第80回定期 バッハ⇔メンデルスゾーン・プロジェクト 2008-2009
  《バッハからメンデルスゾーンへ》
     〜受け継がれる祈りの音楽〜


2008/ 5/30  19:00 東京オペラシティコンサートホール・タケミツメモリアル
*同一プロダクション
   2008/ 5/28 19:00 兵庫県立芸術文化センター・小ホール 〜イエス、わが喜び〜(曲目一部相違)
   2008/ 5/29 18:30 青山学院大学・ガウチャー記念礼拝堂
         (青山スタンダード「キリスト教理解関連科目」特別講座:BCJレクチャーコンサート)
          曲目:メンデルスゾーン/コラールカンタータ2曲、J.S.バッハ(メンデルスゾーン)/カンタータBWV106
          出演:鈴木雅明(講師・指揮)、藤崎美苗(S)、青木洋也(CT)、藤井雄介(T)、与那城 敬(B)  


F.メンデルスゾーン・バルトルディ/プレリュードとフーガ ニ短調 op.37-3 (オルガン独奏:鈴木雅明)
     コラールカンタータ『キリスト、神の小羊よ』、『ただ尊い神の統べるままにゆだね』
J.S.バッハ/カンタータ《神の時こそ、最上の時》BWV106(メンデルスゾーン版)
F.メンデルスゾーン・バルトルディ/詩編115編『我らにではなく、主よ』、賛歌『わが願いを聞き入れ給え』
                 詩編114編『イスラエルがエジプトから逃れ出た時』


《出演メンバー》(東京定期)

指揮/オルガン鈴木雅明

コーラス=独唱)
  ソプラノI :藤崎美苗*、柏原奈穂、緋田芳江
  ソプラノII :澤江衣里、鈴木美紀子、松井亜希
  アルトI  :青木洋也*、田村由貴絵、中村裕美
  アルトII  :鈴木 環、高橋ちはる、布施奈緒子
  テノールI :藤井雄介*、石川洋人、西岡慎介
  テノールII:鏡 貴之、谷口洋介、中嶋克彦
  バスI   :与那城 敬*、藤井大輔、渡辺祐介
  バスII   :浦野智行、小笠原美敬、駒田敏章、緋田吉也

オーケストラ [コンサートマスター]若松夏美
  トランペットI,II:島田俊雄、村田綾子
  ホルンI,II:下田太郎、木村 隆
  ティンパニ:菅原 淳
  フルートI,II:菅きよみ、前田りり子 
  オーボエI,II:三宮正満、森 綾香
  クラリネットI,II:柴 欽也、山根孝司
  ファゴットI,II:堂阪清高、功刀貴子
  ヴァイオリン I:若松夏美、パウル・エレラ、高田はるみ、竹嶋祐子、松永綾子
  ヴァイオリンII:高田あずみ、荒木優子、戸田 薫、廣海史帆
  ヴィオラ:森田芳子、渡部安見子

