第63回定期
  J.S.バッハ/復活祭&昇天祭オラトリオ  


2004/ 5/21  19:00 東京オペラシティコンサートホール・タケミツメモリアル
*同一プロダクション
   2004/ 5/22 15:00 神戸松蔭女子学院大学チャペル(第171回神戸松蔭チャペルコンサート)


J.S.バッハ/トッカータ、アダージョとフーガ BWV564 (オルガン独奏:今井奈緒子)

J.S.バッハ/昇天祭オラトリオ BWV11 こちらからスコア&パート譜が入手できます!
        復活祭オラトリオ BWV249 こちらからスコアが入手できます!

(04/05/22)


《出演メンバー》  

指揮鈴木雅明

コーラス=独唱[コンチェルティスト])
  ソプラノ野々下由香里*、懸田奈緒子、緋田 芳江、藤崎 美苗
  アルト  :パトリック・ファン・フーテム(CT)*、青木 洋也、上杉 清仁、鈴木 環
  テノールヤン・コボウ鈴木 准、谷口 洋介、水越 啓
  バス   :浦野 智行*、緋田 吉也、藤井 大輔、渡辺 祐介

オーケストラ
  トランペット:島田 俊雄、神代 修、村田 綾子
  ティンパニ:近藤高顕
  リコーダー:山岡 重治、向江 昭雅
  フラウト・トラヴェルソ:前田りり子、菊池 香苗
  オーボエ:三宮 正満、尾崎 温子
  ヴァイオリン若松 夏美(コンサートミストレス)、高田あずみ、荒木 優子、パウル・エレラ、山口 幸恵
  ヴィオラ:森田 芳子、渡部安見子

 〔通奏低音〕
  チェロ:鈴木 秀美  コントラバス:西澤 誠治  ファゴット:村上由紀子
  チェンバロ:大塚直哉  オルガン:今井奈緒子

(04/05/02)


歌と器楽の祝祭的饗宴、バッハの2大オラトリオ

 ルター派では受難曲の方が有名ですが、受難曲のストーリーは常に未完です。受難曲が終わって3日の後、イエスの復活を祝う礼拝がなければ、受難曲も意味を失ってしまいます。また復活の40日後、イエスが弟子たちの前から天にあげられたことを記念する昇天祭も、その1週間後の聖霊降臨祭へと続く、キリストの教会完成のための重要なプロセスでした。トランペットやティンパニを加えた華麗な合唱と印象的な美しいアリアなど、歌と器楽の祝祭的饗宴をお聴きください。

鈴木雅明 (バッハ・コレギウム・ジャパン音楽監督)
(04/05/02:チラシ掲載文)


