「その名の下に」〜無形〜その1




───これじゃ足りない。…もう帝都に行くしかない。

 何度も読み返し古びてすり切れた書物の写しから目を上げて少年は呟いた。
 それは帝大で使用している物理学の教科書であった。
 元本の持ち主ですらそれほど熱心に読んだかどうか分からぬほどに読み込み、記載されている例題も全て完璧に解くことが出来るようになっていた。
 少年の年齢はわずか10歳。
 この年齢を考えるとまさに天才としか言いようがない。
 この少年を天才たらしめているもの、それは飽くなき欲望であった。
 もっと知りたい。この世界を動かしている仕組みを知りたい。
 そして自分もそのからくりを動かしてみたい。
 そういった純粋な欲望であった。

 少年がそういう欲望を持つに至ったのはその体質の虚弱さとは無関係ではあるまい。
 少年は幼い頃から発熱することが多く一年の半分ほどは学校にも通えなかった。
 当然の事ながら友は祖父が作ってくれたからくりや床で読む書物の類だけである。
 少年はからくりをバラしては組立て、またバラしては組立るということを通してからくりに精通していく。
 やがて少年は自分でもからくりを考えて作るようになった。元々そういう血筋なのであろう、少年の作るからくりは祖父をも驚嘆させるほど精緻なものであった。
 また帝大に通う近所のお兄さんが帰省した折りに物理学のテキストを貸してもらい書き写し始めたのもからくりに対する興味からである。
 だがやがて少年の興味は機械的なからくりからこの世のからくりの方に向かう。なんとなれば物理学とは宇宙のからくりを解き明かす学問であるからである。
 かくして少年は帝大に学ぶために帝都を目指すこととなる。無論、普通のやり方では弱冠10歳の少年が帝大に入学できるはずもない。だが少年はなんとしてでも潜り込むつもりであった。胸の内の情熱の炎は、体質が虚弱であればこそ人一倍激しく燃えさかるのだ。
 それもまた運命というからくりのなせる業だったのかもしれない。

「爺ちゃん、俺帝都に行くわ」
「…そうか。いつかそんな日が来るような気がしておったよ。行って来るといい」

 少年の祖父はほんの少し寂しそうに笑いながらそう言った。

「爺ちゃん、ごめん。俺、どうしても…」
「分かっておる。儂もお前の父親も若い頃はそうじゃった。ただ身体には気をつけるんじゃよ」
「うん」
「…そうじゃ。これを持ってゆくがよい」
「刀?俺、刀なんて使えないよ」
「この刀は我が家の守り刀なんじゃ。きっとお前を守ってくれるはずじゃ」
「…うん、ありがとう爺ちゃん」
「今夜は久しぶりに一緒に寝るか」
「うん」

 翌朝早く少年は旅立ち、それが少年と祖父の永遠の訣れとなった。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 少年は帝都に上るとすぐに帝大の赤門をくぐった。
 とるものもとりあえず近所のお兄さんを探すつもりだったのだ。
 探してどうするのかというとお兄さんに帝大の物理学教授を教えてもらうつもりだったのだ。
 その後は強引にその教授の家に住み込む。全くの行き当たりばったりである。まず、そう都合良くお兄さんに会える保証はない。会って教授を教えてもらったとしてもその教授が受け入れてくれるかどうかも分からない。だが少年の頭にはただ学問への情熱があるだけであった。つくづく一直線なのである。それが良くも悪くもこの少年の性であった。
 ともかく少年はお兄さんを探して帝大内をうろついた。大学内にそんな少年がいることを不審に思った学生が少年をつかまえた。

「君、迷子かい?」
「そうなんです」
「誰とはぐれたの?」
「親戚のお兄さんなんです。○○○○っていうのですが、ご存じですか?」
「う〜ん、ひとくちに帝大と言っても広いからなぁ。庶務課にでも行けば分かるかもしれないけど」
「じゃあそこの場所を教えて下さい」

 少年は学生から場所を聞き出すと庶務課に直行した。庶務課でも事務員は少年の作り話を信じてお兄さんの住所を教えてくれた。何しろ粗末な衣服とはいえこざっぱりとした身なりに眉目秀麗な美少年である。まさかゆくゆくは教授の家に押し掛けようなどという大それた企みを秘めているとは夢にも思わなかったのだ。
 いずれにせよ首尾良くお兄さんの下宿を突き止めた少年は夜まで待ってお兄さんを訪ねた。お兄さんは最初驚いた顔をしていたが、少年の書き込みで真っ黒になった物理学の教科書の写しを見、少年の語る言葉を聞くうちに心打たれた様子であった。

