2002/ 7/19 19:00 東京オペラシティコンサートホール・タケミツメモリアル
*同一プロダクション 2002/ 7/20 15:00 サラマンカホール(岐阜県民ふれあい会館)
2002/ 7/21 15:00 神戸松蔭女子学院大学チャペル(第158回松蔭チャペルコンサート)
《出演メンバー》
鈴木雅明/バッハ・コレギウム・ジャパン
天羽明恵(ソプラノ)*
※出演メンバーはこちらです!
※なんと、「グロリア」の楽譜がこちらからダウンロードできます!(PDFファイル)
※HWV232、237の楽譜もありました!→HWV232、HWV237 (PDFファイル:結構重いです・・・!)
《真夏のヘンデル 〜新発見グロリアの煌き〜》
G.F.ヘンデルの魅力は、メサイアだけではありません。若きイタリア時代の作品は、ハレ時代の師匠ツァッハウ譲りの対位法的基礎の上に、イタリアののびやかな旋律と颯爽としたリズムがあいまって、若々しいエネルギーが作品全体に満ち溢れています。詩編110編『主は我が主に言われた』
Dixit Dominus と詩編113編『主を讃美せよ、しもべらよ』 Laudate Pueri は、このイタリア時代の代表的な教会作品として知られてきました。
しかしこの度、若々しいヘンデルの魅力をさらに高める『グロリア』が発見されたことは、もう皆様もご存じだと思います。いや、発見されたというのは正しくないかもしれません。「作者不詳」として資料の山にうずもれていた『グロリア』が、ヘンデルのものであると認知されたのです。これは、ソプラノのソロと弦楽器のみ、という編成であり、グロリアとしては異例と言えましょうが、多くの箇所でソプラノとヴァイオリンソロが絡み合うことから見て、ソプラノはヘンデルを追ってロンドンにまで行ったドゥラスタンティ、ヴァイオリンソロは有名なコレッリを想定していたかもしれません。
この、イタリアのヘンデルがコロラトゥーラの超絶技巧に託した清冽なグロリアと、ソロ・トゥッティの入り混じる合唱のコンチェルト様式ともいうべき華麗な詩編を、オルガンコンチェルトとともにバッハ・コレギウム・ジャパンから皆様への真夏の贈物としてお届け致します。
第55回定期演奏会
巻頭言
皆様ようこそおいでくださいました。
私達が定期演奏会でヘンデルを取り上げるのは、1995年第19回定期演奏会以来8年ぶりのことです。日本でのヘンデル研究と言えば、すぐに昨年亡くなられた渡部惠一郎先生が思い出されます。先生が日本ヘンデル協会を設立され、様々な研究と公演をされてきたことは周知のとおりです。しかし残念ながら、それでもまだヘンデルの作品が日本で十分に知られているとは言えません。私達にとっていつもヘンデルの存在が何かとても親しげに思われるのは、ただ突出して有名になったあのメサイアのイメージがあるからに過ぎないのではないでしょうか。
私にとっての最も印象的なヘンデル体験は、もう30年近くも前、学生時代に初めてベルギー・ブルージュの古楽フェスティヴァルを訪れた時のことでした。サイモン・プレストン率いるケンブリッジ・クリスチャン・カレッジ聖歌隊のコンサートを聴いたのです。少し入り組んだところにある聖ヒリス教会を開演間際にようやく探し当て、席につくや否や響き渡った合唱とオーケストラの響きに、私は脳天を打ちのめされたような衝撃を受けました。確か、ユトレヒト・テ・デウムであったと思うのですが、実は作品についてはあまり記憶がありません。しかし、何と澄み切った響き、何とひたむきな合唱、そして何と明るいエネルギーに満ちた音楽。ヨーロッパで聴いた最初のコンサートとして、私はその鮮烈な印象を忘れることができません。余談ですが、サイモン・プレストンが数年前来日した時、この時のことを話しましたら、彼にも非常によい印象だったそうでよく覚えておられました。ついでに、「秘密だよ」と言いながら、「あのジョン・エリオット・ガーディナーもぽくの合唱団で歌っていたんだ」と教えてくれました。彼もまたひたむきなChorister(合唱要員)のひとりだったのです。(余談の余談。)
