第78回定期
  J.S.バッハ/教会カンタータ全曲シリーズ Vol.50
   〜ソロ・カンタータ lll 〜  


2007/ 9/16  15:00 東京オペラシティコンサートホール・タケミツメモリアル

*同一プロダクション
   2007/ 9/15 15:00 神戸松蔭女子学院大学チャペル(第196回神戸松蔭チャペルコンサート)


J.S.バッハ/教会カンタータ 〔ソロ・カンタータ 3〕
  《われはわが命運に満ち足れり》 BWV84  (ソプラノ独唱、Ob:三宮正満、Vn:若松夏美)
  《われは喜びて十字架を負わん》 BWV56(バス独唱、Ob:三宮正満、Vc:鈴木秀美)
  《われは足れり》 BWV82 (第2稿:ソプラノ版) (ソプラノ独唱、Fltr:菅きよみ)
  《われは行きて汝をこがれ求む》 BWV49(ソプラノ/バス、Org:鈴木雅明、Vcdsp:D.バディアロフ)

  *タイトルをクリックすると曲のデータにジャンプします。(Bach Cantatas Websiteのデータです。) 


《出演メンバー》  

指揮/オルガン(BWV82,49)鈴木雅明

声楽ソリスト ・ソプラノ:キャロリン・サンプソン
          ・バス:ペーター・コーイ
合唱       ・アルト(カウンターテナー):青木洋也
          ・テノール:藤井雄介
オーケストラ
  フラウト・トラヴェルソ:菅 きよみ
  オーボエ:三宮 正満(I,ダモーレ)、森 綾香(II)、杉本明美(ターユ)
  ヴァイオリン I若松 夏美(コンサートミストレス)*、パウル・エレラ、竹嶋 祐子
  ヴァイオリンII:戸田 薫、荒木 優子、山口幸恵
  ヴィオラ:森田芳子、渡部安見子
  ヴィオロンチェロ・ダ・スパラ:ディミトリー・バディアロフ

 〔通奏低音〕
  チェロ:鈴木 秀美  コントラバス:今野 京  ファゴット:村上由紀子
  チェンバロ:鈴木優人、オルガン:今井奈緒子(BWV84,56)  

  はBWV82の演奏メンバー(8名!!)



第78回定期演奏会 巻頭言 (BWV49,56,82a,84) 

 ヘンク・ヘルマンテルという名前をご存知でしょうか。彼は、オランダの最北端の町フローニンゲンから、さらに北西に数十キロ離れたウェスターエムデンという小さな村に住む画家ですが、彼を訪ねることができたのは、今夏、最大の収穫だったかもしれません。
 村の中心には17世紀頃の小さな教会堂があり、その裏の茂みを流れる小さな川をわたると、突然広々とした芝生が開けます。その向こうには、教会堂と同じくらい古めかしい農家が見え、庭先にMuseum “De Weem”と書かれた看板が立っています。”De Weem"とは何かわからなかったのですが、これは、教会が所有する農場、あるいは、農家も兼ねていた牧師の住む住まいをさす古い単語だそうです。
 彼の住むこの大きな家もやはり17世紀の建物かと思いきや、消失してしまった古いDe Weemを無念に思い、ヘルマンテル氏自身が残された文献や資料に従って忠実に再現したものだったのです。実は後で気づいたのですが、壁や床のレンガ、窓枠や柱のゆがみ具合までそっくりに再現したその方法こそ、まさに彼の画風と重なり合う見事なものでした。
 家屋の真ん中には、巨大な教会堂のような天井の高い空間があり、思わず息を呑むような静謐に満たされています。それは、周囲の壁に並べられた彼の作品が生み出す特別な空気に違いありません。彼の絵は、驚くほどにリアリスティックなものです。超写実派とでも言うのでしょうか。あらゆる静物、たとえば器に盛られた卵、水の入ったフラスコ、雑然と並べられた本などなど、それらがそのままそこに存在しているとしか思えないほど、具体的に描かれているのです。特に卵の殻は、思わず手を伸ばしてキャンバスに触れると、ああ、これは絵であった、とわかるほどです。(もちろん、絵画を手で触ってはいけません!)また、ここ数年は、静物ばかりではなく、教会堂内部を頻繁に取り上げてきたそうです。この広間があたかも教会堂のように感じられたのは、いくつかのフランスの教会堂内部の絵が、あたかも実物であるように感じられたからでしょう。
 

