人の頬は上気し桜色にそまっている。

「あ、あ、それではお願いします」
「では、大神さんはもうお行きになって下さいな。
約束の時間に遅れそうなのでしょう?」
「あっ、本当だ。すみません、じゃ、また今度」
「はい」

知らず次の約束を交わす二人。
大神は闇の中へ駆け出していった。




「ありゃ、女の声だったね。綺麗な声でさ。
でも話している内容までは分からなかったな」
「女」
「それで、飛び出してきたのも最初は女だと思ったんだが、
それが真っ白な大きな動物でさ。眼だけが異常に赤いんだよ。
恐ろしい素早さで森ん中へ消えちまった」

「鎮守の森、女。・・・そう言えば沙夜さんと初めて会ったのも
鎮守の森だったな。でもまさかね」

考え事からふと目を上げるとそこは鎮守の森だった。
だが黒々とした森は、時折の風にざわざわと音を鳴らすのみ。

(次へ)


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