第75回定期
  J.S.バッハ/教会カンタータ全曲シリーズ Vol.48
   〜ライプツィヒ1725年- VI 〜  


2007/ 2/12  15:00 東京オペラシティコンサートホール・タケミツメモリアル
*同一プロダクション
   2007/ 2/10 15:00 神戸松蔭女子学院大学チャペル(第191回神戸松蔭チャペルコンサート)


オープニング演奏
     G.B.ブオナメンテ/5声のソナタ (コンチェルト・パラティーノ、,若松夏美、今井奈緒子)
     D.ブクステフーデ/コラール《わが魂よ、主をた讃えよ》Bux.215
                         (ポジティフ・オルガン独奏:今井奈緒子)
     J.S.バッハ/コラール《わが魂よ、主を讃えよ》 BWV390 (コンチェルト・パラティーノ)

J.S.バッハ/教会カンタータ 〔1725年のカンタータ 6〕
        《神は頌むべきかな!いまや年は終り》 BWV28
        《人びと汝らを除名すべし》BWV183
        《われは善き牧者なり》 BWV85
        《彼はおのれの羊の名を呼びて》 BWV175
        《げに神はかくまで世を愛して》 BWV68


《出演メンバー》

指揮鈴木雅明

コーラス=独唱[コンチェルティスト])
  ソプラノキャロリン・サンプソン*、緋田芳江、藤崎美苗
  アルト  :ロビン・ブレイズ(CT)*、青木洋也、鈴木 環
  テノールゲルト・テュルク石川洋人、谷口洋介
  バス   :ペーター・コーイ*、藤井大輔、渡辺祐介

オーケストラ
  トランペットI/コルノ:島田俊雄
  トランペットII:村田綾子
  リコーダー:山岡重治(I)、向江昭正(II)、太田光子(III)
  オーボエ/オーボエ・ダモーレ/オーボエ・ダ・カッチャ
          三宮正満(BWV28,85,68:オーボエI、BWV183:ダ・カッチャI)
          尾崎温子(BWV85:オーボエII、BWV183:ダ・カッチャII、BWV28,68:ターユ[オーボエIII])
          前橋ゆかり(BWV28,68:オーボエII、BWV183:ダモーレI)
          森 綾香(BWV183:ダモーレII)
  ヴァイオリン I:若松夏美(コンサートミストレス)、パウル・エレラ、竹嶋祐子
  ヴァイオリン II:高田あずみ、荒木優子、戸田 薫
  ヴィオラ:森田 芳子、渡部安見子
  ヴィオロンチェロ・ダ・スパラ:ディミトリー・バディアロフ
 〔コンチェルト・パラティーノ〕
  コルネット(ツィンク)
:ブルース・ディッキー
  トロンボーン:シメン・ファン・メヒェレン(アルト)、シャルル・トゥート(テノール)、デヴィッド・ヤークス(バス)

 〔通奏低音〕
  チェロ:鈴木秀美  ヴィオローネ:西澤誠治  ファゴット:功刀貴子
  チェンバロ:鈴木優人  オルガン:今井奈緒子 

 *チラシに掲載の合唱・器楽メンバーの一部に変更がございます。ご了承ください。(主催者:07/02/10)


第75回定期演奏会 巻頭言 (28、183、85、175、68) 

 皆様、今年度最後の定期演奏会にようこそおいでくださいました。
 昨年11月来日されたアルノンクール氏が、あの強烈な眼(まなこ)によって、一徹な音楽を作り上げられるのを目の当たりにして以来、私自身の音楽する「心」の状態が少し変化したような気がしています。もちろんあの眼を真似ることはとてもできませんが、オランダの美術史家ロークマーケルのことば、「様式とは、畢竟、人である」ということに、ますます確信するようになったのです。
 ブルックナーのシンフォニー第5番を演奏したウィーン・フィルは既にオーケストラとしての個性が強いので、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスとのメサイアの方が、彼独特の様式がより鮮明に表れていたことは否めません。しかし、その演奏方法は、演奏家の目から見るとかなり荒削りでもあり、またダイナミックスも頷けないところが少なくありませんでした。例えば、第2部後半「頭を挙げよ」Lift up your heads(ベーレンライター版では第30曲)。この曲のテクストは詩編24編に基づいており、エルサレムの城門を開けさせるための問答歌なので、「城門を挙げよ」と外から叫ぶ声に、「(そこに来ているという)万軍の主とは誰か?」と内側から問い返す声がピアニシモであることはありえない、と思うのです。また、ハレルヤの冒頭も「リピエノ奏者なしで」senza ripienoという指示が、ピアノで滑らかに奏することを求めているとはとても思えません。
 しかし、こんな批評が何の意味も持たないことは、言うまでもありません。なぜなら、兎にも角にも、この演奏の全体がアルノンクールという存在で埋め尽くされ、オーケストラや合唱だけでなくソリストも含めて、すべては彼を中心として回転し、聴衆にはただ強烈な印象だけを残したからです。そこには、音楽家が往々にして陥る見栄やはったりもなく、自己陶酔もない、ただ音楽にのみすべてを捧げきる透徹した心境がすべてを支配していたのです。


