2007/ 6/13 19:00 東京オペラシティコンサートホール・タケミツメモリアル
*同一プロダクション
2007/ 6/ 9 15:00 神戸松蔭女子学院大学チャペル(第195回神戸松蔭チャペルコンサート)
2007/ 6/15 18:30 青山学院大学・ガウチャー記念礼拝堂
(青山スタンダード「キリスト教理解関連科目」特別講座:BCJレクチャーコンサート)
曲目:J.S.バッハ/カンタータBWV79、BWV137
出演:鈴木雅明(講師・指揮)、野々下由香里(S)、青木洋也(CT)、櫻田亮(T)、P.コーイ(B)
オープニング演奏
D.ブクステフーデ/プレリューディウム ト短調 Bux.149
J.S.バッハ/コラール編曲《いざ、すべての者よ、神に感謝せよ》 BWV657
(オルガン独奏:今井奈緒子)
J.S.バッハ/教会カンタータ 〔1725年のカンタータ 7〕
《主を讃えよ、大いなる力に満ち栄光に輝く王を》BWV137
《汝ら、キリストのものと自称する者たちよ》 BWV164
《申し開きをなせ!とは雷鳴のごとき言葉》 BWV168
《主なる神は太陽にして盾なり》 BWV79
指揮:鈴木雅明
コーラス(*=独唱[コンチェルティスト])
ソプラノ :野々下由香里*、緋田芳江、藤崎美苗
アルト :ロビン・ブレイズ(CT)*、青木洋也、鈴木 環
テノール:櫻田 亮*、藤井雄介、水越 啓
バス :ペーター・コーイ*、藤井大輔、渡辺祐介
オーケストラ
トランペット:島田俊雄(I)、斎藤秀範(II)、村田綾子(III)
ホルン:島田俊雄(I)、下田太郎(II)
ティンパニ:近藤高顕
フラウト・トラヴェルソ:菅きよみ(I)、前田りり子(II)
オーボエ/オーボエ・ダモーレ:三宮正満(I)、尾崎温子(II)
ヴァイオリン I:若松夏美(コンサートミストレス)、パウル・エレラ、竹嶋祐子
ヴァイオリンII:高田あずみ、荒木優子、戸田 薫
ヴィオラ:成田 寛、深沢美奈
〔通奏低音〕
チェロ:鈴木秀美 ヴィオローネ:今野 京 ファゴット:功刀貴子
チェンバロ:鈴木優人 オルガン:今井奈緒子
第77回定期演奏会 巻頭言 (BWV79、137、164、168)
私は、もうかれこれ小一時間も、心地よいそよ風に身をゆだねつつ、とある日本庭園の木陰に座っています。せっかちな私としては、これは既に特筆に価するできごとです。わたしの頭上を覆いつくす新緑の枝々は、時折やや強い風にざわめき、木漏れ日はやさしく手の甲をなでています。左上方には、さきほどから「あーあー」と、ドイツ語的母音を発するうるさいカラスが陣取ってはいますが、空気はこの上もなくさわやかで、安心して身を任せていられる稀有なひとときです。都心には実に多くの緑が残っているのに、普段このような美しい自然から自分を閉め出しているのは、結局、時間に縛られた自分自身の心に他ならない、と痛感しつつ、この原稿を書いています。 ああ何と心地よい風でしょう。まさに今、私の体を吹きぬけようとする風のように演奏できれば、と心から思います。つまり、時に優しくそよ吹き、あるいはまた圧倒的な力で迫る。流れる空気のように音が動き、響きが満ちたかと思うと、余韻を残して飛び去ってゆく。これが、音楽の理想の姿ではないでしょうか。 しかし、風のようにしなやかな音楽は、またしなやかな体の動きによって実現されるに違いありません。歌を歌うことは、もちろん体にもっとも直接的な動きを要求するものですが、楽器の演奏も決して機械を操るようなものではありません。最も機械に近いであろう巨大なパイプオルガンですら、体のしなやかな動きなくしては、よい演奏はできません。 |
