五行の定め――金生水――
五行相剋
五行相生
地上の万物は五行よりなる。
木・火・土・金・水
木剋土・土剋水・水剋火・火剋金・金剋木
木生火・火生土・土生金・金生水・水生木
五行は相剋し、五行は相生する。
金生水の理。「金」は「水」を助け、力を与える……
「剛之介、我ら金堂(ごんどう)家の務めを述べよ。」
「我ら金堂家は五行衆の一として我らが主家たる京極家の剣となり盾となるものなり!!」
老人の問い掛けに吼える様な大音声にて答えたのは、六尺を超える身の丈を鋼の如き筋骨で鎧った堂々たる体躯の青年だった。年の頃は二十過ぎか。頬に走る傷跡が威圧的な肉体に一層凄みを与えている。
「剛之介よ、使命を全うせし亡父剛之進に代わり、今日よりお主が金堂家の当主として京極様にお仕えするのだ。今この時より、お主が『金剛』である!」
「応!!」
巨大な太刀を手に掴み、青年は床を鳴らして立ち上がった。
「剛之介」
「ははっ!」
「父上には気の毒な事をしました。」
「もったいなきお言葉にございます、慶吾様!」
「これからはお前が五行衆『金剛』として私に力を貸してもらえますね。」
「はっ!この剛之介、今日この時より『金剛』となり、慶吾様の為にこの命を捧げる覚悟にございます!」
「頼りにしていますよ。」
「ははぁ!!」
唯一つ点された蝋燭の灯りが闇を深める板敷きの広間には二つの人影があるのみ。
総髪の、壮年の男の前に平伏するは紛れも無くかの青年、金剛。
「それにしてもよいところに来ましたね、新たなる金剛よ。今日は水の継承者も来ております。ちょうどいい機会だ。お前にも会わせましょう」
「水の家がでございますか!?五行衆は我が金の家以外絶えたと聞いておりましたが」
「直系は絶えてしまいましたが、傍系にようやく五行衆の名を受け継ぐに相応しい者が現れたのです」
「おおっ、それはおめでとうございます、慶吾様。いえ、京極様」
「どうしたのです、急に」
「五行衆となりましたからには、京極様のお名前を口にするような不遜な真似は慎むように致します。今まで申し訳ございませんでした」
「はははっ、お前らしくも無い。だが、自覚を持つのは良い事です」
「ははぁっ。それに致しましても、失われた五行衆が再び揃うなら、京極様の大願成就の日も決して遠からぬ事かと」
「ははははは。気が早いですよ、金剛。まだ二人ではありませんか。さあ、ついてきなさい」
「ははっ!!」
この時まで、剛之介青年、若き金剛にとって世界は単純で明解なものだった。
京極慶吾の為に生き、京極慶吾の為に死す。ただそれだけを考えていれば良かった。
この、出会いの時までは。
その部屋は畳敷きだった。広さは今までいた部屋とほぼ同じ。障子越しに差し込む光を浴びてやや身を堅くして座す喪服の少女。
いや、それは喪服ではなかったのかもしれない。だが、黒一色の和装は喪服としか見えないものだった。実の所それは、そんなに驚くべき事ではない。この少女は水の後継者、五行の「水」に相応する色は黒である。
驚くべき事は、そこに緊張した面持ちで正座しているのが年端も行かぬ少女であったという事だ。年の頃は十四、五か。美しい少女だった。だが、降り注ぐ光と幼い美貌にも関わらず、闇が凝っているような印象を与える少女であった。流石は「陰」「北」「黒」「冬」を象徴とする「水」の術者と言うべきか。
剛之介青年、新たなる金剛はその外見に相応しい、豪胆な気性の持ち主である。それでも、京極家の剣となり盾となり闇に暗躍する過酷な務めを負う『五行衆』がこのような少女であるという事実は俄かに受け容れがたいものであった。
「金剛、この者が水の後継者影山サキ。新たなる五行衆『水狐』です。
水狐、この者は金剛、お前と同じ五行衆の務めを担うものです」
礼儀正しく、だが冷ややかに一礼する影山サキ、水狐。幼い美貌に不似合いな愛想の無い、達観さえ感じられるどこか大人びた冷たい態度。
