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「その名の下に」〜風雪の涯〜その1
「いよいよ出発か」
「ああ」
その夜、米田邸には一人の客があった。
上品な三揃えに知的な顔立ちの優男。
だが彼がただの優男ではないのはその炯々と輝く目を見れば分かる。
男の名は花小路頼恒、米田一基の元の上司に当たる花小路伯の継嗣である。
陸軍抜刀隊と花小路中将の連絡役を務めたのもこの男であった。
だがしかし彼は抜刀隊の解散と共に陸軍を退役し米国に留学する。
これからは米国のやり方を学ぶ必要があると考えた故である。
その留学中に彼は「賢人機関」と呼ばれる組織の一員となった。
「賢人機関」とは世界三大宗教の融和統合によって世界に霊的新秩序をもたらそうという、いわばニューエイジ思想のはしりともいえる思想を要諦とする組織である。
若く理想に燃えた花小路は、その思想の壮大さに共感しイニシエーションを果たしたのである。
一方受け入れ側の賢人機関にも事情があった。近年、勃興著しいアジアの島国は機関の戦略にとっても無視できなくなりつつあったのだ。
そんな中、日本のエスタブリッシュメントである花小路家の継嗣を手にするということは近い将来勢力を拡大するであろう国に楔を打ち込むという戦略的なメリットがあるのだ。
こうして賢人機関は花小路を受け入れた。
帰国した花小路は軍には復帰せず政界に打って出ると貴族院を中心に人脈を築くことに奔走し今や若手ナンバーワンの勢力を誇っていた。その運動資金の大半は機関から出ている。機関は決して吝嗇ではない。必要性を認めた場合は投資を惜しまないのだ。
その花小路が明日欧州に発つ。
表向きの名目は視察であるがそこにはある目論見がある。
この時期、中国大陸、朝鮮半島の利権を巡って日露関係は急速にキナ臭さを増していた。
花小路はいずれ日露は開戦すると見ている。
まともにやりあえば大国ロシアに勝てるはずがない。となるとロシアの裏庭である欧州からロシアを攪乱する必要がある。
そのためには賢人機関の持つネットワークを利用できる花小路が適任であろうということであった。
「開戦まではどのくらいと見る?」
「そうだな、およそ一年というところか」
「急だな」
「うむ、欧州工作にかける時間としてもギリギリだ」
「…今度も霊力部隊があると思うか?」
「ある。ロシアには独特の霊学体系が発達しているのだ。そして賢人機関の思想に決して同調しようとしない」
「………」
「手強いか?」
「かなり手強い。だから今度の旅で私は霊力保持者を連れて帰るつもりだ。君の部隊につける外人部隊をね」
「その賢人機関とやらがそれほど警戒感を抱くとは容易ならん相手のようだな。…またあいつの手を借りねばならんのか。…できればもう戦わせたくない」
最後は呟くように一基は思いに耽り花小路も黙して酒をすする。
重苦しい空気が夜の闇の中に沈んでいった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
花小路の出発から半年後、麗らかな日差しの下に一基は書見をしている。
開け放った窓から何かの花びらがひらひらと入り込んできて本の上に落ちた。
手に取ろうとすると花びらはふわりと浮き上がり一基が見つめる中書斎の入口あたりにまで宙を漂うと着地する。
その時ふと懐かしい気配を感じた。
目を上げると3つの笑顔がこちらを見つめている。
隼人、幻斎、右近であった。
「…おめえら、いつの間に」
「お久しぶりです米田少将」
「へっ、よせやい、こういう場では一基でいい」
そう言って米田は隼人の日清の一別以来全く年を取ってないように見える端正な顔を眩しそうに見る。
数日前花小路より報告が入った。
なんと花小路が賢人機関に要請して集めた霊力保持者達が予備訓練期間に全滅したというのだ。どうやら敵の霊力使いの仕業らしい。しかも手がかりとなる痕跡を一切残さなかったという。
それほどの手練れとなれば容易ならざる相手である。
その事実の前に米田は「隼人」を呼び寄せたのだ。
「よう一基よ、またぞろ戦かの?」
「ああ、おめえらにはまた苦労かけるがな」
「して今回の相手は?」
「ロシアの霊力使いらしい」
「ほう清国に続いてまたも異国か」
「私たちを呼び寄せるということはかなり強大な力を持っていると判断したと言うことだね」
「ああ、花さんが極秘に集めた霊力使いを全滅させたらしい。しかも犯人は分かっていない」
「かなり不利だね。相手がどんな奴なのかも分からないとは」
「逆にこっちのことは知られていると見ていいじゃろうな」
「そこで俺達の出番ってわけか」
「早速明日にでも発とう。一基、船の手配りは済んでいるんだろう?」
「参ったなお見通しかよ。…すまんないつも」
「気にするな。言っただろう?私の力が必要な時はいつでも呼べと」
「おう、ありがとよ。そんならせめて今日は飲んでくれ。うめえ酒も用意してあるぜ」
「へへっ、そうこなくっちゃ」
「右近、今夜はやめておけ。何かいやな予感がする」
「まさか刺客が来ると?」
