月が出ていた。 夏が過ぎ、夜気が涼しさを帯び始める頃、月はその美しい姿を見せる。 だが月の裏側はこの地上からは見ることができないのだ。 「(まったくあの爺い、人使いが荒いったらありゃしない。 まさかあたしがあいつを撃ったのを気づいていて嫌がらせしてるんじゃないだろうね。)」 米田に頼まれた書類の山を抱えてよろめきながらサキは悪態をついている。 その時、急に書類の山が軽くなり視界が開けた。 「やあサキくん、手伝うよ」 声の主は大神一郎。 頭脳明晰な上に人柄にも狷介なところもなく、帝国華撃団の隊員達の信頼も篤い。 ただ少々人が良すぎるきらいがあるが。 「ありがとう。大神さんって優しいんですネ」 「いやあ、別に大したことじゃないから」 「あ、それはそうかもしんない。大神さんは雑用の達人ですもの」 「あ、ひどいなぁ。………でも確かに俺って雑用の才能あるのかも」 「あはは、いっそ花組の隊長なんか辞めて『街の何でも屋さん』でも開業したらどうかしら? 」 「ははは、それもいいかもね。平和になったら考えてみよう」 「その時は秘書で雇って下さいネ」 「いいとも」 他愛のない会話を交わしながら書類を運んでいく。 サキは時々自分の心が分からなくなることがあった。 自分がここにいるのはあの方のために敵の情勢を探り、謀略を尽くし、戦いを有利に運ぶため。 だが、大神と話しているとそんなことを忘れそうになる、いやほんの一時完全に忘れているのだ。 「何か楽しそうですね」 「あ、あぁ、さくらくん。いやねサキくんが困っていたからちょっとお手伝いをね。な、サキくん」 「え〜っ、わたしを秘書に雇ってくれるってお話じゃなかったの?」 「大神さん! それ本当なんですか」 「え、いや、確かにそう言ったけど。ちょっとした軽口じゃないか。………頼むよ、サキくん」 「もう知りません! 」 さくらはそう言うとぷりぷりと怒りながら行ってしまった。 「あはは、可愛いこと。でも大変ですネ、大神さん」 「分かってるんなら、うまく口合わせてよ」 「次からはそうしますわ。あ、もうここで結構よ」 「何なら書類整理手伝おうか?」 「ありがとう、でもそこまで甘えるのもネ」 「あ、そう。きつくなったらいつでも呼んでよ。じゃ」 「ありがとう」 軽く手を振りながら立ち去る大神を見やっていたサキは、ふと我に返ると席に着き、書類を一つ一つ点検していく。 ささいな情報を一つ一つつなぎ合わせて帝劇内部の動きを推測し、付け入る隙を探し出す。緻密な頭脳がなくては出来ない仕事だ。 そこにはいつもの脳天気なお色気娘の面影はなく、黒鬼会・水狐の顔があった。だが、その水狐にしても気づいてはいなかった。自分の行動の一部始終が冷徹な眼に観察されていることを。 「十中八九間違いないでしょう。決定的な証拠はつかませませんが」 「そう、分かったわ。引きつづき、観察を続けて頂戴」 「了解しました」 闇に溶ける白い影。 その影は呟きを漏らす。 「だが、おそらく可能性はある。時間さえあれば」 しかし、その時間はもう残されていなかった。 嵐の夜。 帝劇からレニの姿が消えた。 影山サキこと黒鬼会・水狐の仕業である。 「この娘はわたしに似ている」 それが水狐がレニを連れ出した理由。 いかなる他人をも信じない心。 深く傷ついた心。 そこに自分と同じ心を見た。 仲間が欲しかったのか。 そうではない、この娘を利用すれば華撃団を混乱させることが出来る。 だが、本当にそれだけなのか。 レニの心は何かを求めてあがいていた。それは氷の心が溶ける前触れ。 それを嫉んだのではないのか。氷の心が溶けることを。 あるいは自分の心が溶けるのを恐れて逃げたのか。 そうではない。 この氷はただあの方のために結晶している。 それが溶けることはあの方への裏切り。自分に限ってそれはない。 そんなことをすれば自分も他の奴らと同じになってしまう。 あの方を裏切れない。 「水狐、いやサキくん。本当にもうあの頃のサキくんには戻れないのか?」 レニを追ってきた大神の声が聞こえる。 戻れない。あれは偽りの姿。あなたを騙すための姿。 戻ったらあの方を裏切ることになる。 華撃団は思いの外強い。 水狐にしてみれば、これ程の苦戦を強いられようとは思わなかった。 これが奴らの言う信じ合う仲間の力だというのか。 花組は確実に水狐を追いつめていた。 轟っ! 水狐はまたもや強烈なダメージを受ける。 機体が悲鳴の軋みを上げる。 「お前はもう用済みだ。これはあの方のご意志」 鬼王の声が聞こえる。 そんな、あの方も他の奴らと同じ。 誰も信じないと言ったわたしがあの方だけは信じていたなんて。 お笑いぐさだ。 もうこの世に未練はない。 受けたダメージも致命的だ。 ならば最期はせめて………。 「仲間なんて必要ない。 わたしはたった一人で戦った。 それを誇りに思う。 これでさよならね」 水狐はそう叫ぶと同時に渾身の力で大神に撃ちかかる。 必殺の気合い。 命を賭したその攻撃には生半可な受けは通用しない。 ただ必殺の一撃を先に叩き込むのみ。 大神の武人としての本能は水狐の機体に全身全霊の一撃を叩き込んでいた。 炸裂する機体、最期の炎の中で水狐は独り呟く。 「ふ…ふふ、何でも屋の秘書。………やりたかったわ」 嵐の後の月夜は美しい。 屋上の孤影は月を見ていた。 その手にはウヰスキーのグラスがある。 月の裏側は見ることが出来ない。 同じ裏側にいる者以外には。 「報われなかった想いと果たされ得なかった約束に………」 カラン。 もう一つのグラスの氷が応える。 白い影はグラスを眼の上に掲げると琥珀色の液体を一気に飲み干した。 (了) |
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