「分かった。じゃあこの人を訪ねてみたらいい」

そう言ってお兄さんはさらさらと紙に名前を書き付けて寄越した。

───菊井智胤(きくいともたね)、東京都○○区○○

「帝大の名誉教授さ。かなりお年だけど頭脳は現役だよ。
 ただ最近は少し変わった研究をされているようで、
 魔術と物理学の統合を目指しているらしい。」
「ありがとう、お兄さん」
「正直言って魔術どうこうというのはよく分からないけど
 頭脳の方は誰もが認める方だから。…とにかくがんばれよ」

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 夕闇迫る帝都の街を重そうな行李を背負った少年が歩いていた。
 お兄さんに教えてもらった菊井教授の自宅で待ち伏せをかけるためである。
 普通のやり方ではまず押し掛け弟子など無理だろう。だから少年はちょっとした仕掛けをすることにした。

 やがて日が落ち、夜の闇が完全に屋敷を覆っても教授は帰ってこない。おそらく研究に没頭しているのであろう。だが少年はそんなことなど気にしなかった。とにかく時間だけはあふれるほど残されているのだ。今日がダメなら明日、明日がダメならその次。
 そんな風に思い定めた少年にとって待つ時間は苦ではなかった。
 やがて夕暮れ時に顔を出した月が天の頂に昇った頃、ようやく小柄な影がこちらへ向かってヒタヒタと歩いて来るのが見えた。
 それを見た少年はごそごそと行李から何かを取り出す。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 帝大名誉教授、菊井智胤は前方の暗闇に潜む少年の気配を明確に捉えていた。

「ふむ、これは霊力じゃな。しかもかなり高品位の」

 それを感じ取ることの出来るこの老人もまた只者ではない。

「はてさて、一体何を仕掛けるつもりかのぉ。このわしは少々のことでは驚かんぞぇ」

 そんな思いをおくびにも出さず家に向かう。
 門の前で立ち止まったとき、暗闇からキィキィカタカタという音が聞こえてきた。
 菊井が音のする方を振り返ると、一人の子供が歩いてくる。
 いや人形、からくり人形である。
 その手の盆の上には何か帳面のようなものが載せられている。
 そしてそれは菊井の目の前で止まった。

「わしにこの帳面を見よということかの?」

 菊井が腰をかがめて帳面を手に取ろうとしたとき、いきなり人形の足がビヨンと伸びた。

「ひゃうっ!」

 思わず後ずさる菊井の胸と腹の中間くらいにお盆が来ている。

───お、驚いた…全く危うく心臓が止まるところじゃったわい

 バクバク波打つ心臓を押さえながら上に載った帳面を手に取るとそれは物理の教科書の写しであった。
 真っ黒に書き込まれ、練習問題まで全てエレガントに解かれている。
 それを見る菊井の表情が変わった。

───ほぉぉう、なかなかのもんじゃな

「先生っ!私を弟子にして下さい!」

 その声に振り返ると暗闇に潜んでいた少年が土下座している。
 菊井は少年を見下ろしながらパタンと帳面を閉じる。

「これはお前が解いたのか?」
「はい」
「その年でなかなか大したものじゃが、なんのためにわしに弟子入りしたいんじゃ?」

 少年は、自分は機械いじりが好きなこと、機械をいじっているうちにこの世界のからくりを覗いてみたくなったこと、そしてそのからくりを動かしてみたいことなどを縷々と訴えた。
 菊井はその少年の様子と「教科書」の写しを見比べながら考えを巡らせた。

───こやつ、青白い顔をしておるくせに話し出すとたちまち顔が紅潮しおる。
   ふむう、発熱しやすい虚弱な体質じゃの。だがその分情熱は濃い。
   しかもこの解法を見るにその才は衆に抜きんでておる。
   おまけに霊力まで備えておるとなればおあつらえ向きじゃ。
   こやつをうまく仕込めば儂の後継者になれるやもしれんな。

「時にお前、名は何という?」
「はい、山崎真之介と申します」
「よろしい、では真之介、お前は今日からわしの弟子じゃ」
「あ、ありがとうございますっ!一生懸命勉強させていただきます!」
「うむ、だが今日はまずゆっくりと休むと良い」
「は、はいっ!」

 それが二人の異能の天才の出会いであった。

(続く)



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