第79回定期
  J.S.バッハ/教会カンタータ全曲シリーズ Vol.51
   〜ライプツィヒ1726年- I 〜  


2008/ 2/11  15:00 東京オペラシティコンサートホール・タケミツメモリアル
*同一プロダクション
   2008/ 2/ 9 15:00 神戸松蔭女子学院大学チャペル(第198回神戸松蔭チャペルコンサート) 


オープニング演奏
     ブクステフーデ/テ・デウム・ラウダームスBuxWV218 (オルガン独奏:今井奈緒子)

J.S.バッハ/教会カンタータ 〔1726年のカンタータ 1〕
        《主なる神よ、汝をわれらは讃えまつらん》BWV16
        《わがため息、わが涙は》 BWV13
        《いと尊きイエス、わが憧れよ》 BWV32
        《すべてはただ神の御心のままに》 BWV72


《出演メンバー》

指揮鈴木雅明

コーラス=独唱[コンチェルティスト])
  ソプラノレイチェル・ニコルズ*、緋田芳江、藤崎美苗
  アルト  :ロビン・ブレイズ(CT)*、青木洋也、鈴木 環
  テノールゲルト・テュルク石川洋人、谷口洋介
  バス   :ペーター・コーイ*、藤井大輔、渡辺祐介

オーケストラ
  コルノ:島田俊雄
  リコーダー:山岡重治、向江昭雅
  オーボエ:三宮正満、前橋ゆかり
  ヴァイオリン:若松夏美(コンサートミストレス)、パウル・エレラ、竹嶋祐子
          高田あずみ、荒木優子、戸田 薫
  ヴィオラ:森田芳子、渡部安見子

 〔通奏低音〕
  チェロ:鈴木秀美  ヴィオローネ:西澤誠治  ファゴット:堂阪清高
  チェンバロ:鈴木優人  オルガン:今井奈緒子


第79回定期演奏会 巻頭言 (BWV16、13、32、72) 

 皆様、ようこそおいでくださいました。
 クリスマスと新年を経ると、教会暦では1月6日に『エピファニー』Epiphanieという祝日がやってきます。これは「顕現節」と訳され、主イエス・キリストが人々の前に公に現れた日、という意味を持っています。1月6日に設定された根拠は定かではありませんが、東方からの3人の博士がベツレヘムの厩を訪ねた日、とも言われています。
 通常、これに続く4つの日曜日が顕現節後の主日として数えられますが、バッハのライプツィヒ時代第3年めにあたる1726年は、復活祭が4月21日ととても遅く、かつ1月6日が日曜日にあたっていたので、顕現節後の日曜日は1月13日から2月3日までの5つを数えることになりました。そして、今日聴いていただく4つのカンタータBWV16、32、13、72は、それぞれ1726年1月1日、13日、20日、27日に初演されたものです。このうちの最後の日曜日、つまり顕現節第3日曜日には、その日の聖書日課と深いつながりのあるカンタータが4曲も残されており、同じテーマにバッハがどのように作曲したかを見る興味深い事例です。
 この日の聖書日課は、マタイによる福音書第8章1節から13節で、冒頭にはらい病人を癒す奇跡物語が描かれています。大勢の群集とともに山から降りられたイエスに、ひとりのらい病人が近寄り、「主よ、御心ならば、私を清くすることがおできになります」と言ったというのです。「主よ、みこころならば」は、ルター訳ではHerr, wie du willtという言葉で、主の「意志」つまりWillが、この日のキーワードと言ってもよいでしょう。
 らい病患者のことを、ドイツ語ではAussatzigeと言いますが、これは本来病気の名前ではなく、aus(外に)setzen(置かれる)されたもの、即ち「隔離されたもの」という意味で、古代の悪弊を反映した表現と言えるでしょう。聖書の時代には、らい病は病気としてだけではなく、宗教的な汚れを表すものとされ、蔑視されていたのです。しかし、主イエスは、そのような者に自ら「手を差し伸べて」しかも「その人に触れ」「よろしい、清くなれ、と言われた」のでした。ここで、「よろしい」と訳してある言葉は、ルター訳では”Ich will es tun”「私がそうしてあげよう」。これは、明らかに「主よ、みこころならば」Herr, wie du willtという言葉に対する、愛に満ちたイエスの意志 Will に他なりません。


