Boorin's All Works On Sacra-BBS

「水中花」



 深く暗い水底にその花はひっそりと咲いていた。
 だが水が退くとき、その花は後悔の色に染め上げられ枯れてしまうのだ。




 佐紀子が竜一郎と知り合ったのは軍人倶楽部の女給を始めた頃だった。
 天涯孤独の身を養うには職を選んでいる余裕などなかった。

 草加竜一郎は、陸軍一の切れ者との評判の高い京極慶吾の懐刀として見る見る頭角を現してきた青年将校である。背が高く色の白い美男子。だが時折瞼を痙攣させる癖はいかにもエリートらしい癇の強さを表しており、ただの美男子と言うには少しばかり妖気を帯び過ぎていた。
 詩文から軍事まで何でも人並み以上にこなすこの男の才は京極でさえ一目置きつつ愛でている。だがこの男にも欠点があった。女癖の悪さである。それが生来の物なのか、後天的な物なのかは分からぬが、とにかく常に女の影が絶えたことがない。
 そんな男にかかれば、ぽっと出の田舎娘である佐紀子が籠絡されるのは容易いことだった。最初の内は夢中だった。世界が二人を中心に回っているような気分だった。

 そのころ佐紀子は親友の芙沙江に話したものだ。

「ほんとに私にはもったいないくらいのすばらしい人なの。あの人がきっと私の運命だわ」

 芙沙江は佐紀子の親友である。といってもその境遇は正反対で、佐紀子が天涯孤独の身の上であるのに対し芙沙江はさる実業家の一人娘であり、本来なら二人の人生が交わることなどないはずだった。

 2人の出会いは偶然である。
 とある書店で佐紀子が面白そうな本を物色し、ふと目に留まった一冊に手を伸ばしたとき同時に手を伸ばしてきた芙沙江と指が触れ合ったのだ。

「「あ、すみません、どうぞ」」

 2人は同時にそう言うと手を引っ込めてしまった。
 佐紀子は高そうな洋服の少女に気後れして。
 芙沙江は生来の奥ゆかしさから。
 先に口を切ったのは佐紀子の方からだった。

「私はどうせパラパラって見るだけのつもりでしたからどうぞ」
「いいのですか?」
「はい」
「…本、お好きなんですの?」
「え?まあ、嫌いじゃあありません」
「では、こうしませんか?私がこれを読み終わったら貴女にお貸しすると」
「え?本当に?それは嬉しいわ」

 こうして二人の付き合いは始まった。
 いざつきあい始めてみると性格も境遇も全く違う二人は意外にウマがあった。
 本の貸し借りから始まり、といっても事実上佐紀子が借りてばかりではあったが、いつしか二人でお茶を飲んだり、芙沙江が佐紀子の部屋を訪れたりするまでになった。

 そんなある日のこと、その頃には竜一郎と深い仲になっていた佐紀子は芙沙江に悩みを打ち明けた。どうも竜一郎には他にも深い関係になった女がいるらしい。
 そんなことを佐紀子は少しばかりの自慢の気持ちもあって芙沙江に話した。

「その貴女の光る君のお名前はなんとおっしゃるの?」
「草加竜一郎という帝国陸軍の将校さんなの」

 その瞬間、芙沙江の表情が変わった。佐紀子はそれを見逃さずに問いかける。

「知っているの?」
「え、ええ。先日の舞踏会でお会いした方がそのようなお名前の方でしたわ」
「で、どうなったの?」
「どうなったのって、踊りに誘われてただ一曲ご一緒しただけです」
「本当に?」
「ええ」

 それは事実だった。
 だが、ただ一曲の間に芙沙江が竜一郎に惹かれたのもまた事実であった。

「ふーん、まあいいわ」
「………」

 そう言うと佐紀子は「カチャン」と紅茶のカップを皿に置いた。




 佐紀子に借りた本と自分が佐紀子に貸すために持ってきた本を傍らに、芙沙江と佐紀子の二人が部屋でとりとめもないことを話しているとき、急にドアを開けて入ってきた男がいた。
 竜一郎だった。