「あ、ああ…」
呆然と立ち尽くしたまま曖昧に頷くだけの、金剛の礼儀を無視した態度にも顔の筋一つ動かさない。体温を感じさせぬ、雪女のような美貌。黒衣の不吉な雪女。だが、金剛はその幼い氷の美貌から目を離せなくなっていた。
自分をじっと見詰めたまま身動き一つしなくなった金剛に嘲るような笑いを投げかける水狐。彼女が初めて見せた表情は冷ややかな印象を一層強めるものだった。
「京極様」
その声は甲高い、少女特有のものではなかった。硬さは残るものの何処か艶めいた、年齢不相応の色香を感じさせるもの。
「この鈍臭そうな木偶の棒が私と同じ五行衆なのですか?」
侮蔑を隠そうともしない声。
「な、何ぃぃ!こ、この、京極様第一の剣にして盾、五行衆筆頭金剛を木偶の棒だと!?こ、この小娘が!!」
「小娘だって!?面白いじゃないか。五行衆筆頭とやらの力、この水狐が試させてもらうよ!」
恐らくは少女にありがちな潔癖症からでた雑言。自分を無遠慮にジロジロ眺めていた男に対する不快感ゆえの憎まれ口だったのだろう。それが完全な売り言葉に買い言葉、一触即発となって睨み合う青年と少女。
奇しくも、二人は同時に京極を仰ぎ見た(と言っても、金剛の目の位置は京極より上にあったのだが)。金剛は困惑を、水狐は懇願を込めて。
京極は唇の端に笑いを浮かべて小さく頷いた。水狐の顔に喜悦の色が広がる。すぐさま部屋の隅まで跳び退るや、印を結び小さく呪を唱える。
たちまちにしてその小柄な体がぼやける。いや、輪郭が朧いだのは少女だけではなかった。部屋の中全てのものに霞がかかっている。それは比喩ではなく、実際に靄が充満しているのだ!屋内であるにも拘らず!
ものの二、三秒、僅かな時間で金剛の視界はすっかり白い薄闇に満たされた。全ての輪郭が不確かなものと化す。そのあやふやな景色の中に、不意に明確な人影が浮かび上がる。全てが曖昧となった部屋の中で、水狐だけが確かな実像となって金剛と対峙する。
金剛の正面に立つ水狐。金剛の右手に立つ水狐。金剛の左手に立つ水狐。
「なっ…!」
思わず息を呑む金剛。寸分違わぬ姿の少女達が彼を取り囲んでいたのだ。その姿はさらに増殖し、何時の間にか八人の水狐が青年を包囲していた。
「水影身か…!?」
食いしばった歯の間から漏れる唸り声。
八人の水狐は既に扇を、おそらくは鉄扇を、振りかぶっている。
にっこりと、妖しく笑う少女達。
「うおぉぉりゃぁぁぁぁ!!」
「雪花・波紋十軌!!」
八人の水狐が声を揃えて扇を振り下ろす。
咆哮を上げてそれを受け止める金剛。そう、かわしたのでも反撃したのでもない、受け止めたのだ!
ガンッッ
地面に置いた鐘を叩いたような音が響いた。尋常ならざる八方向からの攻撃をまともに食らって、金剛は微動だにせず二本の足で床を踏みしめていた!
「金剛身!?」
水狐は理解していた。己の攻撃が、青年の体に当たる直前、硬質の気の壁に阻まれた事を。
驚愕が引き金となったのか?少女の姿が一つに戻る。部屋に立ちこめていた靄が薄れる。
「そこまで!!」
京極の制止の声に、二人の間に満ちた緊張が霧散した。
それは初めてのことだった。最初にして最後だった。この青年が、攻撃を受けてまったく反撃しなかったなどということは。
五行衆金剛、彼は外見通りの男だった。戦うために生まれてきたような鋼の肉体には戦う事に喜びを感じる精神が宿っていた。彼は骨の髄まで戦士だった。
その彼が、戦いの場に臨んで戦おうとしなかったのだ。明白な敵意を向けて襲い掛かる水狐を、彼は攻撃する事が出来なかった。余裕?いや、違う。攻撃しなかったのではない。攻撃出来なかったのだ。
それは、五行の定めの故だろうか?五行の術を使う五行衆は五行の性に縛られる宿命を持つ。五行相生、金生水。金の性を持つ金剛は水の性を持つ水狐の敵とはなり得ないということだろうか?