 〔通奏低音〕
  チェロ:鈴木秀美、山本 徹  コントラバス:今野 京  オルガン:今井奈緒子


第80回定期演奏会 巻頭言  

 皆様、ようこそおいでくださいました。
 メンデルスゾーンという新しいレパートリーへの初めての挑戦が、期せずしてBCJ第80回定期演奏会にあたるのも、偶然のなせるわざとは思えません。
 「無言歌」の作曲家としてメンデルスゾーンに出会った方は、少なくないと思います。私も小学校の頃に「ヴェネチアの舟歌」や「狩の歌」を弾きました。初めは、「舟歌」は何だか沈鬱で、「狩の歌」は第12小節の和音がどうしても理解できず、あまり好きな作曲家とは言えませんでした。が、中学校の頃、ある教会音楽の講習会で、初めて合唱曲を歌う機会がありました。そのとろけるような甘いメロディに、思わずため息が出て「ああ、これがロマン派なのか」と引き込まれるような感覚にとらわれました。今思い返すと、それは英語であったはずで、なぜなら「神はまどろみたまわず」という歌詞があってslumber(まどろむ)という単語を初めて知ったからです。
 この同じ作曲家に「エリア」という大曲があり、さらに数々のシンフォニーや詩編など多くの名曲があることを知ったのは、ずっと後になってからでした。が、実はこれこそ19世紀後半以降のメンデルスゾーン受容の一般的な順序であったのかも知れません。つまりメンデルスゾーンは、日本だけではなくヨーロッパにおいても、所詮「『無言歌』の作曲家」としてのみ評価され、長い間全体像は隠蔽されていた観があります。今日演奏する詩編やコラールカンタータなどは、ある意味で、未だにその評価を待っているといっても過言ではありません。
 このことは、いうまでもなく彼の出自と大きく関係しているでしょう。彼の祖父モーゼス・メンデルスゾーンは、1743年9月、デッサウから130キロの道のりを経て、ローゼンターラー門を通ってベルリンに入りました。それは家畜用の門でしたが、ユダヤ人は皆ここを通らなければならなかったのです。
 時に彼は14歳。門番が少年に名前を尋ねました。
 「モーゼスです。」「何しにベルリンに来たのだ?」
 「勉強がしたくて。」
 すると、番人は笑って皮肉をこめて言いました。「行け、モーゼス、汝の前に海の水は分かれた」(注1)
 この話は恐らく、モーゼスにまつわる数多くの伝説のひとつに過ぎないでしょう。しかし事実、当時のユダヤ人はどこの町でもゲットーに隔離され、ドイツにいながらドイツ語ではなくイディッシュ語を使い、勉強も仕事もままならない、まことに不自由な社会の底辺で侮蔑にまみれていたのです。
 モーゼスはその中にあって、独学で哲学を学び『ファイドン、または霊魂の不滅』を著し、モーセ五書や詩編を訳し、ついには「ドイツのソクラテス」と呼ばれるに至って、ユダヤ人の地位を大きく変えたのでした。後に、孫フェーリクスが1829年、J.S.バッハのマタイ受難曲を復活上演したのは、ちょうど祖父モーゼスの生誕100周年にあたっていました。
 ユダヤ人の鑑とも言うべきモーゼスの孫が、キリスト教音楽の代表ともいうべきマタイ受難曲を上演するに至るまでには、銀行家として成功したフェーリクスの父アブラハムの存在ももちろん忘れられません。アブラハムは自分自身を、偉大なる父モーゼスと、有名な息子フェーリクスの間の「ハイフンに過ぎない」と皮肉な言い方をしていたそうですが(注2) 、アブラハムがメンデルスゾーン家に与えた最も大きな影響は、1816年3月21日(J.S.バッハの誕生日!)に、4人の子供たちに、ベルリンの新教会でキリスト教ルター派の洗礼を受けさせたことでした。
これは「信仰的な決断」というより、キリスト教社会で生きていくための最善の道として、アブラハムが冷静に選び取った「ヨーロッパ文化への入場券」(ハインリヒ・ハイネ)(注3) であったのです。これが、妻の兄ヤコブ・バルトルディの説得によるものであったため、以後キリスト教に改宗したメンデルスゾーン家の人たちは、メンデルスゾーン・バルトルディという苗字を名乗ってキリスト教徒であることを示しました。