ところで、ヘンデルの生涯を見た時、ごく小さなひとこまがまず私の興味を惹きます。それは、彼が18歳の時ハレの大聖堂のオルガニストを1年間勤めたことです。この大聖堂は、ドイツでは珍しくルター派ではなく、当時から今に至るまでカルヴァン派(改革派)教会に属しています。ヘンデルが改革派教会のオルガニストだった、という事実は、同じく改革派教会に属する筆者としては見落とすことはできません。しかも、当時彼に課せられた職務の内容に詩編の伴奏を含んでいた、ということは、詩編がオルガン伴奏で歌われていた、ということの証拠でもあり、非常に興味深いことなのです。
しかし、昨夏この教会を訪ねた時、その大聖堂を見て、どう考えてもヘンデルには場違いに思えてなりませんでした。事実、ヘンデルはこの地位に長く留まらず、ハンブルクを経由してイタリアに行ってしまったことは、ご存知の通りです。ヘンデルのハレ大聖堂オルガニスト時代は、バッハにおけるミュールハウゼン時代とほぼ同じ長さであるにもかかわらず、その生涯における意味は、全く違ったものとなったことは否めません。バッハが自分の家系から受け継いだドイツの伝統を守ろうとしたのに対し、ヘンデルは、そもそもそのような伝統とは無関係に、独学で音楽を始めたのでしょう。だからこそ、イタリアに行ってもロンドンに行っても、その場で最も効果的な手法を用いるフレクシビリティが備わっていたのかもしれません。彼は、同時に極めて現実的な音楽家だったと思います。つまり決して抽象的な表現を追い求めるのではなく、その音楽はいつも理解しやすく、しかも歌手の音域や性格に応じて、最も効果的な音楽がどんどん生み出され、必要とあればいつでも変更されていきます。音楽的に効果があるとさえ思えば、どんな作曲家からの借用も全く厭いません。しかし、ひとたびヘンデルの手にかかると、すべては自由闊達で、明るいエネルギーに満ちた空間がそこにできあがるのです。
今日取り上げるプログラムは、オルガンコンチェルト以外は、すべてイタリア時代のものですが、すみずみにまで音楽の魅力が溢れ、聴くものを一瞬たりとも退屈させることがありません。特に詩編109(110)編による《主は、わが主に言いたまいぬ Dixit Dominus》は、私が長い間演奏したいと思ってきた作品です。これは晩祷 Vesperaeで用いられる有名な詩編ですが、既にその構成にイタリアの伝統的な方法が反映されています。しかしそればかりではなく、冒頭からソロ(ソリ)とトゥッティが対比される手法はモンテヴェルディの7声グロリアを彷彿させますし、第6曲目のソロが、動き続けるコンティヌオの上に繰り広げるゼクエンツは、ヴィヴァルディなど多くの作曲家の常套手段であり、そこには期待に胸を膨らませつつやってきたイタリアで、恐るべき早さで音楽的栄養を貪欲に吸収する若き天才の姿がありありと浮かび上がってきます。この音楽をあのハレの町で書くことはあり得なかったでしょう。
この度、愛好家を熱狂させた《グロリア》の新発見(あるいは認知)は、ヘンデルの魅力に新たなページを付け加えました。これは、私達の属するCD会社スウェーデンのBISによって早くも録音出版されましたが、一時的なニュース性を差し引いても、十分な魅力を持つ作品です。このソロを歌ったのが実際に誰であったのかは、もはや定かではありませんが、ヘンデルがそのソプラノを(恐らく人ではなく、その声を)如何に気に入っていたか、と思わせるような魅惑的なパッセージがあちらこちらに見られるのです。今回、これを《しもべらよ、主をたたえよ Laudate pueri》と共に演奏するのは、少し特別な意味を込めています。というのも、この《グロリア》最終節の器楽パートの動機はLaudate pueriの冒頭から転用されており、そのことの発見が、この作品をヘンデルのものであることを裏付けるひとつの証拠となったからです。(詳しくは、フォス氏の論考をごらんください。)
ヘンデルの倦むことのない活力は、一体どこから湧いてきたのでしょうか。18世紀の旅行家チャールズ・バーニーは、ヘンデルが美食家であったと伝えていますが、恐らく未曾有の大食漢でもあったに違いありません。その巨大な体から涌き出てくるふくよかなエネルギーに、ひととき私達も与することにいたしましょう。
バッハ・コレギウム・ジャパン
音楽監督 鈴木雅明
(02/08/16)
《参考テキスト》
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