隼人の言葉に右近の表情が引き締まる。
隼人の予感は外れたことがないのだ。
4人は緊張した面もちで夜を待った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
空を奔る雲が月を隠す。
その闇に紛れて米田邸の屋根に黒い影が降り立った。
常人では到底感じ取れないそのごく僅かな音に幻斎は目を覚ました。
同時に右近も刀を手にしている。
音を立てぬよう廊下に滑り出るとすでに隼人は屋根の上の気配を追って移動していた。
「やはり御屋形にはかなわんな」
顔を見合わせて薄く笑った幻斎と右近は左右に分かれ影の気配を取り囲むような布陣で移動した。
黒い影は一基の居室の真上で歩みを停める。
両手を握り合わす合掌の形で低く何事かを呟くと影が屋根をずぶずぶと沈み始めた。
「そこまでだ」
右近の手裏剣が影に向かって飛ぶ。
影は合掌を解くと両手で手裏剣を払いのけた。
その手が傷ついた様子はない。
「なんて奴じゃ。手裏剣を手で払いのけるとは」
隼人、幻斎、右近はすでに黒い影を包囲している。
その時雲が切れて月明かりが屋根を照らした。
しかし、いかなる術法を施したものか影は相変わらず影のままであった。
呆然と見るうちに影は突如として人型を崩し消え失せた。
「いけない散れっ!」
「「おう!」」
隼人らは咄嗟に飛びすさり位置を変える。
同時に影は元右近のいた場所に姿を現すと再び消え失せた。
「あ奴どうやら形を変えて自由に移動できるようじゃな」
「ちいっ!」
影は右近の背後に現れると短剣らしきもので頸を掻き斬ろうとする。
咄嗟に背中を丸めて短剣をかわすと肘を影にたたき込む。
しかしその時には影は既に消え去り全く手応えがなかった。
「やっかいだな。どこから現れるか分からないとは。しかしこの屋根の上にいることだけは間違いない。この屋根を透過するためには別の呪法が必要なようだったからな」
「なるほど。ならばこの右近にお任せを」
そう言うと右近はスキットルからぐびぐびウヰスキーを飲む。
そしてゲップ。
呼気は細かな霧となり辺りを覆う。
隼人と幻斎は目を閉じ口を手ぬぐいで覆っている。
忍法朧月の影響を免れるためである。
朧月によって意識が混濁した謎の人影は自らの術を保持することが困難になったのだろう、ほどなく人型をなした。
しかしまだそれは闇に包まれた人影であった。
続いて右近は懐から盃を取り出しなみなみとスキットルの中身を注ぐと天へと投げ上げた。
「忍法月天照」
投げ上げられた杯はやがて冴え冴えとした蒼白色の光を発し地上の全てを照らし出す。
その光に当てられて人影を覆っていた闇が払われる。
蒼白色の光に照らし出されたのはコーカソイド特有の彫りの深い顔立ちに艶やかな黒髪と底深い漆黒の瞳を持つ男だった。
男は自らの術が破られたのが納得いかぬように呆然と天を見上げている。
隼人、幻斎、右近が男を捉えようと駆け寄る。
男はハッと気を取り直しその位置を変え合掌する。
男の呪文に屋根瓦が浮き上がり隼人らを襲う。
隼人らはそれを避けつつもなおも男に近づこうとするが、男もさるもの。
右近の術の効力が切れるのを待っているのであろう、冷静に三人の動きを見極めながら瓦を操って進路をふさいでいる。
「いぇえええええーっ」
その時、猿叫の声とともに屋根から瓦を割って尽きだした刃が男の腿を刺した。
屋根裏を伝ってきた一基である。
男は激痛に屋根を転がりながら一基の追撃を避ける。
隼人らを襲っていた屋根瓦は力を失いガラガラと一斉に屋根に落ちる。
流石に4人を相手では分が悪いと見たか異国の言葉で何事かを呟くと短剣を投げて右近の盃を叩き割り、そのまま闇にとけ込むように消えた。
「ちっ、逃がしたか」
「儂ら4人を相手に逃げおおせるとは恐るべき奴じゃの」
「血の痕もぷっつりと切れている。追跡も無理のようだ」
「いずれにせよ深追いは禁物だぜ」
一基が屋根裏から屋根に上がってきた。
「どうせ奴とはロシアの地でもう一度やりあうことになるだろうよ」
「ええ、完全に倒すつもりでかからないと奴には勝てない」
「明日の出発は取りやめだ。ああいう奴が相手だとなると準備が必要だろう」
「確かに。それに相手が奴一人とも限らない」
「うむ、厳しい戦いになりそうだな」
そう言うと夜の闇の中一基らは遙か北の国の方角を見やった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「闇のセルゲイともあろう者が失敗したか」
「申し訳ございません」
「…よい、今は下がれ」
「はっ」
帝都に一基らを襲った闇のセルゲイはやや肩を落とし退出した。
後には黒いローブを身に纏った男だけが残る。
その顔立ちは目深に被ったフードに隠されて見えぬが、ゆらめく蝋燭の光に時折蒼い瞳がキラリと光るのが見えた。
「次は恐らく戦場で相まみえることになろう。その時は私自らも出るか。
我が片腕をあしらったというその力見せてもらおう」
(次へ)
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