忙しい1日が終わった。 夜の見回りの時刻までにはまだ少し時間がある。 このまま部屋にいるのも何か手持ちぶさただ。 かといってサロンで花組のみんなと雑談を楽しむという気分でもない。 今日は一人でのんびりとしたい。 少し街をぶらついてみることにした。 さすがは華の街銀座。 決して早いとは言えないこの時刻でもまだ活気にあふれている。 着飾った紳士淑女達が街のそこかしこに見受けられる。 自分はいつものモギリの服装。 モギリは決して恥じるべき職業ではない。 だが街を行く人々に何か気後れを感じるのも確かだ。 少し裏通りを入ってみることにした。 すると表通りとは違う静けさの中、蒼いガス灯の光に「白き牝鹿亭」の文字が見えた。 何か惹かれるものがあり、重厚な樫の木のドアを開ける。 ドアはその重厚さとは裏腹に軽く音もなく開いた。 「いらっしゃいませ」 少しハスキーな落ち着いた声が迎えてくれた。 蒼い柔らかな光が店内を照らしている。 年月を経て磨き上げられたカウンターの向こうには、艶やかな黒髪を高く結い上げ、 白絹に金の糸で何かの花をあしらった支那服の女性がいた。 少し丸みを帯びた額のから形の良い鼻筋が伸びている。 ほんの少しつり眼がちの瞳は黒曜石の光をたたえ、ほんの少し下が厚めの唇は艶やかな光沢と微笑みを浮かべている。 初めて逢った筈なのに何か妙に懐かしい感じがする。 「どうぞ、おかけになって」 我を忘れて立ちつくしていたようだ。 あわててカウンターに腰掛ける。 「何になさいますか?」 「え、僕はこういったところは初めてで何を頼んだらいいのかよく分からないのですが」 「うちはお酒の品揃えだけが自慢の店です。ウヰスキー、葡萄酒、ウォトカ、ラムなんでも御座いますわ」 「じゃあウヰスキーをお願いします」 「かしこまりました。ロックでよろしいですか?」 「あ、はい」 その女性は棚からグラスを取り出すと、氷を入れる。 マドラーで2〜3回、かき混ぜると氷を捨てて新しい氷を入れる。 ずらりと並んだ洋酒の瓶の中から一本を取り出すと、キャップを開けて中の液体をグラスに注いだ。 瓶には The GLENLIVET の文字が見える。 「どうぞ」 煌めくグラスの中に琥珀色の香しい液体が揺れる。 からん グラスを手に取ると少しひんやりとした感覚とともに氷の揺れる音がする。 鼻を近づけると、花のような香りが漂う。 冷たいグラスに口を付ける。 縁が薄くなったグラスから琥珀色の液体が口に流れ込んでくる。 口の中に花のような香りと甘みとアルコールの刺激がバランス良く満ちる。 「ほぅっ」 旨い。 思わずそんな声が出るほど旨い。 身体の中に酒精が染みわたり、一日の疲れがほぐされていく。 「美味しいですね、このウヰスキー。何か一日の疲れが全部溶けてしまうみたいです」 「ありがとうございます。そう言って頂けるとお出しした甲斐が御座いますわ」 女性は嬉しそうに微笑んでいる。 その笑顔がまたひどく懐かしい。 なぜなんだろう。 そんな疑問も杯を重ねる毎に薄れていく。 「そろそろ帰ります」 チェイサーを飲み干してそう告げる。 「ありがとうございます」 女性が勘定を書いた紙をカウンターに滑らせる。 驚くほど安い。 「本当にこれでいいんですか?」 「はい」 「でもこれは僕のような素人が見ても安すぎますよ」 「いいんですのよ。あなたが当店の初めてのお客様ですのでサービスですわ」 「あ、そうなんですか。…じゃあ、お言葉に甘えさせていただきます」 「はい、でもそのかわりまたいらしてくれなくてはイヤですわよ」 軽く媚びを含んだような仕草も不思議といやらしさがない。 不思議な女性だ。 「もちろんですよ。きっとまた来ます」 「安心しましたわ。でも一つ約束して下さらないかしら」 「え?」 「このお店のことは誰にも言わないで頂きたいの」 「それは構いませんが、一体何故?」 「ふふ、あなたと二人きりなのを邪魔されたくないからですわ」 冗談で軽くかわされたと分かってはいても心臓が高鳴る。 「は、はは。そうですね。決して口外はしませんよ。じゃ」 そう言ってストゥールから降りると出口へ向かう。 「ありがとうございました」 そんな声に送られて、外に出る。 少しひんやりとした外気が心地よい。 たまにはこんなお酒も良いなぁ。 そんな事を思いながら劇場への道をたどる。 冴え冴えと輝く月の光もこころなしか潤んでいるような夜のことだった。 |
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