それとも、五行衆の金剛としてではなく、人間、金堂剛之介が影山サキを敵とする事が出来なかったのだろうか?彼は譜代の忠臣として京極慶吾に仕える身。彼には人であることを捨てる必要は無い。彼の、「青年」の部分が「戦士」の部分をその時凌駕したということだろうか?
彼にはわからなかった。そして、彼はそんな事で思い悩みはしなかった。水狐は、ともに京極に仕える五行衆の一人。もう、戦う必要は無いのだから。
京極に対する忠誠が全て。彼は、そう信じていたのだ……
時は流れ。
水狐は妖しい魅力を振りまく美女へと成長し、金剛は一層猛々しさを増した。若さ故の脆弱さを一切削ぎ落とし、鋼鉄の戦士となって京極に仕えていた。陸軍高級士官のもう一つの顔。京極の秘めたる野望の為に、時に剣となり時に盾となり、常に体を張って戦い抜いた。一方の水狐は人の心を惑わす美しき術者として、時に篭絡し時に不和をばら撒き、陰なる謀(はかりごと)を支える毒の爪となって京極に尽くした。
京極に仕え、尽くす事。それは金剛にとって何よりも優先することのはずだった。しかし、水狐がその美しき肢体を武器として謀を巡らす時、京極の為にその体を投げ出す時、正体の知れぬ苛立ちを覚えるのも事実であった。それでも、金剛は水狐を止めようとした事は無い。京極の命に異を唱えるなど、彼には考える事すらできなかったのだ。
遂に、京極の大望が成就へ向けて動き出す時が来た。
身の程知らずの邪魔者の名は帝国華撃團。花組などと名乗る小娘どもは眼中に無かった。 彼の目に映るのは白き狼を思わせる勇猛なる戦士。大神一郎という名の好敵手。
大神と戦う事は、金剛にとって無上の喜びだった。純白の霊子甲冑と刃を交える時、大日剣の中で彼はこの上ない充実を味わっていた。彼は大神一郎というこの敵に対し、何処の馬の骨とも知れぬ新参者の鬼王よりも、五行衆の仲間である木喰、火車、土蜘蛛よりも強い親近感を抱いていた。大神にとっては鬱陶しいだけであろうが、金剛の大神に対する感情は『友情』に近かったかもしれない。
木喰にしろ火車にしろ土蜘蛛にしろ、京極家に仕えてきた五行衆の血を引いている訳ではない。彼らは皆、京極が見出し五行衆の名を与えた者達だ。代々『金剛』として京極家に仕えてきた彼にとっては新参者に変わりは無い。無論、彼はその様な事にこだわる狭量な人間ではなかったが、やはり何処かに自分こそが京極第一の臣という自負があったのかもしれない。彼が常に五行衆筆頭を名乗っていたのはその表れであろう。唯一親近感を感じられるのは同じように本来の五行衆の血を引く水狐だけだったのかもしれない。
その意味で、自分と同じく戦う為に生まれ戦士としての義を何より重んじる(と思われた)大神は、彼に強い共鳴感をもたらした。大神と戦い、倒す。そう考えるだけで、彼は心の震えを抑えられなかった。
京極の為に戦う事、大神一郎を倒す事、自分はそれだけで十分だと、彼は思っていたのだ。あの時まで。
きっかけは熱海の戦闘の時だった。華撃團にもぐりこんだ水狐が手違いにより敵霊子甲冑と交戦の事態に陥った時の事だ。策を逆手に取られ、危ういところで水狐と合流した金剛は純白の霊子甲冑と刃を交わしていた。変幻自在の二刀の舞はこの上なくスリリングで彼をゾクゾクさせていた。大日剣の剛剣に軋む光武改の悲鳴が耳に心地よかった。戦場の只中で事実上の一騎打ちとなった剣撃の、一合一合に戦士としての己が生き様を実感していた。