「ん、ああお客さんか」
「まあ、どうしたの、あなた。今日は来られる日じゃなかったはずだけど」
「うむ、急に時間があいてな。それでちょっと寄ってみた。邪魔なら帰るが」
「邪魔なわけないじゃない。…こちらは私の親友の清水芙沙江さん。もっとも一度は会ってるみたいだけど」
「ん、…ああ、舞踏会の時の」

 しばし考えて芙沙江を思い出す竜一郎の答えは女二人の間にかすかな緊張のさざ波を立てた。
 だが、竜一郎はそんなことにはお構いなしに話を続ける。

「あの時はどうも。たった一曲だったが楽しかったですよ」
「はい」

 その時ふと気づいたように竜一郎は芙沙江の持ってきた本を手に取る。

「ほう。私もこの本は読みましたよ。娯楽本の体裁だが奥底に漢詩に対する作者の深い造詣が垣間見えますね」
「あなたもそう思われますか。さすが陸軍の将校さんともなると色々とご存じですのね」
「ふん。まあ、私は特別です。軍人、特に陸軍は阿呆揃いですよ。奴らは文字は読めるが、その意味することを理解することはできない。私や京極閣下は別だがね」

 竜一郎と芙沙江は佐紀子の訳の分からないところで楽しそうに話している。
 自分が一人取り残されたような気がして、ひどく寂しい気持ちになる。

『何やってんのよ!ここはわたしの部屋よ。』

 心の中でそう叫ぶが口に出しては言えない。言えば嫌われてしまう。

「ねえ、こっちはどうかしら」

 佐紀子は自分が芙沙江に貸した本を示して尋ねた。

「うん?これは純粋な娯楽本だな。確かに面白いがただそれだけだ」

 惨めだった。やはり自分は芙沙江や竜一郎とは違うのか。

「でも私はすごく面白かったですわ」

 芙沙江の助け船も惨めさを増す助けにしかならない。

「じゃあ、私はこれで失礼しますわ」
 少し気まずい雰囲気の中、そう言って芙沙江は立ち上がった。

「私もそろそろ行かねばならん。そこまで送りましょう」
「いえ、草加様はごゆっくりなさいませ。折角いらしたのですから」
「いや京極閣下の下に出向かねばならないのですよ。
 ………また来る」

 前半を芙沙江に後半を佐紀子に向けて言い放つと竜一郎は外套を羽織る。
 芙沙江は申し訳なさそうな顔で佐紀子の方を見ながら出ていった。

「じゃあな」

 竜一郎がそう言って出て行き扉が閉まったとき、佐紀子は例えようもない寂しさを感じて俯いた。みんなが自分を置いていく。父も母も親友も男も。




「草加少尉、天笠少尉」
「はい、何でしょう」
「はっ、閣下」

「お前たち二人に尋ねる。軍部による政権掌握を実現するためには我が陸軍は資金を大幅に拡充させる必要がある。だが当然の事ながら予算請求にそのような事由を書くわけにはいかん。しかるべき事由が必要であろう。何か案はないか」
「はっ、そういうことでしたら機甲部隊の充実というのはどうでしょうか。やはり戦には速度が必要だと考えます。」
「ふむ。悪くはないな。竜一郎はどうだ?」
「はい。私の考えは少し違います。空中母艦の建設というのはどうでしょうか」
「はっ、馬鹿な。そんなものどこに必要性があるのだ?」
「いえ、陸戦の完成は占領にあります。ですが機甲部隊の目的は電撃戦です。占領には向きません。その時大量の兵士を搭載できる空中母艦があれば機甲部隊の機動力にも追従でき速やかに占領を行うことができます。また巨大な空中母艦であれば人型蒸気部隊の輸送にも使えるでしょう。そうなると機甲部隊が使えないような地形の場所でも有利になります」
「ふむ、なるほど。それが良さそうだな。よし今日中に予算申請額の見積もりを取れ。細かなことは先任の天笠に訊くがよい。
…天笠、草加を手伝ってやれ」
「…はっ、閣下の仰せの通りに」
「よろしく」
「ふん」

 最近の京極は天笠に冷たい。
 天笠とて京極幕下に配属になるほどであるから能力的にはそれなりに優れている。
 しかし草加が配属になると次第に天笠には雑用に近い仕事しか回ってこなくなった。
 自分より年少の者が同階級であるというのも面白くない。加えて草加は天笠と違いよく女にもてる。
 なまじ能力があるために自らの不遇の元凶である草加に対する憎しみは倍増する。
 そう天笠が草加を憎むには十分な理由があった。