 
 引き込まれるようにして彼の絵を見ていくと、その驚くべき現実感は、単に形によって生み出されているのではないことに気づきました。静物であれ、教会堂の内部であれ、本来動きのない対象の中に必ず光の動きが組み込まれているのです。光と影は、レンブラントのように必ずしも強烈な対比をなすとは限りません。時にあわく儚い光をとらえ、それが儚いがゆえに、かえって現実感がつのるのでしょう。彼自身、レンブラントよりむしろフェアメールから大きな影響を受けている、とのことでしたが、光に対するこの繊細さは、確かにオランダの伝統に根ざしています。
 オランダ静物画の伝統は、この世の中の事物をどのように見るかという、プロテスタント信仰と深く関係しています。この世の隅々までが神によって創造されたと信じる者には、必ずしも聖書の登場人物を描くことをせずとも、何の変哲もない一切れのパンや魚、また果物などを描くことで、日常のどの場面もが創造主の業に属していることを証することができるのです。
 ヘルマンテルは、一度だけ聖書そのものを作品に取り上げています。旧約聖書が終わり、新約聖書を開く最初のページに置かれた水の入ったフラスコが、JESUという言葉をことさら拡大して見せている象徴的なものです。彼曰く、
 「聖書のメッセージをいつも描く必要はないのです。というのは、この世のすべて、この世の何を描こうとも、そこに神の栄光が宿っているからです。しかしこの象徴的なシーンで、イエス・キリストこそが新約聖書の新しいページを開いたことを証しておきたかったのです。」
 このシーンは、もちろん決して自然なものとは言えません。聖書の上にフラスコを置くことは、通常ありえないことですし、偶然JESUの文字だけが大きく写る、ということも、普通はありえないでしょう。これは、例えばフェアメールの「デルフトの風景」やヤン・ステーンの「セント・ニコラスの祝日」における雲や波、または子供や犬が、画家のおあつらえ向きに劇的な表情を形作っていたわけではないのと同じです。つまり画家は、それらの対象をふさわしく配置して、そのことによって語るべきメッセージを表現するのです。それは、彼らの目的が、決して現実を模倣することではなく、日常のすべての事物、すべての瞬間が、神の創造の業であることを再確認することだからであり、だからこそこれは「再創造」Re-Creatioと呼ばれるべきものなのです。

 
 ヘルマンテルの繊細な目が捉えた光と影は、ちょうど音楽における対位法のように、一定の方向に従った動きを与えます。また微細な木目、れんがの染み、フラスコに映る小さな窓枠など、小さな筆がひと掃きしたすべてが、あたかもひとつひとつの単語のように語りかけてきます。ここには、明らかに私たちが演奏において目指していることと共通点がありました。
 表現芸術において、神の創造の摂理(御旨)、自然界の秩序の存在、そしてそれを再表現する人間の感性、という3段階を想定したとき、絵画におけるような自然界と人間の直接的な関係を、必ずしも音楽に望むことはできません。なぜなら音楽には「演奏」というもうひとつの段階があるからです。いうならば、J.S.バッハ自身は、今日のヘルマンテルと同じように、自分の感性で神の摂理と自然界の秩序を捉えて、驚くべき大胆さと緻密さでそれを再創造してみせたはずです。しかし、彼の仕事は、作品と演奏、というふたつの分野にまたがっていました。ですから、今日バッハの作品をRe-Creatioとして再現するには、演奏家である私たちに委ねられた半分の作業を全うしなければなりません。私たちが、今日再び、この半分をさえ全うできれば、バッハと共に、そしてヘルマンテルと共に、神賛美のネットワークに連なることができるでしょう。私たちの演奏が、ヘルマンテルの絵と同じほどに、神の栄光を隅々まで明らかに照らすものとなれるよう、ただただ、今日もまた励むしかありません。


バッハ・コレギウム・ジャパン
音楽監督  鈴木雅明

(参考:http://www.helmantel.nl/、本文最後に掲載の画像はクリックで拡大します。)
(BCJ事務局提供:07/09/16更新)

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