一瞬も気を抜く事の出来ぬ攻防。お互い配下に指示を送りながら眼前の敵と斬り合う。将として、兵として知勇の限りを尽くす。戦士・金剛にとって無上の時。しかし。将としては残念ながら大神の方が一枚上手だということなのだろう。何時の間にか水狐が敵に包囲されているのに気づいた。逃げ場を失い直撃を受けようとする魔操機兵・宝形。それを見た瞬間、金剛は眼前の好敵手の事も忘れて術を放っていた。
宝形の機体を気の鎧が覆う。『金』の気により物質を硬化させる防御法術。だがそれは、自らの機体にかけた『金剛身』の防御を宝形に移し替えるということを意味していた。花組の攻撃を受け止める大日剣の幻影。しかし、大日剣の実体は純白の光武改の前に無防備の姿をさらしていた。
「狼虎滅却・天地一矢!!」
一瞬の隙を見逃さず大神の大技が炸裂する。
まだ、京極から死んでもいいという許可は得ていない。
金剛は、無念を噛み殺して撤退するしかなかった。
(チクショー!、何だって俺はあの時……)
悩む事を知らなかった金剛は、己の惑いをもてあましていた。あの手強い敵と戦う時間は自分にとって何よりも貴重な瞬間であるはずだった。なのに、彼は水狐の危機に我を忘れて、大神との戦いを自ら放棄してしまったようなものなのだ。
(何故だ、何故俺は水狐を庇ったりしたんだ!)
自分が無性に腹立たしかった。京極に与えられた任務、戦士としての充実の時、それ以上に大事なものなど彼には無かった筈であるのに。
彼には、自分の内側にあるものを自分自身に説明する事ができなかった。
「どけ、鬼王!!このままじゃ水狐がやられちまう!俺に出撃させろ!!」
「ならぬ」
「なんだと、テメエ!!俺の邪魔をするってえのか!!」
「ならぬ。京極様のご意志だ。我らに弱者は要らぬ。あやつは自らの失敗の責任をとるのだ」
「どけ!!」
「金剛、京極様のご意志に逆らうか……?」
「ぐっ…」
宝形をモニターする計器は、既に機体の損傷が限界まで達している事を示している。もはや水遁を使って戦場を逃れる事も出来ないレベルだ。
金剛は一も二も無く大日剣を出そうとしていた。彼が駆けつければ戦況を覆す事は出来ずとも戦場を離脱するくらいは可能。だが、彼の前に鬼王が立ちはだかった。譜代の五行衆たる自分を差し置いて、何故か京極の側近に納まっている仮面の男。その力は疑い様も無いが、信用する事もまた、出来るはずも無い。
その胡散臭い男が京極の名を持ち出して彼を妨げる。鬼王が何者であろうと、京極の意思に反する事など金剛には出来なかった。
(すまねえ…水狐、すまねえ…!)
(華撃團…!)
己が内に湧き上がる暗い情念、それが、彼にようやく己自身の心を教える事となった。
五行の定め、金生水。金の性を持つ者は水の性を持つ者に手を差し伸べずにはいられない。
だが、自分の水狐に対する想いは、それだけではなかったのだと……
「テメエらのことはいい喧嘩相手と思っていたが、俺の間違いだったぜ!
テメエら全員ぶった斬ってあいつの仇を取ってやる!!」
(水狐、お前の仇を!!)
赤阪で。
「華撃團、この時を待っていたぜ!五行衆もとうとう俺一人になっちまった。水狐、火車、木喰、土蜘蛛…仇を取らせてもらうぜ!!」
(水狐、見ていてくれ!!)
武蔵で。
二度、挑み、遂に及ばなかった。眼前の白き戦士は、彼の想いを砕き続けた。そして今、彼の命の炎もこの男の手によって消し去られようとしている。
「……水狐、俺は悔しい…負けるのが、悔しい!!」
最期の瞬間、彼の意識を占めたのは絶対の忠誠を誓い命を捧げた相手ではなかった。
「ウオオォォォォォォ!!!」
天に伸ばされたその手は、誰に向けられたものだったのだろうか?突き上げられたその拳と大気を震わす咆哮は、戦い抜いた戦士の誇りか、それとも……
届かなかった、及ばなかった『想い』の絶叫だろうか……
<水老金>