 
 今日、ユダヤ教徒でありながら、J.S.バッハの音楽を高く評価する人は大勢います。テル・アヴィヴで出会った大学教授ゴロンボ氏もそうしたひとりでしたが、バッハ音楽への共鳴と自分の信仰との矛盾に悩む姿を切々と訴えられたのが、とても印象的でした。
 しかしフェーリクスが、この悩みを悩んだとは思えません。事実、彼はハンブルクのユダヤ教徒の家庭に生まれたにも関らず、生誕の記録はハンブルクのシナゴーグにはありません。また、後にC.F.ツェルターがゲーテに書き送った手紙によると、割礼を施されることもありませんでした。また現存する5000通もの手紙の中にも、彼は一度としてこの問題に触れていないということです。
 彼が自分をユダヤ人と認めていたことがわかるのは、わずかに次のような事例です。マタイ受難曲の復活をベルリン・ジング・アカデミーの指揮者ツェルターが許したとき、彼は友人のデ・フリーントとともに大いに喜んで、「考えてもみたまえ、これで、一俳優と一ユダヤ人が、最も偉大なキリスト教音楽を復活させようとしているんだ。」と叫んだと言われています。また、もちろんその夥しい詩編に関する作品群を見てみれば、ユダヤ教への関連を自ずから示している、とも言えるでしょう。
 しかし、キリスト教徒となったメンデルスゾーンを取り巻く信仰的構図は、単にユダヤ教VSキリスト教と言った単純な構図ではなかったはずです。なぜなら、モーゼスの6人の子供のうち、アブラハムを含む2人はプロテスタントに、あとのふたりはカトリックに、そして、さらに長女のドロテーアは、初めユダヤ教徒S.ヴァイトと結婚し、のち離婚してプロテスタントに転じ、さらにF.フォン・シュレーゲルと結婚してカトリックに転じたのでした。
 このようにして、モーゼスの敬虔なユダヤ教信仰にも関らず、次の世代は目くるめく信仰的多様性を示しました。さらに付け加えれば、一世代下ってフェーリクスが後に結婚することになるセシル・ジャンルノーは、実にフランス改革派教会牧師の娘だったのです。ここに、当時のヨーロッパの宗派がすべて出揃ったと言っても過言ではありません。
 なぜこのようなことが可能であったのか、そのひとつの理由は、モーゼスの次の言葉にあるのでしょう。即ち
 「人々の間で、異なった宗教を決して抑圧してはいけない。もし、ひとつの宗教が唯一のものとなってしまうなら、世の中は恐ろしい野蛮に陥ってしまうだろう」(注4)
 モーゼスのこの考えは、アブラハムに影響して家族にルター派への道を開き、その結果、フェーリクスは偉大なるJ.S.バッハの継承者として、まずはルター派音楽の大輪を咲かせたのでした。しかし、そればかりではなく、実はカトリックのためにもイギリス聖公会のためにも作品を残し、さらにはユダヤ教シナゴーグからの委嘱にも答えようとしたのです。
 この信仰的開放感こそ、フェーリクス・メンデルスゾーン・バルトルディの音楽を、明るい色彩で彩っている秘密ではないか、と思います。無論、彼自身は確固としてルター派信仰を持っていました。しかし、父アブラハムが、子供たちに、決してユダヤ教VSキリスト教という構図を与えなかったことは、たとえそれが、彼のユダヤ教への不信感から出たことであったとしても、大いに評価されるべきことのように思われます。
 フェーリクス自身、ユダヤ人であることによる不快な経験がなかったはずはないのです。しかし、彼の音楽のどこにも、そのような暗い影はありません。むしろそのような現実からは超然として明るく鳴り響き、天真爛漫で魅力的なモティーフが、人の心をさらいます。さらに、その対位法的な書法と構造が、バッハの継承者としての出自を、余すところなく示しているのです。


 
 さて、今回フェーリクスのコラールカンタータと詩編を取り上げるのは、2009年に迎える生誕200年の記念を前に、彼がどのようにしてJ.S.バッハを継承しつつ、彼独自のスタイルを築いていったか、その過程を検証したいと思ったからです。
 言うまでもなく、彼のルター派への忠誠は、コラールの使用に最も如実に表れています。1820年代から30年代に生まれた9曲以上のコラールカンタータでは、そのコラールの選択、声部の配置、旋律の動きなど、一見するとJ.S.バッハのカンタータと見紛う筆致がいたるところに見られます。また、器楽の対旋律が、いつもコラールの冒頭から導き出されることも、バッハと全く同じ発想です。コラールはカンタータばかりではなく、オラトリオ『パウロ』やシンフォニー『宗教改革』の中でも中心的役割を担って、ルター派の刻印が押されています。
 フェーリクスは、結局、ユダヤ教シナゴーグには生涯足を踏み入れることはありませんでした。また1844年のハンブルク・新シナゴーグからの委嘱に、彼が正しく答えたのかどうかは定かではありません 。即ち、彼の宗教音楽は、主にルター派に、そして開かれたキリスト教の諸宗派に捧げられ、それこそが、父アブラハムの望んだヨーロッパ文化への参入だったのではないでしょうか。今や彼の音楽は、紛うことなくキリスト教文化の大輪のひとつに他なりません。
 ナチスは1937年、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスの前にあったメンデルスゾーンの銅像を引き倒しました。今、私たちは、今年から来年の記念年に向けて、再びこのメンデルスゾーン像を、心の中に打ち立てたいと望んでいるのです。

バッハ・コレギウム・ジャパン
音楽監督 鈴木雅明

(08/05/29:BCJ事務局提供)

(注1): ハーヴァード・クッファーバーグ著『三代のユダヤ人 メンデルスゾーン家の人々』横溝亮一訳東京創元社刊P.12
(注2): 同上p.140
(注3): Larry Tod: ‘On Mendelssohn’s sacred music, real and imaginary’ (Cambridge Comapanion to Mendelssohn p.172)
(注4): 同上p.169

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