 最近、芙沙江が佐紀子のもとを訪れる回数が減った。
 竜一郎は相変わらずの頻度で通ってくる。
 だが佐紀子は疑心暗鬼に悩まされていた。
 芙沙江がここを訪ねてくるのは決まって竜一郎の来ない日である。
 二人が同時にこの部屋にいたのはあの日だけであった。
 二人は自分のいないところで密かに逢っているのではないか。
 そう思うと矢も盾もたまらなくなる。かといって女給の仕事を休むことはそのまま生活を圧迫することになるのだ。
 佐紀子は悶々とした日を過ごしていた。

 そんなある夜。
 屋根をたたく雨の音にぼんやりと物思いに耽る佐紀子の耳に足音が聞こえてくる。
 それは佐紀子の部屋の前で止まり郵便受けに何かを落とすと去っていった。
 扉を開けて外を見ると白い雨傘をさした男の背中が見えた。
 歩き方からすると軍人のようだ。
 しかし竜一郎ではあり得ない。竜一郎なら部屋に寄るはずだ。
 佐紀子は扉を閉めると、郵便受けの封筒を開けてみた。

「!」

 そこには竜一郎の写真が入っていた。
 何かの建物を出てきた所である。
 そして竜一郎の横には芙沙江の姿があった。

 やはりという思いと信じたくない気持ちに引き裂かれるような思いで他の写真を見る。
 建物はどうやら逢い引き宿のようだ。
 決定的だ。
 竜一郎は他の女と何かあってもいつも自分の所に帰ってきた。だが、芙沙江は他の女たちとは違う。自分より教養もあり、育ちも申し分ない。そして悔しいことに容貌も自分よりも美しい。負ける。自分は芙沙江に負ける。自分が唯一芙沙江に勝っていたのは竜一郎が自分の男だということだけだったというのに。

 呆然とした思いの中、降りしきる雨の音だけがやけに耳についた。




「芙沙江、あんたわたしに何か隠してない?」
「え?…いえ、別に何も」

 久しぶりに佐紀子の元を訪れた芙沙江に対する問いかけに、
 そう答える芙沙江の目が落ち着かなく動いた。
 嘘のつけない娘だ。確かに人は悪くないのだろう。
 だがこれだけは譲れない。

「じゃあ、これは何?」

 そう言って佐紀子は写真を見せる。
 みるみる芙沙江の顔色が変わる。

「…ごめんなさい」
「謝られたって仕方ないわ。今すぐ別れて頂戴」
「…ごめんなさい。それはできないの」
「なんでよ!あんたくらい綺麗で教養もあってお嬢様で性格もいい人だったらいくらでもいい男つかまえられるでしょう?なんでよりによってあんな女癖の悪い男を好きになるのよ!」
「分からない。でもどうしようもないのよ。
あの人は女たらしの悪党だと思う。
でも私を撫でてくれる手は優しいの」

 泣きながらそう言う芙沙江。
 やるせない気持ちになる。
 だが、その言葉には佐紀子も同感だった。竜一郎の手は優しい。

「お前は俺の運命だ」

 そう言って佐紀子の体を慈しむように撫でる手の動きに竜一郎の中に眠る優しさが現れているように思えてしまうのだ。その時だけ見せる優しさが忘れられない。
 自分でも苛立ちを覚えるほど自分は竜一郎に執着している。芙沙江も同じなのだろうか。

「渡さないわよ。私の方があの人との付き合いは長いんだ」

 芙沙江はただ泣くばかりだった。その姿を見ているとまるで自分の姿を見せられているような気がしていたたまれなくなる。

「出てって!出てってよ!」

 芙沙江を追い出した部屋で佐紀子は独り泣いた。




「竜一郎。少し話がある」
「はい」

 京極が竜一郎を連れて行ったのは赤坂の料亭だった。
 夕飯をすました後、京極は本題を切り出す。

「竜一郎、私はお前の才を買っている。だからこそ言わせてもらうぞ。あの女とは別れろ」
「あの女とは?」
「とぼけるな。水嶋佐紀子だ。女遊びはかまわん。遊びはな。だがあの女はやめておけ」
「………」
「我らには大望がある。女にうつつを抜かしている暇はないはずだ」
「…私が佐紀子にうつつを抜かしていると?」
「違うのか?」
「………確かに佐紀子に対する気持ちは他の女とは違います。ですが………」