 思えば、古楽ムーヴメントは、19世紀のヴィルトゥオーゾ的価値観でバロック音楽を見るのではなく、作曲家の意図を最大限に尊重し、演奏家が、音楽の主人に、ではなく、僕になることを旨として始まったのでした。作品を恣意的に解釈するのではなく、作曲者の意図、響きの理想を求めて、楽器の構造や演奏法を探求し、多くのリサーチによって得られた情報を基に演奏方法を探ることが、古楽演奏の基本です。
 もう数十年も前、私たちが初めて古楽に触れたとき、ドルメッチやサーストン・ダートなどによって著されたバロック音楽演奏に関する古典的文献を読み漁りました。そこには例えば、「トリルは主音の上から始めるべき」、「フランス風序曲では、符点を複符点に」、「3連符と2連符が同時に生起するときは、リズムを変更して同時に弾くのが一般的」などなど、多くの新しい情報が満載されていました。
 しかし、その後さらに詳しく調べていくと、例えば、確かにフランスでは主音の一音上からのトリルが一般的であったでしょうが、17世紀のイタリアやドイツでは、主音からのトリルが多く用いられた証拠が数多く存在します。また、フランス風序曲でも符点が複符点にならない例もあることは、現存する当時のオルゴールが証明してしまいました。3連符と2連符のリズムの連動については、クヴァンツが既に反論していますが、J.S.バッハのコラール『天にましますわれらの父よ』BWV 682を見るだけで如何に無力な原則であるかがわかるでしょう。

 要するに、私たちが最初に学んだ多くの規則は、もちろん間違いではありませんでしたが、バロック音楽の一面を表しているに過ぎなかったのです。つまり音楽学的リサーチによって得られる情報はあまりに膨大で、しかも相反するものを数多く含むので、どの情報を用いるかは、結局、演奏家の判断によって選び取るしかありません。私たちは、その判断に確信が得られないとき、規則や原理を求めて右往左往することになるのです。しかし、タルティーニの「悪魔のトリル」を聴いてむせび泣いた当時の聴衆は、そのトリルが「主音の上からの正しいトリル」であったから、むせび泣いたわけではないことを肝に銘ずるべきでしょう。


 演奏における確信は、決して音楽学的なプロセスによってのみ与えられるものではありません。学問的なプロセスに加えて、音楽家としての直感が必要です。アルノンクールは、すべてのアイディアには理由が必要だ、と語り、多くの指揮者が「マエストロである私がそう思うから」という理由で、意味もないアイディアをオーケストラに押し付けることを、強く戒めておられました。そのことは誠に重要で、私も諸手を挙げて賛成します。しかし、私の目から見ると、例えばハレルヤの冒頭をピアノで演奏する理由としてsenza ripienoを挙げるのは、ハレルヤというテクストの内容を考えれば、やや詭弁に近いとも言えます。むしろアルノンクール氏は、あまりにも有名なこの曲を演奏するに際して、誰もが演奏するような陳腐なフォルテを避けたい、という思いがあったに違いないのです。そして、そこにあるsenza ripienoという書き込みを、いわば利用されたのではないでしょうか。たとえそうであったとしても、これは極めて自然な、演奏家としての直感です。結局それが正当化されるかどうかは、ただ演奏そのものによってのみ判断されるべきであり、この場合は、私がこれだけ打ちのめされた、というその事実において、見事に成功した、といわざるを得ません。

 では、演奏における「確信」とは一体何なのでしょう。「確信に満ちた演奏」というフレーズはよくお目にかかりますが、実際には、何が満ちているのでしょう。演奏家の発する「気」である、とも言えるでしょう。あるいは、「心」と言ってもよいかもしれません。心は、頭脳に存在しているわけではありません。私たちが「私の心」と言うときに、自分の頭を指す人がいるでしょうか。かならず、自分の胸を示しているはずです。つまり、私たちは、「心」は体にある、と無意識に捉えているのです。
 頭と体の対立は、ひとりひとりの中にあるもっとも深刻な戦いです。頭が優位に立つと、しばしば間違いを犯します。日本人が言い古したことば、「精神一到何事かならざらん!」などという時の「精神」は、まぎれもなく頭の産物であり、こんな精神はすぐに捨ててしまうべきでしょう。これは、からだを頭脳に従わせようとする最も危険な考え方です。重要なのは「頭」ではなく、体に宿る「心」なのです。
 「私の信じる心よ、喜べ、歌え、戯れよ」と、クリスティアーネ・マリアーネ・フォン・ツィーグラーはカンタータ第68番第2曲に書きました。「私の心」や「わが魂」が、カンタータのテクストでは、あたかも「私自身」とは別の存在であるかのごとく、しばしば登場します。しかし、これを擬人化と言ってはいけません。なぜなら、この「心」と「魂」こそが、今の体に宿っている私たちの本質に他ならないからです。この「心」が、「イエス様は、すぐそこに」と信じたとき、本当にイエス様はそこに来られるでしょう。つまり、心の確信とは、「信じる」ことに他なりません。私たちが信じることのみが、現実であり、真実なのです。そして、信じることに、頭脳が理解できる理由は無用です。
 演奏における確信も、まさに「信じること」と言ってもよいでしょう。つまり、そこで語られるテクストが、その言葉のとおりになる、という確信が、その音を確実なものにするのです。フォルテであっても、ピアノあっても、その音が伝える内容を信じ、音楽の一瞬一瞬を踏みしめる心。これが、演奏の確信を生むのだと思います。アルノンクール氏との出会いによってもたらされた「心」の変化は、まさに、この踏みしめるべき一瞬に対する思いなのかもしれません。

バッハ・コレギウム・ジャパン
音楽監督 鈴木雅明

(07/02/02)


【コメント】

VIVA! BCJに戻る

これまでの演奏会記録に戻る