第63回定期演奏会 巻頭言

 非常に遅ればせながら、皆様、イースターおめでとうございます。
 BCJでは今まで幾度となく受難曲を演奏してまいりましたが、実は受難曲のストーリーは常に未完です。初期キリスト教会から伝えられた「使徒信条」という信仰告白で告白するとおり、「主はポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだ」ったばかりではなく、その後「3日目に死人のうちより甦り、天に昇り、全能の父の右に座したもう」からこそ、キリスト教が「希望の宗教」たりえるのです。さもなくば、受難物語は、ある男の悲惨な十字架刑と非業の最期を描く稚拙な悲劇物語に堕してしまうことでしょう。
 ところで、バッハは復活のためにどのような音楽を書いたのでしょうか。実は復活祭第1祝日のためのカンタータは、ごく初期に作曲された2曲しか残っていません。そのひとつは、私たちがカンタータシリーズ第1巻冒頭に録音した峻厳なコラールカンタータ《キリストは死の呪縛につかれたChrist lag in Todesbanden》BWV4です。これはまさしく「音楽による説教」に他なりません。すべて自由詞を排してコラールのテクストのみが用いられ、「死の描写」「神の子の到来」「死と命の闘い」「犠牲の小羊としてのイエス」「勝利の祝宴」と、主イエスが死に打ち勝つ「復活の摂理」全体が、音楽によって説教されるのです。罪のもたらす死がイエスの勝利によって滅ぼされるプロセスが簡潔に描かれ、しかもその全体がシンメトリックな構造を持って、見事に十字架を象徴しています。
 これに対して《天は笑い、地は歓呼するDer Himmel lacht, die Erde jubilieret》BWV31では、3本のトランペットと5声部の合唱を用いて、冒頭から大いなる喜びが爆発します。そしてイエスの復活が、私たち自身の「死の時」を平安に満ちたものとするので、「摂理」の宣言から信ずる者ひとりひとりの「救い」へと目を転じて行くのです。
 さて、これらのカンタータに対して、今日演奏する復活祭オラトリオは全く異なった分野に属しています。この作品もはじめから「オラトリオ」と名付けられていたわけではなく、カンタータのひとつとして発想されたに違いありませんが、ここには、キリスト教の教義を説教することより、まず「復活物語」を劇として語るヒストリエHistorieの伝統に根ざしているのです。
 この作品は、有名な受難曲の影に隠れて不当に低い評価に甘んじてきました。近代バッハ研究の祖フィリップ・シュピッタ以来多くの学者たちが、その不可思議な歌詞の非論理性を批判してきたことも遠因でしょう。シュピッタには、このテクストにおける劇としての一貫性の欠如が最も腹立たしかったようです。第6曲でヨハネ役のバスが「主はどこに?」と問い、それにマリアが答えますが、シュピッタ曰く「これはもうとうにわかっていたことのはずではないか」というのです*1)。また、アルバート・シュヴァイツァーも、ペテロ役テノールが述べる亜麻布についての感想とそれに続くアリアのテクストが腑に落ちず、テクストを変更することを示唆しています*2)。確かに、復活したイエスに会うより前に、解かれた亜麻布だけを見てすぐ「私の死がまどろみとなった」と歌うのは、大きな飛躍があると言われてもしかたありません。
 これに対して、神学的バッハ研究の碩学シュタイガー夫妻は非常に興味深いことを指摘しています*3)。10世紀以来しばしば礼拝の中でも上演された「復活劇」には400以上もの作品が伝えられているそうですが、バッハ時代にもまだ使用されていたと思しきライプツィヒの典礼書(1707年)にも、そのような劇のひとつが記されています*4)。この劇においては、多くの受難劇のように複数の福音書からストーリーが採用されていますが、それらのストーリーを時間軸に従って構成するのではなく、ただすべての出来事が重複して羅列してあるというのです。つまり、ルカ、ヨハネ、マルコのそれぞれの福音書に従って、女性たちは空になった墓を見て3回驚き、復活のメッセージも3回告げられるのです。つまりここでは、シュピッタの苛立ちの原因である時間軸に従った論理性が顧みられず、むしろ福音書のありのままを告げようとしているということがわかります。
 またシュヴァイツァーの指摘した亜麻布のことについては、ヨハネ福音書(11:1-44)に登場するラザロのことが思い起こされます。シュタイガーの指摘を待つまでもなくこの記事全体がイエスの復活の予兆として語られていることは当然ですが、イエスが「ラザロよ、出てきなさい」(11:43)と大声で叫ばれたとき、ラザロは「手足を布で巻かれ、顔も覆いで包まれたまま」出てきたので、イエスは「ほどいてやって行かせなさい」と指示されたのでした。福音書の隅々にまで一言一句に特別な意味を込める福音書記者ヨハネならばこそ、ここで「布で巻かれていた」こととそれを「解く」ことに、特別な意味が込められていたとしても何の不思議もありません。つまりここでは死体を巻く亜麻布が解かれることで、命が与えられたことを象徴しているので、後にペテロが空になった墓の中に「解かれた亜麻布」を見て、直ちに「死が眠りとなった」と言うことは、明らかにこのヨハネによる福音書の記事をふまえてのことだったのです。
 復活祭オラトリオとヨハネの福音書との繋がりは、あながち偶然ではないのかもしれません。というのは、バッハはこのオラトリオを、1725年の初演時と生涯最後の49年の2回にわたって、ヨハネ受難曲を演奏した3日後の復活祭に演奏しているのです。さらに1738年頃、つまりヨハネ受難曲の清書総譜を準備する直前、改めてこのオラトリオの清書総譜も完成させています。これだけの事実を見れば、この作品とヨハネ受難曲とが何か見えない糸で結ばれていると感じないではいられません。
 復活祭オラトリオ第3曲のヨハネとペテロが墓へ急ぐ姿は、ヨハネ受難曲第24曲「急げ、不安にかられた魂よ」におけるゴルゴタへ急ぐ魂と全く同じ表象ですし、復活祭オラトリオ第7曲で、亜麻布によって涙をぬぐってくださるからこそ、我々もまた「もう涙を注ぐことはしません、あなたが涙をぬぐってくださるから」(ヨハネ受難曲第39曲)と歌えるのです。さらに復活祭オラトリオ最終曲「開け、天の国よ、壮麗なる門戸を」と歌う歌詞は、ヨハネ受難曲第39曲最終行「(あなたの墓こそ)天の御国への門を開き、陰府への道を閉ざす」と共通の概念です。さらに決定的な繋がりは、復活祭オラトリオ最終曲の最終行「ユダの獅子の勝利」の様は、既にヨハネ受難曲第30曲アルトのアリア「すべては成就した」の中間部で「ユダの勇士の勝利」として見事に歌われているではありませんか。考えてみれば、ヨハネは福音書の中で、ラザロの復活以来何度もその名前に言及し*5)、復活のメッセージへの注意を喚起しています。それと同じくヨハネ受難曲の中にもこのように復活を示唆するテクストが何度も歌われていたのでした。
 さて、冒頭に述べたように、受難曲は常に未完の物語であり、復活がなければ全く意味をなさないメッセージです。しかし神の救いの計画は、まだそれだけでは終わりません。イエスは復活の後40日にわたって弟子たちのところに現れ、そして弟子の見ている前で天にあげられました。そして聖書はさらに、「助けぬし」としての聖霊を私たちに送り、やがて来るべき最後の日には、主イエスが天に昇っていったと同じ姿で再び来られることを約束しています。今日私たちは、この2曲の作品によって、来るべき日の喜びの前味を、ほんのわずかでも味わうことができればこれにまさる幸いはありません。

バッハ・コレギウム・ジャパン
音楽監督 鈴木雅明

*1) Philipp Spitta, Johann Sebastian Bach, Bd.II, Leipzig 1880, s.421, 422
*2) Albert Schweizer: J.S.Bach, 1954, s.640
*3) Lothar und Renate Steiger ".....angelicos testes, sudarium et vestes" Bemerkungen zu J.S.Bachs Osteroratorium (Bach Jahrbuch 19xx, s.153ff
*4) idem.s.195
*5) ヨハネによる福音書12:1,2,9,10,11,17


【コメント】

VIVA! BCJに戻る

これまでの演奏会記録に戻る