 竜一郎には年の離れた姉がひとりいた。
 幼い頃から姉は竜一郎を可愛がり、竜一郎はそんな姉のことが大好きだった。
 想いは思春期を迎える頃からほとんど恋に近い憧憬の想いに変わった。
 その姉が嫁ぐ事が決まった日、結納の品々と共に婚約者の持ってきた指輪を竜一郎は盗みだし捨ててしまった。
 翌日の朝、家族の者が大騒ぎする。姉は自分の不注意からどこかに落としたのだと思っているようで必死になって指輪を探している。竜一郎は罪悪感に囚われながらも、これで縁談が破談になれば姉は家を出て行かなくてすむと考えていた。
 だが、責任感の強い姉は、自分を責めて責めて自らの命を絶ってしまった。
 姉は本当に婚約者を愛していたのだ。
 それなのにその男のくれた指輪をなくしてしまった自分が許せなかったのだろう。
 冷たくなった姉を見たときに竜一郎の中の何かが音を立てて壊れてしまった。

 それ以来、竜一郎が本気で女を愛したことはない。
 そして佐紀子に出逢った。最初に見たときは、どこかで見たような顔だと思っただけであったが、次第に佐紀子の顔が姉に見えてくるようになった。
 竜一郎は失った姉を取り戻すために佐紀子を自分のものにした。
 だが、それは同時に自分の罪を思い知らされることであった。

 自分は姉を殺した。

 そして、それはまた同時に佐紀子に対する負い目に変わる。
 佐紀子と姉を同一視するが故に佐紀子を愛し始めている自分。
 だがそれは佐紀子を佐紀子として愛しているのではないという負い目を生む。
 同時に自分の罪を突きつける顔を持つ佐紀子への憎しみにも似た感情も混じる。
 その苦しさから逃れるために他の女に走る。
 いっそ佐紀子が自分を憎んでくれればよいと。
 佐紀子が自分を憎んでくれれば、自分は負い目なく佐紀子を愛することが出来そうな気がしていた。

「どうした?」

 京極の声に竜一郎は想いの縁から立ち戻り、京極に話してみようと思った。

「はい、実は」

 京極は黙って竜一郎の話を聞いていた。
 なるほど、この男の突き放したような物の考え方はここから来ているのかと得心がいった。

『私がかつて愛する者を奪った父親を憎み罰したように、この男は自分自身を憎み罰しているのだ』

 その時ふと京極の頭に、この男になら自分の真の目的を話してもいいのではないかという考えが浮かんだ。だが、素早く打ち消す。まだだ。今はまだ言えない。竜一郎がそれを受け入れれば問題はないが、もし受け入れられなかった時、自分が必要以上に竜一郎に同情することは自らの決心を揺るがせるきっかけになるかもしれない。そう、今はまだ言えぬ。

「そうか。だが、あの女がお前を憎めばまた別の苦しみも生むぞ。別れよ。さもなくば妻とせよ。そうせぬ限りいずれあの女は我らの道の障害となる」
「………はい」
「私としては別れた方がよいと思うが、どちらを選ぶかはお前次第だ」
「はい」




「佐紀子に私たちの関係を知られてしまいました」

 芙沙江がそう言ったとき、竜一郎は自らの望みが叶ったのを知った。
 佐紀子は自分を憎むだろう。
 だが、心は少しも軽くならず、そう思うとむしろ苦しみは増した。
 京極閣下の言われた通りだと苦々しく思う。

「もう終わりにしたいのです」
「俺が嫌いになったか?」
「…いいえ。でも佐紀子は私の初めての友達なのです。むき出しに自分の感情をぶつけてくれる様な友人は私の周りにはいない。佐紀子だけなんです。だから私は佐紀子を失いたくない。それにあなたは本当は………」
「………そうした方がいいかも知れないな。ここが潮時かも知れん」