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先日、名古屋のしらかわホールで、「BCJの日」という企画をしていただきました。昨年に続いて、ちょっとしたレクチャーとコンサートをすることになっていたのですが、今年はホールのプロデューサーから特別な注文がありました。『体感!体に効くバッハ』というタイトルでお願いします、と言われたのです。これは私がかつて呼吸のことについて、『バッハからの贈り物』(春秋社)の中でお話していたので、それにちなんで、体と音楽との関係についてお話してほしい、ということだったのでした。 音楽家ならば誰でも、自分の体の使い方について興味のないはずはありませんし、ひとりひとりさまざまな工夫をして演奏に臨んでいるものです。私の場合は、20年ほど前から、西野皓三先生という方に師事して、呼吸法を学んできました。しかし、このことについて、公の場でお話したことはありませんでしたので、私にとってはちょっとしたチャレンジでした。当日、まず呼吸の基本についてお話した後、「さあ、皆さん、もしよろしければお立ちになって、足の裏に意識をおいてください」と言いますと、満員のホールのお客様が、ほぼ全員さっと立ち上がり、しかもひざが緩んで、早くもほどよいリラックスムードに包まれたのには、本当に驚きました。 私たちの学生時代にも、体のことを習ったことはありました。東京芸術大学では当時、体育の時間に「こんにゃく体操」というものを教えていたのです。指導は野口三千三先生という方でしたが、この体育は、私たち頭の固い学生にとっては、ほとんど「革命」といってもよいほどのショックでした。「おへその反対側を『ソヘ』といいま〜す。さあ、へそとソヘの間に意識をおいて!」と言った信じがたい言葉で授業が始まり、1時間目は、ただまっすぐ立つ練習。2時間めは、ただ歩く練習。という、からだの根本からの改革だったのです。そして、柔軟な体は、常にふさわしい呼吸とともにあることも、繰り返し教えられました。 西野流では、「ソヘ」とは言いませんが、同じように体の中心を捉え、呼吸とともに、さまざまな体の動きによって、自分の「気」をあらゆる方向に出すことを学びます。すなわち呼吸は、人間の「気」と直結しているのです。人間は「気」によって生きているので、呼吸が不自然になり「気」が病むと、すなわち「病気」になるわけです。「気」というと、何かのパワーと思われがちですが、これは人間のもつ「霊」と言い換えてもよいと思います。人間的な「霊」が必ずしも健全に働くとは限らないのは、「気」においても同じです。澱んだ「気」、沈鬱な「霊」は、決して健全とはいえないでしょう。しかし、健全な状態とは、「病気でない」状態ではありません。そうではなく、自分の体の中を、まさに今この日本庭園を風が吹き抜けているように、「気」が吹き抜け、体中に心地よさが広がっている状態。つまり、この瞬間、私の体をこんなにも心地よくしてくれているのは、ほかならぬ、この吹き抜けている動きなのです。 |
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私が、上記『バッハからの贈り物』の冒頭で、「バッハの魅力は、スピード感です!」などと言ったものですから、多くの方は、私がよほど速いテンポが好きなのだ、と思われたようです。が実は、「スピード感」は「スピード」とは違います。むしろ、この吹き抜けるような「動き」、風のような「動き」をイメージしていました。 空気が動くと「風」と呼ばれますが、イエス・キリストはこの風の喩えを用いて「神の霊」ということを説明されました。 「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も、みなそのとおりである。」(ヨハネ3:8) 人は、確かに風が吹いていることは感じられます。しかし、決して、どこからどこまで吹いている、と特定できないように、「神の霊」すなわち「聖霊」の動きも、決して特定できないものです。バッハの音楽の中に見られる様々な音の動きは、ある種の「風」を巻き起こし、その風はいつも「聖霊」に結びついていきます。聖書が、聖霊を風に喩えるのは、聖霊が実際に生きて動き、働くものであるからですが、同様に、私たちの奏でる音楽においても、音の動きの巻き起こす風が、生きて働くように願うばかりです。 今日、バッハの音楽から、生きて動き、体の中を吹き抜ける「風」を感じていただければ、幸いです。 |
バッハ・コレギウム・ジャパン
音楽監督 鈴木雅明
(07/06/08)
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