 
 さて、バッハが『すべては、神の意志によりて』BWV72をバッハが作曲したのは、1726年の顕現節第3日曜日でしたが、ちょうどその1年前、1725年の同じ日にはコラールカンタータ『わが神のみこころが、常に成就しますように』BWV111を作曲していました。このふたつのカンタータの冒頭合唱には、興味深い共通点があります。それは両者ともに全く同じコンチェルトの様式と構成を持ち、しかもそれが、オーボエ2本を伴う同じ楽器編成、同じ調性(イ短調)で書かれているのです。
 コンチェルトの様式とは、この場合は主にフレーズの構造のことです。テーマと転調を繰り返す4の倍数の規則正しい小節数に従って、全体が美しいバランスにおさめられること。これが、しばしばコンチェルトの冒頭楽章を飾る最も快適で典型的な構成です。例えば、合唱が登場する前の前奏を比べてみると、どちらも2小節ないし4小節を単位とするテーマと転調が16小節繰り返され、17小節目に合唱が登場します。
 しかももうひとつ重要なことは、BWV111冒頭の、ラ・ミという四分音符ふたつから成る器楽のモティーフが、BWV72では”Alles”「すべて」という単語が充てられている四分音符と全く同じである、ということです。このモティーフは、単純なだけに、印象的なものとして耳に残りますので、2拍子と3拍子という違いはありますが、両者が共通のコンセプトで書かれていることは、一度その音楽を耳にするとすぐに理解できるでしょう。
 さらに遡って、第1年巻にあたる1724年の同じ日に書かれたBWV73『主よ、御心のままに』を見てみると、この冒頭合唱曲にも、印象的なモティーフがあることがわかります。このカンタータは、コラールの合間にレチタティーヴォを組み込んだ珍しい形式ですが、そのタイトル『主よ、御心のままに』Herr, wie du willtという言葉を表すシシソシ(b’b’g’b’)という4つの8分音符が、最初はホルンと弦楽器によって、最後には合唱によって、モットーとして繰り返されるのです。
 さて、ここで想像できることは、1724年から毎年この日のテーマのために作曲してきたバッハは、まずBWV73において、コラールの旋律とは別に、『主よ、御心のままに』Herr, wie du willtという中心的モットーを、ドイツ語の抑揚のままに音楽化して、コラールに対するアンティテーゼとして示したのでしょう。2年目には、コラールカンタータの多くのものがそうであるように、同じく器楽に独立したテーマを持たせるため、コンチェルト様式を採用し、その冒頭に、恐らくは言葉とは無縁の器楽モティーフとして、ラ・ミというふたつの四分音符を置いたに違いありません。
 1726年1月に、バッハはまたも同じテーマに基づくカンタータを作曲するべく、ザロモン・フランクによるテクストを見たとき、”Alles”という2音節の言葉から、直ちに1年前に作曲したBWV111を思い出したことでしょう。今度は、もはやコラールに縛られることなく完全なコンチェルトが可能だったので、彼はAlles『すべてを』というモティーフを核に、見事な合唱コンチェルトを仕上げたのでした。
 一方、『主よ、御心のままに』というモットーが捨て去られたわけではありません。フランクのテクストの第2節、即ち第2曲レチタティーヴォには、『主よ、御心のままに(御心なら)』Herr, so du willtに続いて、「心を満たし」「苦悩は消え」「癒され、清くなり」「悲しみは喜びに」「牧場を見出し」「天の至福を得」「魂が鎮められ」、ついに「死ぬことはない」、と千変万化の恵みが列挙されているのです。ここで、バッハは、もはやBWV73のように、いつも同じモティーフで『主よ、御心のままに』と歌わせるのをやめ、アルトの世にも美しいレチタティーヴォによって、千変万化のHerr, so du willtを作り出しました。このたった4つの単語は、代わる代わる高く強く発音され、一度として同じ抑揚にはなりません。BWV73第1曲で、この言葉が最初から最後まで同じモティーフで奏でられたときには、いつも変わらぬ「主の御心」というものに対し、安堵とともに、心なしか「あきらめ」にも似た悲しげな表情がよぎったのですが、今や「主の御心」は千変万化の喜びであることがわかり、だからこそ、「すべて」「すべて」Alles! Alles!と何度でも繰り返すことができるのです。

 私たちの願いがどのようなものであれ、”Herr, wie du willt”『主よ、御心ならば』と願うとき、主イエスは”Ich will es tun”『そうしてあげよう』(マタイ8:3口語訳)と言われます。主の恵みは、いつも人知を遥かに超えた驚くべき姿をとって現われます。BWV72の最後に、その希望を歌うソプラノアリアの何と明るく軽やかなことでしょうか。

バッハ・コレギウム・ジャパン
音楽監督 鈴木雅明

(08/02/06:BCJ事務局提供)


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