 そう呟く竜一郎の横顔を見ながら芙沙江は寂しそうに目を閉じ、胸に顔をのせる。

「………本当にそうですわね」
「………すまんな」
「………」

「迷惑のかけついでに頼みたいことがある。…指輪を選んで欲しい。婚約指輪を」

 胸が痛む。なんて残酷な人なんだろう。別れ話のその後に他の女の婚約指輪を選べなどとは。
 だが芙沙江は自分がそれを断れない事を知っていた。
 それは自分が望んだことでもあったからである。
 そして何よりもこんなにされても自分はまだ竜一郎を愛している。
 芙沙江は短く答えた。

「はい」




 この一週間、佐紀子は女給の仕事を休んで竜一郎の後を尾行していた。
 そして今日、竜一郎と芙沙江は逢い引きをした。
 建物から出てきた二人はしばらく通りを歩き、やがて連れ立って宝飾店に入っていった。

「どういうこと?」

 頭がずきずき痛む。

 まさか。
 そんな。
 やっぱり。
 いいえ、そんな筈ない。

 佐紀子がそんな想いに引き裂かれながら一時を過ごした後、竜一郎と芙沙江は一つの小さな包みを持って出てきた。そう、丁度指輪くらいの包みを。
 そのまま、二人は陸軍省の方へ歩いて行く。
 佐紀子はもうほとんど考える力を失いながらも二人の後を尾けた。




「京極閣下にお願いがございます」
「どうした竜一郎、いやに改まって」
「は、あれから色々と考えました結果、佐紀子を妻に娶ることにいたしました」
「………」
「つきましては京極閣下に介添人になっていただきたくお願いに参った次第でございます」
「…なるほど、で、そこの女性は一体?」
「は、彼女には佐紀子の介添えとなって貰う所存です」
「それで良いのか?」
「はい」
「ふむ。わかった。お前がそれで良いというのであれば私ももう何も言うまい。介添えの件は引き受けた」
「ありがとうございます」

 竜一郎と芙沙江が深々と頭を下げる。
 その様を見て何故か京極の胸の裡に不吉な予感が影を射した。
 後から思い返せばそれはまさに予感と言うべきものであったのだが、今の京極にはそれを知る術はなかった。




 京極の執務室を辞し薄暗い廊下を歩いているとき、二人は前方に幽鬼のように朧気に立つ影を認めた。
 佐紀子であった。
 その面(おもて)はさながら鬼女の面のごとく、元の美しい女の面影はない。

「どうした佐紀子」
「私を捨てるの?」
「何を言っている?」
「あなたは今まで色んな女に手を出してきた。でも最後には私の所に戻ってきてくれた。でも今度は違うのね。私を裏切って芙沙江を選んだのね」
「落ち着け、一体どこからそういう話になる?」
「…芙沙江、裏切ったわね。あれほど私からこの人を取らないでって頼んだのに。裏切ったのね」
「違う、勘違いよ、佐紀子」
「いいえ、違わないわ」

 影がゆらりと動いた。その手には包丁の鈍い鋼色の光が見える。

「許さないぃぃぃぃっ!」

 佐紀子は芙沙江に向き直ると包丁を構えながら襲いかかる。

「いかんっ!やめろ、佐紀子っ!」

 咄嗟に芙沙江をかばいに入る竜一郎の姿が佐紀子を更に逆上させた。

やっぱりだっ!

 もう佐紀子には自分が誰を刺そうとしているのかが分からなくなっていた。
 ただ青白い炎を上げて闇雲に突進する。




「む!?なんだっ、この力は!」

 執務室で京極は異様な妖力の高まりを感じた。
 自らの力を除けばこれ程の妖力は珍しい。

 何かが起こっている。
 京極はその身を空中に消し力の源まで飛ばした。




 包丁は意外なほどあっけなく竜一郎の腹に吸い込まれていく。
 抵抗はほとんどなかった。
 それは佐紀子が無意識に発動している妖力のためであるとは本人も気が付いていない。
 佐紀子の妖力は包丁の刃を延長するような形で刀のように研ぎ澄まされていた。
 それが竜一郎の腹を刺し、後ろの芙沙江の腹をも貫通していた。

 竜一郎が佐紀子を払いのける。
 佐紀子は包丁を手にしたまま放心状態で尻餅をついた。
 手の筋肉が硬直し、包丁が手から離れない。

 芙沙江は妖力による刃に刺し貫かれ瞬時に絶命していた。
 それはすなわち佐紀子の憎しみがより多く芙沙江に向いていた事を意味する。
 竜一郎はまだ辛うじて息があった。

 そこに一陣の風が巻き起こり京極が姿を現す。

「竜一郎!」

 その場の状況を瞬時に見て取った京極は竜一郎に駆け寄り身体を抱きおこす。

「どうした、竜一郎!しっかりしろ!お前はこんな所で死ぬべき男ではない!」
「いえ、…やはり私はここで死ぬべき男だったのです。……閣下の仰った通り、佐紀子に憎まれただけでは私の心はより苦しみを増しただけでした。………それが今は、安らかな気分なのです。…そう、私はこれを望んでいたのです。……申し訳ありません。私は閣下と共に歩むことが出来なくなってしまいました。………しかし、佐紀子を許してやって下さい。これは……私が望んだ結果なのです。………」
「竜一郎!」
「…ああ、姉さん、……やっと側に………」

 その言葉を最後に竜一郎の命の火は消えた。
 京極の心に怒りとも悲しみともつかぬ感情が吹き荒れる。

「愛、愛が人を狂わせる!この女が竜一郎を刺したのも愛、歪んだ愛!竜一郎が自ら死を望んだのも愛!歪んだ愛だっ!ならば愛など要らぬ。この世に愛は要らぬのだっ!」

「汝の罪を知れい!」

 京極は佐紀子に向き直ると、自らの法力で佐紀子を消滅させようとする。

『佐紀子を許してやって下さい』

 竜一郎の最後の言葉を思いだし、京極は思いとどまった。

チーン!

 その時、竜一郎の懐から一つの光が床に転げ落ちた。
 佐紀子はのろのろと反応しそれを拾い上げる。
 ぼんやりと指輪を見た。
 その内側には、「From R to S」という文字が刻んである。
 佐紀子の頭がその意味を理解するのに数秒かかった。

あああああああああぁぁぁぁぁぁぁっ!

 誤解だった。竜一郎は自分を選ぼうしていてくれたのに。自分は竜一郎を信じ切れなかった。裏切ったのは他の誰でもない、自分の方だったのだ。
 佐紀子の心は軋みを上げて引きちぎれようとしていた。
 再び妖力の嵐が吹き荒れようとしていた。

 京極はその様を冷徹に観察している。
 このままではこの娘の精神は崩壊するだろう。
 それは自業自得というものだ。だが、竜一郎はそれを望むまい。
 そして何よりもこの力は使える。
 自らの野望の実現にこの力を利用することができるだろう。
 京極は竜一郎の死を悼みつつも、状況を全て利用しようとしていた。
 そして、ゆっくりと動き出す。

 京極の身体から白い光の粒子が立ち上りやがてそれは右の掌に集まっていく。

「ふん!」

 京極の掌から放たれた光が佐紀子を包み繭となった。
 白く輝く光の繭。

「女よ、苦しいか。当然の報いだ。だが、竜一郎の最後の言葉に免じてお前にとって最も辛い記憶を封印してやろう。赤い花を思い浮かべるが良い。そしてその花が水中深く沈んでいく様を思い浮かべるが良い。深く、深く、どんどん深く沈んでいく。それがお前の流した心の血の花だ。深く、深く、もっと深く。心の奥底に沈めるが良い」

 佐紀子は京極の誘導に従い光の繭の中で自らの心を封印していく。
 そして佐紀子の心は自らの裏切りの記憶を他人の裏切りの記憶に置換した。
 裏切りの花を孤独の水に沈めたのだ。

「そう、人は信用できない。この京極慶吾以外はな。お前はこれから私のために働くのだ。お前の力を私のために使うことによってのみお前の裏切りの罪は償われる。なぜなら私の進む道は竜一郎の進む道と同じなのだから。忘れるな、女よ。私以外は決して信用するな。私だけに仕えるのだ」

 光の繭の中で佐紀子がゆっくりと頷く。

「よろしい。次に目覚めるとき、水嶋佐紀子は死に、お前は我が配下、水狐となるのだ」

 そしてゆっくり光の繭は薄れていった。


(了)




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